第1 量子コンピューターの話が企業法務に関係する理由
1 今すぐ全ての暗号が破られるという話ではない
量子コンピューターの発展は,現在使われている暗号の一部に,将来の大きな影響を及ぼし得る。
しかし,「量子コンピューターが計算実験で優れた成績を出した」という発表と,「企業の通信や電子契約に使われている暗号が解読された」という事実は異なる。
対象となる暗号方式,必要な計算機の能力及び実験で解いた問題を分けて読む必要がある。
企業や法律事務所にとっての問いは,実用化の年を言い当てることよりも,長く秘密を守る必要のある情報と,変更に時間のかかるシステムを把握できているかである。
暗号方式の移行に備える作業には,情報システム部門だけでなく,情報の保有部門,法務,調達及びサービス提供事業者が関わる。
2 本記事の対象と資料
本記事は,令和8年11月2日までに確認したGoogle,米国国立標準技術研究所(NIST),金融庁及び電子署名に関する政府の公表資料に基づき,暗号への影響と準備の考え方を整理する。
令和6年のWillow発表は,計算実験と実務上の安全性を区別するための例として取り上げる。
特定製品の安全性や,量子コンピューターによる個別の被害を認定するものではない。
第2 Willowの「5分」は何を意味するのか
1 特定の計算実験と比較条件
Googleは,令和6年12月9日のWillowに関する発表で,ランダム回路サンプリングというベンチマークの計算を5分未満で行ったと説明した。
同社は,この計算を当時の有力なスーパーコンピューターで行う場合に必要な時間を,10の25乗年と推計して比較している。
これはGoogleの評価と推計に基づく比較であり,その年数にわたり実際に計算させた結果ではない。
ランダム回路サンプリングは,量子計算の能力を評価するための特定の課題である。
この数値から,企業の業務処理,配送経路の最適化又は暗号解読が,一律に同じ倍率で高速化すると読み替えることはできない。
出典はGoogleのWillow発表である。
2 量子ビット数だけで暗号を破る能力は決まらない
同発表は105量子ビットのチップと,量子誤り訂正の進展を説明している。
量子計算では誤りへの対応が重要であり,チップの量子ビット数と,長い計算を実行するための能力は同じ指標ではない。
「105量子ビットだから,特定の鍵長のRSAを解読できる」といった対応関係を,この発表だけから導くことはできない。
第3 影響を受ける暗号と用途を分ける
1 RSA・楕円曲線暗号と電子署名
十分な能力を持つ量子コンピューターが実現した場合,Shorのアルゴリズムは,RSAや楕円曲線に基づく暗号技術の安全性を支える問題に影響を及ぼす。
この問題は,秘密の通信だけに限られない。
通信で使う鍵を共有する仕組みや,電子署名にも関係する。
同じサービスでも,通信内容を暗号化する部分,その鍵を確立する部分,相手を認証する部分,保存文書に署名する部分で,使われる技術が異なる。
サービス名だけで「量子対応済み」と判断せず,どの用途がどの方式に依存しているかを確認する必要がある。
NISTは,移行の対象を鍵確立と電子署名等に分けて説明している(NIST IR 8547の公表ページ)。
2 AESまで同じ説明で扱わない
AESのような共通鍵暗号と,RSA等の公開鍵暗号を,同じ理由で一括して「破られる」と説明することは適切でない。
NISTのFAQは,共通鍵暗号に関係するGroverのアルゴリズムについて,計算を順次進める制約や並列化の条件にも触れている。
鍵長の数字だけで,現実の攻撃時間を単純に断定することはできない。
また,ファイル本体がAESで暗号化されていても,鍵の受渡しや保護に別の暗号技術が使われている場合がある。
ファイルの暗号名だけで判断せず,鍵の管理を含む構成を確認することが実務上の出発点になる。
Groverのアルゴリズムの説明の参照先はNISTの耐量子暗号FAQである。
共通鍵暗号の鍵が公開鍵暗号で保護される典型的な構成は,第4の1で触れる金融庁の報告書の本文7頁も説明している。
第4 「今集め,将来解読する」リスク
1 秘密を守る期間が長い情報
現在は解読できない暗号化データを取得・保存し,将来,解読能力を得た時点で読むという脅威は,Harvest Now, Decrypt Laterと呼ばれる。
長期間秘密を守る必要がある情報では,量子コンピューターの実現を待ってから準備するだけでは間に合わない可能性がある。
これは将来に備えるための脅威の想定であり,特定の企業の通信が既に収集・解読されたことを示すものではない。
