第1 この記事の対象と「密約」の意味
本記事は,沖縄返還をめぐる二つの非公表問題と,これに関係する西山事件の刑事裁判及び情報公開訴訟を扱うものである。
対象は,①有事の際における核兵器の沖縄への再持込み,②米国が行うとされた軍用地の原状回復補償について日本側が400万ドルの財源を負担した問題であり,令和8年8月29日までに確認できた公表資料に基づく。
外務省の有識者委員会報告書4頁は,公表された合意と異なる重要な内容を持ち,追加的な権利を相手国に与え,又は重要な義務若しくは負担を自国が引き受ける非公表の合意を「狭義の密約」と整理した。
同報告書は,明確な文書がなくても同様の重要な合意又は了解がある場合を「広義の密約」としており,本記事もこの区別に従う。
したがって,非公表文書が存在したこと,政府間の合意が成立したこと及びその合意が有識者委員会の定義する密約に当たることは,それぞれ別の問題である。
また,歴史資料による評価,刑事裁判で文書が保護に値する秘密であったかという判断及び情報公開訴訟で開示決定時に国が文書を保有していたかという判断も区別する必要がある。
第2 沖縄返還協定と公表された3億2000万ドル
1 協定の締結と返還
「日本国とアメリカ合衆国との間の琉球諸島及び大東諸島に関する協定」は,昭和46年6月17日に東京及びワシントンで署名された。
同協定は昭和47年5月15日に発効し,同日に沖縄の施政権が日本へ返還された。
2 協定4条3項と7条
協定4条3項は,米国が一定の軍用地の原状回復について土地所有者へ自発的な支払を行う旨を定めた。
他方,協定7条は,日本が米国へ合計3億2000万ドルを5年間で支払うことを定めた。
公表された協定を読む限り,原状回復補償の支払主体は米国であり,日本の3億2000万ドルの支払との間に財源上の関係があることは明記されていない。
400万ドル問題の核心は,協定の表面上の支払主体ではなく,米国の自発的支払の財源を日本が提供するとの非公表の了解があったかという点にある。
第3 有事の核再持込みに関する合意議事録
1 昭和44年の共同声明と非公表文書
昭和44年11月21日の佐藤総理大臣とニクソン大統領の共同声明8項は,米国の事前協議制度上の立場を害することなく,日本政府の核政策に反しないよう沖縄返還を実施する旨を公表した。
これとは別に,重大な緊急事態が生じた場合に,米国が沖縄へ核兵器を再び持ち込むため事前協議を行い,日本側がその必要を満たす旨の「合意議事録」が両首脳の署名により作成された。
2 外務省内部調査で確認できた範囲
外務省調査チームは,外務本省及び在米日本大使館の合計4423冊のファイルを調べたが,外務省保管資料から合意議事録を発見しなかった。
もっとも,平成21年12月に佐藤家から写しの提供を受け,その内容が公刊資料に示されていた文面とおおむね同じであることを確認した。
文書が外務省の調査対象ファイルになかったことは,文書が作成されなかったことを意味しない。
反対に,佐藤家で署名文書が確認されたことだけから,それが後継内閣を拘束する政府間合意であったと直ちに結論付けることもできない。
3 有識者委員会の評価
有識者委員会報告書79頁は,合意議事録が佐藤内閣の後継内閣を拘束する長期的効力について否定的に評価した。
同報告書は,合意議事録が共同声明8項より踏み込んでいるものの,公表された内容を大きく超える負担を約束したとはいえないとして,委員会の定義上「必ずしも密約とはいえない」とした。
また,合意議事録が昭和44年の首脳間交渉の成立に果たした役割については,判断資料が不足しているため確定できないとした。
したがって,署名文書の存在,後継内閣に対する拘束力及び共同声明成立との因果関係は,分けて把握する必要がある。
第4 原状回復補償費400万ドルの財源負担
1 米国の自発的支払と日本側の財源提供
返還交渉では,沖縄の軍用地について米国が土地所有者へ自発的に補償する一方,米国議会へ新たな歳出を求めずに済む財源の処理が問題となった。
有識者委員会報告書は,米国が自発的支払を行うが,その財源400万ドルを日本側が負担するとの了解が成立していたと評価した。
同報告書によれば,交渉過程では日本側の支払総額が当初の3億ドルから,原状回復補償費400万ドル及びVOA移転費1600万ドルを加えた3億2000万ドルとなった。
この資金構成は,公表された返還協定及び関連取決めには明記されていなかった。
2 不公表書簡案と「議論の要約」
米側の自発的支払のため日本が400万ドルを提供することを明記する不公表書簡案が検討されたが,書簡は最終的に発出されなかった。
