第1 葬儀費用を遺留分の計算から差し引けるか
1 通常の葬儀費用は被相続人の債務ではない
本記事は,令和8年9月15日現在の日本法に基づき,死亡後に遺族が支出した葬儀費用を遺留分の計算へ反映できるかを扱うものである。
通常の葬儀費用については,被相続人が死亡時に負担していた債務として,遺留分の基礎財産から当然に控除することはできないと考えられる。
民法1043条1項は,相続開始時の財産に一定の贈与を加え,債務の全額を控除して遺留分の基礎財産を算定する仕組みを定めている。
相続は死亡によって開始し,相続人は被相続人の権利義務を承継するため,ここで確認すべき債務は,被相続人が死亡時に負っていた債務である(民法882条,896条及び1043条)。
遺族が死亡後に葬儀社と契約して負担した費用は,この意味での被相続人の債務とは区別される。
ただし,生前契約,関係者の合意又は遺言による支弁の指定がある場合には,後記第3のとおり別の検討が必要となる。
2 死亡後の預金残高から計算しない
死亡時に4000万円の預金があった場合,その後に葬儀費用200万円を払い出して残高が3800万円になっても,死亡時の財産額が当然に3800万円へ変わるわけではない。
遺留分の基礎財産は相続開始時を基準にするため,死亡後の口座残高だけから計算することはできない。
預金からの出金が認められるか,葬儀費用を最終的に誰が負担するか,その費用を当事者間で精算できるかは,遺留分の基礎財産とは分けて判断する問題である。
被相続人の債務一般の計算と主張立証については,遺留分侵害額請求の基礎財産から控除される「被相続人の債務」の効果的な主張立証方法(AI作成)で説明している。
第2 遺留分額と遺留分侵害額の計算
1 基礎財産の計算
遺留分の基礎財産は,「相続開始時の財産+算入対象となる贈与-被相続人の債務」によって求める(民法1043条1項)。
贈与の算入には期間等の制限があるため,死亡時の積極財産だけを確認して計算が完了するわけではない(民法1044条)。
基礎財産に総体的遺留分率と遺留分権利者の法定相続分を乗じると,その者の遺留分額が求められる(民法1042条)。
直系尊属だけが相続人である場合の総体的遺留分率は3分の1であり,それ以外の場合は2分の1である。
2 葬儀費用200万円を差し引いた場合の差額
死亡時の財産が4000万円で,被相続人の債務及び算入対象となる贈与がなく,相続人が子2人だけであるとする。
一方の子が遺言によって全財産を取得し,他方の子に遺贈,贈与その他の受益がなく,葬儀費用の控除を認める特別の事情もない場合,財産を取得しない子の遺留分割合は4分の1である。
葬儀費用を差し引かない計算は4000万円×4分の1=1000万円であり,200万円を差し引く計算は3800万円×4分の1=950万円である。
この設例における遺留分額の差は50万円であり,葬儀費用200万円がそのまま遺留分の請求額から控除されるわけではない。
3 遺留分侵害額の計算
実際の遺留分侵害額は,遺留分額から,請求する者が受けた遺贈又は一定の贈与及び遺産分割で取得すべき遺産の価額を控除し,その者が承継する被相続人の債務を加算して求める(民法1046条2項)。
基礎財産を求める段階の債務控除と,個別の侵害額を求める段階の債務加算を分ける必要がある。
死亡後の葬儀費用を支払った事実だけでは,その費用が民法1046条2項3号の加算対象になるわけではない。
費用負担に関する別の請求権が成立する場合も,遺留分の法定計算へ組み込むのか,最終的な支払額を別途精算するのかを区別することになる。
第3 合意,生前契約又は遺言がある場合
1 相続開始後の合意
相続開始後に,関係する権利者が葬儀費用の分担と遺留分侵害額を含めて合意し,紛争を精算することは可能である。
この場合には,費用を分担するだけなのか,遺留分の請求額から差し引くのか,最終支払額まで確定するのかを合意書に明記することが考えられる(民法695条)。
合意に参加していない遺留分権利者の権利まで当然に減少するわけではない。
