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配偶者のメタノール中毒と被害者が自ら飲んだ可能性―無罪の大津地裁令和8年9月3日判決と有罪の東京地裁・東京高裁判決(AI作成)

第1 本記事の対象と結論

1 本記事の対象

本記事は,配偶者がメタノール中毒になった事件で,被告人がメタノールを摂取させたのか,被害者が自らの意思で摂取したのかが争われた刑事裁判を,次の3件の判決から整理するものである。
①大津地裁令和8年9月3日判決(令和6年(わ)第429号・傷害被告事件)は,妻が夫にメタノールを摂取させて回復の見込みのない視力障害を負わせたとの公訴事実について,夫が自殺目的で自ら摂取した可能性を排斥できないとして,無罪を言い渡した。
②東京地裁令和6年10月30日判決(令和4年合(わ)第203号・殺人被告事件)は,夫が妻にメタノールを摂取させて殺害したと認定し,懲役16年を言い渡した。
③東京高裁令和8年7月1日判決(令和6年(う)第1875号・殺人被告事件)は,②の判決に対する被告人の控訴を棄却した。

3件とも裁判所ウェブサイトに判決全文が掲載されており,本記事の判決の内容は,令和8年9月28日に取得した判決全文によっている。
判例秘書には,同日の時点で①の判決は収録されていなかった。
②の判決は判例番号 L07931002,③の判決は判例番号 L08120200として判例秘書に収録されており,いずれも掲載誌の欄は判例秘書の登載だけである。
法令は,同日現在の条文をe-Gov法令検索で確認した。

2 結論

①どちらの事件でも,事故や第三者による摂取の可能性は否定され,被告人が摂取させたか,被害者が自ら摂取したかの二択に絞られた。
②大津地裁の事件では,被害者本人が,被告人の言動に追い詰められて自殺を考え,インターネットで自殺の方法を検索していたと公判で述べていた。
判決は,被害者が自殺目的でメタノールを摂取した可能性を「ある程度具体的に想定できる可能性」とし,被告人が摂取させた可能性は相応に高いとしながら,無罪とした。
③東京の事件では,被害者の検索履歴,購入履歴,通院歴及び周囲への言動を捜査しても,自殺をうかがわせる事情が一切見当たらなかった。
加えて,被告人が被害者の中毒症状の最中に焼酎の紙パックを撮影し,別の焼酎を買い,画像を削除し,翌朝まで119番通報をしなかったことが,被告人が犯人でないとすれば合理的に説明できない事実とされた。
④結論を分けたのは,被害者が自ら摂取したという反対仮説を支える具体的な証拠があったかと,被告人が犯人でなければ説明が困難な事実があったかである。

第2 間接事実による犯人性の認定の枠組み

1 合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証

最高裁平成19年10月16日第一小法廷決定(平成19年(あ)第398号・刑集61巻7号677頁)は,有罪の認定には合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要であるとした上で,その意味を次のように述べている。
「抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である。」
同決定は,このことは直接証拠によって事実認定をすべき場合と情況証拠によって事実認定をすべき場合とで異ならないとしている。

2 犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係

最高裁平成22年4月27日第三小法廷判決(平成19年(あ)第80号・刑集64巻3号233頁)は,直接証拠がない事件について,次のように述べた。
「情況証拠によって認められる間接事実中に,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要するものというべきである。」
同判決は,第1審判決及び原判決を破棄して事件を大阪地裁に差し戻した。
差戻し後の大阪地裁平成24年3月15日判決(平成22年(わ)第2160号・判例時報2360号122頁)は,間接事実の中に被告人が犯人でないとすれば合理的に説明できない事実関係が存在するというには疑問が残るとして無罪を言い渡し,大阪高裁平成29年3月2日判決(平成24年(う)第794号・判例タイムズ1445号150頁,判例時報2360号95頁)は,検察官の控訴を棄却した。
同判決には,この概念を間接事実による認定の要件とすることを批判する反対意見と,これに反論する補足意見が付されている。

