第1 結論と本記事の対象
1 月45時間の上限規制が緩和されたわけではない
厚生労働省は,令和8年9月1日から,時間外・休日労働時間数だけに着目して1か月45時間以内への削減を求める一律の監督指導を見直した。
もっとも,労働基準法36条が定める原則月45時間・年360時間の限度時間や,特別条項を設ける場合の法律上の上限は改正されていない。
今回変わったのは法令上の上限ではなく,労働基準監督署が各事業場の事情をどのように確認し,指導するかという行政上の運用である。
監督署は,特別条項付き36協定で定めた健康及び福祉を確保するための措置が実際に実施されているかを重点的に確認し,事業場の状況に応じて必要な指導を行う。
過重労働による健康障害のおそれが高い場合には,改正後も必要な指導が行われるため,月45時間を超えても問題がないという制度ではない。
2 資料の範囲と確認日
本記事は,令和8年10月15日現在の労働基準法,同法施行規則,厚生労働省の令和8年8月19日付け報道発表,同年9月1日の厚生労働大臣会見,令和8年版36協定届の記載例及び令和7年度の監督指導結果を中心に整理する。
監督指導の変更は厚生労働省の公表資料で確認できるが,個別事案で用いられる内部の監督要領や各署の具体的運用をすべて確認したものではない。
第2 変更されていない法律上の上限
1 一般の事業における原則
労働基準法36条は,36協定で定める時間外労働の限度時間を,原則として1か月45時間・1年360時間としている。
対象期間が3か月を超える1年単位の変形労働時間制では,1か月42時間・1年320時間である。
これらは36協定を締結すると当然に働かせることができる標準時間ではなく,臨時的な事情がない通常の場合の限度時間である。
2 特別条項にも超えられない上限がある
通常予見できない業務量の大幅な増加等へ対応する必要がある場合は,労使の手続を経て特別条項を設けることができる。
それでも,時間外労働は年720時間以内,時間外労働と休日労働の合計は単月100時間未満,同じ合計の2か月平均から6か月平均まではいずれも月80時間以内でなければならない。
また,原則の月45時間を超えることができるのは年6か月以内である。
建設事業,自動車運転の業務及び医師等には別の特例があるため,対象業務を確認して一般則と混同しないことが必要である。
3 変わった点と変わらない点
| 確認事項 | 令和8年9月1日以後の扱い |
|---|---|
| 原則月45時間・年360時間 | 労働基準法上の限度時間は変わらない |
| 特別条項の年720時間等 | 法律上の上限は変わらない |
| 割増賃金の支払 | 監督指導の見直しとは別であり,支払義務は変わらない |
| 監督署の確認 | 時間数だけによる一律指導を見直し,健康・福祉確保措置の実施状況を重点的に確認する |
| 健康障害のおそれが高い場合 | 事業場の実態に応じた必要な指導が続く |
第3 令和8年9月1日から何が変わったか
1 時間数だけに着目した一律の指導を見直した
厚生労働省の令和8年8月19日付け報道発表は,時間外・休日労働時間数だけに着目して1か月45時間以内への削減を求める一律の指導を見直すと明記している。
その上で,各事業場が36協定で定める健康及び福祉を確保するための措置の実施状況を重点的に確認し,確認した状況に応じた必要な指導を行うとしている。
この説明は,月45時間という法定の限度時間を廃止し,又は特別条項なしの時間外労働を適法にするものではない。
監督指導の着眼点を,時間数のみの一律評価から,労使が定めた措置の履行と個別の健康リスクを含む確認へ改めたものと理解すべきである。
2 相談・支援も拡充された
令和8年9月1日から,全国の働き方改革推進支援センターに,36協定,特別条項及び柔軟な労働時間制度に関する専門相談窓口が設けられた。
同センターと労働基準監督署の労働時間相談・支援班による訪問支援や,よろず支援拠点,商工会議所等との連携も掲げられている。
相談・支援を受けたことと,監督署が法違反を認めないことは同じではない。
相談時に示した勤務実態,協定案及び改善案は,実際の運用と一致するように管理し,説明内容だけで履行に代えることはできない。
第4 特別条項の健康・福祉確保措置
