昭和44年開始の,裁判所におけるブルーパージ


目次
第1 総論
第2 21期二回試験当時の状況(昭和44年3月及び同年4月),及び二回試験の不合格者数の推移等
1 21期二回試験当時の状況(昭和44年3月及び同年4月)
2 二回試験の不合格者数の推移等
3 59期までの二回試験不合格者の取扱い
第3 東大安田講堂事件の刑事裁判に関する国会答弁(昭和44年6月)等
第4 平賀書簡事件(昭和44年8月開始)
第5 飯守重任鹿児島地裁所長の,国民協会機関紙への投稿問題(昭和44年10月)

第6 最高裁判所による,青法協会員裁判官の脱会勧告(昭和44年11月頃開始)
1 事案の概要
2 昭和45年1月に青法協を脱会した局付判事補のその後
3 「法の番人として生きる」の記載
4 「守柔 現代の護民官を志して」の記載
5 最高裁物語(下巻)の記載
6 昭和45年3月20日の国会答弁
第7 最高裁判所事務総長談話(昭和45年4月)及び最高裁判所長官の訓示(昭和45年6月),並びに関連する国会答弁
1 最高裁判所事務総長談話(昭和45年4月)
2 最高裁判所長官の訓示(昭和45年6月)
3 関連する国会答弁
4 矢口洪一 元最高裁判所長官の回想
第8 飯守重任鹿児島地裁所長の思想調査及び依願退官(昭和45年12月)
第9 宮本再任拒否事件(昭和46年3月から同年5月まで)
1 昭和46年当時の状況
2 宮本再任拒否事件
3 矢口洪一 元最高裁判所長官の回想
第10 23期司法修習生の任官拒否(昭和46年3月),及び23期の司法修習終了式の中止(昭和46年4月)
1 23期司法修習生の任官拒否(昭和46年3月)
2 23期の司法修習終了式の中止(昭和46年4月)
3 阪口徳雄は25期の弁護士になったこと
第11 「司法の危機」は存在しないとする,村上朝一最高裁判所長官の「就任のことば」
第12 22期ないし31期の判事補志望の司法修習生に対する任官拒否の人数の推移
第13 官公庁労働者の争議行為禁止規定の合憲性についての最高裁判例の流れ
1 第一段階の最高裁判決
2 第二段階の最高裁判決
3 第三段階の最高裁判決
4 その後の最高裁判決
第14 平賀書簡事件につながった長沼ナイキ基地訴訟の結末
第15 青年法律家協会裁判官部会の消滅
第16 全国裁判官懇話会
1 総論
2 全国裁判官懇話会参加者の振り返り
3 全国裁判官懇話会に関する国会答弁
第17 日本裁判官ネットワーク
第18 主要参考書籍(順不同)

第19 関連記事その他
1 田中耕太郎最高裁判所長官のことば
2 昭和42年5月当時,地家裁所長の裁判所広報での投稿につき,裁判官の表現の自由として懲戒まではされなかった事例(令和3年3月13日追加)
3 裁判批判に関する国会答弁
4 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」で批判されている判決
5 関連記事

第1 総論
1 ブルーパージとは,昭和44年に開始した,青年法律家協会(略称は「青法協」です。)所属の裁判官に対する差別人事のことであり,レッドパージと「青」法協をかけて「ブルーパージ」といわれます
2 第4代最高裁判所長官である横田正俊裁判官は,青法協問題について,「少なくとも裁判官については,そう神経質になる必要はない。」と話していました(日本の裁判史を読む事典46頁)。
    しかし,昭和44年1月11日に石田和外裁判官が第5代最高裁判所長官に就任してからは,青法協に対する裁判所内の風当たりが厳しくなりました。
3(1) 最高裁物語(上巻)320頁には以下の記載があります。
    では、裁判所の問題とは何だったのであろうか。
    それは自民党司法グループが攻撃してやまない裁判官の偏向問題。具体的には二二五人もの裁判官が加入している青年法律家協会の問題であった。裁判官総数は二千五百人だから、その約一割にあたる。「憲法を守る」「戦争には絶対反対」などのスローガンを掲げている協会を自民党司法グループは、「容共団体である。そんな会に裁判官が入っているから無罪判決が出るのだ」と決めつけ、予想される攻撃は一層、不気味さを増しそうな予感があった。
(2) 昭和42年1月29日の第31回衆議院議員総選挙(定数486人)では,自民党が277議席を獲得し,日本社会党が140議席を獲得し,日本共産党が5議席を獲得しました。
    昭和44年12月27日の第32回衆議院議員総選挙(定数は486人)では,自民党が288議席を獲得し,日本社会党が90議席を獲得し,日本共産党が14議席を獲得しました。
4 最高裁大法廷平成元年3月8日判決(レペタ訴訟判決)は以下の判示をしています(改行を追加しています。)。
    過去においていわゆる公安関係の事件が裁判所に多数係属し、荒れる法廷が日常であつた当時には、これらの裁判の円滑な進行を図るため、各法廷において一般的にメモを取ることを禁止する措置を執らざるを得なかつたことがあり、全国における相当数の裁判所において、今日でもそのような措置を必要とするとの見解の下に、本件措置と同様の措置が執られてきていることは、当裁判所に顕著な事実である。
    しかし、本件措置が執られた当時においては、既に大多数の国民の裁判所に対する理解は深まり、法廷において傍聴人が裁判所による訴訟の運営を妨害するという事態は、ほとんど影をひそめるに至つていたこともまた、当裁判所に顕著な事実である。


第2 21期二回試験当時の状況(昭和44年3月及び同年4月),及び二回試験の不合格者数の推移等
1 21期二回試験当時の状況(昭和44年3月及び同年4月)
(1) 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」52頁及び53頁には以下の記載があります。
     司法研修所にも、大学紛争が波及している。各大学で紛争のため卒業が遅れ、合格者が入所できないというような問題も発生したが、ここで「波及」というのは、今日の大学紛争に共通な紛争が研修所にも起きていることを指すのである。封鎖というような事態にはなってないが「修習制度の改悪反対」「二回試験落第反対」「寮規則反対」「カリキュラム編成への参加」「研修所の運営への参加」等々の要求が”大衆団交”の名の下に行われているのである。いわば”民青路線”の紛争が発生しているわけである。
     二回試験とは修習終了の際の試験のことであるが、成績不良者も落第させずに資格を与えろと要求しているわけであり、寮規則反対、運営への参加等は紛争大学に見られるのと同じ類のものである。
     二十一期生では、二回試験で五百余名中の中二名の落第がでたが、この”白紙撤回”闘争が行われた。混乱がたかまって、終了式において行われていた修習生代表の”答辞”もはずさざるを得なくなったのである。彼等が「二十一期司法修習生一同」の名で四十四年四月十七日に配布した「答辞に代えて」という印刷物には、次のような要求が書かれている。
   ○カリキュラム編成について研修所と協議すること。
   ○研修所の運営に参加する。その中で、積極的に修習のあり方を考え、創造していく必要がある。そのため、制度上、クラス委員会が公認され、クラス討論の時間が充分に保障される必要がある。
   ○落第の白紙撤回-修習終了後も修習制度改善連絡協議会を設けて闘う。
     民青路線の紛争が研修所にまで持ち込まれていることが、はっきりわかるであろう。大方の国民は、最高裁の管理下にある研修所でこんな騒ぎが起きているとは思わない。まだまだ、司法部、すなわち最高裁に対する信頼感は存在しているのだ。最高裁はもちろん、研修所長や教官達は、一体何を考えているのであろうか。
(2) 民青というのは,日本共産党の活動と連携している,日本民主青年同盟のことです。
2 二回試験の不合格者数の推移等
(1) 二回試験等の推移表(1期から70期まで)によれば,当時の二回試験の不合格者数は以下のとおりです。
7期ないし16期:0人
17期:1人,18期:2人,19期:4人,20期:5人
21期:2人,22期:4人,23期:0人,24期:1人
25期:0人,26期:1人,27期:2人
(2) 「造反-司法研修所改革の誘因-」(昭和45年6月10日発行)78頁によれば,21期司法修習生クラス委員会と司法研修所との懇談会(昭和44年1月20日開催)において以下のやり取りがあったみたいです。
4 一八期以降落第を出すようになった理由は。
<萩原教官>私は一五期から一七期迄研修所教官として考試委員をしていた。その間毎年及落判定会議に出ていた。その頃修習生の下の方が成績が悪い為毎年のように下の方は落とすべきだという意見が考試委員会で強かったが教官が弁護した為、落第が出なかった。ところが、一七期ではどうしても落すというところ迄行ったが、何年間も落ちていないのに突然落とすのは堪えられないので何とかとおした。そこで考試委員会では一八期以降こういう事では困るから予め落第の警告をしてくれという事になったので一八期前期に予告した(落第は一八期より出た)。もともと落第適格者は一六期、一七期にもいた。しかし落しては困るという事で合格させてあげていた。昔の考試委員会のそうした落さないやり方は間違っていたと思う。
5 五期以降落とさなかったのに、一八期から何故落すようになったのか。
<教官>落すべきものは落さなければいけない。今迄のやり方ではいけないという反省があったからだ。
◯ 一二、三年間も落さなかったのに急に落す必要があったのか。臨司意見書は一七期後期に出たが、これと関連があるのではないか。
<萩原教官>臨司との関係は自分としては感じなかった。考試委員の間では臨司があるかろいう事を議論してはいなかった。
◯ それではどういう事情があるのか。
<教官>・・・・
<所長>僕は臨司委員を途中からやったが、あの臨司の結論を見て欲しい。あれに反対するのは、在野も含めて誰もいないはずだ。今の萩原教官のいった事は、僕の罪をそそぐには非常によい事だ。僕も今の事は初めて聞いた。私が最高裁の人事局ににいた頃、教官が修習生を弁護していた事は事実だ。
そういう時が長く続いた。諸君は臨司と鈴木を結びつけたがるが、教官さえも考試委員会の意見をふせぎ切れなくなったのが事実だ。教官が可下も幾つもあるような者を普段はよくできる、生活は真面目なんですという事で弁解して防ぎきれなくなったのだ。
6 今迄卒業した修習生の中に法曹不適格者がいるか。
<教官>こんなのをどうして通したのかと思うような人がいる。これは落第すべきものを通したからだ。恐らく、それが考試委員会で、こんなものは困る、という事になった原動力だろう。

