第1 値下げだけで購入代金の差額が返ってくるわけではない
購入したマンションの売れ残り住戸が安く販売されても,当初の購入代金と新しい販売価格の差額を,当然に売主へ請求できるわけではない。
後日の販売価格,その時点の適正な市場価格,購入者の住戸の価値及び法律上賠償される損害額は,それぞれ区別する必要がある。
以下では,住宅供給公社の値下げ販売について責任を認めた大阪高裁平成19年4月13日判決(平成18年(ネ)第56号,判例時報1986号45頁)を手掛かりに,購入者と売主が確認すべき資料を整理する。
不法行為による請求では,売主の故意・過失,権利又は法律上保護される利益の侵害,損害及び因果関係を検討する(民法709条)。
安く買った人がいるという不公平感と,これらの要件が満たされることは同じではない。
契約上の価格保証や説明内容が問題となる場合は,その約束の有無・内容・時期も別に確認する。
第2 大阪高裁平成19年4月13日判決の位置付け
1 公社の性格と譲渡制限を含む個別の事案
この事件では,兵庫県住宅供給公社が阪神・淡路大震災の災害復興住宅として分譲したマンションの売れ残り住戸を,分譲開始から約4年後に,当初の平均販売予定価格から約49.6%値下げして販売した。
判決は,売主が売れ残りを値下げして販売することや価格を設定することは一般的には自由であるとしつつ,分譲マンションの特性,公社への信頼及び購入者の譲渡制限を考慮した。
そのうえで,公社には,既購入者の住戸の評価を市場価格よりも一層低下させる事態を避けるため,適正な価格を設定して販売すべき信義則上の義務があるとした。
仲介会社の提案と公社自身の市場調査についても,算出過程の客観性・合理性が検討されている。
この事案の「市場価格の下限を10%以上下回る」という判断を,一般の販売に共通する違法性の数値基準として用いることはできない。
当初の販売価格から何%安くしたかという割合と,値下げ時点の市場価格をどの程度下回るかという割合は,分母が異なる。
民間の売主についても,公社の性格を除いた契約・説明・取引経緯を調べる必要があり,この一件から同じ責任を当然に導くことはできない。
2 価格差額と慰謝料は別に判断されている
判決は,値下がりが将来にわたって続くものとはいい難いとして経済的損害を直ちには認めず,慰謝料を1戸当たり100万円,弁護士費用を1戸当たり10万円と認めた。
したがって,この判断を「半額になったので差額の返還が認められた」と説明するのは正確でない。
また,これらの金額は,当該事案における認容額であって,マンション値下げ紛争の定額表ではない。
民法710条は,財産権の侵害の場合にも「財産以外の損害」に対する賠償を定めている。
ただし,財産権を侵害されたと主張すれば,常に慰謝料が認められるわけではない。
何が侵害され,どのような精神的損害が生じたかを,売主の行為と個別の生活・処分上の影響に即して説明する必要がある。
第3 価格を比較するために集める証拠
1 同じ時点・住戸条件・取引条件で比べる
価格資料の種類と調査先は,家賃相場・土地価格相場等の調べ方を参照されたい。
値下げ紛争では,購入時と値下げ時の間の通常の市場変動と,問題となる販売行為の影響を分けるため,比較表を作ることが有用である。
以下は資料整理の例であり,法定の立証様式ではない。
| 比較項目 | 保存・確認する資料 |
|---|---|
| 価格時点 | 契約日,引渡日,値下げ決定日,広告開始日,実際の成約日 |
| 価格の種類 | 当初予定価格,個別の契約価格,値下げ広告価格,実際の成約価格,査定額 |
| 住戸の条件 | 階,位置,向き,面積,間取り,眺望,内装,築年数及び使用状況 |
| 取引の条件 | 支払条件,付帯サービス,修繕負担,販売期間,売り急ぎ及び一括処分の事情 |
| 損害との関係 | 問題の販売行為がなかった場合の価格,実際の処分条件及び評価の根拠 |
国土交通省の不動産鑑定評価基準総論第7章は,取引事例の選択,特殊事情の補正,時点修正及び地域・個別要因の比較を定めている。
同じ建物内の成約でも,売り急ぎや住戸条件が異なれば,その価格を他の全住戸の市場価値へそのまま流用できるとは限らない。
必要に応じて不動産鑑定士に,価格時点,対象住戸及び比較したい条件を示して意見を求める。
2 査定額の差と法的な損害額を同一視しない
購入価格と現在の査定額を単純に差し引くだけでは,市場全体の変化,経年,管理状態又は査定条件の変更が混ざるおそれがある。
査定者には,比較資料,補正理由,採用した前提及び価格差の原因を説明してもらう。
税務上の帳簿価額や相続税評価額も,そのまま民事上の市場価格又は損害額になるわけではない。
売却した場合は売買契約書・精算書・媒介記録を,売却できなかった場合は募集条件・照会・買付け・撤回の記録を保存する。
売却を予定していなかった場合も,価値低下の期間,処分制限及び現実の不利益を具体的に確認する。
これらの資料が存在することだけで賠償が認められるわけではなく,請求原因に対応する損害と因果関係の検討が必要である。
第4 購入者側と売主側で保存したい資料
1 購入者側の相談準備
売買契約書,重要事項説明書,パンフレット,価格表,価格保証等に関する説明の記録及び担当者との連絡を保存する。
値下げの広告は,URL,閲覧日,対象住戸,表示価格,販売条件及び画面全体を記録し,広告価格と成約価格を区別する。
