第1 本記事の対象と結論
1 対象と基準日
本記事は,契約の主要条件について口頭,電子メール又は契約書案で認識が一致していても,正式な契約書に双方が署名又は記名押印し,これを取り交わすまでは契約を成立させないという交渉の進め方を扱うものである。
調査の基準日は令和8年9月15日であり,同日に施行されている民法並びに同日までに公表された裁判例及び公的資料を確認した。
X上の問題提起を契機とするが,以下では投稿の表現を前提にせず,法令,裁判例及び調査資料から確認できる範囲を整理する。
2 結論
民法上,契約は原則として申込みと承諾によって成立し,書面は不要であるため,口頭,電子メール又は当事者の行動から契約成立が認められることがある。
他方,当事者は,契約書への署名,記名押印,電子署名又は契約書の取り交わしを契約成立の時点とすることができる。
ただし,その留保が実際に認められるかは,「契約書を後で作る予定であった」という一事だけでなく,交渉中の文言,未確定事項,社内承認,契約書案の条項,履行の有無,取引慣行その他の事情を総合して判断される。
重要又は複雑な取引で書面を用いる実務が広く存在することは確認できるが,「現実の取引では圧倒的多数が最終契約書の取り交わしまで契約成立を留保している」とまで示す一般的な統計は,今回確認した公的資料の範囲では見当たらない。
第2 口頭や電子メールでも契約は成立する
1 民法521条及び522条
民法521条1項は,法令に特別の定めがある場合を除き,契約をするかどうかを自由に決定できると定め,同条2項は,法令の制限内で契約内容を自由に決定できると定めている。
民法522条1項は,契約内容を示した申込みに対して相手方が承諾したときに契約が成立すると定め,同条2項は,法令に特別の定めがある場合を除き,契約成立に書面その他の方式を必要としないと定めている。
したがって,法律上の方式が要求される契約を除き,「契約書に署名していない」という事実だけで契約不成立になるわけではない。
2 契約書の二つの役割
契約書には,少なくとも二つの役割がある。
第1は,既に成立した契約の内容を明確にし,後日の証拠を残す役割である。
第2は,当事者が「この書面に双方が署名するまでは確定的な契約を成立させない」と定めることにより,契約成立の境界を画する役割である。
契約書を作成する予定がある場合に,それが第1の確認・証拠化にすぎないのか,第2の成立留保を意味するのかを区別する必要がある。
3 成立留保を判断する主な事情
裁判例からみると,主に次の事情が問題となる。
① 交渉メール,議事録及び契約書案に「案」,「検討中」,「正式契約締結後に効力発生」などの記載があるか。
② 目的物,代金,期間,責任範囲,解除その他の重要条件が確定しているか。
③ 契約書案への修正提案が続いているか,又は未解決の条件が残っているか。
④ 取締役会,経営会議,法務審査,親会社又は第三者の承認が必要であることを相手方に示していたか。
⑤ 署名・記名押印,電子署名又は契約書の交換を効力発生時点とする条項があるか。
⑥ 代金支払,商品の引渡し,役務提供その他の履行が始まっているか。
⑦ 当該業界及び取引類型で,正式書面の完成を契約成立時点とする慣行があるか。
⑧ 取引金額,契約期間及び契約内容が高額,長期又は複雑であるか。
これらの事情に優先順位が固定されているわけではなく,取引全体から当事者の確定的な意思を認定することになる。
第3 契約書の調印まで成立が留保された例
1 大阪地裁平成17年12月8日判決の事案
大阪地方裁判所平成17年12月8日判決(平成15年(ワ)第10873号)は,キャラクターの商品化権許諾をめぐる企業間取引を扱った。
当事者は,指定商品,サブライセンシー,年間最低保証使用料,ロイヤリティー及び3年間の契約期間という主要事項を口頭で実質的に了解し,商品販売,最低保証使用料の支払及び販売量に応じたロイヤリティーの授受まで行っていた。
そのため,既に包括的な許諾契約が成立していたようにみえる事情が相当に存在した。
2 判決が包括契約の成立を否定した理由
しかし,契約書案は法務部の確認後も修正され,調印日程が定まらないまま,最終的に署名されなかった。