(3) 研修時報26号(昭和40年7月発行)38頁には,17期二回試験に関する記載として,「応試者一名を除く全員が合格と決定された。」と書いてあります。
3 59期までの二回試験不合格者の取扱い
(1) 27期二回試験までは,病気・出産等の理由で二回試験を受けられなかった修習生だけが追試を受けることができたのであって,一科目でも不合格となった場合,不合格となりました。
    ただし,この場合,司法修習生の身分を引き続き有し,かつ,給料をもらった上で次の二回試験を受験していたようです。
(2) 28期ないし59期の二回試験については,合格留保制度(原則として1科目だけ不合格になった場合,追試に合格すれば司法修習を終えられるとする制度)が実施されていました。
(3) 「思い出すまま」(著者は,昭和46年8月から昭和50年7月まで司法研修所民事裁判教官をしていた2期の石川義夫裁判官)200頁には以下の記載があります。
     二回試験の前になると修習生たちはもしかすると落第するのではないかと非常に敏感になる。私は今まで二回試験では殆ど落第者がいなかった実績を説明し、「二回試験に落第することは、駱駝が針の穴を通るよりも難しい」とバイブルの文句を引いて彼らを励ましたが、試験終了直後K修習生が私のところへ来て「先生、失敗しました。落第に違いありません。どうしたらいいでしょうか?」と動顛し、真顔である。私は「失敗したという人は大抵大丈夫、とにかく出来た、出来た、と言ってるのが出来てないことが多いのだよ」と慰めた。勿論彼は合格し、恙無く郷里で弁護士を開業した。


第3 東大安田講堂事件の刑事裁判に関する国会答弁(昭和44年6月)等
1 東大安田講堂事件(事件当時の略称は「東大事件」とか「東大関係事件」です。)は,全学共闘会議(全共闘)及び新左翼の学生が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件,及び東京大学から依頼を受けた警視庁が昭和44年1月18日から翌日にかけて封鎖解除を行った事件のことです。
2 日弁連三十年233頁には以下の記載があります。
     昭和四四年一月の東大安田講堂等占拠学生の強制排除および神田解放区事件にともない建造物侵入・公務執行妨害等被告事件で起訴された、いわゆる東大関係事件被告人に対する公判は、その審理方式、すなわち「統一公判」か「分離公判」かをめぐって、裁判所と被告人らとの間に意見が激しく対立した。
    まず昭和四四年三月、東大闘争弁護団によって統一公判を要求する意見書が東京地方裁判所あてに提出され、これに対して同地裁は、適正規模の被告人を併合したグループ別審理方式(いわゆる分離公判)を示し、これを強行したために、統一公判か分離公判かをめぐり公判は当初から紛糾した。
(中略)
     裁判所側は、予断排除の原則が適用されるのは、事件の実体についてであり、事件配点上必要な事項などについての裁判所の事前調査を否定するものではない、グループ別審理は弁護権の行使を制限するものではないとの見解を示し、東京地裁の各刑事部においてそれぞれグループ別審理を開始した。
3 佐藤千速最高裁判所刑事局長は,昭和44年6月27日の衆議院法務委員会において以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① いわゆる東大事件と申しましても、どれを言うのかというのが必ずしも明確ではございません。
    本年の一月九日の安田講堂前の事件、翌十日の秩父宮ラグビー場事件、それから一月十八、十九のいわゆる東大事件、こういうものをかりに広い意味で東大事件、このように考えてみますると、係属している人員は六百七名でございます。当初係属した人員は六百七名でございます。
    そのうち、すでに裁判が済んだ者が百三十九名、まだ裁判が済まない者が四百六十八、かようになっております。
    まだ裁判が済んでいない四百六十八のうち、四百三十五という数の人が、いわゆる合議事件の被告となっておるわけでございますが、この四百六十八のいわゆる未済でございますね、このうち、勾留されております者が現在三百八人ぐらいでございます。六月二十三日現在で三百八人と聞いております。
    その余の人が保釈ないし在宅、かようになっておるわけでございます。厳密な数字はなかなか正確に私どもも把握できないので、概数申し上げますと、そういう傾向でございます。
② ところで、先ほど二番目の、勾留されておる者が出廷を拒んでおるかどうかという点でございますが、新聞等でもよく報道されておりますように、勾留されている人たちが、お話にもございましたように、衣類を脱いで裸になって抵抗して出廷を拒むというのが、全部が全部そうかといいますと、それも厳密には私ども把握いたしておりませんが、やはり相当あるように聞いておるわけでございます。
    それから保釈になっている人は、出てきているという事実もあるように思います。多少例外はあるかもしれませんが、大体の傾向はそういうことでございます。
4 東大安田講堂事件に関する刑事裁判は,刑事訴訟法289条の必要的弁護事件(長期3年を超える懲役又は禁錮に当たる事件のこと。)ではなかったため,出廷を拒否した被告人に対しては,刑事訴訟法286条の2に基づき欠席裁判が強行されました。
5 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」207頁及び208頁には,「裁判の公正を害する脅迫、圧迫、嫌がらせの数々」として以下の記載があります。
    戦後の裁判は全く喧騒そのものである。裁判所構内におけるデモと林立する赤旗、法廷内外で行われたアジ演説、インターナショナルの歌の合唱、法廷内における検察官、裁判官に対する罵倒、果ては暴行等々、松川事件、平事件、メーデー事件、砂川事件などの訴訟状況を回想されたい。公正な裁判が行われるのかという危惧の念を持った人が多かったに違いない。
     許されるべき状況でないものを”左翼に弱い”裁判所が放置しておいた結果が、今日の東大事件の混乱裁判につながっているのである。裸戦術をとったり、柱にしがみついたりして被告人が出廷を拒否し、弁護人までが裁判長の訴訟指揮を蹴飛ばし、法廷では野次と怒号、暴力沙汰という東大裁判の状況は、周知のことなので、繰返すことを止め、より具体的な裁判官に対する圧迫の数々に筆を進めよう。
     次のような事実は、殆んどの裁判官が知っている事実だと思われるが、何故に徹底的に追求し、裁判の公正を害するものとして排除しないのか。
△ 学生デモに限らず、社党、総評系のデモも、裁判所前を通過するとき、あるいは公安・労働事件の開廷にあたっても「○○裁判長は反動分子である。○○裁判長弾劾!、○○辞めろ」というようなことを拡声器で叫ぶ。
△ 裁判所や裁判官官舎の塀に、夜間、脅迫と侮辱のビラを貼る。例えば「命が惜しければ自重しろ!」の類である。
△ 公安・労組事件では、担当裁判長や裁判官に「労働者側を勝たせろ!」という葉書や手紙が全国の労組員から寄せられる。組織的であり、元凶をつきとめる必要があろう。
     これらの事実は、裁判官に精神的圧迫を加え、裁判を歪める危惧のあることは明らかである。ことに手紙による要請、脅迫などは、効果があると考えられるからこそ組織的に行われているのである。