1 協定届で選ぶだけでは足りない
労働基準法施行規則17条は,特別条項を設ける場合に,限度時間を超えて労働させる労働者の健康及び福祉を確保するための措置を協定事項としている。
令和8年版の36協定届の記載例には,医師による面接指導,深夜業の回数制限,勤務間インターバル,代償休日・特別休暇,健康診断,連続休暇,相談窓口,配置転換及び産業医等による助言・指導等が掲げられている。
協定届の番号に丸を付けただけでは,措置を実施したことの証明にならない。
対象者を把握し,発動基準に達した時点で担当者が措置を案内・実施し,労働者の事情に応じた対応を記録するところまで運用する必要がある。
2 実施記録の保存
使用者は,健康・福祉確保措置の実施状況に関する記録を作成し,保存する必要がある。
保存期間は本則5年であるが,当分の間は3年とされているため,個別の記録について対象規定と起算点を確認する必要がある。
実務上は,対象者,対象期間,超過時間数,発動した措置,案内日,実施日,担当者,労働者の申出,医師・産業医等との連携及び業務配分の変更を,必要な範囲で対応付けて保存することが考えられる。
健康情報は要配慮個人情報を含み得るため,閲覧権限,利用目的,保管場所及び保存期間を定め,勤怠担当者が必要以上の診療情報を共有しないようにする必要がある。
3 措置は労働者ごとのリスクに結び付けて確認する
勤務間インターバルを協定に掲げていても,対象者の勤務表で休息時間が確保されていなければ,実施したとは評価しにくい。
相談窓口を置いていても,利用を妨げる運用があり,又は相談後も業務量を調整していなければ,健康確保の実効性は乏しい。
医師の面接指導を案内したという記録だけでなく,必要な就業上の措置を検討し,実施した経過も区別して残すことが重要である。
第5 36協定を点検するときの実務
1 協定の成立・内容・届出・運用を分ける
最初に,過半数労働組合又は適法に選出された過半数代表者との協定が成立しているかを確認する。
次に,対象業務,労働者の範囲,延長時間,休日労働,特別条項を発動する具体的事由,発動手続,割増賃金率及び健康・福祉確保措置を確認する。
さらに,有効期間,所轄労働基準監督署への届出及び実際の勤務・措置の運用を照合する。
36協定届は,協定書そのものを兼ねる場合と,別に締結した協定書の内容を届け出る場合がある。
届出控えだけで労使合意の成立過程を確定できないときは,代表者の選出記録,協定書,意見聴取の資料及び就業規則を確認する必要がある。
2 記録を一つの時系列へまとめる
勤怠記録,入退館記録,パソコン・VPNのログ,残業申請,特別条項の発動記録,健康・福祉確保措置及び業務配分の変更を,労働者ごと・月ごとに照合する。
在宅勤務では,退勤打刻だけでなく,メール,チャット,ファイル更新,オンライン会議,中抜け及び上司の指示・認識も確認する。
労働時間の記録と健康措置の記録を別部門で管理する場合でも,超過時間を把握してから措置を実施するまでの連携経路を説明できるようにすることが望ましい。
後日の監督又は訴訟に備えるため,集計表だけでなく,元データ,修正履歴,抽出条件,タイムゾーン及び取得担当者も保存することが重要である。
第6 残業代・残業命令・安全配慮義務との関係
1 割増賃金の支払義務は別問題である
36協定は,協定の範囲内の時間外・休日労働について刑事法上の免罰効果を生じさせるが,実際に行われた労働に対する賃金・割増賃金の支払義務をなくすものではない。
監督指導の見直し後も,特別条項を発動したことや健康措置を実施したことを理由に,残業代を支払わなくてよいことにはならない。
2 36協定だけで残業命令権が決まるわけではない
最高裁平成3年11月28日第一小法廷判決は,36協定が届け出られ,就業規則がその範囲内で一定の業務上の事由による時間外労働を定め,その内容が合理的である場合について,労働者がその定めに従う義務を負うとした。
したがって,36協定が存在するという事実だけで,個々の労働者にあらゆる残業を命じられると一般化することはできない。
協定,就業規則,労働契約,命令の業務上の必要性及び具体的な時間数を区別して検討する必要がある。
3 安全配慮義務は緩和されていない
労働契約法5条に基づく安全配慮義務や,不法行為・使用者責任の判断は,監督署が一律に月45時間以内への削減を求めなくなったことだけで軽くなるものではない。