金融庁が事務局を務めた検討会の預金取扱金融機関の耐量子計算機暗号への対応に関する検討会報告書は,秘密を保持すべき期間や,暗号の使われ方に応じた優先順位の検討を示している。
同報告書の主な対象は預金取扱金融機関である。
一般企業や法律事務所で参考にする場合も,自社・自事務所の情報とシステムに置き換えて考える必要がある。
2 保存期間と秘密保持が必要な期間
情報を自社で保存する期間と,外部に知られては困る期間は,同じとは限らない。
例えば,研究開発資料や依頼者の相談記録について,ファイルの保管場所だけでなく,いつまで秘密を守る必要があるかを確認することが考えられる。
これは移行の優先順位を付けるための実務上の整理であり,全ての情報を長期間保存するという提案ではない。
一度外部に取得された暗号文は,自社側の暗号方式を後から変更しても,それだけで相手の保有するデータを消せるわけではない。
移行計画では,新たな通信への対応と,既存データ・鍵の取扱いを分けて検討する必要がある。
第5 耐量子暗号(PQC)とは何か
1 量子コンピューターを買うための標準ではない
耐量子暗号(Post-Quantum Cryptography,PQC)は,量子コンピューターを使う攻撃にも耐えられるように設計された暗号技術である。
通常のコンピューターや通信環境への実装を目指すものであり,利用者側が量子コンピューターを導入することを意味しない。
NISTは耐量子暗号の解説で,従来方式からの移行を説明している。
2 令和6年に承認された三つの標準
NISTは,令和6年8月13日に,米国商務長官による次の三つの連邦情報処理標準の承認を発表した。
鍵を確立する方式と電子署名の方式を区別することが重要である。
| 標準 | 方式 | 主な用途 |
|---|---|---|
| FIPS 203 | ML-KEM | 鍵カプセル化による共有秘密の確立 |
| FIPS 204 | ML-DSA | 電子署名 |
| FIPS 205 | SLH-DSA | 電子署名 |
これは標準化された方式の説明であり,利用中の電子契約,VPN又はクラウドサービスが,自動的に全て対応済みになったという意味ではない。
実装,設定,相互接続及び更新の対応状況は,個々の製品やサービスで確認する必要がある。
出典はNISTの承認発表である。
3 「永久に破られない」という保証ではない
PQCは,将来の攻撃を考慮して設計・評価される技術である。
標準化されたことを,未知の弱点も含めて永久に安全であるという保証に読み替えることはできない。
金融庁の報告書も,今後PQCに脆弱性が見つかる可能性を踏まえ,暗号技術を変更できる柔軟性を確保する考え方を示している。
第6 企業・法律事務所が準備する順序
1 情報と暗号の利用箇所を棚卸しする
金融庁の報告書を参考に,一般企業や法律事務所で準備を具体化するなら,まず次の事項を台帳にまとめる方法が考えられる。
以下の担当分担や記録項目は,本記事の実務上の提案である。
一律の法定様式や,PQCへの移行義務の期限を示すものではない。
| 確認する事項 | 主な担当と残す記録 |
|---|---|
| 情報の種類と,秘密を守る必要がある期間 | 保有部門・法務が,情報の種類,理由,保存方針を記録する |
| 通信・保存・署名で使う暗号と鍵 | 情報システム部門・提供事業者が,対象システム,用途,方式及び管理者を整理する |
| 製品更新と他社との接続関係 | 情報システム部門・調達が,更新可否,保守期限,接続先及び依存製品を確認する |
| 移行の優先順位と未解決事項 | 経営・情報システム・法務が,理由,担当,次の確認時期を残す |
2 提供事業者には対象範囲を具体的に尋ねる
「PQCに対応していますか」という質問だけでは,回答の対象範囲が分からないことがある。
通信経路,保存データ,署名鍵,バックアップ及び利用者端末のどこまでが対象か,採用方式,提供時期,既存データへの対応,必要な利用者側の作業を分けて確認することが考えられる。
対応予定が未定の場合も,回答者,回答日,未定の事項及び次の確認時期を残す。
外部事業者の開発や他社システムとの接続に依存する部分は,自社だけで移行日を決められるとは限らない。
3 契約・費用・検証を移行計画につなぐ
契約更新や新規調達の機会には,暗号方式の変更に関する情報提供,協力範囲,費用負担,試験環境,サービスへの影響及びデータの移行・返還方法を確認することが考えられる。
既存契約に当然に無償対応義務があると決め付けず,契約本文と提供事業者の説明を照合する。
移行の判断では,秘密保持の必要期間だけでなく,試験・調整に要する時間や事業への影響も検討する。