第4 平賀書簡事件(昭和44年8月開始)
1(1) 自衛隊の合憲性が争われた長沼ナイキ訴訟に関して,当時の平賀健太札幌地裁所長は,事件担当裁判長である福島重雄裁判官(11期)に対し,昭和44年8月14日,長沼町の住民の申立てを却下するよう示唆した“一先輩のアドバイス”と題する詳細なメモを差し入れた事件(いわゆる「平賀書簡事件」です。)が発生しました。
(2) 福島重雄裁判官は,昭和44年8月22日,平賀札幌地裁所長の書簡を無視して,国有林の保安林指定の解除について執行停止の決定を出しました。
2(1) 昭和44年9月13日(土)午後1時頃から14日午前0時頃までの間,平賀書簡事件に関して議論をした結果,平賀札幌地裁所長への非難を決議しました。
(2) 同月午後9時のNHKニュースで平賀札幌地裁所長の記者会見の模様が放送され,翌日の朝刊各紙の一面には,平賀書簡の全文が掲載されました。
(3) 最高裁判所は,昭和44年9月20日(土)の裁判官会議に基づき,平賀裁判官を口頭で注意するとともに,東京高裁判事に異動させました。
3(1) 裁判官訴追委員会は,昭和45年10月19日,平賀書簡事件に関して訴追請求されていた平賀裁判官に不訴追,福島裁判官に訴追猶予の決定を下しました(裁判官訴追委員会HP「(2) 罷免の訴追を猶予した事案の概要」参照)。
(2) 札幌高裁は,昭和45年10月26日付の裁判官会議の決定に基づき,同月28日,福島裁判官に対して口頭で注意しました。
4 日弁連は,昭和45年12月19日の臨時総会において,「平賀・福島裁判官に対する訴追委員会決定に関する決議」と題して以下の事項を決議しました。
① 裁判官訴追委員会が昭和45年10月19日、平賀・福島両裁判官に対してなした決定は裁判官の独立の理念に照して事案の本質をあやまった不当なものである。また、同委員会が青年法律家協会会員であることなどを理由とする訴追請求に関し、裁判官213名に対して発した照会状は、裁判官の思想、良心の自由ひいては司法権の独立をあやうくするおそれがあり、同委員会はすみやかに右照会を白紙にもどすべきである。
② 札幌高等裁判所が昭和45年10月28日福島裁判官に対してなした司法行政上の注意処分及びこれを支持する最高裁判所の態度は、訴追委員会の不当な決定に追随して自ら司法権の独立を放棄したものとの印象を与え、国民の裁判所に対する信頼をあやうくするものであって、誠に遺憾である。よって裁判所は司法権の独立を保持するためすみやかにその姿勢を正すべきである。
5 「裁判官も人である 良心と組織の間で」161頁には以下の記載があります。
   この時、石田長官(山中注:石田和外最高裁判所長官のこと。)は、書簡(山中注:平賀書簡のこと。)流出の犯人を捜しだし、青法協を裁判所から排除しなければならないと肚を固めたと、当時、最高裁事務総局に勤務していた元裁判官は私の取材に述べた。実際、長期的な人事政策として、青法協会員の裁判官だけでなくシンパと目された裁判官への「差別人事」を断行したのである。
   「平賀書簡をマスコミにリークしたのは、青法協の裁判官以外考えられないわけですから、青法協を中央から徹底して遠ざける必要があった。なぜって、外部と結託して裁判所を批判するような裁判官は危なくて置いておけないからです」(前出の元裁判官)
6 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」200頁ないし205頁に以下の資料が載っています。
・ 平賀書簡の全文(昭和44年8月14日付)
・ 平賀健太札幌地裁所長の弁明の要旨(昭和44年9月15日発表)
・ 札幌地裁の裁判官会議の発表文(昭和44年9月15日発表)
7(1)  「司法権独立の歴史的考察」(昭和37年7月30日出版)123頁には,1891年5月11日発生の大津事件における,大審院院長による事件担当判事への個別の働きかけについて以下の記載があります。
(9)宮沢俊義氏もまた昭和十九年発表の論文「大津事件の法哲学的意味」(前引)において、「司法権独立の原理は単に行政府の裁判官に対する干渉を排斥するにとどまらず、司法部内においても担当の判事に対して干渉を為すことを禁ずる趣旨でなくてはならぬ」としていた。しかし、それにもかかわらず、氏は、「司法権独立の原理は裁判官に対する他からの干渉を禁ずる趣旨であることは勿論であるが、それは決してさうした形式的な原理にとどまるものではない」とし、「裁判官以外の者の裁判官に対する干渉が違法であるかどうかは、そこで干渉の目的とせられる判決の内容如何によって定まる」、したがって「正しい判決を為さしむべく行はれる干渉」は違法でない、としているのであって、この見解が司法権の独立の保障のためにはなはだ問題であることは、第二章註(3)に論じたとおりである。
(2) 露国皇太子御遭難之始末(1892年に滋賀県庁が作成した,1891年5月11日発生の大津事件に関する報告書)(大津地裁の開示文書)を掲載しています。


