第1 結論―M&Aの責任は判断過程から検討する
M&Aの結果として対象会社の価値が下がっただけでは、直ちに取締役の責任が生じるわけではない。取引当時に入手できた情報、警告された危険、調査範囲を限定した理由、価格算定、代替案及び契約上のリスク配分を時点ごとに検証する。
一方、具体的な不正・簿外債務・過大評価の疑いを把握しながら、理由を記録せず調査を省略した場合には、「経営判断」であるという説明だけで免責されるとは限らない。
第2 取締役の善管注意義務と経営判断
会社法330条により会社と取締役との関係には委任に関する規定が適用され、会社法355条は忠実義務を定める。任務懈怠により会社に損害を与えた取締役は、会社法423条1項の責任を負う。
東京地方裁判所の公式資料「取締役の任務懈怠責任」は、会社の請求について、任務懈怠、損害及び因果関係を区別して主張立証する構造を示している。M&Aでは、買収の成否という結果だけでなく、情報収集・分析と意思決定の過程を具体化する。
東京高裁平成29年9月27日判決は、事業計画等の策定が将来予測を伴う専門的判断であることを前提に、その決定過程及び内容に著しく不合理な点があるかを検討している。
第3 DDを省略・限定できる場合
デュー・ディリジェンス(DD)の範囲は、取引規模、時間的緊急性、対象会社の業種、入手済みの監査資料、売主との関係及び調査費用によって異なる。常に最大範囲のDDを実施しなければならないわけではない。
ただし、限定する場合には、①調査対象から外す分野、②その理由、③残る危険、④価格への反映、⑤表明保証・補償・解除条件等の代替策を取締役会資料に残す。調査をしないことと、別の方法で危険を配分することは同じではない。
法務DDでは、許認可、重要契約、訴訟、知的財産、労務、個人情報、環境及びコンプライアンスを取引特性に応じて選ぶ。財務・税務・事業DDとの間で発見事項を共有し、価格算定へ反映する。
第4 具体的な警告がある場合の調査
東京高裁平成31年1月16日判決は、買収額やFA報酬等について具体的な疑惑が示された企業不祥事の事案で、取締役がその指摘を真剣に受け止めて違法行為の有無を調査すべきであったかを検討している。
匿名情報、報道又は少数役員の指摘だけで直ちに取引を中止する必要があるとは限らない。しかし、指摘が具体的で、既存資料と矛盾し、金額的重要性が高い場合には、独立した専門家への調査、原資料へのアクセス、関係者聴取及び取締役会での再審議を検討する。
経営陣からの説明を受けたというだけでなく、その説明が疑問に答えているか、裏付資料が提出されたか、調査担当者が独立しているかを記録する。
第5 親会社の指示と子会社の利益
完全子会社であっても、子会社は親会社とは別の法人であり、子会社取締役は子会社に対して職務上の義務を負う。親会社又はグループ全体に利益があることだけで、子会社が不相当に高い価格又は過大な危険を負担する取引が当然に正当化されるわけではない。
親会社の指示に従った場合も、子会社側の取引目的、期待利益、負担する危険、代替案及び補償を検討する。取締役会の承認や利害関係取締役の退席は重要な手続であるが、情報収集や価格検討の不足を自動的に治癒するものではない。
第6 損害と因果関係
任務懈怠が認められても、それだけで取得価格全額が損害になるわけではない。必要な調査を行っていれば、取引を中止したのか、価格を下げたのか、補償条項を取得したのかを検討する。
典型的には、合理的な調査後の公正な取引価額と実際の支払額との差額、取得後に顕在化した特定債務、追加費用等について、任務懈怠との因果関係を立証する。対象会社の事業価値が残っている場合には、取得価格全額を損害とする主張は慎重に検討する。
第7 残すべき資料
① 取引目的、候補比較及び中止基準
② DD依頼書、調査範囲、例外事項及び報告書
③ 発見事項一覧とリスク評価
④ 企業価値評価、前提条件及び感応度分析
⑤ 価格調整、表明保証、補償、エスクロー及び解除条件
⑥ 専門家の独立性及び利益相反確認
⑦ 取締役会資料、質問、反対意見及び議事録
⑧ 親会社からの指示と子会社利益の検討資料
第8 法令・裁判例・裁判所資料
① e-Gov法令検索「会社法」330条、355条及び423条。
② 東京地方裁判所「取締役の任務懈怠責任」。
③ 東京高裁平成29年9月27日判決。
④ 東京高裁平成31年1月16日判決。
本記事は令和8年9月23日現在の法令及び裁判所公開資料に基づく。個別のM&Aでは、取引時点の資料と会社・業種・取引規模に応じた調査範囲を確認する必要がある。