契約書では,当事者を「甲」「乙」と表示する例が多くあります。しかし,甲が法律上上位である,乙が不利な立場である,又は自社を必ず甲にしなければならないという決まりはありません。
重要なのは記号の順番ではなく,誰がどの権利を持ち,どの義務を負うかを契約書全体で一貫して読めることです。
本稿では,甲乙の意味,順番の考え方,売主・買主などの役割名との使い分け,複数当事者や保証人がいる場合の注意点及び取り違えを防ぐ確認方法を整理します。
第1 甲乙は当事者を区別するための記号である
1 甲が上で乙が下という法的な決まりはない
甲,乙,丙,丁は,契約書の当事者を繰り返し表示するための記号です。一般的な契約書の当事者表示について,甲乙の順番に法的な優劣を与える民法上の定めはありません。
したがって,甲であること自体から,契約上の権利が多い,交渉上の立場が強い,裁判で有利になる,又は契約書を作成した側であるという効果は生じません。実際の権利義務は,各条項の内容から判断します。
2 甲乙を使わなくても契約は成立し得る
民法522条2項は,法令に特別の定めがある場合を除き,契約の成立に書面その他の方式を必要としないと定めています。甲乙の表示は契約成立の要件ではありません。
もっとも,契約書を作る以上,当事者を正確に特定し,後から誰の権利義務かを確認できるようにする必要があります。個人であれば氏名・住所,法人であれば商号・本店・代表者等を確認し,本文中の略称と署名欄を対応させます。
口頭やメールによる合意と契約書の関係は,口頭の合意と契約書-書類を取り交わすまで契約成立を留保できるかで整理しています。
第2 どちらを甲又は乙にするか
1 一般的な順番はあっても絶対のルールではない
契約書を提示する側,自社,売主,貸主又は委託者を甲とする書式は見られます。しかし,これは書式や取引慣行による選択であり,すべての契約に共通する法的ルールではありません。
相手方のひな形を使えば自社が乙になることもあります。甲乙の順番だけを直すために契約書全体を置換すると,条項の一部や別紙だけが入れ替わる事故も起こり得ます。順番より,本文・別紙・署名欄の対応を優先すべきです。
2 同じ種類の契約では表示方法をそろえる
社内で繰り返し使う契約書では,例えば「当社=甲,相手方=乙」又は「発注者=甲,受注者=乙」という基準を決めておくと,審査や契約管理がしやすくなります。
ただし,基準を決めても,取引ごとの役割が逆になる場合があります。前回の契約書を流用するときは,会社名だけでなく,当事者表示,定義,通知先,振込先,署名欄及び別紙を確認します。
第3 甲乙と役割名の使い分け
1 役割名は条項の意味を理解しやすい
文化庁の契約書作成支援資料には,「発注者」「受注者」などの役割名を用いる例があります。文化庁委託事業の「劇場・音楽堂等 契約実務ガイドブック」は,甲乙丙等の略称が多く用いられるとしつつ,無理に用いず「劇作家」「劇団」等のイメージしやすい略称を用いてもよいと説明しています。
売主・買主,貸主・借主,委託者・受託者,開示者・受領者のような役割名は,その条項で誰が何をするかを理解しやすくします。
| 表示方法 | 長所 | 注意点 |
|---|---|---|
| 甲・乙 | 短く,複雑な契約でも表記を統一しやすい | 役割が直感的でなく,取り違えに気付きにくい |
| 売主・買主等 | 権利義務の方向を理解しやすい | 一方が複数の役割を持つ契約では呼称が長くなる |
| 会社名の略称 | 当事者を直接識別できる | 組織再編や契約承継の場面も含め,定義を正確に保つ必要がある |
2 一つの契約で表示方法を混在させない
冒頭で甲乙と定義した後に,説明なく「売主」「委託者」「当社」へ切り替えると,同じ当事者を指すのか,新たな役割を示すのかが不明確になります。
役割名を併用する場合は,「売主である甲」のように対応を明示し,その後の用語を統一します。基本契約と個別契約,本文と仕様書,契約書と利用規約の間でも同じ対応を確認します。
第4 甲乙の取り違えを防ぐ方法
1 権利義務の方向を動詞で確認する