第5 飯守重任鹿児島地裁所長の,国民協会機関紙への投稿問題(昭和44年10月)
1 飯守重任(いいもりしげとう)鹿児島地家裁所長は,シベリア抑留を経験した後,昭和31年8月23日に東京簡裁判事として復職した裁判官でありますところ,同人は,昭和44年10月1日,「平賀書簡事件の背景」と題する一文を,自民党の政治献金受け入れ団体である国民協会(昭和50年4月26日,国民政治協会に改称)の機関紙の第一面に投稿しましたところ,その内容として以下のものがありました。
① 裁判所の歴史始まって以来,このような(山中注:平賀書簡のような)善意の助言を裁判の独立に対する干渉,裁判の独立を侵すおそれがある,などとして問題にした者は絶えてなかった。
② 戦後,治安維持法など強力な体制防衛立法がなくなると,反体制集団はわがもの顔に横行し始め,裁判官のなかに反体制的影響を強く受けたグループができた。
③ 「造反」裁判官らは,最高裁の判例が確定しているのに,その判例を破り,政治外交を自己の政治思想のとおりに是正しようとする,これは不敵な裁判革命である。
④ 福島重雄裁判長は,反体制的法律家団体の青年法律家協会加入の裁判官グループ約250人のリーダーである。
⑤ 平賀書簡を問題化した札幌地裁の裁判官会議のメンバーと,その中核である福島重雄君の方が問題だと思う。青年法律家協会加入の裁判官がいることは,裁判官の独立,中立性を犯すことではないか。
⑥ この際最高裁当局は,青法協加入の裁判官に対し,名実ともに青法協の組織から離脱するよう勧告して裁判官の独立をまっとうせしめ国民の疑惑を一掃しなければならないのではなかろうか。
2 飯守所長は,昭和44年10月7日の会見において,以下のとおり語ったと報道されました。
① 体制と裁判官
   憲法に反する思想を持つ裁判官は,裁判官たる資格がない。憲法でいう体制とは,天皇制,階級闘争のない階級協調路線に基づく議会制民主主義,修正資本主義の三点に反しない体制をいう。憲法15条2項で,公務員は国民全体の奉仕者であると規定しており,憲法の番人だ。この体制に反する階級闘争を容認する共産党員などは,公務員の資格も裁判官の資格もないというべきだ。また,階級闘争を容認する裁判をしてもらっては困る。
② 寄稿の経緯と,国民協会紙発表についての見解
   平賀事件の直後に協会から要請があり,平賀書簡について世間が誤解し,最高裁の平賀所長に対する処分も間違っていると思ったからだ。現職裁判官が政治色のある機関紙に寄稿しても,特定の政党を支持する内容でなければよい。雑誌や新聞から求められ,裁判官が自分の意見発表の場として寄稿するのは,憲法の公務員規定に反しない。言論の自由の検知からも,かまわない。
3(1) 最高裁判所は,昭和44年10月8日に裁判官会議を開いて,以下の趣旨の岸盛一最高裁判所事務総長の談話を発表しました。
① 飯守所長が,平賀所長の場合のように書簡による助言が今まで例がなかったとはとうてい考えられないとしているのは事実に反する。
② 最高裁の平賀所長に対する処分は必要かつ十分なものであり,談話が事実とすれば現職所長として穏当を欠く発言である。
(2) 福岡高裁は,昭和44年10月13日に臨時裁判官会議を開き,岸盛一最高裁判所事務総長の談話と同じ内容で,飯守所長に対して注意しました。
4 横山利秋衆議院議員(日本社会党所属)は,昭和42年5月11日の衆議院法務委員会において,「飯守裁判官は、くどく言いますように、ソビエトへ行けばソビエトで赤に染まり、日本へ帰ってくれば、あれは早く帰らんがための偽りであったという声明書を出す。」と発言しています。

第6 最高裁判所による,青法協会員裁判官の脱会勧告(昭和44年11月頃開始)
1 事案の概要
   最高裁は,昭和44年11月頃から,青法協会員裁判官の脱会勧告を行うようになりました(日弁連三十年289頁参照)。
   そして,昭和45年1月に最高裁判所事務総局の局付判事補10人を全員脱会させたのを皮切りに,全国各地の裁判所でブルーパージが実施されるようになりました。
2 昭和45年1月に青法協を脱会した局付判事補のその後
(1) 昭和45年1月に青法協を脱会した最高裁判所の局付判事補は10人でありますところ,そのうちの9人( 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」63頁記載の人物)についていえば,3人(13期の町田顕裁判官のほか,15期及び16期)が最高裁判所裁判官まで昇進し,3人(13期,14期,15期)が高裁長官まで昇進し,1人(14期)が内閣法制局長官まで昇進し,1人(16期)が高裁部総括まで昇進し,1人(12期)は地裁部総括で依願退官しました。
(2) 第15代最高裁判所長官となった13期の町田顕裁判官は,昭和45年1月に青法協を脱会しました。
3 「法の番人として生きる」の記載
   14期の大森政輔裁判官が著した「法の番人として生きる 大森政輔 元内閣法制局長官回顧録」38頁には以下の記載があります。
   現最高裁長官の町田顕さんが一三期で、民事局付として私より一年早く民事局に入っていました。当時の局付の中では、もう一期先輩の一二期の人ぐらいを頂点として、私たち一四期が真ん中ぐらいで、もう少し若い一五期、一六期の人もいました。だから一二期から一六期ぐらいのあいだの人が局付として、いたわけです。年齢も近いし、小異はあるにしてもだいたい同じ立場でしたから、局付会なんていう飲み会をやったりもしていました。特に一連の青法協問題が起こってからはそうです。局付はほとんどが青法協の会員で、会員率が一番高い集団ではなかったでしょうか。当時の青法協の会員というのはそういう位置づけだったのですね。
4 「守柔 現代の護民官を志して」の記載
   13期の守屋克彦裁判官が著した「守柔 現代の護民官を志して」(日本評論社)150及び151頁には以下の記載があります。
(山中注:青法協からの)脱会勧告は公然と行われたわけですが、今振り返ってみると、いくつかの段階で特色があるように思われます。最初は、平賀書簡問題の後の飯守発言に関する朝日新聞などの公正らしさ論を口実にした最高裁判所の脱会勧告で、その頂点が局付判事補の集団脱会になると思います。この時期までに、地方にいてJ・J会などに参加する機会がなかったなど、会に対する帰属意識が少なかった会員で辞めたような人もいますが、局付脱会の影響は大きかったですね。町田さんをはじめとして、局付判事補の人たちのなかには、それまでJ・J会に積極的に参加しており、しかも実力があって、会員からの信望が篤かった人が少なからず含まれていたのです。そもそもの沿革として、青法協には、東京大学のセツルメント出身の人が多く、花田さん、高山さん(一〇期)など、セツルメント出身で、青法協に入り、裁判官を目指したという人が中心にいて始まったことであり、町田さんもその一人でした。また、もう一つの流れは京大グループでした。当時京都大学の現役組が裁判官の中に多くいて、一二期の金谷利廣さんや一四期の荒井史男さん、大森政輔さん、小田健司さんなど優秀な人たちが、会に活気をもたらしていたといえます。会を辞めた人たちが、その後、町田さんが最高裁判所長官になったのをはじめとして、最高裁判事や高裁長官などの要職に就いているのも当然といえば当然と言えます。

5 最高裁物語(下巻)の記載
(1) 最高裁物語(下巻)86頁及び87頁には以下の記載があります。
   石田の意向を受けた事務総局幹部による切り崩し工作が、赤レンガの最高裁(山中注:現在の最高裁判所庁舎が竣工したのは昭和49年3月です。)の奥深くでひそかに行われた。最高裁の空気は冷えびえとしたものに変わって、局付判事補の集団脱会事件はこんな空気のなかで起きたのである。局付判事補たち自身の会員裁判官への証言がある。
   「課長は『君が青法協をやめないならポストを替える』と毎日毎日攻めたてた。『彼が青法協をやめるまで書類をまわすな』といって仕事の上でも村八分にした」
   「局長は最初はレストランや自宅に招いてごちそう攻め、最後は『理屈じゃない。業務命令だ』と叱り飛ばした。青法協の脱会届を内容証明郵便にしたのも局長の指示です」
「『せっかくエリートコースにのっているのに青法協と心中してもいいのか。よく考えろ』と言われた」
   昭和四五年一月一四日、最高裁事務総局にいた青法協会員の局付判事補一〇人全員が青法協脱会の内容証明郵便を出して、最高裁事務総局内の青法協組織は壊滅した。このなかにはリーダーといわれた人もいた。青法協が脱会した判事補からとったアンケートのほとんどには「先輩裁判官である局長や課長に強く脱会を迫られ、悲しいがやむを得なかった」という悩みがにじんでいた。任官して五、六年、同期生約七〇人のなかから東大、京大などの国立大卒で成績抜群の二、三人が選ばれるという超エリートの脱会工作、それと同時に各地裁でしぶきをあげ始めた青法協会員裁判官の切り崩し工作は、東京で行われる全国高裁長官事務打ち合わせ会などが情報交換の場となっていた。
(2) 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」63頁には9人の局付判事補しか記載されていませんから,残り1人の局付判事補が誰であるかは不明です。
   ただし,最高裁物語(上巻)320頁には「青法協はそれなりに若い裁判官の支持があり、たとえば最高裁事務総局という”エリートの城”には各局に総計二九人の判事補が「局付」として配属されているが、そのうち九人までが青法協会員裁判官なのである。」と書いてあります。
6 昭和45年3月20日の国会答弁
   矢崎憲正最高裁判所人事局長は,昭和45年3月20日の衆議院法務委員会において以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① 今日のところ、青年法律家協会に属するということだけを理由に、採用しないとかどうとか、そういうようなことは方針として何らいたしていないというように考えております。
② (山中注:最高裁判所として司法研修所の教官を通じて青年法律家協会の会員に任官を断念させるというような働きかけは)ありません。
③ (山中注:最高裁判所は任官者の思想、信条によって任地その他について不利益な取扱いをするということは)ございません。