また,昭和46年6月12日には,日米の交渉担当者が「議論の要約」にイニシャルしたとされるが,外務省調査でその文書自体は確認されなかった。
有識者委員会は,不公表書簡案及び「議論の要約」自体について,両政府を拘束する「狭義の密約」ではないと評価した。
他方,米国が支払を行いながら日本がその財源を負担し,400万ドル及び1600万ドルを3億ドルへ追加するとの非公表の合意又は了解は,両政府の財政処理を制約するため「広義の密約」に当たると評価した。
第5 西山事件の公表経過と刑事裁判
1 国会で示された外務省の極秘公電
沖縄返還交渉を取材していた毎日新聞記者の西山太吉は,外務省職員から交渉関係文書を入手した。
昭和47年3月27日及び28日の衆議院予算委員会では,横路孝弘議員が外務省の極秘公電の写しを示し,原状回復補償費の財源をめぐる交渉経緯を追及した。
その後,外務省職員は秘密漏示で,西山は秘密漏示をそそのかしたとして国家公務員法違反に問われた。
この刑事事件で直接問題となったのは,返還交渉の歴史的評価全体ではなく,公電が法的に保護される秘密に当たるか,西山の行為が「そそのかし」に当たるか及び取材方法が正当な取材活動の範囲内かである。
2 第一審から最高裁まで
東京地裁昭和49年1月31日判決・昭和47年(特わ)第477号(判時732号12頁・裁判所HP未掲載)は,西山を無罪とした。
東京高裁昭和51年7月20日判決・昭和49年(う)第910号(高刑集29巻3号429頁・独立した裁判例ページは裁判所HP未掲載)は,第一審判決を破棄し,懲役4月,執行猶予1年とした。
最高裁昭和53年5月31日第一小法廷決定・昭和51年(あ)第1581号(刑集32巻3号457頁)は上告を棄却し,有罪判断が確定した。
最高裁は,国家公務員法上の秘密とは,非公知の事実であり,実質的にも秘密として保護するに値するものをいい,その該当性は司法判断に服するとした。
最高裁は,愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との会談概要を記載した1034号電信文案について,外交交渉の有効な遂行を守る必要から保護に値する秘密であると判断した。
また,財源問題はいずれ国会で政治責任として討議されるべきものであったとしながら,政府が憲法秩序に抵触する行動をしたものではなく,文案に違法な秘密が含まれるとの主張を退けた。
3 報道・取材の自由と取材方法の限界
最高裁は,国政に関する報道の自由を特に重要なものとし,正しい報道のための取材の自由も十分尊重に値するとした。
その上で,公務員へ秘密漏示を働き掛けたことだけで直ちに違法性が推定されるものではなく,真に報道目的から出た行為で,手段と方法が社会通念上相当であれば正当な業務行為となり得るとした。
もっとも,取材対象者の人格の尊厳を著しく侵害するなど,社会通念上是認できない態様は正当な取材活動の範囲を逸脱するとした。
最高裁は原審が認定した一連の取材方法をこの基準へ当てはめ,有罪判断を維持したのであり,報道又は取材の自由を一般的に否定したものではない。
第6 西山による国家賠償訴訟
西山は後に国へ謝罪及び損害賠償を求める訴訟を提起したが,東京地裁平成19年3月27日判決及び東京高裁平成20年2月20日判決はいずれも請求を退けた。
両判決は裁判所HPに掲載されていないが,外務省の会見記録によれば,東京地裁は不法行為から20年が経過したことを理由に判断し,密約の存否には判断を示さなかった。
この訴訟の敗訴を,400万ドルの財源負担に関する政府間了解が存在しなかったとの司法判断として扱うことはできない。
密約調査の結果は平成22年に公表されたため,平成19年及び平成20年の国家賠償訴訟の判断時期との前後関係にも注意を要する。
第7 沖縄返還文書の情報公開訴訟
1 開示請求と東京地裁判決
研究者及び報道関係者らは,平成20年9月2日,外務大臣及び財務大臣に対し,原状回復補償費の財源負担など沖縄返還交渉に関する文書の開示を請求した。
両省は,同年10月2日,対象文書を保有していないとして不開示決定をした。
東京地裁平成22年4月9日判決・平成21年(行ウ)第120号(判時2076号19頁)は,対象文書が作成され,国が保有していると認定して不開示決定を取り消し,文書の開示を命じたほか,国家賠償請求の一部を認容した。
この判決は,後記の東京高裁判決により取り消されており,裁判所HPには独立した裁判例ページが掲載されていない。
2 東京高裁判決
