第1 この記事で確認できること
1 使用した資料
伊藤栄樹は,昭和60年12月から昭和63年3月まで検事総長を務め,昭和63年5月25日に死亡した。
本記事は,本人の闘病記『人は死ねばゴミになる―私のがんとの闘い』と回想録『秋霜烈日―検事総長の回想』を主な資料とし,現在の大腸癌診療に関する公的資料及び医学文献と照合したものである。
職歴,退官及び死亡までの概要は,「伊藤栄樹検事総長の,退官直後の死亡までの経緯」で別に整理している。
原典から確認できる病名は,盲腸癌及び癌性腹膜炎である。
現在の用語では腹膜転移又は腹膜播種と表現される病態を含むと考えられるが,本記事では原典の表現を尊重する場面では「癌性腹膜炎」と記載する。
2 先に示す重要な結論
- ①本人は癌告知に強い衝撃を受けた後,病状,余命及び治療方針を具体的に質問したのであり,最初から動揺しなかったわけではない。
- ②昭和62年11月の排液は,3回の吸引で合計約2000ccであり,1日約2000mLが継続したとの記録ではない。
- ③昭和62年12月18日の手術では3か所が処置されたが,握りこぶしほどと記されるのは右側大腸付近の癌であり,3個の癌がすべて同じ大きさであったとは書かれていない。
- ④昭和63年5月2日の尿路処置は,右側で管を通すことに成功し,左側では成功しなかった。
- ⑤尿毒症は将来の危険として説明されたにとどまり,闘病記末尾の略歴は死因を盲腸癌及び癌性腹膜炎とする。
3 資料上の限界
確認できた資料には,診療録,手術記録,病理診断報告書,画像,抗癌剤及び鎮痛薬の処方記録,放射線治療計画並びに死亡診断書が含まれていない。
したがって,病理組織型,正式な術式,使用薬剤,放射線の線量,個々の医療行為の適否及び直接死因は確定できない。
闘病記は患者本人が残した重要な記録であるが,医学的な診療記録そのものではない。
また,昭和62年当時の診療を,令和8年現在の技術及びガイドラインだけで採点することはできない。
第2 原典から確認できる闘病経過
1 時系列の一覧
| 時点 | 原典から確認できる経過 | 主な出典 |
|---|---|---|
| 昭和62年7月3日 | 人間ドックを受診した。胸部X線及び腹部超音波では異常がなかったと記す。 | 『人は死ねばゴミになる』15頁 |
| 7月8日~13日 | 腹部膨満,右下腹部痛及び発熱が進み,虫垂炎として緊急手術を受けた。 | 同16頁~22頁 |
| 7月29日 | 盲腸部の癌が虫垂炎を起こし,リンパ節及び腹膜にも広がっているとの説明を本人が受けた。 | 同26頁~28頁 |
| 11月 | 癌性腹膜炎による腸管狭窄が明らかとなり,減圧及び薬物療法を受けた。 | 同107頁~113頁 |
| 12月8日 | CTで照射部位を定めた放射線治療が始まった。 | 同115頁,127頁 |
| 12月18日 | 腸閉塞に対し,2か所のバイパス及び人工肛門造設を伴う手術を受けた。 | 同128頁~134頁 |
| 昭和63年1月以降 | 術後発熱,疼痛及び尿路閉塞に対する治療が続いた。 | 同135頁~141頁,191頁,196頁~200頁 |
| 5月25日 | 略歴は,盲腸癌及び癌性腹膜炎により死亡したと記す。 | 同203頁,『秋霜烈日』略歴 |
2 人間ドックから第1回手術まで
昭和62年7月3日の人間ドックで,本人は飲酒量及び喫煙量が多かったことから,肝臓癌及び肺癌を特に心配していた。
胸部X線及び腹部超音波では異常がなかったと記す一方,最終的な検査成績表の交付予定日は7月17日であった。
便潜血検査又は大腸内視鏡検査が検査項目に含まれていたかは,原典から分からない(『人は死ねばゴミになる』15頁)。
7月8日に腹部の張りを自覚し,7月10日に右下腹部痛が生じた。
7月11日の診察では白血球数が10100であり,腸炎の疑いとして抗生物質等の投与を受けた。
7月13日に発熱及び腹痛が増悪し,虫垂炎として緊急手術を受けた(同16頁~22頁)。
手術では虫垂及び盲腸の一部が切除され,腰椎麻酔から全身麻酔に切り替えられた。
また,頸部から中心静脈栄養のための管が留置された。