また,相続開始前に遺留分を放棄するには家庭裁判所の許可が必要であるため,相続開始後の和解とは区別しなければならない(民法1049条)。
2 被相続人の生前契約
被相続人自身が葬儀社等と生前に契約し,その契約に基づく支払債務が死亡時に存在する場合には,被相続人の債務として扱われる可能性がある。
本人が葬儀の希望を伝えたことや予約をしたことだけで債務の成立を判断せず,契約当事者,契約内容,支払条件及び債務額を確認する必要がある。
前払金がある場合には,既払部分だけでなく,解約返戻金,サービスの給付請求権及び追加支払義務の有無も確認することになる。
同じ支出を財産側と債務側の双方で調整し,二重に控除しないようにする必要がある。
3 遺産から葬儀費用を支弁する遺言
結論として,遺言に葬儀費用への言及があるだけで,遺留分算定の基礎財産から葬儀費用を控除できるわけではない。
遺言が,①法的効力のない葬儀の希望,②財産取得者自身に費用を負担させる処分,③葬儀費用を先に支払い,残額を処分する清算型の財産処分のいずれであるかを区別する必要がある。
東京弁護士会親和全期会編『ケース別 特別受益,寄与分・特別寄与料,遺留分 認定のポイントと算定方法』は,通常の葬儀費用を控除しない取扱いを示した上で,葬儀費用を相続財産から支弁する旨の遺言がある場合を控除の例外として説明している(201頁~202頁及び248頁~250頁)。
同書の設例は,財産1,000万円について,子Bに200万円,残額を子Cに与え,葬儀費用及び遺言執行費用を相続財産から支弁する旨の遺言があった事案である。
葬儀費用200万円を控除しない場合,Bの個別的遺留分は250万円であり,取得額200万円との差額50万円が侵害額となる。
同書の説明に従って葬儀費用を控除すると,基礎財産は800万円,Bの個別的遺留分は200万円となるため,侵害額は0円となる。
この設例は,「相続財産から支弁する」との遺言が遺留分の計算結果を変えるという,確認できた最も明確な肯定例である。
一方,民法1043条は,遺言に葬儀費用の支払を記載した場合の控除を明文で定めていない。
遺言は死亡時に効力を生ずるため,遺言があることによって,死亡後に葬儀主宰者が負担した葬儀社への債務が,遡って被相続人の生前債務になるわけでもない(民法985条1項)。
前記専門書の処理は,遺言者が葬儀費用を先に支出し,その残額を相続又は遺贈の対象にしたと解する考え方として理解することができる。
(1) 葬儀についての希望にとどまる場合
「葬儀は簡素にしてほしい」など,葬儀の方法に関する希望だけを記載した場合,その記載は通常,法的効力のない付言事項にとどまる。
東京弁護士会の解説も,葬儀や埋葬の方法は遺言書に記載しても法的効力を生じないと説明しており,このような記載だけでは控除の根拠にならない。
(2) 財産取得者に費用を負担させる場合
「全財産をAに相続させる代わりに,Aが葬儀費用を負担する」という条項は,Aへの財産処分に葬儀の実施又は費用負担を付けたものと解釈される余地がある。
民法1002条は負担付遺贈を定めており,日本公証人連合会の解説も,受遺者に一定の法律上の義務を負担させる遺贈が可能であると説明している。
この場合,葬儀費用はA自身の負担であり,遺留分算定の基礎財産から差し引かないという結論になり得る。
東京地裁平成16年11月12日判決として公開されている転記では,被告に全財産を相続させる代わりに,被告が葬儀,埋葬,供花,供養及び墓の維持管理に要する費用を支出する旨の遺言について,被告自身の負担であるとして控除を否定したとされている。
同判決については,事件番号,原判決本文及び上訴関係を確認できていないため,公開された判決転記として扱う必要がある。
その内容からは,「相続財産から先に支払う」という遺産負担の指定と,「財産を取得する者がその代償として支払う」という受益者負担を区別すべきことが分かる。
(3) 葬儀費用を先に支払い,残額を処分する場合
