第1 契約代金と準備費用は請求の根拠が異なる
「発注は確定した」と言われ,他の案件への営業を止めて技術者を確保したのに,開始直前に取引が見送られた場合,予定した契約代金を請求できるかと,要員確保による損害を請求できるかを分けて検討する必要がある。
基本契約が存在していても,個別契約の成立手続を満たしていなければ,予定した業務の報酬請求が認められないことがある。
一方,個別契約が成立していなくても,成立するとの誤信を誘発し,未確定の事情を説明しなかった交渉経過について,不法行為による損害賠償が問題となり得る。
本記事は,東京地方裁判所令和6年1月31日判決(令和4年(ワ)第25702号,契約代金等支払請求事件,判例秘書・判例番号L07930368)の本文を踏まえ,受注側と発注側が確認すべき契約,説明及び証拠を整理するものである。
基準日は令和8年10月3日である。
同判決は事案に即した下級審判断であり,すべての破談について準備費用の賠償が認められるという趣旨ではない。
第2 基本契約があっても個別契約が成立するとは限らない
1 法律の原則と当事者が定めた成立手続
民法521条及び522条によれば,契約を締結するか及びその内容は法令の制限内で自由に決めることができ,契約は原則として申込みと承諾によって成立する。
法令に特別の定めがある場合を除き,書面その他の方式は必要とされない。
ただし,当事者がどの段階で確定的な合意をする予定であったかを判断する際には,基本契約に定めた成立手続と,実際の交渉経過が重要である。
2 本件の成立条項と主位的請求
本件基本契約は,個別契約書に双方が記名・捺印又は電子署名したとき,あるいは必要事項を記載した注文書を発行交付し,これに対する請書を発行交付したときに個別契約が成立すると定めていた。
原告は,月単価95万円,3か月間のシステム開発支援について,個別契約が成立したとして285万円を請求した。
しかし,双方が署名等をした個別契約書は存在せず,注文書に対する請書の発行交付も認められなかった。
判決は,基本契約の成立条項とこれらの事情から,原告が主張する時点に被告が個別契約を締結する意思を有していたとは認め難いとし,主位的請求を棄却した(判決第3の1)。
基本契約に「個別契約の定めが基本契約に優先する」との条項があっても,それは成立した個別契約の条項の優先関係を定めるものであり,個別契約の成立自体の根拠にはならないとされた。
これは,すべての業務委託契約で電子署名が法定の成立要件になるという判断ではない。
実務では,メールによる合意があったかだけでなく,成立手続を変更する合意があったか,やり取りが最終合意か草案の確認か,署名や請書を後で整える予定にすぎなかったかを,基本契約と合わせて確認する必要がある。
第3 契約未成立でも交渉上の責任が認められた理由
1 確定の説明と上流契約の不確実性
受注側は,所属企業にも確定として話を進めることや,並行営業を止めることを発注側へ伝え,失注した場合の補填についても言及していた。
発注側の担当者は了承する旨を返信し,さらにチャットで正式に契約面が確定した旨を伝えた。
しかし,発注側と上流の委託予定会社との契約は最終的に締結に至らない可能性があり,その場合には本件の個別契約も成立しない可能性があったところ,その点を併せて伝えたとは認められなかった。
判決は,このような言動によって受注側が契約締結に強い期待を抱くことには相当な理由があると判断した。
そして,なお契約不成立の可能性があるなら,確定という説明と併せてその可能性を伝えるべきであり,誤信を誘発しながらこれを矯正しなかった点について,不法行為法上の注意義務違反を認めた(判決第3の2)。
正式な電子注文書を発行していなかったという発注側の主張だけでは,この交渉上の責任を否定できなかった。
2 破談の原因と自らの説明責任を区別する
上流の会社から発注されなかったことと,下流の相手方に未確定事情を説明したかは別の問題である。
発注側の立場としては,上流契約が未成立であることを社内で理解していても,相手方に確定と伝える際にその条件を示していなければ,責任の問題が残る。
ただし,この判決から,相手方の期待があれば必ず契約締結を義務付けられるとか,上流契約を必ず成立させる義務があると一般化することはできない。
3 最高裁の判断との関係
最高裁判所第三小法廷平成19年2月27日判決(平成17年(受)第869号)も,継続的な製造・販売に係る契約締結への過大な期待を抱かせ,開発・製造に相応の費用を投じさせた経過について,契約準備段階における信義則上の注意義務違反を認めた。
上流から具体的な発注を受けていないにもかかわらず,発注の約束や発注書の交付等を重ねた事情が問題とされている(判決10頁~11頁)。