手術記録がないため,正式な術式及び切除範囲は確定できない(同22頁)。
3 盲腸癌の告知
7月29日,担当医は,盲腸部の癌が虫垂炎を引き起こし,リンパ節及び腹膜にも広がっている旨を本人に説明した。
闘病記は腹膜組織を「培養」したとの言葉を記すが,病理組織学的検査,細胞診又は別の検査のいずれを指すかは確定できない(同26頁)。
担当医は,本人の性格について妻に尋ねていた。
しかし,妻が本人への告知に同意又は承諾したとの記載はない。
本人は,癌と告げられて強い衝撃を受けたと具体的に記している。
その後,病気の広がり,余命及び治療方針を質問し,現実を受け止めようとした(同27頁~28頁)。
4 腸閉塞,放射線治療及び第2回手術
病状の進行に伴い,腹膜に広がった癌が腸管を外側から圧迫し,大腸2か所及び小腸1か所が狭窄している旨を説明された(同112頁~113頁)。
昭和62年11月16日から17日にかけて,胃又は腸管内の内容物を3回吸引し,合計約2000ccであったと本人は推定している。
11月20日には4回投与された薬剤の1クールが終わり,副腎皮質ホルモン薬の投与が始まった。
薬剤名,投与量及び投与経路は記されていない(同107頁~108頁)。
12月初旬には,CTで照射部位を定め,腸管を圧迫する腫瘤を縮小させる目的の放射線治療が提案された。
12月8日から原則として平日に照射が行われ,抗癌剤との併用も記されている(同115頁,127頁)。
12月18日,腸閉塞に対する第2回手術が行われた。
原典によれば,手術部位は3か所であり,2か所にバイパスを作成し,大腸を直腸から切り離して人工肛門とした。
右側大腸付近の癌は握りこぶしほどであったと記されているが,3個の癌がすべて握りこぶし大であったとは記されていない(同128頁~134頁)。
5 術後発熱,疼痛緩和及び尿路閉塞
第2回手術後の発熱については,中心静脈カテーテル感染,肺炎及び創部感染等が検討された。
これらで説明できない場合,医師は癌中心部の壊死が原因となる可能性を説明した。
昭和63年1月1日からホルモン薬が再開され,その後に解熱した旨が記されているため,発熱を腫瘍熱と確定することはできない(同135頁~141頁)。
終末期には,「モルヒネ酒」20ccを1日3回服用した旨が記されている。
その組成,モルヒネ含量及び投与設計は分からず,特定の製剤と同一視したり,処方の適否を判断したりすることはできない(同191頁)。
癌性腹膜炎による圧迫のため尿の流れが悪くなり,血中に尿素等が蓄積して尿毒症に至る危険があるとの説明を受けた。
5月2日,右側は尿管から腎臓に管を通すことに成功したが,左側では成功しなかった(同196頁~200頁)。
闘病記本文は5月2日で終わっており,その後の臨床経過及び死亡時の検査値は記されていない。
同書及び『秋霜烈日』の略歴は,5月25日に盲腸癌及び癌性腹膜炎により死亡したと記しており,尿毒症を直接死因とする資料は確認できない。
第3 現在の医学からみた論点
1 成人の虫垂炎と右側結腸癌
成人の急性虫垂炎の背景に,盲腸癌その他の右側結腸癌が存在する場合がある。
虫垂切除後の大腸検査に関する系統的レビューでは,検査を受けた患者の一部から大腸癌が発見され,発見癌の多くが右側結腸に位置していた。
もっとも,研究には検査対象の選択による偏りがあり,虫垂炎患者全体に占める癌の絶対頻度は低い。
したがって,「虫垂炎は盲腸癌の典型的な初発症状である」と一般化することはできない。
現在は,年齢,貧血,体重減少,症状の遷延,CT上の腫瘤又は盲腸壁肥厚等に応じ,炎症が落ち着いた後の大腸内視鏡検査等を検討する。
CTは急性腹症の評価に重要であるが,急性炎症に隠れた背景癌を常に識別できるわけではない。
2 昭和62年の人間ドックをどう評価するか
市町村による大腸癌検診は,老人保健事業として平成4年度に導入された。
しかし,この制度史は,昭和62年の個別人間ドックで便潜血検査等を行う義務がなかったことを直ちに意味しない。
反対に,人間ドックの10日後に手術が行われたという時間的近接性だけで,健診機関が盲腸癌を見落としたと断定することもできない。
