第1 この記事が答える問い
シベリア抑留は,ポツダム宣言第9項に違反するといえるのか。
違反であるとして,個人はどのような救済を得たのか。
結論を先に述べる。
日本政府は1997年以来,抑留が第9項に違反したと明言している。
しかし,本記事で扱う最高裁平成9年3月13日第一小法廷判決は,第9項を独立の法的根拠として判断していない。
政治的・歴史的評価としての「違反」と,個人の請求権という法的効果とは切り離されている。
第2 ソ連はポツダム宣言の当事国か
1 発出の主体ではない
ポツダム宣言は,1945年7月26日に米英中の3か国の名で発せられた。
ソ連は発出の主体ではない。
2 しかし宣戦布告文で「参加」を明言している
ソ連は同年8月8日の対日宣戦布告文の中で,「本年七月二十六日の連合国宣言に参加せり」と明言している。
この「参加」が第9項を含む宣言全体を対象とするのか,対日開戦の名分となる部分に限られるのかを明示的に論じたソ連側の一次資料は,確認した範囲では見当たらない。
もっとも,宣戦布告文にも降伏文書にも,条項を限定する留保は付されていない。
3 降伏文書も両者を書き分けている
1945年9月2日の降伏文書は,米英中を宣言を「発シ」た主体とし,ソ連を後に「参加シタル」主体として書き分けている。
第3 規模を示す数字は資料により幅がある
抑留者数・死亡者数は資料により幅がある。
①厚生労働省による現在の集計 約57万5,000人が抑留され,約5万5,000人が死亡したとする。
②1978年の『引揚げと援護三十年の歩み』 64万人が抑留され,死亡者を推計7万人とする。
③個人を特定できた死亡者数は,2024年2月時点でシベリア・モンゴル地域について4万942人である。
数字を引用する際は,集計の主体と時点を明示する。
第4 政府は「第9項違反」と明言してきた
1 1997年の政府答弁書
確認できた範囲で最も早い時期の例は,1997年11月28日の政府答弁書である。
同答弁書は,旧ソ連による当時の日本の軍人・軍属に対する不当な抑留がポツダム宣言第9項に違反したものであった旨を明言している。
2 2016年にも踏襲されている
この立場は,2016年10月6日の参議院予算委員会において,外務大臣によっても踏襲・再確認されている。
3 ただし法的効果までは主張していない
もっとも,政府は,この「違反」という評価から個人の損害賠償請求権や国の補償義務が直接生じるという法律構成までは主張していない。
1997年の答弁書自体が,第9項違反という評価と,捕虜としての国際法上の待遇を受ける権利の存否とを明確に切り分けて整理している。
第5 最高裁平成9年判決と第9項
1 平成9年判決の判断枠組み
シベリア抑留者による補償請求について,最高裁判所第一小法廷平成9年3月13日判決(平成5年(オ)第1751号,民集51巻3号1233頁)の全文を確認したところ,「ポツダム宣言」の語は一般的な経緯の説明として2か所に現れるのみで,「第九項」という条項の特定は一度も現れない。
同判決が請求を退けた法的根拠は,①陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約以来の捕虜の待遇に関する国際法の変遷,②日ソ共同宣言第6項の請求権放棄,③憲法上の補償の要否という枠組みであり,第9項を独立の法的根拠としていない。
なお,①は立法の不作為が裁量を逸脱したといえるかを論じる文脈で言及されるにとどまる。
慣習法については,同判決はむしろ,自国民捕虜補償の原則が世界の主要国における一般慣行となり法的確信によって支えられていたとはいえない,としてその成立を否定している。
「ハーグ陸戦条約以来の国際慣習法を根拠に請求を退けた」と要約すると,判決の向きが逆になる。
2 「武装解除セラレタル後」という要件
第9項は「完全ニ武装ヲ解除セラレタル後」の帰郷を定めている。
ロシア側は,抑留者を「抑留者」ではなく合法的な「捕虜」であったとする立場を採る。
また,抑留の開始の多くは,降伏文書の調印(1945年9月2日)より前の戦闘継続期間中であった。
そうすると,第9項の要件が満たされる時点そのものに争いの余地があるとも整理できる。
3 第9項に裁判規範性があるかを論じた文献は見当たらない
第9項が個人に直接の法的権利を生じさせる規範であるかどうかを正面から論じ,結論を示した学術文献は,確認した範囲では見当たらなかった。
第6 第9項を引用した裁判例
第9項を逐語又はほぼ逐語で引用する裁判例として,次のものがある。
①京都地方裁判所平成21年10月28日判決(平成19年(ワ)第3986号ほか。シベリア抑留に関する国家賠償請求。請求棄却)
②大阪高等裁判所平成12年2月23日判決(平成10年(行コ)第22号。恩給法9条1項3号の国籍要件が争われた別事件の控訴審。原審は京都地方裁判所)
①について一点補っておく。
同判決は「ポツダム宣言9条」と表記しており,本記事の「第9項」という表記とは異なる。引用するときは判決の表記のまま引く。
