第1 資産額と支払能力は同じではない
1 この記事が扱う場面
訴訟上の和解、離婚に伴う財産分与及び遺産分割における代償分割では、「相手には資産があるから支払える」「年収が高いから一括払いできる」と考えてしまうことがある。
しかし、保有資産の名目額と、合意した期限までに現実に支払へ充てられる額は一致しない。
本記事は、令和8年9月15日現在の法令及び公的資料を基準に、支払能力を、①名目額、②時価、③換価可能性、④所有・処分権限、⑤負担控除後の正味額、⑥支払期限までの資金化という六つの観点から確認する方法を整理する。
個別事件の相当な支払額又は分与額を示すものではない。
2 六つの確認軸
第1は、資料に記載された名目額である。
預貯金残高、証券口座の評価額、固定資産評価額、保険の解約返戻金見込額などは、同じ「金額」でも基準日と意味が異なる。
第2は、現在の時価である。
不動産の固定資産評価額や取得価格は、現在の売却価格と同じではない。
上場株式等も日々価格が変動する。
第3は、必要な時期までに換価できるかである。
資産価値があっても、売却、解約、融資又は名義変更に時間がかかれば、直近の支払期限には使えない。
第4は、誰が所有し、誰が処分を決められるかである。
法人の預金は代表者個人の預金ではなく、共有財産は一人の判断だけで処分できないことがある。
第5は、担保債務、税金、売却費用その他の負担を控除した正味額である。
総資産が大きくても、これらを控除すると支払原資が小さくなることがある。
第6は、支払う意思と手続を具体化できるかである。
支払口座、換価手続、融資申込み、社内決裁等が決まっていなければ、「支払える」という説明だけで期限どおりの履行を見込むことはできない。
第2 資産別に「実際に使える額」を確認する
1 預貯金
預貯金は流動性が高いが、残高証明書又は通帳の一時点の残高だけでは足りないことがある。
既に支払が予定されている税金、給与、買掛金、生活費、借入返済等を確認し、口座名義、基準日、差押え又は担保の有無も確認する。
事業用口座と生活用口座が混在している場合は、残高全額を自由に使える個人資産として扱わず、入出金の性質を分ける必要がある。
2 上場株式・投資信託その他の金融資産
金融資産については、評価額だけでなく、取得価額、含み損益、売却手数料、税金、受渡日、担保設定及び出金制限を確認する。
NISA口座であることは非課税投資枠の取扱いに関係するが、売却後の資金をいつ出金できるかは金融機関の手続にも左右される。
証券口座の残高増加を検討するときは、値上がり益だけでなく、入金、移管、配当再投資及び為替変動を分ける必要がある。
詳しくは、証券口座の残高増加をどう検証するかを参照されたい。
3 不動産
不動産については、査定額又は鑑定評価額から、住宅ローン等の被担保債務、仲介手数料、登記費用、譲渡所得税その他の処分費用を検討する。
売却に要する期間、共有者又は担保権者の同意、明渡しの要否も支払時期に影響する。
不動産を取得する者が代償金を支払う場合は、不動産の評価と代償金の原資を別々に確認する。
取得する不動産を将来売却すれば払えるという説明だけでは、売却前に到来する期限の履行可能性は分からない。
4 保険、退職金、事業及び法人関係財産
保険は、保険金額ではなく、現時点の解約返戻金、解約に要する期間及び契約者貸付の残高を確認する。
退職金は、現在退職した場合の見込額、支給条件、退職予定時期及び勤務先の証明資料を確認する。
会社経営者又は個人事業主については、会社財産、個人所有の株式、会社に対する貸付金、役員報酬及び事業用財産を区別する。
会社に十分な預金があっても、代表者個人が当然にこれを和解金等へ流用できるわけではない。
第3 収入と一括払いの原資を分ける
1 高収入でも一括払いできるとは限らない
年収は一定期間の収入を示すが、特定の日にまとまった金額を支払えることを直接示すものではない。
税金、社会保険料、生活費、既存債務及び事業運転資金を控除した資金繰りを確認する必要がある。
反対に、現在の年収が低くても、換価可能な預貯金又は金融資産があれば一括払いが可能な場合がある。
したがって、年収だけ又は総資産だけで支払能力を判断しない。
2 分割払いは各月の資金繰りを確認する
分割払いでは、支払総額を回数で割るだけでなく、各回の支払日、手取り収入、固定費、他の返済、賞与の確実性及び収入減少時の処理を確認する。
最終回だけ金額が異なる場合は端数を明示し、支払日が休日の場合の扱いも決めておく。
債権者側は、分割期間が長いほど不履行や資産散逸の危険が高まることを考慮する。
債務者側は、維持できない支払計画に合意すると期限の利益を失い、一括請求又は強制執行を受ける危険がある。
第4 手続ごとの確認事項
1 民事訴訟上の和解
和解は当事者が互いに譲歩して争いをやめることを約することで効力を生じ、訴訟上の和解が調書に記載されると確定判決と同一の効力を有する(民法695条、民事訴訟法267条)。
もっとも、強制執行できる条項があっても、執行対象となる財産がなければ回収できない。