検査契約,検査項目,問診内容,当時の症状,画像及び当時の医療水準が不明だからである。
3 病期と薬物療法
担当医の説明どおり腹膜への癌の広がりが存在したとすれば,現在の分類では遠隔転移を伴うStage IV相当と考えられる。
もっとも,当時の病理診断報告書及びTNM分類の各要素がないため,詳細な病期は確定できない。
昭和62年当時,5-FUは大腸癌薬物療法の中心的薬剤であったが,他の薬剤及び併用療法も検討されていた。
本件では投与薬の名称自体が不明であり,一般的な治療史から本人の薬剤を5-FU単剤と推定することはできない。
現在の切除不能進行・再発大腸癌では,原発巣及び転移巣の切除可能性,全身状態並びにRAS,BRAF,MSI又はMMR,HER2等のバイオマーカーを踏まえ,細胞障害性抗癌薬,分子標的薬及び免疫療法を選択する。
個別のバイオマーカー検査と,包括的な癌遺伝子パネル検査は,目的及び実施時期が異なる。
4 腹膜転移と腸閉塞
腹膜転移が進むと,腸管を外側から圧迫し,複数箇所の狭窄,腸閉塞又は腹水を生じることがある。
治療は,減圧,人工肛門,バイパス手術,大腸ステント,薬物療法及び症状緩和を,閉塞部位,穿孔リスク,全身状態及び治療目的に応じて選択する。
大腸ステントは有力な選択肢であるが,緩和目的,待機手術への橋渡し又は薬物療法予定の別で推奨が異なる。
腹膜播種がある場合には,留置の技術的成功率が下がり,有害事象が増える可能性もあるため,「現在なら通常はステントを選ぶ」とは断定できない。
腹膜転移に対する減量手術は,病変分布,完全切除の可能性,組織型及び全身状態を踏まえて専門施設で選択的に検討される。
完全減量手術にオキサリプラチンによる腹腔内温熱化学療法を加えた無作為化試験では,全生存期間の延長は示されず,遅発性合併症が増えたため,CRSとHIPECを一律の標準治療と表現することはできない。
5 悪性尿路閉塞
悪性腫瘍による尿路閉塞では,尿管ステント又は経皮的腎瘻による減圧を検討する。
両者の選択は,閉塞部位,技術的成功可能性,腎機能,感染,予後,今後の抗癌治療及び生活の質により異なる。
したがって,「まず尿管ステントを行い,失敗すれば腎瘻を行う」という一律の順序を全症例の標準とすることはできない。
本件でも,「管を通した」との本人の記述だけから,現在の名称で処置を特定することは避けるべきである。
6 家族歴と遺伝性大腸癌
本人は,母が40歳で死亡し,心臓病及び「子宮癌」があったと記している(『人は死ねばゴミになる』29頁)。
原典は子宮体癌か子宮頸癌かを区別していないため,これを子宮体癌と読み替えることはできない。
現在であれば,若年発症,腫瘍のMMR蛋白免疫染色又はMSI検査,家族歴その他の所見に応じ,Lynch症候群を含む遺伝性大腸癌を検討する余地がある。
しかし,闘病記の記載だけでLynch症候群であったと診断し,又は強く推定することはできない。
第4 癌告知と本人の意思決定
1 妻の「同意」は確認できない
本件で確認できるのは,担当医が妻に本人の性格を尋ねた上で,本人に病名及び進展状況を直接説明したという事実である。
妻の同意又は承諾を得たとの記載はなく,家族の同意が本人告知の要件であったと評価することもできない。
昭和50年代から昭和60年代には,癌を本人に直接告知する実務は現在ほど一律ではなく,診断の確度,予後,本人の性格及び家族との関係を考慮する場面が多かった。
もっとも,本件の告知を「例外的に先進的」と評価するには,当時の慣行を示す具体的な統計等が必要である。
2 強い衝撃の後の意思決定
本人は告知によって強い衝撃を受けた後,病状,余命及び治療方針を具体的に尋ねた。
『秋霜烈日』168頁~171頁は,多数の代替療法又は宗教的勧誘を受けながらも,病院の医療チームを信頼し,科学的かつ合理的な治療を選んだとの本人の認識を記している。
この記載は,本人の価値観及び意思決定の過程を知る上で重要である。
他方,本人の対応を,検事としての職業経験又は特定の「精神力」だけで説明することは,原典から直接導くことができない。
第5 本件に関連する裁判例
1 調査範囲と裁判例を読む際の限界