3 本記事の3件の判決の位置付け

大津地裁の判決は,最高裁の2つの判例を引用していないが,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない,あるいは少なくともその説明が極めて困難であるというほどの事情はない,という言い回しで結論を述べている。
東京地裁の判決も,被告人の一連の行動について,被告人がメタノールを摂取させたのでないとすれば合理的に説明できないかという観点から検討している。
どちらの判決も,平成22年判決の枠組みに沿って間接事実の推認力を検討したものと理解できる。

第3 大津地裁令和8年9月3日判決(無罪)

1 事案の概要

公訴事実は,被告人が,令和5年9月21日頃から同月23日頃までの間に,自宅で夫にメタノールを経口摂取させ,回復の見込みのない視力障害を負わせたというものである。
求刑は懲役9年であり,判決をしたのは徳井隆一裁判官(単独体)である。

夫がメタノールを経口摂取したことと,それが誤飲等ではなく意図的な行為によるものであることは認定された。
判決は,この意図的な行為には夫が自らの意思で摂取した場合も含むとしており,争点は,被告人が摂取させたのか,夫が自ら摂取したのかであった。

検察官は,①夫がその期間に口にしたメタノールを含む可能性のある飲食物は,いずれも被告人が提供したものである,②夫が自らの意思で摂取した事実はない,③被告人が犯行前に燃料用アルコールを購入していた,④夫の携帯電話機から被告人の携帯電話機に,被告人を故人アカウント管理連絡先に追加した旨のメッセージが送られていた,と主張した。
加えて,検察官は,被告人の捜査段階の供述の一部を自白と捉えていた。

2 被告人が摂取させることができたという事情の推認力

判決は,被告人が食事の際に飲食物にメタノールを混ぜることができ,第三者が意図的に摂取させた合理的な疑いもないことは,被告人の犯人性を相応に強く推認させる事情であるとした。
しかし,夫が食事以外の場面で被告人から提供されたものではない飲食物を口にする機会があったことは否定できないとし,次のように述べた。
「①の事情は、あくまでもAが自らの意思でメタノールを経口摂取する場合を除けばという条件の限度で認められるにすぎず」
そのため,夫が自ら摂取する可能性を排斥できるかどうかが,推認力の強さを左右することになった。

3 被害者が自殺目的で摂取した可能性

(1) 自殺を実行に移す可能性

夫は,公判で,被告人から長文の非難のメッセージを受け,素足で歩くことや自宅で大便をすることを禁じられるなどして精神的に不安定になり,自殺を考えるようになって,溺死,首つり,青酸カリによる服毒等の方法をインターネットで検索したと述べた。
判決は,夫が述べる被告人の言動を全てそのまま認定することはできないとしつつ,夫が最終的には自殺を考える心情に至るほど夫を追い詰める被告人の言動等が存在したという限度では信用できるとした。

夫が出勤したり,家族と出掛けたりしていたことについては,追い込まれた心理状態にあっても一見正常に見える行動を取ることはあり得ないとはいい難いとした。
かえって,被告人が犯人であれば,メタノールを摂取させた夫の運転する自動車に同乗して出掛けたことになり,その行動は不自然との見方も可能であるとした。

(2) 方法としてのメタノール

判決は,メタノールの経口摂取が自殺の方法として真っ先に思い浮かぶものでないことは明らかであるとしつつ,およそ思い浮かべることが想定できないほど特異な方法ではなく,職場で薬品を扱うこともあった夫が薬品の摂取を思い浮かべるのはある意味で自然なこととした。
夫はメタノールを検索したことはないと述べたが,判決は,この供述がインターネットの検索履歴等の証拠で裏付けられていないと指摘した。
夫がメタノールを購入した事実が捜査で判明していないことについても,次のように述べて,おかしなことではないとした。
「実店舗でポイントカード等を使用せずに現金払いで購入した場合には、事後的に購入の事実をたどることは困難であり」