東京高裁平成23年9月29日判決・平成22年(行コ)第183号は,第一審判決を取り消し,請求を退けた。
同判決は,対象文書が作成され,又は取得されたとしても,特別な管理方法や廃棄の可能性を含む事情から,不開示決定時に外務省又は財務省がなお保有していたとは推認できないとした。
東京高裁は,仮に重要な外交文書が秘密裏に廃棄されたのであれば,外交文書の適正管理や情報公開制度の実効性を損なう重大な問題である旨も指摘した。
もっとも,その問題性と,情報公開法に基づき現存文書の開示を命じることができるかは別であると判断した。
3 最高裁判決と立証責任
最高裁平成26年7月14日第二小法廷判決・平成24年(行ヒ)第33号(集民247号63頁)は,上告を棄却した。
最高裁は,文書を保有していないことを理由とする不開示決定の取消訴訟では,取消しを求める者が,不開示決定時に行政機関が文書を保有していたことについて主張立証責任を負うとした。
過去に行政機関が文書を作成又は取得したことが立証されても,不開示決定時の保有を直ちに推認できるわけではない。
最高裁は,文書の内容と性質,作成又は取得の経緯,経過期間及び保管体制などを個別具体的に検討すべきであるとし,本件事情では平成20年の決定時に国が文書を保有していたとは推認できないと判断した。
4 最高裁が判断しなかったこと
最高裁判決は,開示請求の時点における文書の保有を認められないため,不開示決定は適法であると判断したものである。
日米間で原状回復補償費の財源負担に関する合意又は了解が成立しなかったと判断したものではなく,過去に対象文書が作成又は取得されなかったと断定したものでもない。
歴史上の合意を示す米国側文書が存在することと,日本の行政機関が平成20年10月2日の時点で同じ文書を保有していたことは異なる命題である。
この区別が,外務省調査の結論と情報公開訴訟の結論を整合的に理解する鍵となる。
第8 主要な経過
| 年月日 | 出来事 |
|---|---|
| 昭和44年11月21日 | 佐藤・ニクソン共同声明が発表され,核再持込みに関する合意議事録へ両首脳が署名した。 |
| 昭和46年6月12日 | 原状回復補償費に関する「議論の要約」へ日米の交渉担当者がイニシャルしたとされる。 |
| 昭和46年6月17日 | 沖縄返還協定が署名された。 |
| 昭和47年3月27日・28日 | 衆議院予算委員会で外務省の極秘公電の写しが示された。 |
| 昭和47年5月15日 | 沖縄返還協定が発効し,沖縄の施政権が日本へ返還された。 |
| 昭和53年5月31日 | 最高裁が西山の上告を棄却し,有罪判断が確定した。 |
| 平成21年9月16日 | 外務大臣が四つのいわゆる密約問題について調査を命じた。 |
| 平成22年3月5日 | 外務省調査チームの内部報告書が取りまとめられた。同月9日に調査結果として公表された。 |
| 平成22年3月9日 | 有識者委員会報告書及び関連文書が公表された。 |
| 平成23年9月29日 | 東京高裁が情報公開訴訟の第一審判決を取り消した。 |
| 平成26年7月14日 | 最高裁が情報公開訴訟の上告を棄却した。 |
第9 関連記事
在日米軍基地全般,沖縄返還密約に関する従前の概要及び米軍基地をめぐる主要裁判例については,「在日米軍基地」参照。
行政機関情報公開法の制度全体,開示請求の方法及び不開示情報については,「行政機関等に対する情報公開請求の基礎——対象外の書類,審査会,情報公開訴訟,公文書管理法(AI作成)」参照。
国家公務員法上の「秘密」に関する西山事件最高裁決定と司法修習生の守秘義務との関係については,「司法修習生の守秘義務違反が問題となった事例(AIリライト)」参照。
第10 出典
① 外務省「いわゆる「密約」問題に関する調査」
② 外務省「いわゆる「密約」問題に関する調査報告書」(平成22年3月5日)
③ いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会「報告書」(平成22年3月9日)
④ 外務省「調査対象文書」
⑤ 外務省「日本国とアメリカ合衆国との間の琉球諸島及び大東諸島に関する協定」
⑥ 裁判所「最高裁昭和53年5月31日第一小法廷決定・昭和51年(あ)第1581号」
⑦ 裁判所「東京高裁平成23年9月29日判決・平成22年(行コ)第183号」
⑧ 裁判所「最高裁平成26年7月14日第二小法廷判決・平成24年(行ヒ)第33号」
⑨ 外務省「報道官会見記録(平成19年3月)」及び「報道官会見記録(平成20年2月)」