「葬儀費用は相続財産から支払い,その残額をA及びBに相続させる」という条項は,財産取得者個人の負担ではなく,葬儀費用を先に清算してから残余財産を処分する趣旨と読む余地がある。
この類型が,前記専門書の控除肯定例に最も近い。
それでも,対象費目や金額を限定しないまま,支出された全額が当然に控除されるとはいえない。
確認すべき事項は,①遺言の正確な文言,②支出元となる財産,③対象費目と上限額,④葬儀主宰者及び契約名義人,⑤実際の葬儀との対応,⑥領収書等,⑦香典,前払金及び返戻金の処理並びに⑧遺留分権利者を含む関係相続人の合意である。
以上から,遺産先払い型の明確な条項がある場合には,基礎財産からの控除を主張することができる。
ただし,確認した範囲では,その取扱いが最高裁判例又は公刊された高裁判例により確立した一般的な規範であるとまでは確認できず,遺言の法的構成と具体的な履行を個別に判断する必要がある。
4 遺言執行費用との区別
民法1021条は,遺言の執行に関する費用を相続財産の負担としながら,その費用によって遺留分を減らすことはできないと定めている。
葬儀費用と遺言執行費用を一括して控除したり,遺言に記載されているという理由だけで両者を同じ費用として扱ったりすることはできない。
第4 葬儀費用の負担者と遺留分計算の違い
1 費用の最終負担は別の法律問題である
葬儀費用を遺留分の基礎財産から控除できないことは,葬儀を行った者に他の関係者との精算手段が一切ないことを意味しない。
誰が費用を負担するかは,生前契約,関係者の合意,葬儀の主宰及び個別事情に応じて検討される。
民法885条は相続財産に関する費用を相続財産から支弁すると定めているが,同条の問題から民法1043条の控除可否が直ちに決まるわけではない。
葬儀費用の負担問題については,葬儀・火葬の実施(AI作成)で詳しく説明している。
2 確認できた費用負担に関する裁判例
(1) 名古屋高裁平成24年3月29日判決
名古屋高裁平成24年3月29日判決・平成23年(ネ)第968号は,被相続人が生前に葬儀契約を締結しておらず,関係者間の合意もない事案について,追悼儀式の費用をその儀式を主宰した者が負担すると判断した。
同判決は,遺体の検案,死亡届,運搬及び火葬等に要する費用と追悼儀式の費用を区別しており,葬儀費用を遺留分の基礎財産から控除するかを判断したものではない。
(2) 津地裁平成14年7月26日判決
津地裁平成14年7月26日判決・平成13年(ワ)第279号は,被相続人を介護し,葬儀を行った相続人でない孫から相続人らに対する費用分担請求について,個別事情を考慮して一部を認容した。
同判決は,被相続人を弔うために直接必要な儀式費用を対象とし,飲食,返礼,生花,戒名,法要及び納骨等の一部費用を対象外とした事案判断であり,遺留分の計算を判断したものではない。
第5 相続税の葬式費用控除との違い
1 相続税法は債務と葬式費用を分けている
相続税法13条1項は,1号で被相続人の死亡時の債務を,2号で被相続人に係る葬式費用を,それぞれ控除対象として定めている。
国税庁の「相続財産から控除できる債務」も,葬式費用は債務ではないが,相続税を計算するときは遺産総額から差し引くことができると説明している。
相続税申告で葬式費用を控除したことは,民法上の遺留分計算でも同じ金額を控除できる根拠にはならない。
両者は目的と根拠条文の異なる計算である。
2 税務上の控除対象となる費用
国税庁の「相続財産から控除できる葬式費用」は,葬儀,火葬,埋葬,遺体・遺骨の運搬,通夜及び葬儀の読経料等に通常要する費用を控除対象として説明している。
これに対し,香典返し,墓石・墓地の購入又は借入れ,初七日等の法事に要した費用は,控除対象にならないとしている。
この区分は相続税についての行政上の説明であり,葬儀費用の民事上の負担者や遺留分の控除範囲を定める基準ではない。
税務上の費目区分を民事上の計算へそのまま移さないことが必要である。
第6 紛争になった場合に確認する資料と期限
1 最初に確認する資料
