第1 最高裁令和8年1月20日判決の位置付け
1 判決の書誌
最高裁令和8年1月20日第三小法廷判決(令和5年(受)第2245号・第三者異議事件)は,弁護士名義の預り金口座に対する差押えについて,預金債権が信託財産に属するかが争われた事件である。
最高裁は原判決を破棄し,事件を東京高等裁判所に差し戻した。
本判決の要点は,①弁護士が依頼者から預かった金員であること及び分別管理していることだけで,信託目的の合意が具体的に主張されたことにはならないこと,②信託財産該当性は事実審の口頭弁論終結時を基準として判断されることにある。
2 職務上の分別管理と信託法上の効果は別問題である
弁護士職務基本規程38条及び日本弁護士連合会の預り金等の取扱いに関する規程は,依頼者等から預かった金員の目的外使用を防ぎ,弁護士の固有財産と区別して管理するための職務上の規律を定めている。
これに対し,預金債権が信託法上の信託財産に属し,弁護士個人の債権者による強制執行に対抗できるかは,信託契約の成立要件及び信託財産の帰属を検討する私法上の問題である。
職務規程を遵守していることは重要な事情であるが,それだけで第三者との関係でも当然に信託財産となるわけではない。
第2 事案の概要
1 預り金口座と差押え
原審が確定した事実によれば,被上告人である弁護士は,職務に関して預かり保管する金員を管理するため,「預かり金口 弁護士X」名義の普通預金口座を開設していた。
上告人は,この弁護士に対する婚姻費用分担金の支払を命ずる審判を債務名義として,弁護士が銀行に対して有する預金債権を2回差し押さえた。
差押え時における預金債権の全部は依頼者からの預り金を原資とし,弁護士報酬の振込口座等とは分けて管理されていた。
弁護士は,預り金を信託財産とする信託契約が成立しており,信託法23条5項に基づき強制執行は許されないと主張して第三者異議の訴えを提起した。
2 信託契約の終了等に関する争い
上告人は,信託契約の具体的内容が主張されていないと争った。
また,差押え後に弁護士が業務停止2月の懲戒処分を受けたことなどにより,仮に信託契約が成立していても終了し,預金債権が弁護士の固有財産になっているとも主張した。
したがって,本件では,差押え時に預り金のみが入金され分別管理されていたという事実だけでなく,信託契約の成否と,差押え後の事情をどの時点まで考慮するかが問題となった。
第3 原審と最高裁多数意見
1 原審の判断
原審は,依頼者からの預り金が弁護士の固有財産から分別して管理されている限り,預り金を信託財産とする信託契約が成立していたと評価した。
また,信託財産該当性を差押え時点で判断すべきものとし,その後に信託契約が終了したとしても結論を左右しないとして,弁護士の請求を認容した。
2 信託目的について具体的な主張が必要であること
最高裁多数意見は,信託契約の成立には,特定の財産を一定の目的に従って管理又は処分するという信託目的についての合意が必要であることを前提とした。
そして,民事訴訟で財産が信託財産に属するかが問題となる場合,信託目的の合意の成立が事案に応じて具体的に主張されなければならないとした。
本件の弁護士は,依頼者からの預り金は当然に信託財産となるため,信託契約の具体的内容を主張する必要はないと主張していた。
最高裁は,本件の主張及び訴訟経過の下では,信託目的についての合意が成立したとの主張があるとはいえないと判断した。
3 分別管理だけでは足りないこと
最高裁多数意見は,預り金について信託契約が成立する可能性自体を否定したものではない。
しかし,「預り金である」「固有財産と分けて管理している」という事実から,信託目的の合意を当然に導くことは認めなかった。
したがって,預り金口座という名称,専用口座及び帳簿は重要な証拠となり得るが,信託契約の成立を主張する側は,預託の目的,管理・処分の内容,残余金の帰属その他の具体的な合意を明らかにする必要がある。
第4 判断基準時
1 事実審口頭弁論終結時が基準となる
最高裁は,信託財産に属する預金債権に差押えがされた後,当該預金債権が受託者の固有財産に属するに至ったときは,信託法23条5項の異議は認められなくなるとした。
信託財産該当性の判断基準時を通常の民事訴訟と異なるものとする規定はないため,判断基準時は差押え時ではなく,事実審の口頭弁論終結時となる。
差押え時に信託財産であったという事実だけで,第三者異議が当然に認められるわけではない。
2 差押え後の事情も審理対象となる
差戻審では,信託契約が成立していたかに加え,その後に信託契約が終了したことなどにより,預金債権が信託財産でなくなっているかを審理する必要がある。
依頼者との合意に基づいて預り金を弁護士報酬へ充当した場合,弁護士が自己資金で依頼者へ返還した場合又は受任関係が終了した場合には,預金債権の帰属がどの時点で変わるかが問題となり得る。
帳簿上の振替又は口座からの払戻しだけでなく,その法的根拠及び合意内容を確認する必要がある。
第5 補足意見及び個別意見
1 秘密保持義務と主張立証
2名の裁判官による補足意見は,預り金について信託契約が成立し得ることを多数意見も否定していないと説明した。
他方,訴訟では,単に預り金であると主張するだけでなく,信託契約の成立要件を具体的に主張する必要があるとした。
