第1 救急通報をしたという事実だけでは結論が出ない
1 本記事の対象
人を殺す意思で刺した後,思い直して119番に電話した場合,殺人未遂について中止犯が成立するかが問題となる。
刑法43条ただし書による必要的な減軽又は免除を受けられるかは,「電話した」「被害者が助かった」という二つの事実だけでは決まらない。
いつ殺害行為をやめ,どのような救助をし,それが救命につながったかを,時系列で確認する必要がある。
本記事は,令和8年10月3日時点の刑法と,裁判所が公開する福岡高裁昭和61年3月6日判決及び神戸地裁平成14年2月15日判決の全文を基礎とする。
両判決の事実と判断を示した上で,第三者への救助の委託及び証拠収集について,本記事での検討事項を整理する。
救助の具体的方法は容態によって異なるため,現場では消防指令員や医療従事者の指示を受けることが重要である。
2 先に押さえる三つの区別
①犯罪をやめた意思が任意であったかと,結果を防止する行為が十分であったかは,別の問題である。
②中止犯の必要的減免,自首による裁量的減軽及び通常の量刑上の考慮は,それぞれ要件が異なる。
③実際に通報が受理されたことと,行為者が受理されたと信じたことは,別々に認定する必要がある。
第2 刑法43条と実行行為の終了
1 通常の未遂,自首及び量刑との違い
刑法43条は,実行に着手して犯罪を遂げなかった場合について裁量的減軽を定め,自己の意思による中止の場合には刑を減軽し,又は免除することを要求している。
殺人については,同法203条が未遂を処罰する。
被害者が生存したとしても,刺した時点の殺意や実行行為が後から消えるわけではない。
同法42条1項の自首による減軽は,捜査機関に発覚する前の自首を要件とする裁量的な制度である。
救急車を呼ぶことと,自首の要件を満たすことは同義ではない。
中止犯が否定されても,実際の救助や反省が量刑上考慮される余地はあるが,それは43条ただし書が適用されるという意味ではない。
2 追加の攻撃をやめるだけでは足りない場面
福岡高裁判決は,実行行為の終了前であれば実行行為をやめることで足りる一方,終了後には,自分の行為又はこれと同視できる程度の真摯な行為によって結果の発生を防止する必要があるとした(判決PDF2頁)。
同判決では,1回の刺突で死亡の危険が生じ,繰り返し刺す意図もなかったことから,実行行為は終了しているとされた。
したがって,刺傷から失血死などへ進む危険を既に生じさせた場合には,「もう刺さなかった」ことだけでは中止行為の説明として足りない。
刺突回数だけでなく,攻撃の計画,傷の部位・程度及び既に生じた危険を確認する必要がある。
第3 救助を続け,中止犯が認められた福岡高裁判決
1 救護の経過
福岡高裁昭和61年3月6日判決(高刑集39巻1号1頁)の被告人は,未必的な殺意で被害者の頸部を刺した後,出血を見て驚き,重大なことをしたと思った。
被告人はタオルを当て,消防署に救急車の派遣と警察への通報を依頼し,到着まで被害者を励まし,出入口を開けるための鍵を渡し,担架での搬送にも協力した(判決PDF1頁~2頁)。
2 任意性と救命への寄与
同判決は,出血を見たという外部の出来事がきっかけでも,それだけで任意性を否定すべきではないとした。
逃走する選択もあり得た状況で,反省・悔悟に基づき救助を続けたことを評価している。
また,被告人の努力と消防署員・医師の早期かつ適切な措置が相まって死亡を回避したとして,中止犯を認めた。
この判断は,行為者が自分だけで手術や専門的な治療をすることを求めるものではない。
救急医療につなぐ自分の具体的な行為と,医療従事者の処置とを,救命の過程として評価したものである。
第4 通報したが,中止犯は否定された神戸地裁判決
1 通報の内容と通報後の行動
神戸地裁平成14年2月15日判決(平成13年(わ)第900号)の被告人も,夫を刺した後,重大なことをしたと思って119番通報した。
しかし,氏名・住所を十分に告げず,傷の部位の質問にも応じず,電話を切った後は家の中で立ちすくんでいた。
消防側が発信地を検索して所在地を確認し,救急搬送と治療によって夫が助かった(判決PDF1頁~2頁)。
2 任意性があっても,中止行為の要件を満たすとは限らない
同判決は,通報の任意性を認めながら,時間的・場所的状況に照らして真摯な努力とはいえず,被告人の中止行為によって現実に結果が防止されたとは認められないとして,中止犯を否定した。
他方,量刑では通報や反省等も考慮している。
福岡高裁判決と比べると,通報の有無だけでなく,救助に必要な情報の提供,待機中の行動,救急隊が被害者に接近するための協力及び救命へのつながりが問題になる。
もっとも,神戸地裁判決の特定の応答を,あらゆる通報に共通する形式的な必須事項へ置き換えることはできない。
住所を答えなかった事情や,ほかの救助をする能力・時間があったかも,個別に確認する必要がある。
第5 第三者に救助を任せた場合
1 専門家の援助と,救助を任せて立ち去ること
第三者が救命に関与したという理由だけで,中止犯が否定されるわけではないことは,福岡高裁判決から分かる。
ただし,同判決の被告人は救急隊の到着まで救護を続け,搬送にも協力している。
同判決から直ちに,「知人に頼んで現場を離れれば足りる」という結論は導けない。
