第1 結論の要旨
交通事故の加害者又は保険会社から被害者に対して、損害賠償債務が存在しないこと又は一定額を超えて存在しないことの確認を求める訴訟が提起されることがある。これを債務不存在確認訴訟という。
責任の有無又は損害額について現実の争いがあり、訴訟外の交渉では解決していない場合には、加害者側にも法律関係の不安定を解消する利益があるため、原則として確認の利益が認められる。もっとも、損害が流動的・未確定の段階での提訴、加害者側の著しく不誠実な交渉態度又は専ら被害者を困惑させる目的による提訴等では、確認の利益が否定される余地がある。
症状固定前の提訴であるという一事だけで、直ちに訴えが却下されるわけではない。東京高裁平成4年7月29日判決は、症状が固定していない場合には確認の必要性が問題となり得る一方、加害者側が被害者の言い分を正確に把握できず、訴訟で損害を確定する必要がある場合もあるとした。東京高裁平成28年11月2日判決は、症状固定の有無について原告に主張立証の機会を与えないまま訴えを却下した原判決を、審理不尽として取り消した。
被害者側では、誰が、どの債務の不存在確認を求めているかを最初に確認し、症状経過、通院、検査予定及び事故との因果関係を医療資料に基づいて整理する必要がある。
第2 債務不存在確認訴訟とは
1 加害者側から提起する訴訟
通常の交通事故訴訟では、被害者が原告となり、加害者等に損害賠償を請求する。債務不存在確認訴訟では、立場が逆になり、加害者側が原告となって、被害者に対する損害賠償債務が存在しないこと又は一定額を超えて存在しないことの確認を求める。
被害者が訴訟を提起しないまま多額の請求を維持している場合等に、加害者側が法律関係を確定させるために利用するものである。
2 確認の利益
確認の訴えが適法であるためには、判決によって現在の権利又は法律関係の不安定を除去する必要性・実効性がなければならない。交通事故の債務不存在確認訴訟では、被害者が当該債権を主張しているか、責任又は損害額に現実の争いがあるか、判決によって紛争を抜本的に解決できるかが問題となる。
確認の利益は、提訴時だけでなく、口頭弁論終結時の状態で判断される。被害者が反訴として損害賠償を請求した場合、債務不存在確認請求がどの範囲でなお必要かも整理される。
第3 確認の利益に関する裁判例
| 裁判例 | 事案 | 判断の要点 |
|---|---|---|
| 東京高裁平成4年7月29日 | 人身事故。被害者欠席の第1回口頭弁論で原審が訴えを却下 | 責任・損害額に争いがあれば原則として確認の利益を肯定。必要な釈明・審理をせず却下した原判決を取消し |
| 東京地裁平成9年7月24日 | 物損事故。休車損害額の交渉が1年以上続いたが合意できず | 原則肯定。ただし損害未確定、不誠実な交渉、困惑目的等で権利濫用となる場合は不適法となり得る |
| 東京高裁平成23年8月4日 | 自賠責保険会社が被害者に直接請求権に基づく債務の不存在確認を請求 | 被害者が保険会社に対する当該債権を主張していないため確認の利益を否定 |
| 東京高裁平成28年11月2日 | 被害者が脳脊髄液減少症の検査予定を主張。原審が送付嘱託を却下して訴えを却下 | 症状固定等を主張立証する機会を原告に与えず却下したのは審理不尽として原判決を取消し、差戻し |
1 東京高裁平成4年7月29日判決
東京高裁平成4年7月29日判決(平成4年(ネ)第1316号、判例タイムズ809号215頁、判例秘書L04720249)は、交通事故による責任の有無、損害額及び過失割合等に争いがあり、訴訟外で解決の見込みがない場合には、被害者が訴訟を提起しないことによる法律関係の不安定を除去するため、加害者側から債務不存在確認を求めることが許されるとした。
他方、症状が未固定で損害が拡大する余地がある場合、被害者から何ら請求されていない場合又は誠意ある協議が続いている場合には、確認の必要性・利益が問題となり得るとも述べた。ただし、それらの事情があれば直ちに確認の利益を否定するのではなく、当事者に主張立証の機会を与えて審理する必要があるとした。
2 東京地裁平成9年7月24日中間判決
東京地裁平成9年7月24日中間判決(平成8年(ワ)第643号、判例タイムズ958号241頁、判例秘書L05230238)は、物損事故の休車損害額について1年以上交渉しても双方の主張に隔たりが残った事案で、確認の利益を肯定した。
同判決は、責任又は損害額に争いがあれば特段の事情がない限り確認の訴えを許す一方、①被害が流動的・未確定の時期の提訴、②加害者側の著しく不誠実な交渉態度により訴訟外解決ができなかった場合、③専ら被害者を困惑させる動機による提訴等で権利濫用となる場合には、確認の利益を否定し得ると整理した。
3 東京高裁平成23年8月4日判決
東京高裁平成23年8月4日判決(平成23年(ネ)第3128号・第4581号、交通民集44巻4号851頁、判例秘書L06620757)は、自賠責保険会社が被害者に対し、自賠法16条1項の直接請求権に基づく支払債務が存在しないことの確認を求めた事案である。
同判決は、債務不存在確認訴訟には、被告が当該債権の存在を主張していることが必要であり、債権の要件事実の一つに争いがあるだけでは足りないとした。被害者は保険会社に対する当該直接請求権があるとは主張していなかったため、確認の利益がないとされた。
