第1 共通する基盤が止まっても続けるべき業務
クラウドに事件台帳,資料,メール及びバックアップを置いていると,端末が無事でも,クラウド又は共通する認証が止まるだけで必要な情報を参照できなくなる。
銀行や決済サービスが使えなければ,預り金の送金や手数料の納付にも影響する。
法律事務所のBCP(業務継続計画)では,まず期限を確認し,依頼者と連絡し,預り金の記録を守るための最小限の業務を定める。
その上で,障害中の代替手段,担当者及び復旧後の照合を決めておく。
本記事は,小規模な法律事務所が平時に作れる計画と訓練を扱う。
個別の会規や裁判所資料を示した部分を除き,具体的な準備と優先順位は運用上の提案である。
基準日は令和8年10月13日である。
1 事業者の復旧と事務所の業務再開を分ける
事業者の「復旧しました」という通知があっても,未受信の連絡,提出の成否,入出金及び資料の版が照合できたとは限らない。
システムが使えることと,個々の事件を安全に進められることを分けて確認する。
中小企業庁のBCP策定運用指針も,中核となる業務,目標復旧時間,事前対策,教育・訓練及び更新を一連の計画としている。
法律事務所では,これを事件の期限と依頼者への影響に置き換えて考える。
2 障害の原因を決め付けず機能を確認する
クラウド障害,事務所の回線障害,アカウントの異常,端末感染及び決済障害は,最初の対応が異なる。
公式の障害情報と,手元で確認できた症状を別々に記録する。
単なる事業者障害と考えて感染端末を使い続けたり,逆に感染の証拠を確認せず端末を一律に初期化したりしない。
侵害の疑いがある場合の隔離と証拠保全は,法律事務所のサイバー事故初動チェックリストで扱う。
第2 平時に共通依存先を洗い出す
1 サービスの数より,同時に失う機能を調べる
別々のサービスでも,同じ認証,通信回線,端末,又は一つの管理者アカウントに依存していることがある。
バックアップも,同じ管理画面からしか取り出せないのであれば,その画面の停止に対する代替にならない。
次の表を事務所の実際の契約と権限に合わせて埋める。
代替サービスの契約数を増やすだけでなく,共通基盤が使えない条件で代替経路を試す。
| 続ける業務 | 確認する共通依存先 | 障害中に確かめる代替経路 |
|---|---|---|
| 期限と事件の把握 | 台帳,カレンダー,認証,担当者 | 最新の期限一覧と事件係属部の連絡先を権限者が読めるか |
| 依頼者への連絡 | メール,電話,連絡先台帳 | 事前に確認した別の連絡手段で本人に連絡できるか |
| 必要な資料の利用 | 保存先,同期,暗号鍵,閲覧ソフト | 最終版の資料を停止した基盤に接続せず読めるか |
| 預り金の管理 | 銀行,取引承認,記帳・会計サービス | 取引記録を確認し,正規の銀行窓口へ問い合わせられるか |
| 電子提出と納付 | mints,回線,端末,納付サービス | 公式障害案内を確認し,担当裁判所へ相談できるか |
2 契約と運用の担当を決める
IPAのクラウドサービス安全利用の手引は,サービス水準と責任分担,利用者によるバックアップ,更新及びサポートを確認するよう整理している(2・3・5~7頁)。
障害の通知先,データを取り出せる形式,支援窓口,保守時間及び契約終了時の取扱いを確認する。
事業者が何を復旧するかと,事務所が何を照合するかを決め,担当者が不在の場合の判断者も指定する。
第3 障害中にも使える最小限の記録を準備する
1 期限,連絡,必要な資料及び預り金の記録
継続用の記録には,事件識別番号,直近の期限とその根拠,担当者,裁判所・相手方・依頼者の確認済み連絡先,直近の提出資料の版及び受付記録,必要な預り金の台帳を含める。