次の裁判例は,本件の医療機関又は医師の責任を判断したものではない。
後に癌が判明したという結果だけで診断上の過失を推認できないこと,説明義務は診療当時の医療水準,診断の確度,患者の意向及び具体的事情に即して判断されることを確認するために取り上げる。
本記事では,髙橋譲編著『医療訴訟の実務[第2版]』第19章が掲げる裁判例のうち,大腸癌又は腸管疾患の診断,人間ドック又は健診,癌告知並びに癌治療の選択及び説明に関係する27件を抽出した。
そのうち25件は,令和8年7月28日に判例秘書で事件番号,判例番号,判示事項,掲載誌及び判決全文を確認した。
裁判所ウェブサイトに掲載された裁判例には個別ページへのリンクを付した。
裁判所ウェブサイト未掲載の裁判例については,判例秘書で全文を確認した旨と判例番号を付した。
もっとも,これらは専門書の同章から本件に関係する四類型を抽出したものであり,日本の医療裁判例を漏れなく網羅した一覧ではない。
2 大腸癌又は腸管疾患の診断
| 裁判例 | 事件番号・掲載誌等 | 判示の要点 |
|---|---|---|
| 神戸地裁平成16年2月10日判決 | 平成12年(ワ)第2183号,判例秘書L05950145 | 大腸癌を視野に入れた定期的検査を働き掛ける経過観察義務違反等を認めたが,死亡との因果関係及び死亡時点でなお生存した相当程度の可能性を否定し,請求を棄却した。 |
| 東京地裁平成19年8月24日判決 | 平成15年(ワ)第25825号,判例タイムズ1283号216頁,判例秘書L06232458 | 痔核があっても症状から大腸癌を疑い,下部消化管検査を実施すべき義務を認め,生存期間を延長できた相当程度の可能性が失われたとして請求の一部を認容した。 |
| 大阪高裁平成12年2月25日判決 | 平成10年(ネ)第1458号,判例タイムズ1041号227頁,判例時報1718号68頁,判例秘書L05520114 | 注腸造影検査の不適切な読影と大腸癌の発見遅延を問題とし,死亡との因果関係を認めた上で慰謝料請求を認容した。 |
| 大阪地裁平成15年12月18日判決 | 平成12年(ワ)第7100号,判例タイムズ1183号265頁,判例秘書L05850851 | 回腸原発の悪性リンパ腫について必要な検査の開始を遅らせた過失と,救命できた相当程度の可能性を認めた。 |
| 東京地裁平成15年12月26日判決 | 平成14年(ワ)第18909号,判例秘書L05835503 | 上行結腸癌に特異的な症状が認められない診療段階について,医師の過失を否定した。 |
| 大阪地裁平成28年5月17日判決 | 平成24年(ワ)第9594号,判例タイムズ1429号197頁,判例時報2321号50頁,判例秘書L07150832 | 大腸ポリープ発見の約3年後に同部位の大腸癌が判明した事案で,ポリープ切除義務違反等を否定した。 |
以上から,後に癌が判明したという事実だけで過失を推認することはできず,診療時に得られた症状,検査所見,経過及び当時の医療水準を確定する必要がある。
本件の人間ドック又は7月11日の診療についても,同じ区別が必要である。
なお,専門書が引用する東京地裁平成21年3月12日判決については,公開された判例解説で,内痔核治療後も出血が続いた患者に対する大腸内視鏡検査等の説明が争点となったことを確認できたが,裁判所ウェブサイト及び判例秘書の判決日・裁判所検索では全文を再確認できなかった。
そのため,本記事では同判決の判示を確定的な根拠として用いない。
3 人間ドック又は健診
| 裁判例 | 事件番号・掲載誌等 | 判示の要点 |
|---|---|---|
| 大阪地裁平成18年3月17日判決 | 平成15年(ワ)第3565号,判例秘書L06150520 | 集団定期健康診断の胸部X線写真に異常陰影があった事案で,健診実施機関の不法行為責任を否定した。 |
| 仙台地裁平成18年1月26日判決 | 平成17年(ワ)第46号,判例時報1939号92頁,判例秘書L06150022 | 胸部X線の異常所見を別人の検査票へ入力したため誤った結果を通知した事案で,肺癌発見の機会を失わせた責任を認めた。 |