④ (山中注:昭和44年11月頃から,最高裁の局付判事補の青法協会員に対し,最高裁から強く退会を)勧告したというようなことは全くございません。
⑤ 先ほどお話がありました、最高裁におります裁判官が(山中注:青法協を)脱会したということについては、裁判官同士で十分に論議を尽くした上で、そこにいるのが妥当でないというように考えて脱会したように私は聞いておるわけでございます。
⑥ 裁判官であっても、政治的に活動をするということになればこれはやはり好ましくない、これは当然のことであろうと存ずるわけでございます。
   したがいまして、それはそういう事柄についてのケース・バイ・ケースという問題だろうと存じます。
⑦ それ(山中注:青法協に所属していること)は裁判官によって、これは非常に困ったことだと思って脱会する者もございましょうし、そうでない者もあるかもしれませんが、この問題につきましてはいろいろ朝日新聞、毎日新聞等が論ぜられているところでございますので、この席上ではこの程度にいたしたいと思います。
⑧ そのような方針(山中注:青法協所属の裁判官を脱会させるという方針)はございませんけれども、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞に出ている論説は、これはもっともなことだというように私どもは読んでいるわけでございます。


第7 最高裁判所事務総長談話(昭和45年4月)及び最高裁判所長官の訓示(昭和45年6月),並びに関連する国会答弁
1 最高裁判所事務総長談話(昭和45年4月)

 「裁判官の政治的中立性について」(昭和45年4月8日付の岸盛一最高裁判所事務総長談話)は,同月9日の新聞朝刊に掲載されたほか,裁判所時報544号(昭和45年5月1日付)2頁にも掲載されていますところ,その内容は以下のとおりです。
  裁判官の任用について、差別待遇があると二十二期司法修習修了者の代表が主張しているそうであるが、裁判官志望の某君らが不採用となった理由は、人事の機密に属することなので、一切公表することはできない。ただ、同君らが青法協会員であるという理由からではない。
  なお、一般的問題としてであるが、裁判官は、その職責上からして、特に政治的中立性が強く要請されているのは、当然のことである。そしてこの中立性は、裁判官の法廷における適正な訴訟指揮権や法廷警察官の行使を通じ、窮極においては、裁判によって貫かれるべきことである。しかしこれと同時に、裁判は、国民の信頼の基礎の上に成り立っているものであり、したがって裁判官は、常に政治的に厳正中立であると国民全般からうけとられるような姿勢を堅持していることが肝要である。裁判官が政治的色彩を帯びた団体に加入していると、その裁判官の裁判がいかに公正なものであっても、その団体の構成員であるがゆえに、その団体の活動方針にそった裁判がなされたとうけとられるおそれがある。かくては、裁判が特定の政治的色彩に動かされていないかとの疑惑を招くことになる。裁判は、その内容自体において公正でなければならぬばかりでなく、国民一般から公正であると信頼される姿勢が必要である。裁判官は、各自、深く自戒し、いずれの団体にもせよ、政治的色彩を帯びる団体に加入することは、慎しむべきである。
 以上は最高裁判所の公式見解である。
2 最高裁判所長官の訓示(昭和45年6月)
  昭和45年6月29日・30日開催の長官所長会同における,当時の石田和外最高裁判所長官の訓示(裁判所時報548号(昭和45年7月1日付)1頁に掲載されています。)には,以下のとおりブルーパージを正当化する記載が含まれていました(原文の該当箇所には改行が全くありませんが,改行を追加しています。)。
  裁判が公正であるというについては,裁判の内容自体が公正であるばかりではなく、その公正が国民一般から信頼され,いささかも疑惑を持たれない姿勢を堅持することも、きわめて重要であります。裁判官の地位を保障し,外部からの圧力をうけないよう配慮されているのも、そのためでありますが,裁判官自身もまた、その言動において細心の心づかいをしなければなりません。
  この点において,当面、最も留意されるべき重要な課題の一つは,政治的色彩を帯びた団体への裁判官の加入に関する問題であります。裁判官が、学殖を積み視野を広めるため,平素、先輩、同僚等と相互に知識を交換し,あるいは、日進月歩の社会に対応した各種の研究を行うことは,好ましいことであります。
  しかしながら、その限界を越えて,政治的色彩を帯びた団体に加入することは、裁判官の心構えとして、慎しむべきことといわなければなりません。政治的色彩を帯びた団体の構成員としてその傘下にある以上、その裁判官の裁判がいかに公正なものであっても、政治的色彩をもったものと国民からうけとられるおそれがあるのであります。
  また,表現の自由が尊重されるべきことはいうまでもありませんが,裁判官としての地位に基づく職業的倫理として、おのずから制約のあることを自覚し,裁判の公正について国民の疑惑を招かないための心構えとして、裁判官は,偏執に陥ることなく、中立の態度を堅持するよう不断の自戒と内省を重ねることが肝要であります。
 今日ほど、政治的中立性に対する配慮が強く裁判官に要請されるときはなく,ことがらの重要性に思いをいたしますならば、裁判の公正に対する国民の信頼を保持することにいかに配慮を加えても過ぎることはないといえましょう。裁判官各位におかれては,憲法により付託された崇高な氏名と重大な責務に深く思いをいたされ、裁判の公正に対しいささかの疑惑をもうけることのないよう戒心し,もって国民の期待にこたえられることを切望するしだいであります。
3 関連する国会答弁
(1) 昭和47年3月25日の国会答弁
  高輪1期の矢口洪一最高裁判所人事局長は,昭和47年3月25日の衆議院予算委員会第一分科会において以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① 裁判官と申しますか、広く申しますれば裁判所でございますが、裁判所はあくまで公正中立でなければいけない、これは当然でございますし、また、公正中立であるというふうに国民からの信頼を受けなければ、その職責というものは一日といえども果たしていけないものであろうかと思います。
 その信頼を受けるということを私どもは「らしさ論」ということで、公正らしさが必要であるということを申しておるわけでございます。
② そういう観点から談話が出ておるものであることは当然でございますが、ただ一言申し上げておきたいと思いますのは、青年法律家協会ということが当面の問題でございましたので、岸事務総長談話の中に、いわゆる政治的色彩の強い団体ということで最高裁の見解の表明がございましたが、私どもといたしましては、何もそういった政治的色彩の団体のみにその問題は限るべきではなくて、その他の一般的な団体でございましょうとも、それに裁判官が加わることによりまして、一般の国民から公正である、中正であるということを疑われるようなものであるならば、それはやはり裁判官の心がまえとして加入を避けるべきである、裁判官がそれに加入することは好ましくないという考えを持っておるわけでございます。
 そういうことであの談話が出ておるものであることを御承知いただきたいと思います。
(2) 昭和48年4月11日の国会答弁
 高輪1期の矢口洪一最高裁判所人事局長は,昭和48年4月11日の衆議院法務委員会において以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① 端的に申し上げますと、青年法律家協会に所属する方を採らないのではないかというようなことが言われました。これはお断わり申し上げますが、私どもは青年法律家協会に所属しておられるから採るとか採らないというようなことは一切考えていないわけでございますが、結果的に今回も不採用の中に青年法律家協会の方が何名おるというようなことがいわれたりいたしますと、若い方々なんか、そういうことが関連があるのじゃないかというふうに考えられがちのようでございます。
  そういうことじゃないということはもう繰り返し申しておりますし、いろいろな情勢から、稲葉委員等もごらんいただきますれば、そうでないということがおわかりいただけると確信いたしますけれども、若い方はなかなかそうもいかない面があるようでございます。
② 裁判所法五十二条は、積極的な政治活動というものは禁止いたしておりますけれども、特定の政党に加入するとか、あるいは政治的な団体に加入するということ自体を禁止しておるわけではないわけでございます。
  ただ、これは昭和四十五年の四月でございますが、事務総長が最高裁判所の一応の公式な見解ということで打ち出しておりますが、政治的な団体に裁判官が加入するということは、法律的にはいけないわけではないといたしましても、裁判の公正らしさというものに対する、国民から疑惑の目で見られるおそれがあるという観点から、いわゆるモラルの問題として、そういった政党あるいは政治的な団体というものに加入することは好ましくないということを申しております。
  これは最高裁判所としての現在も変わらない一般的な見解でございます。

