第1 人間が教えない方が強いのか
将棋AIが人間の棋譜に頼らず強くなったという研究成果は,法律AIにも人間が細かく教えない方がよいことを意味するのか。
この問いを考えるには,モデルの学習方法と,法律実務での指示・評価・原典確認を分ける必要がある。
「AIは人間の知識を捨てれば何でもうまくできる」という結論を,ゲームの実験から直接導くことはできない。
一方,専門家が従来のやり方を細部まで固定することで,機械による探索や新しい解決方法を狭めていないかという問題は,法律実務でも検討する価値がある。
本記事はSuttonの「The Bitter Lesson」とAlphaZeroの原論文を起点に,研究結果と筆者の運用上の提案を区別して考察する。
第2 「苦い教訓」の原文が述べたこと
Richard Suttonが2019年に公表した「The Bitter Lesson」は,計算を活用する汎用的な方法が最終的には最も効果的であり,その差も大きいという,70年のAI研究の歴史に基づく考察である。
チェス,囲碁,音声認識,コンピュータビジョンを例に,専門知識を組み込む方法と,計算量を活かして改善できる方法との関係を論じ,探索と学習を重視する。
原文は,研究者が知識を組み込むことは短期的には常に役立つとしつつ,長期的には頭打ちになり,さらなる進歩を妨げることさえあるという歴史的観察を示す。
もっとも,原文も両者は必ずしも対立しないが実際には対立しがちだと述べており,人間の関与を論理的に排除する定理ではなく,個々の業務について専門家の確認を省く指示でもない。
どの方法に計算資源を投入すれば改善が続くのかという,研究開発上の選択に関する主張として読むべきである。
法律事務所で手順書を増やすことと,モデルの重みを学習によって更新することも同じではない。
手順書は利用時の作業を導くものであり,有用かどうかは対象業務で確かめる必要がある。
「苦い教訓」を理由に手順書をすべて廃止することも,逆に手順書の数だけでAIの性能が上がったと判断することもできない。
第3 AlphaZeroが学んだ方法と実験条件
2017年のAlphaGo Zero論文は,人間の棋譜を使わず,自己対戦による強化学習から強い囲碁プログラムを得たと報告した。
人間の棋譜と自己対戦を組み合わせた従前のAlphaGoに対し,人間の棋譜を学習開始の足場にしない方法を示した点に意味がある。
その後のAlphaZero論文では,自己対戦,ニューラルネットワーク及び探索を組み合わせ,同じ基本的な方法をチェス・将棋・囲碁に適用した。
ただし,三つのゲームについて別々のモデルを学習させており,一つの学習済みモデルがそのまま三競技を指したという意味ではない。
同論文のプレプリント版PDF4頁では,将棋のAlphaZeroが,1手1秒の対局によるElo評価で約2時間後にElmoを上回り,学習全体は約12時間であったと報告している。
自己対戦の生成には5,000基の第1世代TPU,ネットワークの学習には16基の第2世代TPUを用いており,「2時間」という経過時間だけから,少ない資源で再現できると考えてはならない。
学習時の設備と,学習後の対局評価で使用した設備も区別する必要がある。
人間の棋譜を使わなくても,ゲームのルール,局面や着手の表現,学習方法,ネットワーク及び探索の仕組みは用意されている。
「人間のお手本が不要」という研究結果は,「人間による設計が何もない」という意味ではない。
研究開発者が用意した環境の中で,大量の試行と勝敗から改善できることが重要である。
第4 ChatGPTの説明にそのまま当てはめられるか
ChatGPTというサービス名だけで,すべての時点の学習方法や能力を一括して説明するのは適切でない。
OpenAIの2022年の公開時の説明は,人間が作った対話による教師あり学習と,人間の比較評価を使った強化学習を紹介している。
一方,2024年のo1についての説明は,強化学習時の計算と,回答時に考えるための計算を増やすことによる性能改善を報告する。
これらは各時点・各モデルについての開発者の説明であり,現在のすべてのモデルに同じ学習構成が使われることを示すものではない。
人間が作った文章からの学習と,試行の結果を評価して改善する方法は,組み合わせて用いられ得る。