| 札幌地裁平成14年3月14日判決 | 平成8年(ワ)第1460号,判例秘書L05750456 | 健診後に再検査又は精密検査を指示・勧告しなかった義務違反と死亡との因果関係を認めた。 |
| 東京地裁平成18年4月26日判決 | 平成17年(ワ)第10681号,判例秘書L06131770 | 健康診断の胸部X線における肺癌所見の見落としによって発見が約11か月遅れたとして,慰謝料請求の一部を認容した。 |
| 東京地裁平成15年3月13日判決 | 平成13年(ワ)第15816号,判例秘書L05835618 | 人間ドックで把握した癌罹患及び気管支鏡検査等の必要性を説明せず,適切な助言をしなかった点について慰謝料等を認めた。 |
| 新潟地裁平成14年7月18日判決 | 平成12年事件第272号,判例秘書L05750784 | 健診時の胸部X線直接撮影像について肺癌の読影過失を否定した。判例秘書の事件符号欄は空欄である。 |
これらの裁判例は,健診に関する法的評価を,①予定された検査の実施,②画像等の判定,③データの記録,④結果の通知,⑤再検査又は精密検査の勧告に分けて検討すべきことを示している。
本件では,人間ドックの検査項目,最終結果及び7月17日に交付予定であった検査成績表が確認できない。
したがって,上記のどの段階に問題があったかを資料なしに決めることはできない。
4 癌告知
| 裁判例 | 事件番号・掲載誌等 | 判示の要点 |
|---|---|---|
| 最高裁平成7年4月25日第三小法廷判決 | 平成3年(オ)第168号,民集49巻4号1163頁,判例秘書L05010043 | 昭和58年当時,胆嚢癌の疑いを本人又は夫に説明しなかったことについて,診断段階,患者との関係,当時の告知実務及び入院中止等の具体的事情の下で債務不履行を否定した。 |
| 最高裁平成14年9月24日第三小法廷判決 | 平成10年(オ)第1046号,集民207号175頁,判例時報1803号28頁,判例タイムズ1106号87頁,判例秘書L05710071 | 医師が末期癌患者本人には告知しないと判断した場合に,容易に連絡でき,告知に適した家族がいる等の事情の下で,家族への説明を診療契約に付随する義務とした。 |
| 東京地裁平成16年1月30日判決 | 平成14年(ワ)第2297号,判例秘書L05930423 | 平成3年当時の食道癌手術の事案で,妻が本人告知に反対し,本人から告知希望が示される等の特段の事情もなかったことなどから,本人に癌告知をしなかった点の説明義務違反を否定した。 |
| 青森地裁平成17年7月12日判決 | 平成16年(ワ)第29号,判例秘書L06050233 | 転移性癌の疑いについて,本人及び家族に告知すべき義務を否定した。 |
| 名古屋地裁平成19年6月14日判決 | 平成18年(ワ)第1190号,判例タイムズ1266号271頁,判例秘書L06250362 | 本人が前立腺癌の説明を受けた上で治療を拒否した事案で,さらに家族へ告知する義務を否定した。 |
| 福岡高裁平成13年6月7日判決 | 平成12年(ネ)第630号,判例タイムズ1118号221頁,判例秘書L05620331 | 平滑筋肉腫の患者について,経過観察及び転移の推移を確認するため病名を告知しなかったことの義務違反を否定した。 |
| 札幌地裁室蘭支部平成14年1月11日判決 | 平成11年(ワ)第34号,判例タイムズ1129号246頁,判例秘書L05750001 | 胆管癌で急死した患者について,具体的診断状況の下で癌告知義務,病状説明義務及び検査義務の違反を否定した。 |
| 東京地裁平成13年1月29日判決 | 平成10年(ワ)第16148号,判例タイムズ1085号267頁,判例秘書L05630017 | 確定診断前に悪性リンパ腫であると説明したことについて,不法行為の成立を否定した。 |
| さいたま地裁川越支部平成15年10月30日判決 | 平成14年(ワ)第171号,判例タイムズ1185号252頁,判例秘書L05850854 | 癌告知後に患者が自死した事案で,告知方法及び告知後の対応に関する医師の配慮義務違反を否定した。 |