実務上は,①相続開始日及び死亡時の預金残高・財産一覧,②被相続人の債務資料,③生前契約書・申込書・支払条件・前払金資料,④遺言書全文,⑤相続開始後の合意書・メール等,⑥請求書・領収書・振込記録及び費目別内訳,⑦香典の受領額・使途を示す資料を確認することが考えられる。
支出の領収書があっても,そのことだけで被相続人の死亡時債務,他の相続人の負担義務又は遺留分を減額する合意まで証明されるわけではない。
資料は,死亡時に存在した財産・債務を示すものと,死亡後の支出・精算を示すものに分けて整理することが考えられる。
遺言又は合意がある場合には,葬儀費用の負担だけを定めたものか,遺留分侵害額を含む最終精算まで定めたものかも確認する必要がある。
2 遺留分侵害額請求の期間制限
葬儀費用について協議していても,遺留分侵害額請求の期間制限は別に管理しなければならない。
民法1048条によれば,遺留分権利者が相続の開始及び遺留分を侵害する贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間行使しないときは時効により消滅し,相続開始から10年を経過したときも同様である。
費用の精算交渉が続いていることだけで,この期間が当然に延びるわけではない。
権利行使の方法,調停・訴訟及び必要書類については,遺留分侵害額請求の期限と手続-内容証明・交渉・調停・訴訟・必要書類(AI作成)で説明している。
3 旧法の裁判例を参照する場合
令和元年7月1日より前に開始した相続には,原則として改正前の遺留分制度が適用される。
旧法上の遺留分減殺に関する裁判例を現行の遺留分侵害額請求へ参照する場合には,現物返還を原則とした旧法と金銭請求とした現行法の違いを踏まえる必要がある。
旧法の計算については,旧法の遺留分減殺請求の計算方法-基礎財産・侵害額・減殺率と判例タイムズ1345号の計算シート(AI作成)で説明している。
現在の相談では,相続開始日を先に確定し,適用される制度を取り違えないことが出発点となる。
第7 出典・参考資料
1 法令
① e-Gov法令検索・民法,695条,882条,885条,896条,1021条及び1042条~1049条(令和8年9月15日現在)。
② e-Gov法令検索・相続税法,13条及び14条(令和8年9月15日現在)。
2 裁判例
① 名古屋高裁平成24年3月29日判決,平成23年(ネ)第968号,貸金返還等請求控訴事件,控訴棄却,裁判所ウェブサイト掲載,PDF8頁~10頁。
② 津地裁平成14年7月26日判決,平成13年(ワ)第279号,葬儀費用等分担請求事件,一部認容,裁判所ウェブサイト掲載,PDF1頁~3頁。
3 所管行政機関の解説
① 国税庁「相続財産から控除できる債務」(令和8年9月15日確認)。
② 国税庁「相続財産から控除できる葬式費用」(令和8年4月1日現在法令等)。
③ 法務省「民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律等について」(平成30年7月13日掲載)及び「改正相続法の経過措置について」。
4 職能団体の会員による解説及びその他の文献
① 東京弁護士会親和全期会編『ケース別 特別受益,寄与分・特別寄与料,遺留分 認定のポイントと算定方法』新日本法規出版,2023年,201頁~202頁及び248頁~250頁。
② 東京弁護士会「(10)遺言でできること」(令和8年9月15日確認)。
③ 日本公証人連合会「遺言」Q&Aの負担付遺贈に関する説明(令和8年9月15日確認)。
④ 河原崎法律事務所「葬式(葬儀)費用の相続における扱い」。東京地裁平成16年11月12日判決として公開された転記を参照したが,原判決本文,事件番号及び上訴関係は未確認である。
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③ 遺留分侵害額請求の期限と手続-内容証明・交渉・調停・訴訟・必要書類(AI作成)。
④ 旧法の遺留分減殺請求の計算方法-基礎財産・侵害額・減殺率と判例タイムズ1345号の計算シート(AI作成)。