③ 二、三年前までは青年法律家協会にだれが属しておるかということにつきましては、青年法律家協会の側で名簿を発行いたしておりまして、裁判官会員はだれとだれだというふうな名簿がございました。そういうことでございますので、私どももその限度ではわかっておるわけでございます。
  しかし、ここ二、三年、一切そういう名簿も発行されませんし、また御本人からのそういったお申し出もございませんし、私どものほうも、どういう団体に裁判官のどなたが加入しておられるかというようなことを伺うということもいたしておりませんので、現在、ここ二、三年の状況としては、どなたが会員になっておられるかということは、私どもには一切わかっていないという状況でございます。
4 矢口洪一 元最高裁判所長官の回想
 最高裁判所とともに(著者は高輪1期の矢口洪一 元最高裁判所長官)70頁には以下の記載があります。
   青法協が当時機関紙で「安保反対」や「核兵器廃絶」など、政治的スローガンを掲げて活動していたことは確かである。裁判官がそうした政治的な決議に加わったり、具体的行動に出れば、裁判の公正さを疑わせることになる、という危倶もあった。
  人事局長だった私はしばしば国会の法務委員会に「最高裁長官代理者」として出席を求められ、この問題をめぐる議員の方々の質疑への応対に忙殺された。質疑の中心は、判事補希望者の不採用や「再任拒否」が青法協会員であることを理由とするのではないかという点に集約される。
  ことが人事に関する以上、「ここではその理由は一切公表できない。全人格的評価の結果であるとしか言えない」という答弁に徹したが、この対応はいまでも正しかったと思う

第8 飯守重任鹿児島地家裁所長の思想調査及び依願退官(昭和45年12月)
1 飯守重任(いいもりしげとう)鹿児島地家裁所長は,昭和45年12月23日,部下の9人の裁判官に対し,以下の事項について公開質問を行いました(同日の最高裁判所裁判官会議の開催中にこのことが最高裁判所秘書課長から報告されて最高裁裁判官に衝撃を与えたみたいですが,議事録への記載はないです。)。
① 裁判官が教科書訴訟、長沼ナイキ訴訟など政治上の重要問題を論議している裁判で当事者の一方を支持し、かつ安保条約廃棄などを主張する政治団体・青年法律家協会に加入していることの是非と見解を承りたい。
② 全司法労組の体質が憲法に反する革命的体質であるか、合憲的体質であるか。
③ 現行憲法上の天皇制度と修正資本主義制度の是非についての見解をお聞かせ願いたい。
④ 階級闘争は合憲か違憲か。
2 最高裁は,川井立夫福岡高裁長官宛に,昭和45年12月24日,以下の緊急指示を出しました(最高裁物語(下巻)96頁のほか,最高裁判所裁判官会議議事録(昭和45年12月24日開催分)参照)。
    「飯守所長が、裁判官に対して公開質問状の形式で回答を求めたことは、あきらかに地・家裁所長としての職務範囲を逸脱した行為である。よって貴官は同所長に対し公開質問状を撤回するように伝達されたく、また質問を受けた裁判官にも質問に応ずる限りでない旨を伝達することとされたい」
3(1) 飯守重任裁判官は,東京高裁判事への異動を拒否したため,昭和45年12月25日付で鹿児島地家裁所長から鹿児島地家裁判事となり,同月31日,依願退官しました。
(2) 朝日新聞HPに「解任を前に福岡高裁の川井立夫長官と面談する鹿児島地裁の飯守重任所長(左)=1970年12月25日、福岡高裁」が載っています。

第9 宮本再任拒否事件(昭和46年3月から同年5月まで)
1 昭和46年当時の状況
・ 最高裁物語(下巻)98頁には以下の記載があります。
    (山中注:昭和46年当時)あい変わらず「青法協」にきびしい風が吹いていた。脱会工作は執勘だが巧妙に、会員裁判官を「思想」とあまり関係のない交通事件、少年事件担当に配置換えする異動も目立ってきた。東京、横浜家裁に異動となった三人の青法協裁判官はそろって交通、少年事件係であった。これまで例外なくついていた「兼地裁判事補」の肩書が消えて家裁判事補だけになった。
2 宮本再任拒否事件
(1) 昭和46年3月31日,青法協会員であった13期の宮本康昭熊本地家裁判事補の再任が拒否されるという宮本再任拒否事件が発生し,同年4月13日限りで兼官たる判事補の任期が満了しました。
(2)ア 熊本簡易裁判所判事としての宮本康昭裁判官は,昭和48年4月5日に依願退官しました。
イ 最高裁物語(下巻)132頁には以下の記載があります。
    宮本は熊本地・家裁判事補のとき、最高裁に再任希望を提出して拒否されたが、簡裁判事(熊本簡裁)としての任期が三年残っており、その職にとどまって地裁判事への再任を要求し続けてきた。
    しかしその要求も、二年目になって青法協会員八人をふくむ七四人の判事補全員が再任を認められた環境の変化をあげて、宮本は「私の目的は一応達成できた」と三月一四日には簡裁判事も辞める田中首相あての退官願を提出した。
(3) 日弁連は,昭和46年5月8日の臨時総会において,「裁判官の再任拒否に関する決議」と題して以下の事項を決議しました。
    最高裁判所は、本年度の裁判官の再任にあたり、10年の任期を終えた13期裁判官の宮本康昭判事補を再任名簿から除外し、また23期司法修習生で裁判官を志望するもののうち7名の不採用を決めた。
    右の宮本判事補と新任を拒否された7人のうち6人は青年法律家協会の会員であり、1名は任官拒否を許さぬ会の発起人であるということである。右事実と最近の司法をめぐる一連の経過を見るとき、また、本人及び国民の理由明示の強い要望にもかかわらず最高裁判所がこれを明らかにしないことから見て、この処分は裁判官の思想・信条・団体加入を理由に再任を拒否したものと考えざるを得ない。
    このことは、裁判官の基本的人権をおかすばかりか、裁判官の身分保障ひいては司法権の独立をおびやかすことになるとともに、民主主義の基本にかかわる重大事である。
   よって最高裁判所に対し直ちに再任ならびに新任をするよう強く要望するものである。
3 矢口洪一 元最高裁判所長官の回想
(1) 最高裁判所とともに(著者は高輪1期の矢口洪一 元最高裁判所長官)70頁には以下の記載があります。
    判事補への採用や判事への再任が認められなかった事例は最高裁発足直後からあったし、その後も出ている。要は裁判官個人の思想・信条をめぐる「適格性」が問われたのではなく、国民が求める裁判官としての「ふさわしさ」が文字通り全人格的に評価された結果なのである。
    それが、たまたま社会の各層で広がっていたイデオロギー的な対立を背景に増幅され、本来の議論とはかけはなれたところにまで波及したのは不幸だったというべきだろう。
     ともあれ一連の「司法の危機」では、「政党加入の自由」を当然の前提としたといわれている裁判所法成立当時の考え方と、公正らしさが必要とする日本の社会の現実とのギャップが表面化した。ここでもモデルとした制度と社会の実態との落差が浮かび上がったともいえる。
    マスコミや国会質疑など世論の渦の中で、国民が裁判官に求める「公正らしさ」とは何かについて、思い悩む日々ではあった。
(2) 平成11年11月27日に東京九段の専修大学で開催された,第17回全国裁判官懇話会全体会において,「司法改革の背景と課題-法と日常生活-」と題する講演を行いました(判例時報1698号3頁ないし20頁)ところ,同号12頁には以下の発言が載っています。
    判事補というのは、判事からするとこれは読んで字のとおり半人前なんですね。だから、先輩は判事補を指導しなければいけないはずです。にもかかわらず、指導すると干渉だとなる。そういった矛盾を抱えているわけです。それから今の制度では一〇年で任期がくることになった。他方判事補は一〇年で判事の資格を取得する。その上、当時の世情もあったと思います。大学の騒ぎ等もありましたから。今から考えてみると、どうしてあんなに騒いだのだろうと思うようなこともありました。以上のトータルでああいう結論になったと申し上げるよりほかないと思います。今となってみると、問題のあの方(山中注:13期の宮本康昭裁判官)が今日の司法行政のことを一番理解されているようにも思われます。