| 札幌地裁平成10年3月13日判決 | 平成6年(ワ)第1916号,判例タイムズ997号253頁,判例時報1674号115頁,判例秘書L05350120 | 良性腫瘍を末期癌と誤診して告知し,患者に心因性障害を生じさせたことについて損害賠償責任を認めた。 |
| 札幌地裁平成26年11月12日判決 | 平成26年(ワ)第605号,判例時報2248号68頁,判例秘書L06950700 | 大腸癌の確定診断をしたかのような説明を受けたとする患者の損害賠償請求を棄却した。 |
これらの裁判例から,昭和期の癌告知について,「本人に告げなくてもよかった」又は「必ず本人に告げるべきであった」という一律の命題を導くことはできない。
診断の確度,病状,告知時点の医療実務,本人の意向,家族への連絡可能性,説明内容及び告知後の対応が事案ごとに異なるからである。
本件で担当医が妻から本人の性格を聴取した事実は,妻の同意を法的要件としたことを意味しない。
また,本人に病名及び進展状況を直接説明した事実は,昭和62年当時の具体的な意思決定過程として評価すべきである。
なお,専門書が引用する大阪地裁平成16年4月26日判決・平成15年(ワ)第5563号については,早期胃癌を直ちに本人へ告知しなかった点が医師の裁量の範囲内かを扱う裁判例であることを公開された判例紹介で確認した。
しかし,判例秘書では判決日・裁判所検索及び事件番号検索の双方が0件であり,裁判所ウェブサイトでも全文を再確認できなかったため,本記事では同判決の詳細な判示を根拠として用いない。
5 当時の治療選択肢に関する説明
| 裁判例 | 事件番号・掲載誌等 | 判示の要点 |
|---|---|---|
| 最高裁平成13年11月27日第三小法廷判決 | 平成10年(オ)第576号,民集55巻6号1154頁,判例タイムズ1079号198頁,判例時報1769号56頁,判例秘書L05610079 | 当時は医療水準として未確立であった乳房温存療法についても,実施例,積極的評価,患者への適応可能性及び患者の強い関心等の事情の下では,医師の知る範囲で説明すべき義務を認めた。 |
| 差戻審大阪高裁平成14年9月26日判決 | 平成13年(ネ)第4020号,判例タイムズ1114号240頁,判例秘書L05720178 | 上記最高裁判決の判断を踏まえ,乳房温存療法に関する説明義務違反を認め,慰謝料等120万円を認容した。 |
本件の治療を評価する場合も,令和8年の治療を遡及させるのではなく,昭和62年当時に知られていた選択肢,本人の意向,全身状態,病変分布及び実施可能性を確認する必要がある。
第6 原典だけでは確定できない事項
1 病名,治療及び死因
次の事項は,現存する2冊の原典だけでは確定できない。
- ①盲腸癌の病理組織型,正確な発生部位及びTNM分類の各要素。
- ②昭和62年7月13日及び12月18日の正式な術式。
- ③4回を1クールとして投与された薬剤の名称,投与量及び投与経路。
- ④放射線の照射範囲,線量及び治療効果。
- ⑤「モルヒネ酒」の組成及びモルヒネ含量。
- ⑥昭和63年5月2日以後の臨床経過及び直接死因。
2 現在ならどこまで治療できたか
現在は診断法,手術,薬物療法,放射線治療及び緩和医療が大きく進歩している。
しかし,生存期間の集団統計は個人の余命を示すものではなく,本人の病理,病変分布及び全身状態が不明なまま,「現在なら何年生存できた」と推定することはできない。
第7 闘病記を読む意義
1 医学的経過の記録
『人は死ねばゴミになる』は,進行盲腸癌による虫垂炎,癌性腹膜炎,複数箇所の腸管狭窄,放射線治療,バイパス手術,人工肛門造設,疼痛緩和及び尿路閉塞の経過を,患者本人の視点から連続して記録した資料である。
医学的に重要なのは,現在の技術で当時の治療を単純に採点することではなく,原典に書かれた事実,書かれていない事実及び現在の医学から説明できる一般論を分けることである。
2 英雄像に単純化しないこと
本人は告知に強い衝撃を受け,その後に病状と向き合い,治療方針を選択した。