(3) 被害者が虚偽の供述をする動機

判決は,夫が自殺を図って失敗し,失明という重い後遺障害だけが残った場合には,原因となった被告人への恨み等から責任をなすりつけるために虚偽の供述をすることは十分に考えられるとした。
検察官は,責任をなすりつけるのであれば,遺書を残すなどの簡便な方法があり,症状を被告人に伝えたことや通知メッセージを送ったことも不自然であると主張した。
これに対し,判決は,検察官の主張はいずれも夫が当初から責任をなすりつけるために行動していたことを前提にしているとし,当初は自殺を試みたが失敗し,重い後遺障害が残ったことで事後的に恨みを抱いたという経過も想定できるとして,採用しなかった。
この経過は,夫が当初の事情聴取で被告人から飲まされた可能性を述べていなかったこととも矛盾しないとされた。

(4) 結論

判決は,夫が自殺目的で摂取した可能性が高いとは認められないとしつつ,次のように述べた。
「こうした可能性は単に抽象的な可能性としてではなく、ある程度具体的に想定できる可能性ということができ」
その上で,この可能性を排斥できる証拠もないとして,夫が自らの意思で摂取していない事実を認定できないとした。

4 その他の間接事実

燃料用アルコールの購入については,被告人が本件期間頃まで所持していたことや,夫が摂取したメタノールがその燃料用アルコールに含まれていたものであることを認めるに足りる証拠がないとし,犯人性と矛盾はしないが積極的に推認させる力はないとした。
被告人の購入の経緯に関する供述の変遷も,購入から半年以上後の取調べで記憶が曖昧になったとみることができるとした。

故人アカウント管理連絡先の通知メッセージについては,次のように述べた上で,夫と被告人のどちらが設定したかを特定できないとした。
「本件メッセージを送信するためには、基本的にはAの携帯電話機を使用して必要な設定等を行う必要があるところ」
判決は,夫が自殺を考えた場合,データにアクセスできる権利を被告人に与えることが残される長女にとって有用だと考えて設定することもあり得るとし,このメッセージはむしろ自殺目的の摂取と整合的な事情であるとした。

夫婦関係の悪化は,犯行の動機となり得るものがなかったわけではないが,当然に摂取させるはずだといえるほどの動機があったとはいえないとされた。
夫が被告人の出す飲み物の味に違和感を覚えたとの供述も,時期が本件期間中か判然とせず,違和感の原因がメタノールかも不明であるとされた。

5 捜査段階の供述

令和6年2月21日付けの警察官調書には,アルコールを酒に混ぜて夫に飲ませ,後にその成分にメタノールが含まれていたことを確認したとの供述が記載されていた。
しかし,翌日の弁解録取書では,購入したのはエタノールであると述べられており,被告人は,取調官にもエタノールと話したと公判で述べた。
判決は,警察官調書にエタノールへの言及が一切ないことについて,次のように述べた。
「被告人の意図と異なる内容が記載されていることをうかがわせる事情といえ」
さらに,「1週間ほど前」という供述の時期には幅があり,本件期間より前の別の体調不良の時期を含み得るとして,本件期間中の犯行を自白したものとみることが間違いないとはいえないとした。

6 判決の確定

京都新聞の報道によれば,被告人は令和6年2月に殺人未遂の容疑で逮捕された後,処分保留で釈放され,同年10月に傷害罪で在宅起訴された(京都新聞令和7年2月5日配信)。
また,同紙によれば,大津地検は控訴せず,無罪が確定した(京都新聞令和8年9月17日配信)。

第4 東京地裁令和6年10月30日判決・東京高裁令和8年7月1日判決(有罪)

1 事案の概要

製薬会社で研究員としてメタノールを日常的に扱っていた被告人が,令和4年1月,家庭内別居の状態にあった妻にメタノールを摂取させて殺害したとして起訴された事件である。
妻は同月15日朝から嘔吐し,水風呂に入る,寝室で立って放尿する,ベッドから転落するなどの異常な行動を繰り返し,翌16日朝に心肺停止の状態で発見されて死亡した。
当初は事件性がないとされたが,行政解剖で採取された血液等から致死濃度のメタノールとギ酸が検出された。
東京地裁は,求刑懲役18年に対し,懲役16年を言い渡した。
審理を担当した裁判長は,東京地裁が坂田威一郎裁判官,東京高裁が吉崎佳弥裁判官である。