事件の内容に応じて,取り出せなければ困る原資料も選ぶ。
更新日時を付け,日常の変更を誰が反映するかを決める。
古い期限表を非常用として置くだけでは足りない。
提出済みと作成中の資料,確定した入出金と未確認の取引も区別する。
2 秘密を増やし過ぎず,権限者が取り出せるようにする
弁護士職務基本規程23条の守秘の要請は,障害時の複製にも関係する。
必要な情報を絞り,閲覧できる者,暗号化,保管場所,更新及び廃棄を定める。
個人端末への全事件資料の無制限な複製を非常用の準備として扱わない。
暗号化した資料は,通常のクラウド認証が使えない状態でも,権限者だけが鍵を取り出して復号できるかを試す。
鍵とデータを一緒に誰でも持ち出せる状態にせず,取出しと廃棄の記録も残す。
共同担当者への引継ぎは,委任の範囲とアクセス権限を確認する。
第4 障害当日は期限と連絡を先に整理する
1 事実と判断を分けて記録する
発覚日時,使えない機能,最後に正常に使えた時刻,公式通知のURLと確認時刻,既に行った操作及び結果を記録する。
原因,復旧見込み及び被害範囲が分からない場合は,分からないまま記録し,確認担当と次の確認時刻を決める。
責任者は,直近の法定期限・裁判所の期限,依頼者の意思確認,支払・返還の期限を一覧にし,期限と影響の大きさから対応順を決める。
障害が長引いた場合の他の弁護士や外部支援への相談条件も決める。
2 依頼者には影響と連絡手段を伝える
弁護士職務基本規程36条は,必要に応じた事件の経過等の報告と協議を求めている。
障害の影響が事件処理に及ぶ場合は,確認できた範囲,使えない連絡手段,当面の対応及び次の連絡予定を伝える。
連絡手段を切り替える際も,相手の本人確認を行い,事件の秘密を必要以上に伝えない。
障害に便乗した振込先変更の依頼等は,既知の連絡先で確認する。
技術的な原因や復旧予定を裏付けなく断定しない。
第5 電子提出と預り金取引は成否を確認して切り替える
1 mintsの公式案内と手続段階を確認する
裁判所の民事裁判手続のデジタル化のページには,システムの稼働状況が案内される。
民事訴訟フェーズ3に向けた準備の手引(令和8年10月2日版,46・47頁)は,mints障害時に公式情報を確認し,期日等がある場合に事件係属部へ連絡すること,手続段階に応じた対応を示している。
裁判所側のシステム障害では,電子申立て等義務の例外として書面による申立て等が可能となる扱いがある。
必要な副本,手数料及び提出先は手続ごとに確認する。
期日や判決言渡しが当然に中止されるわけでもない。
事務所だけの回線・認証障害を,裁判所側のシステム障害と同じ例外事由だと決め付けない。
適用される新旧法,期限の種類,利用できる正規の提出方法を確認し,必要なら期限前に裁判所へ相談する。
障害だけで期限が延びるとの前提を置かない。
送信ボタンを押した後に応答が止まった場合は,事件番号,受付日時,提出資料及び提出先の記録を照合する。
成否不明のまま同じ操作を繰り返さず,復旧後にも確認する。
システム送達と期限管理は,mintsのシステム送達と期限管理を参照されたい。
2 預り金を維持し,送金の再実行前に取引を照合する
弁護士職務基本規程38条は,預り金の分別保管と状況の記録を求める。
預り金等の取扱いに関する規程2条は目的外の流用を禁止し,4条は分別保管,7条は入出金の年月日・金額と目的・使途の記録,8条は所定の場合の収支報告を定めている。
銀行や会計サービスが停止しても,預り金を事務所の運転資金へ流用する理由にはならない。
代替取引を検討する場合も,正規の銀行窓口と契約条件を確認し,依頼者の指示,分別管理及び取引権限を維持する。
送金操作の後に画面が止まった場合は,口座,金額,依頼日時,取引番号,承認状況及び銀行側の記録を確認する。