救助の委託を検討するときは,①誰に何を頼んだか,②相手が具体的に引き受けたか,③相手が救助できる状態にあったか,④必要な情報や手段を渡したか,⑤本人が残ってできた救助があったか,⑥委託した救助が実際に行われたかを確認する。
これは両判決を踏まえた本記事の検討項目であり,裁判所がこの六項目を定式として示したものではない。
2 「救急車は呼んだ」という説明が嘘だった場合
第三者の説明を信じて退去した場合には,実際の受理・出動の有無と,退去者の認識を区別する。
誰が,いつ,どの言葉で通報済みと伝え,信じる根拠が何であったか,相手の不誠実さを疑わせる事情があったかを確かめる必要がある。
被害者が第三者の独立した救助で助かった場合には,退去者の行為と救命との関係も別に問題となる。
学説上は,中止行為と結果不発生の因果関係を必要とする立場と,真摯な結果防止の努力を重視して因果関係を不要とする立場に争いがある(裁判所書記官研修所監修『刑法総論講義案〔改訂版〕』司法協会,平成10年,284頁~291頁)。
本記事で確認した福岡高裁・神戸地裁両判決は,現実の結果防止との関係を検討している。
因果関係を不要とする学説を採る答案や弁護上の主張と,裁判所が確立した判断とを混同しないことが重要である。
第6 刑事弁護で整理すべき記録
1 発信,受理,到着及び治療を分ける
弁護人は,犯行,救護開始,通報発信,受理,出動,現場到着,搬送及び治療開始を,一つの時系列にする。
通話履歴だけでは通報内容や救急要請の受理までは分からず,通報が受理されても,直ちに現場で処置が始まったとは限らない。
各記録の時計のずれや,供述の時刻が推測でないかも確認する。
| 資料 | 確認する事項 | 評価上の注意 |
|---|---|---|
| 通話履歴・119番の受理記録や録音 | 発信と接続,伝えた所在地・容態,指令員の質問と指示 | 発信した事実だけを,適切な救急要請が完了した証拠としない |
| 救急活動記録・診療録・医師の意見 | 到着・処置・搬送時刻,傷の危険,早期治療の効果 | 救命への寄与を,法的評価と医学的評価に分ける |
| 現場映像・写真・物品・目撃者供述 | 止血等の行動,出入口,救急隊の接近,残された手段 | 一部の映像だけで,撮影前後の行動まで断定しない |
| 救助を引き受けた際の会話・通信記録 | 依頼内容,受諾,通報済みとの説明,退去の理由 | 実際の救助状況と,各人が信じていた状況を分ける |
2 記録の確保と主張の組立て
保存期間がある録音・映像等は,早期に所在と保存状況を確かめる必要がある。
入手方法は記録の保有者,個人情報及び刑事手続の段階によって異なり,すべての119番記録を誰でも取得できるわけではない。
弁護人は,開示を受けた捜査記録,関係者から適法に得られる資料及び医療資料を照合し,必要な記録について利用できる照会・開示手続を個別に確認する。
主張では,①任意性を示す動機・発言,②その場で可能だった行動と実際の行動,③救命への具体的な寄与を,それぞれ証拠と対応させる。
中止犯の主張が認められない場合に備え,実際の救助努力が量刑上どのように評価されるべきかも,区別して説明する。
「反省した」「精一杯だった」という評価語だけで,行動や救命との関係を置き換えないことが重要である。
第7 救助者や退去を勧めた者の責任との区別
救助を引き受けた第三者が意図的に放置した場合,その者の責任は,刺した者の中止犯とは別に検討する。
不作為による殺人では,殺意のほか,救命のために行動すべき義務,その行為をする可能性,不作為を殺人の実行行為と評価できる事情及び死亡との因果関係が問題となる。
保護責任があり殺意もあったというだけで,自動的に殺人罪の成立が決まるものではない。
関連する裁判例は,保護責任者遺棄等罪の「遺棄」と「不保護」で説明している。
逃走を勧めた者には,救助を妨げたこととは別に,犯人隠避罪が問題となる場合がある。
単なる相談と,犯人を実際に隠避させる働きかけを区別する必要があり,警察に嘘の説明をしたら犯人隠避罪になるかで扱う。
これらの犯罪が成立するかと,刺した者に43条ただし書を適用できるかは,同じ結論になるとは限らない。
第8 出典及び調査範囲
①e-Gov法令検索「刑法」(42条~44条,199条,203条。公式法令APIの本文も確認)
②福岡高裁第二刑事部昭和61年3月6日判決(高刑集39巻1号1頁),判決PDF1頁~3頁
③神戸地裁平成14年2月15日判決(平成13年(わ)第900号)1頁~4頁
④裁判所書記官研修所監修『刑法総論講義案〔改訂版〕』(司法協会,平成10年,平成13年第2刷)284頁~291頁。学説の説明として参照したものであり,現在の学説の多数・少数を確定する資料として用いていない。
本記事は,上記二つの中止犯に関する判決全文を比較するものであり,中止犯に関する全裁判例を網羅したものではない。
第三者の虚偽説明を信頼して救助を任せた場合の成否について,直接同じ事実関係を判断した裁判例は本記事の資料からは確定できない。
判例秘書で書誌だけを確認し,本文を読めなかった裁判例を,判旨の裏付けとして使用していない。
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