最高裁は損害及びその額等を更に審理させるため予備的請求部分を破棄して差し戻しており,準備費用の全額を直ちに認容したものではない。
第4 認められた損害と認められなかった費用
1 11日分の待機費用と弁護士費用
東京地裁令和6年判決は,未成立の可能性を伝えられていれば,受注側が再委託先との間で技術者の配置を確定することはなかったと認定した。
配置を確定したため,上流契約の交渉決裂後に再委託先から請求を受け,11日分の待機費用51万4250円を支払うべき債務を負ったことを損害として認めた。
さらに,相当因果関係のある弁護士費用5万円を加え,合計56万4250円の支払を命じた(判決第3の3)。
ここで認められたのは,3か月分の予定報酬そのものではない。
また,判決は待機費用を支払うべき債務を負ったと認定しており,判決の紹介に際して支払済みの事実まで付け加えるべきではない。
2 自社の人件費等が当然に損害になるわけではない
自社従業員の人件費は,問題の不法行為がなくても労働契約に基づいて発生する。
判決は,不法行為によって人件費が主張額だけ増加したといえる具体的な主張立証がなく,計算表記載の労働時間を裏付ける証拠もないとして,この請求を認めなかった。
旅費交通費及び通信費も裏付ける証拠がなく,接待交際費は相当因果関係が認められないとされた。
費用一覧を作るだけでは足りず,どの説明を信頼して,いつ,誰に対する負担が増えたかを示す必要がある。
通常の固定費,他の案件に転用できた費用,実際に追加発生した負担を分け,支出又は債務の根拠と金額を裏付けることが重要である。
第5 破談後に確保する証拠
受注側は,まず基本契約及び適用版,個別契約案,注文書・請書,署名履歴とともに,メール及びチャットの一連の経過を保存する。
確定と伝えられた箇所だけを切り出さず,前後の留保,修正,承認待ちの説明も残す。
特に次の事項を時系列で対応させることが望ましい。
① 相手方が確定と説明した日時,担当者,説明内容及び当時の未確定条件
② 人員確保や並行営業停止を相手方へ伝えた日時と,相手方の返信
③ 再委託先との配置合意,取消し条件,請求書,支払義務の根拠及び対象期間
④ 配置を取り消した時期,他案件への転用可能性,負担の軽減を検討した経過
⑤ 自社費用について追加発生を示す記録,作業時間,交通費・通信費の原資料
発注側も,上流契約の状況,相手方へ説明した条件,担当者の権限と指示内容を保存する。
上流会社の事情だけで結論を決めず,自らの説明が相手方の準備行動にどのような影響を与えたかを検討する必要がある。
報酬請求と不法行為による請求では要件と損害の捉え方が異なるため,争いになった時点で両方の根拠を弁護士と確認することが有用である。
第6 開始前の費用を管理する実務
1 未確定条件を確定の連絡と同時に示す
営業担当者は,条件案の提示,社内承認,上流契約の成立,個別契約の成立を区別して連絡する。
例えば「単価及び候補者について当社内の確認は完了したが,上流契約及び所定の個別契約締結は未了である。正式発注の通知までは,他案件への営業停止や費用を伴う要員確保を求めない」と,完了した部分と残る条件を具体的に示すことが考えられる。
これは本記事の運用提案であり,この文言を一度送ればどのような交渉経過でも免責されるというものではない。
2 要員確保が先行するなら別の合意を作る
正式契約前に要員を拘束する必要がある場合は,確保期間,費用上限,解除・中止条件,費用負担者,本契約が成立しなかった場合の精算及び承認権限を,先行合意で定める方法がある。
受注側は再委託先への確約前に,発注側は並行営業の停止を求める前に,法務担当者へ確認を戻すことが望ましい。
自動メールやAIによる契約連絡でも,草案作成と発注確定の送信承認を分け,未成立なのに確定と通知する仕組みにしないことが重要である。
第7 関連記事
① 口頭の合意と契約書-書類を取り交わすまで契約成立を留保できるか
② 電子署名法3条の推定とは
第8 出典と確認範囲
① 民法1条2項,521条,522条及び709条
② 東京地方裁判所令和6年1月31日判決(令和4年(ワ)第25702号,契約代金等支払請求事件,判例秘書・判例番号L07930368,LLI/DB判例秘書登載)。主文,事実及び理由の全文を確認。成立は第3の1,注意義務は第3の2,損害は第3の3。
③ 最高裁判所第三小法廷平成19年2月27日判決(平成17年(受)第869号)。裁判所公開本文を確認。
東京地裁判決は,令和8年10月3日に裁判所の統合検索で令和4年(ワ)第25702号を指定した範囲では該当結果が得られず,判例秘書掲載の本文によった。
控訴の有無,確定及び後続裁判例は確認していない。
本記事は同判決の事案と判断を要約し,証拠保全及び予防策を提案したものであり,別の取引について同じ金額又は同じ結論が認められることを保証するものではない。