第10 23期司法修習生の任官拒否(昭和46年3月),及び司法修習終了式の中止(昭和46年4月)
1 23期司法修習生の任官拒否(昭和46年3月)

(1) 23期司法修習生の裁判官任官希望者に対しては,昭和46年3月30日,最高裁判所人事局長から,4月6日付で判事補の採用内定通知が電報で届いたものの,7人については不採用の通知がされ,そのうちの6人が青法協会員だったそうです。
(2) 7人の任官拒否等に関しては,日弁連会長は,昭和46年4月3日,「13期裁判官の再任拒否問題に関する談話」を出しました。
    なお,13期裁判官は,宮本康昭熊本地家裁判事補のことです。
(3) 23期の裁判官志望者7人に対する任官拒否については,昭和46年4月5日午後1時半頃,23期の裁判官内定者55人のうちの40人が有志で,「青法協会員ら7人の任官拒否は思想・信条,団体加入による差別の疑いが強い。このまま裁判官として職務につくことは耐えがたい不安を感じる。不採用の理由を明らかにせよ」などとする要望書(署名者は23期裁判官内定者45人)を高輪1期の矢口洪一最高裁判所人事局長に提出するため,最高裁判所に赴きました。
     しかし,最高裁判所は彼らが構内に入ることを拒否し,要望書を受け取りませんでした。
(4)ア 二三期司法修習生の任官拒否問題に関する調査報告書(昭和46年5月付の,東京弁護士会司法制度臨時措置委員会の文書)2頁には「第二、任官拒否に至るまでの二三修習生の事情」として以下の記載があります。
     任官差別に対して強い危惧の念をいだきつつ後期修習を迎えた二三期修習生は、いちはやく任官差別阻止のための運動を展開した。
     即ち一一月には「分離修習、任官差別を許さぬ会(以下「許さぬ会」と略称する)」を結成する一方、四三五名の連署をもって最高裁宛の任官差別反対の要望書を研修書に提出したのをかわきりに、以後本年三月までに、数回にわたる修習生大会や、いっせいクラス討論を行って結束を固めるとともに内外の署名活動を推進して来た。
    このような運動が行われる中で、任官志望者六二名に対する採用面接は、三月二五、二六の両日にわけて行われた。彼等は面接が終わった直後、その結果をもちよって互いに比較検討したが、その結果、きわだって特異な面接方法がとられた七名がクローズアップされるに至った。それが前記の七名(山中注:任官拒否された7人の司法修習生)であった。なお面接の内容については多くの任官志望者が、帰宅後直ちに詳細なメモをとったといわれている。
     さて、七名について面接内容が特異だったというのは、第一にほかの任官志望者に対しては、志望任地や家族関係などについて、かなり詳しく尋ねられているのに、七名については、その点殆ど実質的な質問を受けていないことであり、第二に二回試験の内容や法律問題について、執拗な追及により成績の悪いこと、または不勉強であることの自認をせまるような形での質問がされていることである。この第二の点について七名以外の者に対しては、質問はされても、そのような形での追及はされていないし、二回試験で殺人未遂か保護責任者遺棄かが論点になっている問題で道交法違反しか認定しなかったなど、誰が考えても重大なミスをおかしているのに、その点を全く追求されなかった例も指摘されている。
    ここに至り、彼等の間では、この七名が任官を拒否されるのは必至と予想された。
    そして、その予想は数日後に、まさに的中したのである。
イ 前述した調査報告書15頁には以下の記載があります。
     任官拒否の理由について、最高裁判所は人事の機密をたてに一切公表していない。しかし最高裁が昭和四五年一二月、二三修習生の要望に対して「任官について、宗教、信条、性別その他法の認めない差別をする筈はないが、成績が考慮されるのは当然である。」旨の回答をしていることと、今回の採用面接で七名についてだけは他の任官志望者と比べ、極めて特異な面接方法によって、ことさら「成績が悪かった」ということが強調されていること、とくに◯◯君(山中注:原文では実名)については、面接の際「成績が悪かった。こんな成績ではとても裁判官は無理だ。」といわれていることなどからして、最高裁は、拒否理由が成績の点にあることを暗に示しているものと判断することができよう。
(5) 「思い出すまま」(著者は2期の石川義夫裁判官)199頁及び200頁には以下の記載があります。
    (山中注:25期司法修習の)後期の終わりが近づいたある日、田宮上席教官と次席の私(山中注:石川義夫民事裁判教官)が矢口人事局長に呼び出された。問題は青法協に所属する修習生が判事補任官を志望した場合、これを如何に処置するかということだった。矢口氏は田宮氏に「研修所教官の方で、疑わしい連中の試験の成績を悪くしておいてくれれば、問題は解決するじゃないか、なんとか考えてくれ」と言った。要するに、青法協所属の修習生の任官を人事局の責任で拒否することをしたくないので、研修所教官の責任で拒否しようというのである。田宮氏は「教官にはそんなことは出来ません」と言下に断った。私はこの件について、矢口氏の名誉を慮って、今日まで他言しなかったが、目的のためには手段を選ばない矢口氏の手法を思うと、こんなことがあったと、もっと早い時期に公にすべきであったかと後悔している。
2 司法修習終了式の中止(昭和46年4月)
(1)ア 阪口徳雄修習生は,昭和46年4月5日(月)の午前中に司法研修所講堂で行われた司法修習終了式において,23期の裁判官志望者7人に対する任官拒否に抗議するため,司法研修所長のマイクを手にとって,「裁判官への任官を拒否された修習生7人に発言させる機会を与えて欲しい」などと発言を始めたため,約1分後に司法研修所事務局長が修習終了式の終了を宣言したという事件を発生させました。
    最高裁判所は,同日午後6時から臨時の裁判官会議を開催し,「品位を辱める行状」があったということで,阪口徳雄修習生に弁明の機会を与えることなく,同人を罷免しました。
イ 平成29年3月15日付の司法行政文書不開示通知書及び平成29年度(最情)答申第47号(平成29年12月1日答申)によれば,昭和46年4月に司法修習生を罷免した際の最高裁判所裁判官会議議事録は保存されていません。
(2)ア 阪口徳雄修習生に対する罷免通知の時刻につき,昭和46年4月6日の毎日新聞朝刊では,午後7時40分頃に司法研修所事務局長から罷免通告が伝えられたと書いてあります。
イ 昭和46年5月8日の日弁連臨時総会決議では,午後8時26分に罷免処分が言い渡されたと書いてあります。
ウ 自由と正義2018年7月号5頁には,阪口徳雄弁護士が自分で,「1971年4月5日午後8時過ぎ司法研修所の所長室で守田所長(当時)から「司法修習生の品位を汚した」ので罷免するという最高裁裁判官会議の決定書を交付された。」と書いてあります。
(3) 高輪1期の矢口洪一最高裁判所人事局長は,昭和46年5月20日の参議院法務委員会において以下の答弁をしています。
   わしづかみというふうに、私が、衆議院の法務委員会で申し上げましたところが、問題にされたようでございますが、そのときの状況を正確に申し上げさせていただきますと、当日研修所長から最高裁にあてまして、こういうトラブルがあったということの正式の文書による報告がございました。で、その文書による報告の内容を私自身といたしましてはかいつまんで申し上げたつもりであったわけでございますが、その文書を朗読したわけではございませんので、その間少しやや妥当を欠く面もあったかと思います。お尋ねでございますので、短いものでございますので、そのところを朗読さしていただきましてお答えにかえさせていただきたいと思います。
   「(別紙)」でございますが、「予定よりやや遅れて十時三十分ごろ事務局長が開式を宣し、司法研修所長が式辞を述べるため登壇した。ところがその発言前に、前から七、八列目の中央に座っていた阪口徳雄が立ち上り、所長に向い、「任官拒否された修習生に十分ぐらい発言の機会を与えてもらいたい云々」と言い、周囲の者もこれに和し「そうだ、そうだ」という発言、拍手などで式場は騒然となったので、所長は手をあげておだやかに阪口を制し、事務局長は進行係用マイクで「まず、式辞を聞きなさい。」と二度か三度注意した。しかし、彼等はこれを聞かず、中には阪口に対し「マイクでやれ」「前に出てやれ」と声援する者あるいは「止めろ」と叫ぶ者もあった。阪口は自席を離れ、演壇の下に進み出て、演壇用マイクを無断で抜き取り、演壇を背にして修習生に向い、マイクをもつて演説を開始し、式場はますます騒然となった。
   所長は、一言の式辞も述べないままこの事態では到底終了式を続行する可能性がないものと判断して自席に戻ったので、事務局長は進行係用のマイクを持って所長席の近くに行き、所長の指示を仰ぎ「終了式はこれで終了する。」と宣した。しかし、数名の修習生はこれを不満とし、自席を離れて事務局長を取り囲み、「どうして止めるのか」と抗議し、さらに所長、教官の退席を阻止しようとする修習生も若干名あったが、事務局職員が数名でスクラムを組み通路を確保したので、所長、教官も次第に退席し、その後は修習生だけで抗議集会を行なった。」というのが研修所の報告でございます。
  事実は、正確にはこのとおりであるというふうに御承知おきをいただきたいと思います。
(4) 阪口徳雄修習生の罷免事件では,日弁連が昭和46年5月8日に臨時総会を開催して抗議決議を出しました(日弁連HPの「臨時総会・司法修習生の罷免に関する決議」参照)。
   また,同決議によれば,この事件に関する矢口洪一最高裁判所人事局長の国会答弁は,阪口徳雄修習生の実際の行動とは異なるとのことです。
(5)ア 24期ないし27期については,クラス別の終了式が実施されたものの,28期については,裁判官志望者に対しては最高裁で,検察官志望者に対しては法務省で,それぞれ終了証書が手渡され,弁護士志望者のみが,終了式当日,各自,任意の時刻に研修所事務室で修了証書を受け取りました(昭和52年7月発行の「最近の司法研修所の実態と問題点」(大阪弁護士会)34頁)。
イ 全体の終了式が再開したのは,昭和58年4月6日実施の35期司法修習生の終了式からでした(研修時報69号(1983年7月発行)参照)。
ウ 59期司法修習生をしていた私の記憶によれば,58期司法修習生までは全体の終了式があったものの,59期司法修習生はクラス別終了式でした(大講堂の容量不足のためと修習当時に聞きました。)。
3 阪口徳雄は25期の弁護士になったこと
   阪口徳雄は,2年後の昭和48年4月16日,司法修習を終え(昭和48年4月18日の官報参照),25期の弁護士になっていますところ,自由と正義2018年7月号6頁に以下の記載があります。
   1973年1月末に,終了式を「混乱」させたことを謝り,再採用となった。2回試験を合格しているので研修所に通わず修習終了となり,25期の卒業式と同時ではまた騒がれると思ったのか(笑),終了式の1週間後に,守田所長,教官に囲まれ「たった1人の終了式」で罷免事件は終わった。