全文検索で「甲」「乙」の出現箇所を見るだけでは足りません。各条項について,誰が,誰に対し,何を,いつまでにするかを一文で言い換えます。
特に,代金支払,納品,検査,知的財産権の帰属,秘密保持,損害賠償,解除,返還,通知及び契約終了後の義務は,方向が逆になると取引の設計自体が変わります。
2 一括置換後は原本と突き合わせる
過去の契約書を流用して甲乙を入れ替える場合,一括置換を一度に行うと,甲を乙にした後の再置換で両方が同じ表示になることがあります。仮の記号を介する方法を採る場合でも,機械的な置換だけで完成とはしません。
見出し,本文,表,図,別紙,添付仕様書,通知先及び署名欄を含めて原本と突き合わせ,権利義務の方向を確認します。
3 曖昧な条項は甲乙を直すだけでは解決しない
司法研修所論集の「契約の解釈について」は,裁判例や通達ではなく,契約の解釈を扱う研究論稿です。同論稿は,表示を解釈の出発点としつつ,当事者の意思や契約書外の事情をどのように考慮するかを論じています。
当事者表示が合っていても,「協議する」「必要な措置を講ずる」「相当な損害を賠償する」などの条項について,条件,期限又は範囲が不足していれば,後の紛争を防げません。
第5 複数当事者及び保証人がいる契約
1 丙・丁を増やす前に役割を分ける
三者以上の契約では,甲乙丙丁を順に割り当てる方法があります。しかし,当事者が増えるほど記号だけでは役割を見失いやすくなります。
発注者,元請,受注者,権利者,利用者などの役割名を用いるか,冒頭に当事者と役割の対応表を置くことを検討します。誰と誰の間に権利義務が生じるのかも条項ごとに示します。
2 保証人は主契約と保証契約を分けて考える
保証人を「丙」と表示する例があります。保証人は,債権者と主債務者との主契約について主たる給付を行う当事者ではありませんが,債権者との保証契約の当事者です。
民法446条2項・3項は,保証契約について書面又は電磁的記録によらなければ効力を生じないと定めています。保証人を単に署名欄へ追加するだけでなく,保証対象,保証意思,方式及び本人確認を確認します。法務省の売買契約書参考例にも,売主を甲,買主を乙,連帯保証人を丙とする表示例があります。
電子契約による保証の注意点は,電子契約で保証人に署名してもらうときの注意点で整理しています。
第6 契約書作成・審査時の確認表
| 確認事項 | 確認内容 |
|---|---|
| 当事者の特定 | 正式名称,住所,本店,代表者,署名権限及び署名欄が一致しているか |
| 略称の定義 | 甲乙又は役割名が冒頭で一義的に定義されているか |
| 表記の統一 | 本文,別紙,仕様書,約款及び通知先で同じ表示を用いているか |
| 義務の方向 | 支払,納品,検査,権利帰属,秘密保持及び賠償の主体と相手方が正しいか |
| 複数当事者 | 誰と誰の間にどの権利義務が生じるか明示されているか |
| 流用・置換 | 旧契約の会社名,日付,金額,定義及び署名欄が残っていないか |
| 解釈の手掛かり | 条項の条件,期限,範囲及び契約全体との整合性が明確か |
契約書全体の審査手順は,契約書審査の進め方とチェックポイントを参照してください。
第7 結論
契約書の甲乙は,当事者を区別するための記号であり,甲が上位,乙が下位という法的効果はありません。順番よりも,当事者の特定,役割,権利義務の方向及び契約書全体での表示の一貫性が重要です。
二者間で役割が明確な契約では売主・買主などの役割名が読みやすく,複雑な契約では甲乙と役割名の対応を明示する方法が考えられます。流用や一括置換をした契約書は,本文から署名欄まで改めて確認する必要があります。
第8 出典・参考資料
1 e-Gov法令検索・民法(522条,446条等)
2 文化庁・著作権契約書作成支援システム「契約書作成のポイント」
3 文化庁委託事業・劇場・音楽堂等 契約実務ガイドブック
4 司法研修所論集2024-Ⅲ「契約の解釈について」
5 法務省・売買契約書の参考例
6 LAWGUE「契約書での『甲乙』の使い方とは?意味やメリットをわかりやすく解説」(問題の発見及び説明項目の参考とした二次資料)