契約書案には,両当事者が署名した日に効力を生ずる旨の条項もあった。
判決は,主要事項に関する実質的合意とそれに沿う履行があったことを認めながら,双方が完成した契約書に調印して取り交わすことにより契約を成立させる予定であったと判断し,3年間の包括的商品化権許諾契約の成立を否定した。
この判決は,履行が始まっていれば常に正式契約の成立が認められるわけではないことを示す一方,書面作成の予定だけで当然に成立が否定されるわけでもないことを示している。
3 不動産売買に関する福岡高裁判決の報告
一般財団法人不動産適正取引推進機構のRETIO123号は,福岡高等裁判所令和2年9月15日判決(令和2年(行コ)第2号,判例集未登載)を紹介している。
同報告によれば,判決は,不動産売買では代金が高額で権利関係及び契約条件が複雑であり,重要事項の説明後に細部を確定し,売買契約書へ双方が署名押印する手続を経て終局的な合意に至るのが通常であるとした。
同誌のワーキンググループでも,参加者は,重要事項説明後に売買又は賃貸借契約書への双方の署名・押印が完了した時点を契約成立と捉えていると報告されている。
もっとも,これは不動産取引に関する一判決及び同分野の参加者の報告であり,すべての契約に共通する経験則や一般的な統計ではない。
第4 注文書で契約成立が認められた例
1 大阪地裁平成14年7月19日判決
大阪地方裁判所平成14年7月19日判決(平成13年(ワ)第9030号)は,中古自動車の注文書について契約成立を認めた。
注文書には車名,グレード,色,付属品,車両価格,税金その他の費用が詳細に記載され,裏面には顧客が注文書へ署名した日を契約成立時期とする条項があり,表裏に顧客の署名があった。
後日,正式契約のために別の書面を作成する予定もなかった。
判決は,注文書への署名・交付を買主の申込みと認め,売主の承諾も認定して,売買契約の成立を認めた。
2 二つの判決の対照
大阪地裁平成17年判決では,主要条件の了解と一部履行があっても,契約書案の修正継続,署名時の効力発生条項及び完成書面を取り交わす予定などから包括契約が否定された。
これに対し,大阪地裁平成14年判決では,必要事項を備えた注文書に契約成立時期が明記され,署名・交付が済み,後続する正式書面も予定されていなかったため,契約成立が認められた。
書面の名称が「契約書」であるか「注文書」であるかよりも,当該書面と交渉経過が確定的な申込み・承諾を示すかが重要である。
第5 書面利用の実態と「圧倒的」という評価
1 厚生労働省委託調査の結果
厚生労働省委託の令和2年3月「過労死等に関する実態把握のための労働・社会面の調査研究事業報告書」は,東京商工リサーチの企業データベースから常用労働者10人以上の企業1万社を抽出し,3715社から有効回答を得た調査である。
他社へ発注することがあると答えた1910社の契約方法は,「全てにおいて書面に基づき契約を締結している」が59.5%,「書面または口頭に基づき契約を締結している」が36.7%,「全てにおいて口頭に基づき契約を締結している」が3.1%,無回答が0.7%であった。
企業規模別では,「全てにおいて書面に基づき契約を締結している」とする割合は,常用労働者10人以上49人以下で51.7%であり,300人以上の各区分では80%を超えていた。
2 調査から分かることと分からないこと
この結果は,他社へ発注する企業で書面を利用する取引が広く存在し,規模の大きい企業ほど全ての発注を書面に基づいて行う割合が高いことを示す。
他方,調査項目は「書面に基づき契約を締結しているか」を尋ねたものであり,①書面が契約成立の要件であるのか,②口頭合意後の証拠化にすぎないのか,③発注書・メール・基本契約書・個別契約書のいずれを含むのかを区別していない。
また,企業数を単位とする回答であって,契約件数又は取引金額で加重した結果ではない。
したがって,この数値を,最終契約書の取り交わしまで法的拘束力を留保する取引の割合として読むことはできない。
3 建築紛争に関する古い調査