この過程の価値は,動揺しない英雄像又は気力だけで病気に対抗した物語へ置き換えず,原典どおりに伝えることにある。
第8 出典・参考資料
1 書籍
- ①伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる―私のがんとの闘い』(新潮社,昭和63年)15頁~29頁,107頁~115頁,127頁~141頁,191頁,196頁~200頁及び203頁。
- ②伊藤栄樹『秋霜烈日―検事総長の回想』(朝日新聞社,昭和63年)168頁~171頁及び略歴。
- ③髙橋譲編著『医療訴訟の実務[第2版]』(商事法務,令和元年)第19章。
2 大腸癌及び遺伝性腫瘍
- ①大腸癌研究会「大腸癌治療ガイドライン 医師用2024年版」
- ②大腸癌研究会「大腸癌治療ガイドライン2024年版 CQ」
- ③大腸癌研究会「大腸癌治療ガイドライン最新情報」
- ④大腸癌研究会「遺伝性大腸癌診療ガイドライン2024年版」
- ⑤国立がん研究センターがん情報サービス「大腸がん(結腸がん・直腸がん)治療」
- ⑥国立がん研究センター中央病院「大腸がんの腹膜播種とは」
3 医学文献及び検診制度
- ①「成人虫垂炎後の大腸検査に関する系統的レビュー」
- ②「成人虫垂炎に併存する悪性腫瘍の多施設研究」
- ③「大腸癌腹膜転移に対する完全減量手術後の腹腔内温熱化学療法を検討した無作為化試験」
- ④「悪性尿路閉塞における尿管ステントと経皮的腎瘻の系統的レビュー及びメタ解析」
- ⑤「大腸癌薬物療法の歴史的レビュー」
- ⑥厚生労働省「老人保健法による保健事業の実施について」
- ⑦厚生労働省「がん検診に関するこれまでの経緯」
4 裁判例
- ①神戸地裁平成16年2月10日判決・平成12年(ワ)第2183号・判例秘書L05950145(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ②東京地裁平成19年8月24日判決・平成15年(ワ)第25825号・判例タイムズ1283号216頁・判例秘書L06232458。
- ③大阪高裁平成12年2月25日判決・平成10年(ネ)第1458号・判例タイムズ1041号227頁・判例時報1718号68頁・判例秘書L05520114(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ④大阪地裁平成15年12月18日判決・平成12年(ワ)第7100号・判例タイムズ1183号265頁・判例秘書L05850851(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑤東京地裁平成15年12月26日判決・平成14年(ワ)第18909号・判例秘書L05835503(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑥大阪地裁平成28年5月17日判決・平成24年(ワ)第9594号・判例タイムズ1429号197頁・判例時報2321号50頁・判例秘書L07150832(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑦大阪地裁平成18年3月17日判決・平成15年(ワ)第3565号・判例秘書L06150520(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑧仙台地裁平成18年1月26日判決・平成17年(ワ)第46号・判例時報1939号92頁・判例秘書L06150022(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑨札幌地裁平成14年3月14日判決・平成8年(ワ)第1460号・判例秘書L05750456(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑩東京地裁平成18年4月26日判決・平成17年(ワ)第10681号・判例秘書L06131770(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑪東京地裁平成15年3月13日判決・平成13年(ワ)第15816号・判例秘書L05835618(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑫新潟地裁平成14年7月18日判決・平成12年事件第272号・判例秘書L05750784(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載。判例秘書の事件符号欄は空欄)。