加害者本人の損害賠償債務と、自賠責保険会社に対する直接請求権は別の権利関係であるから、「誰が原告で、どの債務の不存在確認を求めているか」を区別する必要がある。
4 東京高裁平成28年11月2日判決
東京高裁平成28年11月2日判決(平成28年(ネ)第3199号、自保ジャーナル1990号62頁、判例秘書L07120895)は、被害者が脳脊髄液減少症の可能性を指摘され、専門医の検査を予定していると主張した事案である。
原審は、加害者側が申し立てた診療記録の送付嘱託を却下し、2回の口頭弁論で審理を終結して、確認の利益を欠くとして訴えを却下した。東京高裁は、既に治癒又は症状固定を一応推認させる証拠が提出されており、加害者側には、医療記録等に基づき、事故による脳脊髄液減少症の発症可能性がないことを主張立証する余地があったとして、主張立証の機会を与えないまま却下したのは審理不尽であると判断した。
第4 症状固定前に提訴された場合
症状固定は、治療を続けても症状の改善が見込みにくく、損害を算定する基礎となる状態が定まった時点をいう。症状固定前には、治療費、休業損害、通院慰謝料及び後遺障害の有無・程度が確定していないため、一度の判決で紛争を解決できるかが問題になる。
しかし、被害者が「まだ症状固定していない」と主張しているというだけで確認の利益が当然に否定されるものではない。裁判所は、治療経過、医師の見解、症状の推移、今後予定される検査・治療及び事故との因果関係を審理し、現時点で損害を確定できるかを判断する。
被害者が自賠責の後遺障害等級認定を申請中である場合、裁判所がその結果を待つか、訴訟上の争点整理を並行して進めるかは事案による。受傷そのもの又は事故との因果関係が強く争われる場合には、自賠責の判断を待たずに審理が進むこともある。
第5 被害者側の対応
1 原告と訴訟物を確認する
訴状を受け取ったら、原告が運転者、車両保有者、使用者、任意保険会社又は自賠責保険会社のいずれであるかを確認する。次に、存在しないことの確認を求められている債務が、民法上の損害賠償債務、自賠法3条の債務、自賠法16条1項の直接請求権又は保険契約上の給付義務のいずれであるかを確認する。
東京高裁平成23年判決のように、被害者がその原告に対する当該債権をそもそも主張していない場合には、確認の利益が争点となる。
2 症状経過と医療資料を整理する
症状固定前であると主張する場合は、単に治療中であると述べるだけでなく、次の事項を時系列で整理する。
- 事故直後から現在までの自覚症状と診断名
- 通院先、通院頻度、治療内容及び治療効果
- 主治医が治療継続を必要とする理由
- 今後予定される検査、治療及びその時期
- 症状固定の見込みに関する医師の見解
- 事故前の既往症、事故後の別原因及び事故との因果関係
- 就労・家事・学業・日常生活への具体的影響
診療録、診断書、画像、検査結果及び診療報酬明細書を揃え、医学的に未確定な事項と、既に判断可能な事項を分ける必要がある。
3 反訴その他の手続選択
被害者が損害賠償請求の要件と金額を立証できる状態であれば、同じ訴訟で反訴として損害賠償を請求することが検討対象となる。反訴が提起されれば、加害者側の債務不存在確認請求がどの範囲で必要かも整理される。
他方、症状や損害が未確定であれば、確認の利益を争うほか、必要な医療調査のための期日、文書送付嘱託、調査嘱託又は鑑定等を申し立てることが考えられる。どの対応を選ぶかは、消滅時効、既払金、過失割合、医療上の見通し及び証拠の状態によって異なる。
第6 加害者側が提訴前に確認すること
加害者側では、被害者が実際にどの債権を、いくら請求しているかを特定し、提訴前の交渉経過を保存する必要がある。被害者の症状・損害が未確定であれば、訴訟によって現時点の紛争を抜本的に解決できるかを検討する。
特に、提示額の算定根拠を説明しないまま早期に提訴する、必要な医療情報の提供を待たずに提訴する、又は被害者を交渉上不利にする目的で提訴したと評価される事情は、確認の利益又は訴権濫用の争点になり得る。通知書、回答書、面談記録及び提示額の計算資料を整え、提訴の必要性を具体的に説明できるようにすることが重要である。
第7 出典
①民事訴訟法(令和8年9月27日閲覧)
②東京高等裁判所平成4年7月29日判決(平成4年(ネ)第1316号、判例タイムズ809号215頁、判例時報1433号56頁、判例秘書L04720249)
③東京地方裁判所平成9年7月24日中間判決(平成8年(ワ)第643号、判例タイムズ958号241頁、判例時報1621号117頁、判例秘書L05230238)
④東京高等裁判所平成23年8月4日判決(平成23年(ネ)第3128号・第4581号、交通民集44巻4号851頁、判例秘書L06620757)
⑤東京高等裁判所平成28年11月2日判決(平成28年(ネ)第3199号、自保ジャーナル1990号62頁、判例秘書L07120895)
⑥公益財団法人日弁連交通事故相談センター東京支部編『民事交通事故訴訟 損害賠償額算定基準 下巻(講演録編)2020年版』37頁~45頁(講演「債務不存在確認請求訴訟をめぐる諸問題について」)