2 被告人が犯人でないとすれば説明が困難とされた事実

東京地裁は,①被告人が妻の中毒症状の最中に,妻が愛飲していた焼酎の紙パックを撮影したこと,②その画像に,メタノールの付着で生じた可能性が相当程度高い白濁痕が写っていたこと,③被告人が普段は買わない別の銘柄の焼酎を直後に購入し,画像を後に削除したこと,④妻の異常な行動を認識しながら翌朝まで119番通報も医療機関への相談もしなかったこと,を重視した。
その上で,次のように述べた。
「被告人が被害者にメタノールを摂取させたのではないのに、これらの事実が偶然に重なり合うことは常識的には考えられず、合理的に説明することができないから、被告人が被害者にメタノールを摂取させたものと強く推認することができる。」

被告人が仕事でメタノールを扱っていたことは,燃料用アルコールがドラッグストア等で購入できることからすると,積極的に裏付ける事情とはいえないとされた。
被告人の動機と考えて不自然でない事情があることも,積極的に推認させる事情とまではいえず,整合する事情にとどまるとされた。

3 自殺の可能性を否定した理由

(1) 捜査で確かめた範囲

東京地裁は,妻が摂取直前まで歯科の次回予約,勤務先への論文購入の依頼,食料品の買物,子の学習書の注文をしており,仕事や育児を継続することを前提とした行動をとっていたとした。
また,捜査の結果,①クレジットカードの購入履歴にメタノールを含む商品がなかったこと,②自宅から半径約2キロメートルのドラッグストア・ホームセンター18店舗で妻が購入した可能性が認められなかったこと,③精神科への通院歴や自殺未遂,自傷行為の事情が判明しなかったこと,④検索履歴に自殺を考えていたことをうかがわせるものがなく,知人へのメッセージにも見当たらなかったこと,を認定した。
その上で,次のように述べた。
「被害者の日常生活の分析を踏まえて種々の捜査が行われたにもかかわらず、自殺や自傷行為につながるような事情が一切発見されていないことは、被害者のメタノール摂取による自殺ないし自傷行為の可能性が乏しいことを強く示す事情であるといえる。」

(2) 弁護人の主張への判断

弁護人は,精神科医の証言を基に,被告人との不仲等のリスク因子を持つ妻が衝動的に自殺した可能性を主張した。
東京地裁は,この証言は一般的,抽象的な可能性を述べたものにとどまり,衝動的に自殺や自傷行為に及んだ具体的可能性を示すものではないとした。
さらに,衝動的な自殺でメタノールを用意して摂取する方法は通常考えにくいこと,摂取した容器が見つかっておらず,衝動的な自殺であれば妻が容器を処分することは考えにくいこと,被告人を陥れるためであれば被告人の犯行を示す痕跡を残す必要があるがそれも見当たらないことを挙げ,自ら摂取した合理的な可能性はないとした。

4 控訴審の判断

東京高裁は,次のように述べて,事実誤認の論旨を退けた。
「原判決の前記判断は概ね相当であり、論理則、経験則等に照らして不合理な点はなく、原判決に事実の誤認はない。」
東京高裁は平成24年の最高裁判決を引用していないが,この説示は,控訴審における事実誤認の審査は第1審判決が行った証拠の信用性評価や証拠の総合判断が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかという観点から行うべきであるとした最高裁平成24年2月13日第一小法廷判決(平成23年(あ)第757号・刑集66巻4号482頁)の枠組みに沿ったものと理解できる。

弁護人は,捜査機関が現場保全を十分にしなかった不利益を被告人に転嫁することは許されないとも主張したが,東京高裁は,捜査が及ばなかった範囲がある点は原判決も考慮済みであるとした。
その上で,東京高裁は,前記3で述べた捜査で自殺をうかがわせる事情が出てこなかったことと,妻が仕事や育児を継続することを前提とした行動をとっていたことから,妻が以前から自殺を考えていた可能性は低いとした。
また,突発的に自殺を思い立ってメタノールを用いる方法を選ぶことは,発想として特異であり,入手の準備も要するとして,自殺の可能性は著しく低いとした。