補足意見は,弁護士の秘密保持義務にも配慮し,依頼者名や委任内容の詳細を必要以上に明らかにしなくても審理できる場合があると指摘している。
具体的には,証拠のマスキング又は仮名処理,委任内容を適切に抽象化した主張など,審理運営上の工夫を挙げている。
2 個別意見が示した信託成立の考え方
1名の裁判官による個別意見は,分別管理義務が信託成立のための重要な事情であっても,それだけで十分ではないとした。
預り金を特定目的以外に使用できないことを実効的に確保する仕組みについての合意があるかを重視している。
同意見は,弁護士職務基本規程及び日弁連の預り金規程が,目的外使用の禁止,専用口座,分別管理,入出金記録,依頼者への収支報告,弁護士会による照会・調査及び懲戒手続等を定めていることを取り上げた。
その上で,これらの規律を,弁護士による自由な処分及び利益享受を防ぐ実効確保の仕組みとして評価している。
もっとも,これは個別意見に示された法的評価であり,多数意見の判示そのものではない。
記事又は訴訟書面で引用するときは,多数意見,補足意見及び個別意見のいずれに属する記述であるかを明示する必要がある。
第6 預り金規程と法律事務所の実務
1 令和8年6月1日施行の改正規程
日本弁護士連合会「預り金等の取扱いに関する規程」は,令和7年6月13日に改正され,口座開設及び届出等に関する改正規定は令和8年6月1日から施行された。
同規程は,預り金の目的外使用を禁止し,預り金口座の開設,預り金であることを明確にした保管,入出金の年月日・金額・目的・使途の記録及び依頼者への収支報告を定めている。
一の事件又は一の依頼者について預り金総額が50万円以上となり,14営業日以上保管するときは,そのうち50万円以上の額を預り金口座で保管しなければならない。
2 日常管理で保存すべき事項
①委任契約書又は預り金に関する合意書に,金員の目的,支払先,払出条件,残余金の取扱い及び報告方法を記載する。
②事件又は依頼者ごとに補助簿を設け,口座全体の残高と各事件残高の合計を定期的に照合する。
③入出金ごとに,年月日,金額,目的,使途,承認又は根拠資料を記録する。
④弁護士報酬への充当は,報酬発生の根拠,依頼者との合意,請求額及び充当日を記録する。
⑤返還又は事件終了時には収支報告書を交付し,残高が0円となったことを確認する。
これらは預り金規程を遵守し,依頼者に説明するために必要な記録である。
同時に,預り金が信託財産であると主張する必要が生じた場合には,預託目的及び管理・処分に関する具体的合意を示す基礎資料となり得る。
3 口座名義だけに依存しない
口座名義に「預り金」等と表示していても,事件別残高又は払出目的が追跡できなければ,個々の依頼者との合意内容は明らかにならない。
反対に,一つの口座で複数事件の預り金を管理している場合でも,事件別補助簿及び原資料により各依頼者の残高を対応付けられるようにする必要がある。
法律事務所の退所又は分裂時の預り金,引継ぎ及び清算については,法律事務所の退所・分裂-事件・職員・預り金・清算の実務で説明している。
第7 差押えを受けた場合の対応
1 確認する事項
差押命令を受けた場合は,対象口座,差押債権の範囲,送達日,第三債務者の陳述及び執行事件の記録を確認する。
その上で,差押部分に対応する依頼者,預託目的,受任状況,事件別残高及び差押え後の入出金を時系列で整理する。
第三者異議の訴えその他の手段を検討するときは,信託契約の成立要件について誰が主張立証責任を負うか,事実審口頭弁論終結時までに信託が終了し又は財産の帰属が変わっていないかを確認する。
2 守秘義務に配慮した証拠提出
依頼者名,事件の詳細及び相手方情報を無限定に開示することは避ける。
他方,守秘義務があることだけを理由に信託目的の具体的主張を全くしなければ,本判決と同じ問題が生じる。
補足意見が示すように,依頼者名及び固有情報のマスキング,仮名処理,委任内容の抽象化,裁判所限りの取扱いの申入れ等を検討する。
どの範囲を開示するかは,立証対象,秘密の性質及び代替手段の有無に応じて個別に決める必要がある。
第8 本判決の射程と未確認事項
1 本判決が確定した事項
本判決から確認できるのは,本件の主張及び訴訟経過の下では信託目的についての合意の成立が具体的に主張されていなかったこと,並びに信託財産該当性の判断基準時が事実審口頭弁論終結時であることである。
本判決は,弁護士が管理する全ての預り金について信託契約の成立を否定したものではない。
また,日弁連規程を守れば全ての預り金が当然に信託財産になると判示したものでもない。
2 差戻審及び判例評釈
最高裁判決は,信託契約の成否及び差押部分が信託財産でなくなっているかについて更に審理させるため,東京高等裁判所へ差し戻した。
本記事作成時点では,差戻審の裁判内容及び確定状況を公開一次資料で確認していない。
判例秘書その他の認証付き判例データベースにおける差戻審,関連裁判例及び判例評釈の収録状況も本記事の確認範囲外である。
差戻審の結論を推測せず,確認できた最高裁判決の射程に限定して理解する必要がある。
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第10 出典
1 判決及び法令
①最高裁令和8年1月20日第三小法廷判決(令和5年(受)第2245号・第三者異議事件)
②e-Gov法令検索「信託法」