第1 対象資料と確認範囲
1 年次解説の位置付け
本記事は,野山宏「最高裁民事破棄判決の実情(1)~(4・完)―平成8年度―」を通読し,平成8年度に最高裁判所が原判決等を破棄した民事事件の全体像を,弁護士実務の観点から整理するものである。
同解説は最高裁判所調査官が執筆した有力な年次資料であるが,個々の判決原文そのものではない。本記事では,年次解説で47件を確認し,そのうち代表7判決について判例秘書の全文を照合した。さらに,7判決中3判決について裁判所ウェブサイトの本文も確認した。残る40判決は年次解説の記述によるものであり,個別判決本文は未照合である。
2 数字を読む際の注意
年次解説によれば,平成8年度の判決終局279件のうち破棄判決は47件であり,比率は16・8%であった。破棄差戻しは26件,破棄自判は23件であり,同一事件の一部について差戻し,他の部分について自判した重複例が含まれる。職権調査事項による破棄は5件,上告論旨に理由があるものは42件であった。
もっとも,これは平成8年の民事訴訟法改正前の旧民事訴訟法下の処理統計である。現在の通常上告,上告受理申立て及び許可抗告とは入口,審査方法及び分母が異なるため,16・8%を現在の「上告成功率」として用いてはならない。
第2 47件から見える破棄の三つの型
1 手続の土台が崩れている型
当事者,請求,訴訟物,上訴対象,承継,取下げ・放棄,主位的請求・予備的請求等の処理を誤ると,実体法上の判断が正しくても判決を維持できないことがある。受任時,争点整理終結時及び判決前に「請求×当事者×手続段階」の表を更新する必要がある。
2 証拠から結論までの推論が飛躍する型
最高裁は通常,事実認定をやり直す審級ではない。しかし,原判決が重要証拠を見落とし,経験則に反する推論をし,又は結論に必要な中間事実を欠く場合には,法令違反として破棄されることがある。上告理由又は上告受理申立て理由では,「原審の結論が不当である」と述べるだけでなく,原審判断命題,適用される法令・判例・経験則,記録上の証拠,誤りが結論に及ぼす影響を順に示すべきである。
3 実体法の規範又は当てはめを誤る型
平成8年度には,医療過誤,交通事故の素因減額,共同相続人による建物使用,公の施設の利用拒否,強制加入団体の政治献金,誤振込等,現在も引用される重要判決が含まれる。分野は異なっても,形式的な権利関係と当事者間の原因関係,一般的慣行と法的規範,抽象的危険と具体的危険を分けることが共通して重要である。
第3 判例秘書で本文を確認した代表7判決
1 医療過誤と医薬品添付文書
最高裁第三小法廷平成8年1月23日判決・平成4年(オ)第251号は,医療水準は平均的医療慣行と一致するとは限らず,医薬品の添付文書上の注意事項に従わず事故が発生した場合には,合理的理由がない限り医師の過失が推定されるとした。
実務では,添付文書から外れた事実だけで責任を確定しない。診療当時の版,改訂情報・緊急安全性情報,投与指示,実施記録,検査・監視記録,逸脱理由,事故,因果関係及び損害を分けて立証する必要がある。判決本文は裁判所ウェブサイト及び判例秘書(L05110000)で確認した。
2 非疾患の身体的特徴と既往疾患
最高裁第三小法廷平成8年10月29日判決・平成5年(オ)第875号は,疾患に当たらない身体的特徴は,特段の事情がない限り,損害賠償額の算定で斟酌できないとした。本文は裁判所ウェブサイト及び判例秘書(L05110078)で確認した。
同日の最高裁第三小法廷判決・平成5年(オ)第1603号は,後縦靱帯骨化症が損害の拡大に大きく寄与し,損害全部を加害者に負担させることが公平を失する場合に,民法722条2項の類推適用による減額を認めた。本文は判例秘書(L05110080)及びD1-Law.com判例体系で確認したが,裁判所ウェブサイトには掲載されていない。
両判決は同日判決であるが,前者は個体差,後者は疾患を扱う別事件である。素因減額では,まず疾患か非疾患の身体的特徴かを分類し,その後に事故との寄与,公平及び損害項目ごとの影響を検討する必要がある。
3 共同相続人による建物の無償使用
最高裁第三小法廷平成8年12月17日判決・平成5年(オ)第1946号は,共同相続人の一人が被相続人の許諾を得て遺産である建物に同居していた場合,特段の事情がない限り,相続開始から遺産分割により建物の所有関係が確定するまでの間,被相続人とその相続人との間に建物を無償で使用させる合意があったものと推認されるとした。本文は判例秘書(L05110095)で確認した。
この判決を使うときは,相続開始後の使用利益を当然に不当利得と決め付けず,被相続人の許諾,同居経緯,費用負担,使用範囲及び遺産分割までの暫定的使用関係を確認する必要がある。
4 公の施設の利用拒否
最高裁第二小法廷平成8年3月15日判決・平成5年(オ)第1285号は,集会に反対する者による妨害のおそれを理由に公の施設の利用を拒否するには,客観的事実に照らした具体的危険が必要であり,警察の適切な警備等によっても混乱を防止できないなどの特別な事情を要するとした。本文は判例秘書(L05110026)で確認した。
抽象的な「混乱のおそれ」だけでなく,予告行動,規模,施設構造,警備可能性,代替措置及び制限の程度を具体化することが重要である。
5 税理士会の政治献金