弁護人は,被害者の電子機器のデータが記録された媒体について類型証拠開示の請求をしたのに開示されないまま判決がされたことを,訴訟手続の法令違反としても主張していた。
東京高裁は,次のように述べて,この主張を退けた。
「前記②の論旨は、要するに原審段階で検察官から論旨指摘の証拠が開示されなかったことを論難するものにすぎず、このことをもって原裁判所による訴訟手続に法令違反があったといえないのは明らかであって、失当である。」
令和8年9月28日の時点で,裁判所ウェブサイトにはこの判決に対する最高裁判所の裁判は掲載されておらず,控訴審判決を伝えた報道にも上告についての記載は見当たらなかったため,上告の有無は確認できていない。

第5 結論が分かれた理由

1 反対仮説を支える証拠の有無

大津地裁の事件では,被害者本人が,自殺を考え,その方法を検索していたと公判で述べた。
反対仮説である自殺目的の摂取は,被告人側の推測ではなく,被害者自身の供述によって具体的な可能性となった。
これに対し,東京の事件では,弁護人の主張は,精神科医の証言に基づくものを含め,一般的,抽象的な可能性を述べたものにとどまるか,具体的事情を欠く推測にすぎないとされ,妻の自殺をうかがわせる具体的な事情は捜査でも見つからなかった。

2 反対仮説を潰す捜査の有無

東京の事件では,購入履歴,近隣店舗,通院歴,検索履歴及びメッセージまで捜査し,その結果が判決に書かれている。
大津地裁の事件では,被害者がメタノールの摂取を考えたことも検索したこともないと述べた点が,検索履歴等で裏付けられていないと判決に指摘された。
自ら摂取した可能性を否定する側は,その可能性を否定する事実を証拠で示す必要がある。

3 被告人が犯人でなければ説明が困難な事実の有無

東京の事件では,中毒症状の最中の撮影,別の焼酎の購入,画像の削除及び119番通報をしなかったことという,被告人自身の特異な行動があった。
大津地裁の事件では,燃料用アルコールの購入,通知メッセージ,夫婦関係の悪化及び飲み物の違和感は,いずれも推認力がないか,積極的に推認させるほどの力がないとされ,自殺目的で摂取したとしても説明できる事情であるとされた。

4 被害者が生存しているか

大津地裁の事件では,被害者が生存して公判で証言したため,その供述の信用性と虚偽供述の動機が正面から検討された。
被害者の供述が被告人の不利にも有利にも働いたことになる。
東京の事件では被害者が死亡しており,その内心は,死亡直前の行動と捜査で得られた客観的な記録から推認された。

第6 実務上の留意点

1 弁護人が反対仮説を示すとき

大津地裁の判決は,自殺目的の摂取の可能性を,単に抽象的な可能性ではなく「ある程度具体的に想定できる可能性」と評価して排斥できないとし,東京地裁の判決は,一般的,抽象的な可能性にとどまる主張を退けた。
被害者の自殺や自傷の可能性を主張するときは,一般的なリスク因子を並べるだけでなく,被害者の供述,検索履歴,購入の可能性,メッセージ等,その具体的な可能性を支える証拠を示す必要がある。

東京高裁の判決は,被害者の電子機器のデータが開示されなかったことを,原裁判所の訴訟手続の法令違反とは認めなかった。
刑事訴訟法316条の26第1項は,検察官が同法316条の15第1項の規定による開示をすべき証拠を開示していないと認めるときは,裁判所は,相手方の請求により,決定で当該証拠の開示を命じなければならないと定めている。
被害者の端末のデータが反対仮説の立証に必要であれば,第1審の段階でこの裁定の請求まで尽くしておく必要があると考えられる。

2 被害者側が準備しておくこと

被害者側や告訴を代理する側から見ると,東京の事件の捜査は,自ら摂取した可能性を否定するために何を確かめるべきかを示している。
検索履歴,購入履歴,近隣店舗での購入の有無,通院歴,周囲への言動,事件直前の予定や行動を確かめ,当初の事情聴取でどのように説明していたかも記録しておくことになる。