「人間の文章で学んだ以上,人間を超えることはできない」と単純化すべきではない。
Suttonは2025年の対談で,経験から学ぶシステムが現れ,はるかに高い性能と拡張性を持ち得るとの見通しを述べた。
聞き手がLLMを経験学習の出発点にできないのかと問い返したのに対し,Suttonは,人間の知識から始めること自体は必ずしも悪くないが,実際には常にうまくいかなかったと答えている。
これは将来の研究方向についての議論であり,2019年の文章自体の記載でも,研究者の合意が確定したことを示す資料でもない。
第5 法律実務で任せる作業と検証する作業
以下は,ゲーム研究が日本の法律実務で効果を実証したという説明ではなく,筆者の運用上の提案である。
AIに任せる範囲を考える際は,作業の結果をどのように検証できるかを先に決めることが有用である。
例えば,引用した文字列が判決本文に存在するか,合計金額が計算と一致するか,参照先の頁が対応しているかという作業には,機械的な照合を利用できる部分がある。
ただし,文字列が実在しても,それが当事者の主張か裁判所の判断か,今回の事件に適用できるかは別に検討する必要がある。
原典に戻る工程を,AIがもっともらしく評価したことだけで代替しない。
法律相談では,依頼者の説明だけでは分からない事実や,相手方からまだ得られていない資料がある。
AIには,結論を一つに固定させる前に,反対仮説,不足資料,異なる法的構成及び見通しを変える事情を挙げさせる方法が考えられる。
その際,見つからなかった判例や未取得の証拠を推測で補わせない。
また,実際の訴訟で望む結果は,勝敗だけでは尽くされない。
認容額,回収可能性,費用,時間,守秘,関係の継続などを,依頼者の目的に即して検討する必要がある。
将棋の評価値のような一つの数字を,個別事件の意思決定の代わりに用いない。
手順書やスキルを改善する場合も,同じ種類の課題について,確認・修正まで含めた総時間,重大な誤引用,不利益資料の見落としを比較する方法が考えられる。
成功した一例をすべての事件へ適用せず,発動条件と,使わない条件を記録する。
探索の余地を残すことと,根拠・権限・提出前の確認を明確にすることを両立させる。
スキルの蓄積と効果の検証については,裁判実務のAIはスキルの蓄積で変わるか―経験の再利用,効果の検証及びモデル能力との関係で整理している。
第6 原典と解説を読み分ける
本記事の調査のきっかけは,YouTubeチャンネル「AI深層部【ゆっくり解説】」の動画「なぜAIは、人間が”教えるのをやめたら”名人に勝ったのか?【ゆっくり解説】」である。
動画は,将棋,翻訳,囲碁及びLLMの歴史を,手作業のルール,人間のお手本,自分の経験という流れで説明している。
この三段階は理解を助ける解説の枠組みとして読み,個々の原論文の実験結果とは分ける必要がある。
Suttonの2019年の文章に,その後登場したChatGPTについての記載はない。
また,AlphaZeroの論文は,日本の裁判実務での精度や弁護士の確認義務を実証した資料ではない。
技術研究から実務へ応用する際は,原典が示した範囲と,応用する側が提案した範囲を示すことが,読者による検討を可能にする。
第7 出典と関連記事
原典は,Sutton「The Bitter Lesson」(2019年),Silverほか「Mastering the game of Go without human knowledge」(Nature,2017年),Silverほか「A general reinforcement learning algorithm that masters chess, shogi, and Go through self-play」(Science,2018年)である。
AlphaZeroについては,DeepMindが公開した同論文のプレプリント版PDFの4頁~5頁と研究チームの公式説明を参照した。
企業発表は開発者による説明であり,独立した再実験と同じには扱っていない。
法律実務での具体的な確認方法は,日本語判決予測AIの限界,裁判所提出書面のハルシネーション防止方法,判例データベースの生成AI・RAG利用も参照されたい。