管理組合の議事録,説明会資料,売主からの通知及び交渉記録も,作成日・配布日とともに整理する。
相談時には,差額返還,契約上の責任,不法行為による財産的損害及び慰謝料のどれを求めるのかを整理する。
他の購入者と共同で相談する場合でも,各住戸の購入条件・権利関係・損害を個別に確認する。
管理組合の意思決定と,各購入者の個別の売買に基づく請求は分けて検討する。
2 売主側の価格決定と説明
売れ残り期間,保有コスト,販売活動,周辺事例,仲介会社の提案及び価格算定の内部資料を,決定前の版も含めて保存する。
複数の提案額があっても,算定方法・比較対象・時点・販売条件が共通していれば,件数だけで客観性が確保されたとはいえない。
採用理由,検討した代替案及び既購入者への説明内容を記録すると,価格決定の合理性を検証しやすくなる。
説明会の開催や任意の解決金の提案と,法的な交渉義務・同意取得義務の有無は別に検討する。
値下げ販売に既購入者全員の承諾が常に必要であると,この判決から導くことはできない。
第5 慰謝料・価格調整・和解金の税務を分ける
1 民事の認容項目だけで非課税を決めない
民事裁判が慰謝料を認めたことと,その受領金について所得税が非課税となることは,適用する法律と判断対象が異なる。
所得税法9条1項18号と同法施行令30条は,所定の心身・資産の損害等に対応する損害賠償金等を非課税とする。
施行令30条1号には「心身に加えられた損害につき支払を受ける慰謝料その他の損害賠償金」とあり,必要経費を補う金額を除く取扱いもある。
「慰謝料」「解決金」と記載するだけで,支払全額の非課税を確定することはできない。
このマンション紛争の判決は,所得税の課税関係を判断したものではない。
受領者が個人か法人か,居住用か事業用か,実際に何を補う支払かを,判決・請求資料・合意書から確認する。
内訳のない一括和解では,弁護士費用相当額,遅延損害金及びその他の支払も区分して税理士と検討する。
一般的な整理は,示談金・解決金・和解金に税金はかかるかを参照されたい。
2 購入代金の減額と独立した損害賠償を区別する
和解で売主が金銭を支払う場合は,元の購入代金を減額・返還する合意なのか,代金を変更せず独立した損害を賠償する合意なのかを先に確認する。
国税庁No.6257は,損害賠償金の消費税上の対価性を名称ではなく実質で判定すると説明している。
No.6359は,国内の課税資産の譲渡等に係る値引き等を,売上げに係る対価の返還等として扱う。
したがって,課税取引の対価返還と損害賠償を一つの名称で処理せず,原契約,土地・建物の内訳,売主の課税関係及び合意内容に対応させる必要がある。
合意書には,支払の対象,項目別金額,計算根拠,期限及び書類交付の担当を示すことが有用である。
税負担だけを目的として,実際の請求や証拠と異なる慰謝料の内訳を作らない。
売主・購入者・弁護士・税理士が同じ計算表を確認してから合意すると,振込総額だけを見た誤った処理を避けやすい。
第6 関連解説と出典
宅建業法・不動産取引の実務ガイド
家賃相場・土地価格相場等の調べ方
示談金・解決金・和解金に税金はかかるか
①民法1条2項・709条・710条 https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
②大阪高裁平成19年4月13日判決・平成18年(ネ)第56号(判例時報1986号45頁)。裁判所HP未掲載であり,判例秘書(判例番号L06220667)で判決原文を確認した。
なお,不動産適正取引推進機構の判例紹介(RETIO第70号90~91頁「再販売(値下げ)価格が適正を欠くとして,不法行為責任を認容した事例」)も参照した。 https://www.retio.or.jp/wp-content/uploads/2024/11/70-090.pdf
③国土交通省「不動産鑑定評価基準」総論第7章第1節Ⅰ,印刷22頁 https://www.mlit.go.jp/common/001204083.pdf
④所得税法9条1項18号 https://laws.e-gov.go.jp/law/340AC0000000033
⑤所得税法施行令30条 https://laws.e-gov.go.jp/law/340CO0000000096
⑥国税庁No.1700「加害者から治療費、慰謝料及び損害賠償金などを受け取ったとき」 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/1700.htm
⑦国税庁No.6257「損害賠償金」 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shohi/6257.htm
⑧国税庁No.6359「値引き、返品、割戻しなどを行った場合の税額の調整」 https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shohi/6359.htm
法令・行政資料の確認日は令和8年10月13日である。
裁判例の説明は判例秘書で確認した判決原文に基づく。
上記RETIOの紹介には上告の表示があるが,上告審の結論は判例秘書及び裁判所ウェブサイトでは確認できなかった。
同判決を確定した最終判断又は一般的な値下げ禁止の先例として扱うものではない。
資料の保存順序,比較表及び当事者間の役割分担は,これらの資料を踏まえた実務上の提案である。