長沼ナイキ基地訴訟については,注意を要する。
札幌高等裁判所昭和51年8月5日判決(昭和48年(行コ)第2号,保安林解除処分取消請求控訴事件)の全文を確認したが,同高裁自身の理由の中にポツダム宣言への言及はない。
同高裁は,被控訴人らが当事者適格又は訴えの利益を欠くとして第一審判決を取り消し,訴えを却下した。
同高裁は,一審以来の経過にかんがみ,自衛隊の存在等が憲法9条に違反するか否かは統治行為に関する判断であって裁判所が判断すべきものではないとの判断も示しているが,その理由部分にもポツダム宣言への言及はない。
憲法9条の平和主義の淵源としてポツダム宣言第6項・第7項・第9項・第11項を通しで引用しているのは,同判決に別紙として併載された第一審判決(札幌地方裁判所昭和48年9月7日判決)の理由部分である。
「札幌高裁がポツダム宣言第9項を引用した」と書くと誤りになる。
条項番号の「第9項」と憲法「9条」の数字が一致するのは偶然であり,混同しないよう書き分ける必要がある。
第7 日ソ共同宣言と特別給付金
1956年12月12日に発効した日ソ共同宣言は,第5項で有罪判決を受けたすべての日本人の釈放・送還と消息不明者の調査を,第6項でソ連の対日賠償請求権の放棄と請求権の相互放棄を定めた。
後者の対象は,1945年8月9日以来の戦争の結果として生じた請求権である。
政府は,1997年11月28日付け答弁書の「二について」で,国家自身の請求権を除けば,この放棄は外交保護権の放棄であり,日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではないとの見解を示した。
ただし,個人がロシアに対する訴訟で賠償を得られることや,日本国が代わって補償する義務を負うことまで認めた答弁ではない。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b141009.htm
戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(平成22年法律第45号)は,1945年8月9日以来の戦争の結果,同年9月2日以後に旧ソ連又はモンゴルの地域で強制抑留され,本邦へ帰還した者のうち,施行日である2010年6月16日に日本国籍を有する者を特別給付金の対象とした(2条,3条1項)。
給付額は帰還時期に応じた一時金で,1948年末までが25万円,1949年から1950年までが35万円,1951年から1952年までが70万円,1953年から1954年までが110万円,1955年以降が150万円である(4条)。
請求期限は2012年3月31日であり,期限内に請求しなかった者には支給しないと定められている(3条3項・4項)。
新規請求の期限は既に経過しており,現在も新規に請求できる制度として紹介することはできない。
https://laws.e-gov.go.jp/law/422AC0100000045
日ソ共同宣言全体の内容,請求権放棄と二島引渡しの区別,最高裁平成9年判決の射程は,日ソ共同宣言とは――全10項の内容,二島引渡し・請求権放棄と現在の効力で整理している。
第8 出典・参考資料
1 条約・法令
①ポツダム宣言第9項(1945年7月26日)
②降伏文書(1945年9月2日)
③日ソ共同宣言(1956年12月12日発効)
④戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(平成22年法律第45号)
https://laws.e-gov.go.jp/law/422AC0100000045
2 裁判例
①最高裁判所第一小法廷平成9年3月13日判決(平成5年(オ)第1751号,民集51巻3号1233頁)
https://www.courts.go.jp/hanrei/52788/detail2/index.html
②京都地方裁判所平成21年10月28日判決(平成19年(ワ)第3986号ほか)
https://www.courts.go.jp/hanrei/38247/detail4/index.html
③大阪高等裁判所平成12年2月23日判決(平成10年(行コ)第22号)
https://www.courts.go.jp/hanrei/15907/detail5/index.html
④札幌高等裁判所昭和51年8月5日判決(昭和48年(行コ)第2号,長沼ナイキ基地訴訟控訴審)
https://www.courts.go.jp/hanrei/17841/detail5/index.html
※いずれも裁判所ウェブサイトの裁判例検索で実在・書誌・判示を確認した。
3 政府資料
①1997年11月28日付政府答弁書(答弁第9号)
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b141009.htm
②2016年10月6日参議院予算委員会会議録
③厚生労働省の公表資料