- ⑬最高裁平成7年4月25日第三小法廷判決・平成3年(オ)第168号・民集49巻4号1163頁・判例秘書L05010043(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑭最高裁平成14年9月24日第三小法廷判決・平成10年(オ)第1046号・集民207号175頁・判例時報1803号28頁・判例タイムズ1106号87頁・判例秘書L05710071。
- ⑮東京地裁平成16年1月30日判決・平成14年(ワ)第2297号・判例秘書L05930423。
- ⑯青森地裁平成17年7月12日判決・平成16年(ワ)第29号・判例秘書L06050233(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑰名古屋地裁平成19年6月14日判決・平成18年(ワ)第1190号・判例タイムズ1266号271頁・判例秘書L06250362。
- ⑱福岡高裁平成13年6月7日判決・平成12年(ネ)第630号・判例タイムズ1118号221頁・判例秘書L05620331(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑲札幌地裁室蘭支部平成14年1月11日判決・平成11年(ワ)第34号・判例タイムズ1129号246頁・判例秘書L05750001(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
- ⑳東京地裁平成13年1月29日判決・平成10年(ワ)第16148号・判例タイムズ1085号267頁・判例秘書L05630017(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
㉑さいたま地裁川越支部平成15年10月30日判決・平成14年(ワ)第171号・判例タイムズ1185号252頁・判例秘書L05850854(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
㉒札幌地裁平成10年3月13日判決・平成6年(ワ)第1916号・判例タイムズ997号253頁・判例時報1674号115頁・判例秘書L05350120(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
㉓札幌地裁平成26年11月12日判決・平成26年(ワ)第605号・判例時報2248号68頁・判例秘書L06950700(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
㉔最高裁平成13年11月27日第三小法廷判決・平成10年(オ)第576号・民集55巻6号1154頁・判例タイムズ1079号198頁・判例時報1769号56頁・判例秘書L05610079。
㉕差戻審大阪高裁平成14年9月26日判決・平成13年(ネ)第4020号・判例タイムズ1114号240頁・判例秘書L05720178(判例秘書で全文確認済み。裁判所ウェブサイト未掲載)。
㉖髙橋譲編著『医療訴訟の実務[第2版]』(商事法務,令和元年)第19章。
㉗民間医局「医療過誤判例集 Vol.104 療養指導としての説明義務の重要性(大腸癌の見落とし)」。同解説が紹介する東京地裁平成21年3月12日判決は,判例秘書及び裁判所ウェブサイトで全文未確認である。
㉘医療事故・医療過誤を扱う全国の弁護士ネットワーク「消化器外科 大阪地裁平成16年4月26日判決」。同判決・平成15年(ワ)第5563号は,判例秘書及び裁判所ウェブサイトで全文未確認である。