和解成立前には、①支払原資、②支払期限までの資金化、③担保、④期限の利益喪失、⑤保全処分を取り下げる時期、⑥不履行時の執行対象を確認する。
和解条項の具体的な作り方は、民事訴訟の和解案・和解条項案の作り方を参照されたい。
2 離婚に伴う財産分与
財産分与では、分与対象財産の範囲及び評価と、金銭を支払う側の原資を区別する。
自宅を取得する側に相当額の財産が分与されても、その自宅を維持したまま代償金を一括払いできるとは限らない。
家庭裁判所は、財産分与に関する処分の審判事件で必要があると認めるときは、申立て又は職権により、当事者に財産状況に関する情報の開示を命ずることができる(家事事件手続法152条の2第2項)。
正当な理由なく開示せず、又は虚偽の情報を開示したときは、10万円以下の過料の対象となる(同条3項)。
これらの規定は、財産分与調停及び離婚調停にも準用される(同法258条3項)。
手続全体は、離婚の手続と決めることを参照されたい。
3 遺産分割における代償分割
代償分割は、一部の相続人に遺産を取得させ、その相続人に他の相続人への金銭支払等を負担させる方法である。
家庭裁判所が代償分割を命ずるには家事事件手続法195条の特別の事情が必要であり、現物取得者の支払能力は重要な確認事項となる。
支払能力を示す資料、分割払い及び税務の詳細は、遺産分割における代償分割を参照されたい。
第5 支払能力を裏付ける資料
1 支払う側が準備する資料
支払う側は、抽象的に「資産がある」と説明するのではなく、次の資料を基準日とともに示す。
① 預貯金通帳、取引履歴及び残高証明書
② 証券口座の残高、取得価額、入出金履歴及び売却後の概算手取額
③ 不動産の査定又は鑑定、登記事項証明書、ローン残高及び売却費用資料
④ 保険の解約返戻金証明書及び契約者貸付残高
⑤ 退職金見込額証明書
⑥ 融資審査結果又は金融機関との具体的な協議資料
⑦ 分割払いの場合の月次収支及び既存債務の返済表
2 受け取る側が確認する事項
受け取る側は、資料の名義、作成日、対象口座又は財産、担保及び直近の異動を確認する。
スクリーンショットだけでなく、可能であれば金融機関等が作成した資料、取引履歴及び原データも確認する。
相手方が資料を開示しない場合でも、他人のアカウントへ無断でアクセスしてよいことにはならない。
利用できる裁判上の開示手続、調査嘱託、文書提出命令、弁護士会照会、財産開示又は第三者からの情報取得は、事件の段階及び要件を区別して検討する。
第6 合意・条項で不履行に備える
1 担保と保証
分割払い又は将来の換価を前提とする場合は、抵当権その他の担保、保証人、供託、所有権移転又は引渡しとの同時履行を検討する。
担保の設定には対象財産、順位、被担保債権及び実行手続の確認が必要であり、単に「担保を付ける」と記載するだけでは足りない。
2 免除・清算・保全処分の時期
減額した残債務の免除又は全面的な清算を和解成立時に直ちに効力発生させるか、全額の履行完了を条件とするかで、不履行時の結論は異なる。
仮差押え等の保全処分を利用している場合も、和解成立時に取り下げるのか、初回又は全額の支払後に取り下げるのかを決める。
3 不履行時の効果
分割払いでは、期限の利益を失う条件、残金、遅延損害金及び強制執行の対象を明確にする。
「支払が遅れた場合は協議する」とだけ定めると、いつ、いくらを請求できるかが不明確になることがある。
第7 開示は目的・相手・時期・範囲を設計する
資産情報は、必要がない相手へ無制限に公開するものではない一方、合意の履行可能性を判断する相手方、代理人又は裁判所に対し、必要な範囲で正確に示す必要がある。
「見せるか隠すか」の二者択一ではなく、誰に、何の目的で、いつ、どの資料を、どの範囲で示すかを決める。
法令、裁判所の命令、訴訟上の主張立証、弁護士の説明義務及び依頼者との協議を優先する。
営業秘密、第三者の個人情報又は不要な口座情報を含む場合は、マスキング、閲覧制限、秘密保持条項等が利用できるかを個別に検討する。
第8 支払能力の最終チェックリスト
① 基準日と支払期限を区別したか。
② 名目額を現在の時価へ直したか。
③ 担保債務、税金、手数料及び売却費用を控除したか。
④ 期限までに換価又は出金できるか。
⑤ 財産の所有者と処分権限者を確認したか。
⑥ 法人財産と個人財産を区別したか。
⑦ 一括払いと分割払いの双方について資金繰りを確認したか。
⑧ 支払能力を裏付ける資料の日付と作成者を確認したか。
⑨ 担保、保証、保全処分及び不履行時の効果を決めたか。
⑩ 任意履行がなかった場合の執行対象を検討したか。
第9 関連記事
第10 出典・参考資料
1 法令
e-Gov法令検索「民法」695条及び696条。
e-Gov法令検索「民事訴訟法」55条2項2号、89条及び267条。
e-Gov法令検索「民事執行法」債務名義、財産開示及び第三者からの情報取得に関する規定。
e-Gov法令検索「家事事件手続法」152条の2、195条及び258条3項。
2 裁判所・法務省の資料
司法研修所民事弁護教官室「民事弁護実務の基礎~はじめての和解条項~」令和7年2月版、4頁~35頁。
法務省「離婚を考えている方へ」。