長時間労働,睡眠不足,業務量,納期,人員配置,健康状態の変化及び上司の認識を踏まえ,実施できた負担軽減措置を個別に検討する必要がある。
健康・福祉確保措置の実施記録は,使用者が何を把握し,どの措置を講じたかを示す証拠になり得る。
反対に,協定で措置を定めながら対象者へ実施しなかった記録は,安全配慮義務違反を検討する際の一事情となり得るが,それだけで民事責任又は因果関係が当然に決まるわけではない。
第7 弁護士・税理士が確認する資料
1 弁護士が受任時に確認する事項
使用者側では,現行・過年度の36協定と届出控え,代表者選出記録,勤怠原データ,特別条項の発動記録,健康・福祉確保措置の実施記録,健康診断・面接指導後の就業措置及び業務配分の変更を確認する。
労働者側では,契約書,就業規則,給与明細,勤怠画面,残業申請,業務メール・チャット,入退館記録,パソコンログ,勤務日ごとの業務内容及び会社への申出を時系列に整理する。
監督署への申告又は対応と,未払残業代の私法上の請求,労災認定及び安全配慮義務違反の損害賠償請求は,目的・要件・証拠が同一ではない。
一つの手続の結論を他の手続へそのまま転用せず,各手続で必要な事実を分けて検討することが必要である。
2 税理士が気付きやすい資料と連携
今回の監督指導の見直しは税法の改正ではない。
もっとも,給与計算資料,賃金台帳,役員・従業員別の支給項目,勤怠集計及び外注費との区分を継続的に見る税理士は,固定残業代と実労働時間の不整合,恒常的な特別条項の発動又は記録不足に気付くことがある。
税務・会計資料から疑問が生じた場合は,資料が示す事実と法的評価を分け,依頼者の同意と守秘義務に配慮しながら,社会保険労務士又は弁護士との連携を検討することが考えられる。
給与計算が合っていることだけで36協定,健康措置又は安全配慮義務の履行まで確認したことにはならない。
第8 監督統計の読み方
厚生労働省の令和7年度監督指導結果によれば,長時間労働が疑われる2万9150事業場に監督指導を実施し,1万1228事業場で違法な時間外労働を確認した。
また,過重労働による健康障害防止措置が不十分であるとして,1万2811事業場に改善を指導した。
これらは長時間労働が疑われて選定された事業場の結果であり,国内の全事業場に同じ割合で違反があることを示す統計ではない。
一方で,時間数の適法性と健康障害防止措置の実施状況が別の確認項目であることを示しており,今回の運用変更後も両方を点検する必要がある。
第9 関連記事
時間外・休日・深夜労働の区別,割増率,固定残業代及び未払残業代の計算は,時間外労働,休日労働及び深夜労働と残業代請求(AIリライト)で整理している。
長時間労働と使用者の民事責任は,過重労働・過労自殺と使用者の安全配慮義務―電通事件・東芝事件と予見可能性・過失相殺(AI作成)で説明している。
在宅勤務の打刻,残業許可制及びパソコンログの証拠評価は,在宅勤務の退勤打刻は残業時間の証拠になるか―残業許可制・PCログ・中抜けの判断と立証(AI作成)を参照されたい。
裁量労働制の健康・福祉確保措置は別の制度要件を含むため,裁量労働制の令和6年4月改正―本人同意と撤回,労使委員会,健康・福祉確保措置及び継続導入の手続(AI作成)で区別して確認する必要がある。
第10 出典・参考資料
①厚生労働省「時間外労働等に係る相談・支援及び監督指導を見直します」(令和8年8月19日)
②厚生労働省「労務管理の『困った!』を解決 私たちが重点的にサポートします」
③厚生労働省・上野大臣会見概要(令和8年9月1日)
④e-Gov法令検索・労働基準法
⑤e-Gov法令検索・労働基準法施行規則
⑥厚生労働省「時間外労働の上限規制 わかりやすい解説」(令和8年版)
⑦厚生労働省「長時間労働が疑われる事業場に対する令和7年度の監督指導結果を公表します」
⑧最高裁平成3年11月28日第一小法廷判決(昭和61年(オ)第840号,民集45巻8号1270頁)
本記事の判例に関する記載は最高裁判所ウェブサイトの判決全文で確認した。
今回のテーマについて判例秘書の横断検索は実施していないため,個別事件への適用に当たっては,最新の下級審裁判例及び判例評釈を別途確認する必要がある。