3 捜査段階の供述調書

大津地裁の判決は,令和6年2月21日付けの警察官調書にエタノールへの言及が一切ない一方で,翌日の弁解録取書ではエタノールを購入したと述べられ,その供述にはエタノールの購入履歴という一定の裏付けもあることなどから,調書が被告人の真意を反映したものか疑問があるとした。
調書の信用性を争うときは,近接した時期の弁解録取書等との食い違い,それを裏付ける客観的な記録,供述の時期と公訴事実の期間とのずれを並べて示すことが考えられる。

4 燃料用アルコールと購入記録

毒物及び劇物取締法2条2項は,別表第二に掲げる物であって医薬品及び医薬部外品以外のものを「劇物」と定義し,別表第二の第83号に「メタノール」を掲げている。
同法14条2項は,毒物劇物営業者が劇物を毒物劇物営業者以外の者に販売するときは,譲受人から,名称及び数量,販売の年月日並びに譲受人の氏名,職業及び住所を記載した書面の提出を受けなければならないと定め,同条3項は,書面に代えて電子情報処理組織を使用する方法等による提供を受けることを認め,同条4項は,その書面等を5年間保存しなければならないと定めている。
もっとも,令和8年9月28日現在の毒物及び劇物指定令には,メタノールを含有する製剤を劇物に指定する規定は見当たらない。
そのため,メタノールとエタノールの混合物である燃料用アルコールの購入については,この書面の制度による記録は残らないと考えられ,大津地裁の判決が述べるように,実店舗でポイントカード等を使わずに現金で購入すれば,事後的にたどることが困難になる。

5 故人アカウント管理連絡先の通知

大津地裁の判決は,故人アカウント管理連絡先の設定には基本的に本人の携帯電話機が必要であるとしながら,本人と被告人のどちらが設定したかは特定できないとした。
Appleの「Apple Accountの故人アカウント管理連絡先を追加する方法」によれば,追加は本人のiPhone,iPad又はMacの設定から行い,追加されると本人に確認メールが届く。
設定の操作をした者が争点になるときは,端末の解析のほか,確認メールの受信の有無と日時を早い段階で確かめることが考えられる。
故人アカウント管理連絡先の相続手続での扱いは,Appleアカウントの相続手続―故人アカウント管理連絡先,iCloudデータ及び端末の扱いで整理している。

6 無罪が確定した後の補償

刑事補償法1条1項は,無罪の裁判を受けた者が未決の抑留又は拘禁を受けた場合に,国に対して補償を請求することができると定め,同法4条1項は,その日数に応じて「一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する。」と定めている。
請求は,同法7条により,無罪の裁判が確定した日から3年以内にしなければならない。
また,裁判に要した費用の補償の請求は,刑事訴訟法188条の3第2項により,無罪の判決が確定した後6か月以内にしなければならない。
大津地裁の事件のように,逮捕後に処分保留で釈放され,在宅で起訴された事件でも,起訴前の身体拘束の期間と,その被疑事実と無罪となった事実との関係を確かめることになる。
詳しくは,刑事事件の費用補償と刑事補償-請求期間,補償額及び令和8年再審制度改正で整理している。

7 メタノールの血中濃度に関する医学的知見

大津地裁の判決は,前提事実として,メタノールの血中濃度が0.20mg/mL以上になると失明と関連するといわれ,0.40mg/mL以上が致死濃度と考えられているとした上で,夫のピーク時の血中濃度は致死濃度を超えていたとして,誤って摂取した可能性は極めて低いとした。
もっとも,どの程度の濃度で失明や死亡につながるかは,資料によって示し方が異なる。
日本中毒学会の「分析委員会だより その12 メタノール」は,血中メタノール濃度が200μg/mL(0.20mg/mL)以上であれば有毒性,400μg/mL(0.40mg/mL)以上であれば非常に重篤とされるとしており,大津地裁の判決の数値はこの系統の資料と数字が一致する。
これに対し,国際機関(世界保健機関の国際化学物質安全性計画)の資料では,眼症状は500mg/L(0.50mg/mL)を超えると現れ,治療を受けなかった患者の死亡例は1,500mg/Lから2,000mg/L(1.5mg/mLから2.0mg/mL)の範囲とされている。