未確認の取引は台帳で区別し,重複送金を避けるため,再実行の前に銀行へ成否を問い合わせる。
窓口や別の決済経路も,同じ障害で使えない場合がある。
第6 復旧目標を決め,実際に取り出す訓練をする
1 復旧にかけられる時間と,補完すべき欠落を分ける
業務ごとに,いつまでにどの機能を再開する必要があるかを定める。
同時に,最後のバックアップから障害発生までの変更をどこまで再入力・照合して補えるかを確認する。
復旧の速さとデータの新しさは別の問題である。
期限,未提出の最終版資料,預り金取引などは,欠落したまま進めることができない場合がある。
復旧目標は法定期限を置き換えるものではなく,一律の法定時間でもない。
事件の状況から目標を決め,必要な余裕を残す。
| 訓練票の項目 | 記録する内容 |
|---|---|
| 対象と想定 | 対象業務,使えないクラウド・認証・決済,訓練の開始日時 |
| 目標 | 必要な再開時刻と機能,補完が必要となるデータ変更の範囲 |
| 担当 | 判断者,取出し担当,代替担当及び照合担当 |
| 取出しと閲覧 | 通常の認証なしで開けた資料,資料の版,取出しと閲覧までの実測時間 |
| 成否の照合 | 提出・送金・連絡について,実行済みと未確認を区別できたか |
| 改善 | 目標とのずれ,原因,修正担当,期限及び再試験結果 |
2 模擬資料で始め,権限と読み戻しも試す
通常のクラウド認証が使えないという想定で,まず模擬資料を用い,期限一覧の取出し,確認済み連絡先の参照,暗号化資料の復号及び版の確認を行う。
実在する依頼者への連絡,裁判所への提出及び銀行送金を訓練のために実行しない。
実資料の取出しを試す場合は,権限者と安全な環境を限定する。
本番の認証や端末の保護を不用意に無効化せず,訓練後に複製を管理する。
計画上の所要時間と実測時間を比べ,不足する権限,鍵,閲覧ソフト及び担当者の代替を修正して再試験する。
事務所の契約,担当者又はシステムが変わった場合は,計画と訓練を見直す。
第7 復旧後は空白期間を照合してから通常運用へ戻す
復旧通知の後,責任者は,障害中の未受信連絡,提出の受付,送金・入金,台帳への反映,資料の版及び未処理の期限を照合する。
非常用の記録と通常の記録に差がある場合は,根拠を残して統合する。
内容不明の差分を上書きして消さない。
侵害が疑われる事故では,安全な再接続と証拠保全の判断も必要となる。
業務の再開と,個人情報保護法上の漏えい等報告の要否を分けて検討する。
可用性の問題だけで報告義務の有無を決めることはできず,具体的なデータ,事象及び報告対象の要件による。
復旧範囲,残る不具合,暫定運用の担当及び次の確認時刻を記録して再開する。
データの復元と報告義務の詳細は,クラウド事業者がランサムウェア被害を受けたときの利用者の報告義務,安全管理措置の整理は,情報セキュリティ3要素と報告義務の構造を参照されたい。
第8 出典・関連資料
①中小企業庁「中小企業BCP策定運用指針」(中核業務,目標復旧時間,計画の運用・訓練・更新)
②IPA「中小企業のためのクラウドサービス安全利用の手引き」(責任分担,バックアップ,更新,支援の確認)
③裁判所「民事裁判手続のデジタル化」及び「民事訴訟フェーズ3に向けた準備の手引」(令和8年10月2日版,46・47頁)
④日本弁護士連合会「弁護士職務基本規程」23・36・38条
⑤日本弁護士連合会「預り金等の取扱いに関する規程」2・4・7・8条(令和7年6月13日改正を含む現行掲載版)
生成AIの技術評価と実際の悪用事例は,Anthropicの生成AI悪用報告書の記事で区別して扱っている。
本記事の準備と訓練は,特定の年に全国のATMや決済が停止するとの予測を前提とするものではない。