最高裁判所の建築関係訴訟委員会事務局が平成14年11月21日に公表した中間報告は,建築関係紛争事件で契約書が存在しない割合を東京地裁54%,大阪地裁40%と報告している。
これは約24年前の建築訴訟という限定された母集団であり,現在の一般取引における書面利用率を示すものではない。
それでも,重要な取引であっても書面のない紛争が相当数存在していたことを示しており,「重要な契約では常に正式書面が完成している」という推測には注意を要する。
第6 契約書締結まで成立を留保する実務
1 交渉開始時から明示する
成立を留保したい場合,最終段階の契約書案にだけ記載するのではなく,交渉開始時の電子メール,秘密保持契約,基本合意書,議事録及び各版の契約書案に一貫して示すべきである。
「詳細は後日契約書で定める」,「正式契約を予定する」といった表現だけでは,既に合意した主要部分の契約成立を否定できないことがある。
「双方の権限ある者による最終契約書の署名及び取り交わしが完了するまで,秘密保持条項等を除き法的拘束力を生じない」という成立時点と例外を具体的に示す必要がある。
2 成立留保条項の例
成立留保条項は,例えば,次のように定めることが考えられる。
「本契約締結に至るまでの協議,電子メール,議事録,見積書,発注書及び契約書案は,秘密保持条項,独占交渉条項その他当事者が明示的に法的拘束力を持たせた条項を除き,本契約を締結する義務その他の法的拘束力を生じさせない。本契約は,両当事者の権限ある者が最終契約書に署名若しくは記名押印して双方がこれを取り交わした時,又は指定する電子契約サービス上で双方の署名が完了した時に成立する。」
実際に用いる場合は,契約類型,電子契約の仕組み,署名権限,社内承認,先行して拘束させる条項及び履行開始時期に合わせて修正する必要がある。
3 交渉中の行動を文言と一致させる
文書で成立を留保していても,代金を請求・受領し,商品を納入し,又は本契約の中核となる役務提供を開始すれば,その行動から個別契約又は暫定契約の成立が主張されることがある。
最終契約前に作業を始める必要がある場合は,作業範囲,対価,期間,成果物,知的財産権,中止時の精算及び本契約との関係を定めた限定的な先行合意を別に作成することが望ましい。
交渉用の契約書案には版番号及び日付を付け,「ドラフト」又は「法的拘束力なし」と表示し,修正履歴を保存する。
4 成立時点を運用可能な形で定める
「書類を取り交わした時」とだけ定めると,紙の原本,PDF,電子署名済みデータ及び電子メールによる承諾のいずれを指すかが争われ得る。
紙であれば双方の署名又は記名押印と原本・写しの交換,電子契約であれば利用するサービス及び完了時点,社内承認が必要であれば承認機関と相手方への通知方法を決める。
担当者に締結権限がない場合も,担当者の言動による誤解を避けるため,権限の範囲と最終承認者を交渉相手に明示することが重要である。
第7 契約不成立でも交渉上の責任は残り得る
1 最高裁平成19年2月27日判決
最高裁判所第三小法廷平成19年2月27日判決(平成17年(受)第869号)は,継続的な製造・販売に関する基本契約の成立を否定しながら,契約締結への過大な期待を相手方に抱かせ,開発及び製造のための費用を支出させた行為について,信義則上の義務違反を認めた。
最終契約書まで契約成立を留保していても,相手方に成立を確実視させる言動を重ね,高額な先行投資を促した後に合理的な説明なく交渉を打ち切れば,損害賠償責任が問題となり得る。
2 成立留保と交渉管理を分けない
成立留保条項は,契約締結義務を当然に否定する万能な免責条項ではない。
契約が成立していないことと,交渉過程で相手方の信頼を不当に害してよいことは別である。
相手方に費用負担又は履行準備を求める場合は,正式契約に至らない可能性,費用負担,作業停止条件及び交渉終了時の精算を事前に明確にする必要がある。
第8 関連記事
1 契約書及び文書の証拠に関する記事
①労働者派遣契約書と管理台帳の確認方法-基本契約・個別契約・通知書の違い(AI作成)(URL:https://yamanaka-bengoshi.jp/2026/09/10/haken-keiyakusho-kanri-daichou/)は,契約書とドラフトの区別を含む業種別の契約管理を扱っている。