具体的な時期は担当者と決裁者を定めて見直し,海外の標準化機関が示す期限を,そのまま日本の全企業に課された法的期限として扱わない。
情報資産台帳や委託関係の整理は,情報漏洩が相次ぐ今,企業の信頼を守る法務の備えも参照されたい。
第7 電子契約の長期保存で確認すること
1 秘密の保持と署名の検証は別の問題
電子契約では,内容を外部に読まれないようにする問題と,誰が作成し,内容が変更されていないかを確かめる問題を分ける必要がある。
金融庁の報告書は,電子署名によって保護される保存データの完全性についても,将来のリスクを検討している。
また,電子署名の技術的な安全性,電子署名法3条の真正な成立の推定及び契約の成立・効力は,同じ問題ではない。
量子技術の進展に関する一般論だけから,過去の電子契約が一律に無効になるという結論を導くことはできない。
2 長期にわたり証拠を確認できるか
政府の電子署名法3条関係Q&Aは,十分な暗号の強度等によって固有性が満たされることと,本人の意思に基づいて行われたことを区別している。
同Q&Aの問6は,電子文書の成立の真正は3条の推定のみによって判断されるものではなく,身元確認が高い水準で行われていなかった場合でも,成立過程を裏付ける証拠等が提出できれば,それらも有効な立証手段となり得ると説明している。
このQ&Aは量子コンピューターによる紛争の結論を示した資料ではない。
長期保存を予定する場合は,電子文書そのものに加え,署名・証明書・失効情報等の検証に必要な情報,タイムスタンプ,認証・操作の記録,契約のやり取りを,後から確認できるか提供事業者と検討することが考えられる。
必要な資料や更新方法は利用する方式で異なり,タイムスタンプがあるだけで将来にわたる証拠上の問題が全て解決するわけではない。
条文の要件と立証の整理は,電子署名法3条の推定とはで扱っている。
公的説明の原文は,利用者の指示に基づきサービス提供事業者自身の署名鍵により暗号化等を行う電子契約サービスに関するQ&A(電子署名法第3条関係)を参照されたい。
第8 よくある質問
1 AIによるサイバー攻撃と同じ問題なのか
AIを悪用して情報収集,プログラム解析又は攻撃手順の作成を効率化する問題と,量子計算で特定の暗号の安全性を支える問題を解くことは,仕組みが異なる。
量子計算への準備を進めることと,現在の脆弱性,認証情報の窃取及び設定不備への対策を続けることは,両立させる必要がある。
AIを悪用した攻撃の整理は,AIを悪用した無差別サイバー攻撃とはを参照されたい。
2 暗号化されていれば,長期保管しても安全なのか
暗号化されているという一事だけでは判断できない。
秘密を守る必要がある期間,暗号と鍵の構成,アクセス権限,保存先及び更新方法を確認する必要がある。
保存が不要な情報まで長期間残すことと,将来の暗号リスクへの準備を混同しないことが重要である。
3 まず何から始めればよいのか
長期に秘密を守る必要がある情報と,変更に時間のかかるシステムを,担当者付きで挙げるところから始める方法が考えられる。
次に,暗号の利用箇所と提供事業者の移行計画を確認し,未定事項を含めて経営判断につなぐ。
新しい製品の購入だけを準備の完了条件にしないことが重要である。
第9 出典
① Google「Meet Willow, our state-of-the-art quantum chip」(令和6年12月9日,令和7年6月12日更新)。
② NIST「Announcing Approval of Three Federal Information Processing Standards (FIPS) for Post-Quantum Cryptography」(令和6年8月13日)。
③ NIST IR 8547「Transition to Post-Quantum Cryptography Standards」(令和8年10月)。
④ NIST「What Is Post-Quantum Cryptography?」(令和8年2月27日更新)。
⑤ NIST CSRC「Post-Quantum Cryptography FAQs」(令和8年11月2日確認)。
⑥ 金融庁掲載「預金取扱金融機関の耐量子計算機暗号への対応に関する検討会報告書」(令和6年11月26日)。
⑦ 総務省・法務省・経済産業省「利用者の指示に基づきサービス提供事業者自身の署名鍵により暗号化等を行う電子契約サービスに関するQ&A(電子署名法第3条関係)」(令和2年9月4日,令和6年1月9日デジタル庁・法務省一部改定)。
⑧ 電子署名及び認証業務に関する法律3条(e-Gov法令検索)。