医学的知見に照らせば,メタノールは体内で時間の経過とともにギ酸に変わるため,摂取から時間がたってから採取した血液ではメタノールの濃度が低く出ることがあり,重症度はメタノールの濃度よりもギ酸の蓄積と代謝性アシドーシスの程度をよく反映するとされている。
症状が出るまでの時間も,エタノールを一緒に摂取したかどうか等によって大きく変わる。
鑑定人や医師の証人が示す濃度や時間については,どの資料のどの意味の数値(治療開始の目安,重症度の目安又は未治療の死亡例)に基づくのか,採血の時期と摂取の推定時期の間隔,治療やエタノールの併用の有無をどう考慮したのかを確かめることが,事実認定を検討する上で重要になると考えられる。

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第8 出典・参考資料

1 裁判例

①大津地方裁判所令和8年9月3日判決(令和6年(わ)第429号,裁判所ウェブサイト)
②東京地方裁判所令和6年10月30日判決(令和4年合(わ)第203号,裁判所ウェブサイト)
③東京高等裁判所令和8年7月1日判決(令和6年(う)第1875号,裁判所ウェブサイト)
④最高裁判所第一小法廷平成19年10月16日決定(平成19年(あ)第398号,刑集61巻7号677頁,裁判所ウェブサイト)
⑤最高裁判所第三小法廷平成22年4月27日判決(平成19年(あ)第80号,刑集64巻3号233頁,裁判所ウェブサイト)
⑥最高裁判所第一小法廷平成24年2月13日判決(平成23年(あ)第757号,刑集66巻4号482頁,裁判所ウェブサイト)
⑦大阪地方裁判所平成24年3月15日判決(平成22年(わ)第2160号,判例時報2360号122頁,裁判所ウェブサイト)
⑧大阪高等裁判所平成29年3月2日判決(平成24年(う)第794号,判例タイムズ1445号150頁,判例時報2360号95頁,裁判所ウェブサイト)

2 法令

①刑事訴訟法(e-Gov法令検索)188条の3,316条の15,316条の26,336条,382条
②刑事補償法(e-Gov法令検索)1条,4条,7条
③毒物及び劇物取締法(e-Gov法令検索)2条,14条,別表第二
④毒物及び劇物指定令(e-Gov法令検索)

3 報道及びApple公式資料

①京都新聞「夫にメタノールを飲ませ視力障害「そのような事実はない」 初公判で起訴内容を否認」
②京都新聞「メタノールを夫に飲ませ、傷害罪に問われた妻 「無罪」が確定 大津地検「控訴」せず」
③Apple「Apple Accountの故人アカウント管理連絡先を追加する方法」(令和8年9月23日公開)

4 医学資料

①日本中毒学会「分析委員会だより その12 メタノール」
②世界保健機関・国際化学物質安全性計画「Environmental Health Criteria 196: Methanol」
③世界保健機関・国際化学物質安全性計画「Poisons Information Monograph 335: Methanol」

5 調査範囲

3件の判決は,令和8年9月28日に,裁判所ウェブサイトの裁判例検索で全文の語「メタノール」により検索して得た判決全文を読んだものである。
同日,判例秘書で裁判日付を令和8年9月3日として検索したが,大津地裁の判決は収録されていなかった。
東京の事件の上告の有無,大津地裁の事件の被告人の身体拘束の期間は確認していない。
同日,裁判所ウェブサイトで「メタノール」及び「メチルアルコール」により検索したところ,本記事の3件のほかにメタノールの摂取が事案の中心となっている裁判例は,昭和22年から昭和28年までの有毒飲食物等取締令違反等の事件(主に最高裁判所の判決・決定)であり,配偶者間の事件は見当たらなかった。
大阪地裁平成24年3月15日判決及び大阪高裁平成29年3月2日判決の掲載誌は,判例秘書の掲載誌の欄によった。
燃料用アルコールが劇物に当たらないとの記載は,毒物及び劇物指定令の全文にメタノールを含有する製剤の規定がないことを確認したものであり,個別の製品の表示は確認していない。