最高裁第三小法廷平成8年3月19日判決・平成4年(オ)第1796号は,強制加入団体である税理士会が政治団体に寄付することは税理士会の目的の範囲外であり,そのための特別会費を徴収する決議は無効であるとした。本文は判例秘書(L05110027)で確認した。
団体の目的,加入・脱退の自由,構成員の思想・信条への負担,支出先及び支出目的を分けて検討する必要がある。
6 誤振込と預金債権
最高裁第二小法廷平成8年4月26日判決・平成4年(オ)第413号は,振込依頼人と受取人との間に原因関係がなくても,受取人と被仕向銀行との間に振込金額相当の預金契約が成立するとした。本文は裁判所ウェブサイト及び判例秘書(L05110037)で確認した。
ここでは,預金債権が成立するか,不当利得返還請求が成立するか,差押え又は相殺を排除できるかを別問題として扱う必要がある。原因関係がないという一事から預金債権自体が存在しないと短絡してはならない。
第4 上告・原判決監査で用いる三つの作業表
1 請求・当事者・手続段階表
| 欄 | 確認内容 |
|---|---|
| 請求 | 訴訟物,主位・予備位,一部請求,附帯請求 |
| 当事者 | 原告・被告,承継,死亡,選定当事者等 |
| 手続段階 | 第一審,控訴審,上告・受理申立て,差戻審 |
| 処分 | 認容・棄却,取下げ・放棄,移送,差戻し・自判 |
| 上訴対象 | どの請求・当事者・部分が不服申立ての対象か |
この表は,当事者又は請求の一部が判決主文から脱落すること,既に終了した部分を再度審理すること,上訴対象外の部分を誤って争うことを防ぐために用いる。
2 原審判断の推論表
「原審の判断命題→適用法令・判例・経験則→記録上の証拠→証拠から主要事実までの中間推論→想定反証→結論への影響」の順に一行で整理する。証拠の評価替えを求めるだけではなく,どの推論規則に反し,なぜ判決結果に影響するかを示すことが重要である。
3 時効・執行イベント表
時効又は民事執行が争点となる事件では,行為者,相手方,対象債権,手続名,申立日,送達・通知日,終了事由及び法的効果を時系列で固定する。旧判決の「時効中断」等を現行法に用いる場合は,完成猶予・更新のどの制度に相当するかを改めて確認する。
第5 差戻しか自判かを予測する
最高裁が正しい規範を示しても,寄与度,公平,因果関係,損害又は未判断の抗弁について追加の事実認定が必要なら,原則として差戻しとなる。後縦靱帯骨化症判決は,疾患の寄与及び公平な分担を判断するため,更なる審理を必要とする例である。
これに対し,原審が確定した事実に正しい法令を適用すれば結論が一義的に決まり,事件が裁判をするのに熟している場合には破棄自判となる。誤振込判決は,原因関係の不存在を理由に預金債権の成立を否定した原審の法解釈を正し,確定事実を前提に結論を出した例として読める。
差戻審の初動では,請求ごとに,破棄範囲,拘束判断,原審確定事実,未判断争点,立証責任,既提出証拠及び追加証拠を一覧化することが有効である。詳しくは,民事の破棄差戻審―拘束力,残存争点及び主張立証(AI作成)を参照されたい。
第6 現行法への読替え
平成8年度判決には,旧民事訴訟法,改正前の消滅時効,旧遺留分減殺請求,当時の賃料増減額制度,法人法制等を前提とするものが含まれる。古い判決を引用するときは,次の三段階を踏む必要がある。
①判決が示した一般法理を特定する。
②その法理の前提となる条文及び制度が現在も同じかを確認する。
③改正後の条文,経過措置及び後続判例によって,現在の事件へ適用できる範囲を示す。
判旨として現在も重要であることと,現在の事件にそのまま適用できることは別である。
第7 出典及び確認状況
- 野山宏「最高裁民事破棄判決の実情(1)~(4・完)―平成8年度―」:年次解説であり二次資料。47件全体の件数,分類及び概要を確認した。
- 最高裁第三小法廷平成8年1月23日判決・平成4年(オ)第251号:裁判所ウェブサイト及び判例秘書L05110000で本文確認済み。
- 最高裁第三小法廷平成8年10月29日判決・平成5年(オ)第875号:裁判所ウェブサイト及び判例秘書L05110078で本文確認済み。
- 最高裁第三小法廷平成8年10月29日判決・平成5年(オ)第1603号:判例秘書L05110080及びD1-Law.com判例体系で本文確認済み。裁判所ウェブサイトは未掲載。
- 最高裁第三小法廷平成8年12月17日判決・平成5年(オ)第1946号:判例秘書L05110095で本文確認済み。
- 最高裁第二小法廷平成8年3月15日判決・平成5年(オ)第1285号:判例秘書L05110026で本文確認済み。
- 最高裁第三小法廷平成8年3月19日判決・平成4年(オ)第1796号:判例秘書L05110027で本文確認済み。
- 最高裁第二小法廷平成8年4月26日判決・平成4年(オ)第413号:裁判所ウェブサイト及び判例秘書L05110037で本文確認済み。
- 上記以外の40判決:年次解説を確認したが,個別判決本文は未照合である。
第8 まとめ
平成8年度の47件は,上告実務を「分野別判例の暗記」だけで処理できないことを示している。原判決の破綻箇所を,手続,規範,証拠,推論及び結論への影響に分解し,破棄後に残る事実審理まで見通すことが重要である。
実務では,請求・当事者・手続段階表,原審判断の推論表及び時効・執行イベント表を事件ごとに作り,一次資料で確認できた命題と,年次解説だけに基づく命題とを明確に分けるべきである。