②二段の推定とは──私文書の成立の真正(民事訴訟法228条4項)と実印・認印,立証の実務(AIリライト)(URL:https://yamanaka-bengoshi.jp/2022/06/12/nidan-suitei/)は,署名又は押印のある私文書の真正をめぐる証拠法上の問題を扱っている。
③処分証書及び報告文書とは-意義・具体例・証拠力と最高裁判例(AIリライト)(URL:https://yamanaka-bengoshi.jp/2019/04/18/shobunshousho/)は,契約書等の記載内容が裁判でどのように評価されるかを扱っている。
④公正証書遺言と異なる口約束は遺言の効力に影響するか―撤回の方式,生前処分との抵触及び口頭の死因贈与(AI作成)(URL:https://yamanaka-bengoshi.jp/2026/09/11/kouseishousho-igon-kuchiyakusoku/)は,相続場面における口頭合意と遺言・生前処分・死因贈与の関係を扱っている。
第9 出典・参考資料
1 法令及び公的解説
①e-Gov法令検索「民法」521条及び522条(URL:https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089)。
②内閣府・法務省・経済産業省「押印に関するQ&A」(令和2年6月19日。URL:https://www.meti.go.jp/covid-19/ouin_qa.html)。
③法務省「私法と消費者保護」(URL:https://www.moj.go.jp/shingi1/kanbou_houkyo_kyougikai_qa02.html)。
2 裁判例
①大阪地方裁判所平成17年12月8日判決(平成15年(ワ)第10873号,裁判所ウェブサイト,PDF15頁~16頁。URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-9246.pdf)。
②大阪地方裁判所平成14年7月19日判決(平成13年(ワ)第9030号,裁判所ウェブサイト,PDF2頁~3頁。URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-6650.pdf)。
③最高裁判所第三小法廷平成19年2月27日判決(平成17年(受)第869号,裁判所ウェブサイト,PDF10頁~11頁。URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-34183.pdf)。
3 統計及び調査資料
①令和元年度厚生労働省委託「過労死等に関する実態把握のための労働・社会面の調査研究事業報告書」(みずほ情報総研株式会社,令和2年3月,PDF7頁,14頁,92頁~93頁。URL:https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/000809165.pdf)。
②一般財団法人不動産適正取引推進機構「不動産取引紛争事例等調査研究委員会(第319回)検討報告」RETIO123号77頁~89頁(令和3年秋号。URL:https://www.retio.or.jp/wp-content/uploads/2024/11/123-077s.pdf)。
③最高裁判所建築関係訴訟委員会事務局「建築契約における契約書の在り方について(中間報告)」(平成14年11月21日。URL:https://www.courts.go.jp/saikosai/iinkai/kentikukankei/keiyakusyo_no_arikata/index.html)。
4 問題提起
①X投稿(URL:https://x.com/vanochan/status/2099458860901904658)。
②X投稿(URL:https://x.com/yamanaka_osaka/status/2099648869005201774)。
いずれも問題の所在を把握するために参照したものであり,法令又は裁判例の根拠として用いていない。