第11 「司法の危機」は存在しないとする,村上朝一最高裁判所長官の「就任のことば」
1 昭和48年5月21日就任の,村上朝一(むらかみともかず)最高裁判所長官の「就任のことば」(昭和48年6月1日発行の裁判所時報618号1頁)には以下の記載があります。
    最近一部では、「司法の危機」ということが叫ばれたり、あるいはそういった意識を裁判所の内外にあおるような言動がみられますことはまことに遺憾なことであります。最高裁判所をはじめすべての裁判所は、裁判権の行使においても司法行政事務を処理するうえでも、厳正公平な態度で望んでおり、世上いわゆる「司法の危機」というようなことが存在しないことはいうまでもありません。司法に関する諸問題について、建設的な意見を内部で交えることは必要ではありますが、仮りにも、裁判所職員がこのような一部の働きかけに動じるようなことがあってはならないと思います。裁判所が国民の信頼をますます確保する道は、各人がそれぞれの職分に応じて、職務を全うし、一致協力して裁判所の指名をはたすことにあると考えます。
2 法学館憲法研究所HP「書籍『検証・司法の危機1969-72』」に以下の記載があります。
    「司法の危機」といわれる60年代の後半から70年代前半、憲法に忠実であろうとした若手裁判官ら、及びこれを支えた民衆と、憲法を敵視する政治勢力及びこれに「迎合」した最高裁側とが、司法・裁判の独立をめぐって熾烈な攻防を展開しました。

第12 22期ないし31期の判事補志望の司法修習生に対する任官拒否の人数の推移
1 「私たちはこれから何をすべきなのか 未来の弁護士像」(平成26年7月25日発行)86頁によれば,判事補志望の司法修習生に対する任官拒否の人数の推移は以下のとおりです(括弧内は青法協会員です。)。
22期:3人(2人)
23期:7人(6人)
24期:3人(2人)
25期:2人(2人)
26期:2人(0人)
27期:4人(2人)
28期:3人(3人)
29期:3人(1人)
30期:2人(1人)
31期:5人(5人)
期間中の合計:34人(24人)
2(1) 「思い出すまま」(著者は,昭和46年8月から昭和50年7月まで司法研修所民事裁判教官をしていた2期の石川義夫裁判官)200頁及び201頁には以下の記載があります。
     この期(山中注:25期)でも、私のクラスで裁判官志望のUが成績不良のため判事補に採用されなかった。二回試験の結果は何人中何番という形で公表されることがなく、成績不良が客観的に説明されないので、青法協の連中はやはり彼が青法協のメンバーであったために、任官拒否にあったのだと騒いだが、私としてはそれ以上どうすることもできず、彼は出身地へ帰って弁護士となった。
(2) 東弁リブラ2018年1月号の「忘れることのできない私の修習生時代」(筆者は31期の弁護士)には以下の記載があります。
     裁判教官から青年法律家協会の会員で任官を志望していた修習生に対して同協会からの脱退勧告があった。同協会はリベラルな傾向があり,当時の公害裁判や労働裁判では市民側や労働者側に理解を示す人が多かった。結局,友人の青法協会員任官志望者5人が採用拒否され,心が痛む思いがした。

第13 官公庁労働者の争議行為禁止規定の合憲性についての最高裁判決の流れ
1 第一段階の最高裁判決
    公共の福祉論又は全体の奉仕者論から比較的簡単に争議行為禁止規定合憲の結論を導きました。
(1) 現業国家公務員の争議行為禁止規定を定めた公共企業体等労働関係法(昭和23年法律第257号。略称は「公労法」であり,現在の「行政執行法人の労働関係に関する法律」です。)17条1項につき最高裁大法廷昭和30年6月22日判決(三鷹事件上告審判決)及び最高裁昭和38年3月15日判決(檜丸事件上告審判決)
(2) 非現業国家公務員の争議行為禁止規定を定めた昭和23年7月31日政令第201号につき最高裁大法廷昭和28年4月8日判決(弘前機関区事件上告審判決)
2 第二段階の最高裁判決
    労働基本権の保障の重要性から、争議行為禁止規定の解釈適用につき限定を付した上で合憲の結論を導きました。
(1) 現業国家公務員の争議行為禁止規定を定めた公労法17条1項につき最高裁大法廷昭和41年10月26日判決(東京中郵事件上告審判決)
(2) 非現業国家公務員の争議行為禁止規定を定めた国家公務員法98条5項(現在の98条2項)につき最高裁大法廷昭和44年4月2日判決(全司法仙台事件上告審判決)
(3) 非現業地方公務員の争議行為禁止規定を定めた地方公務員法37条1項につき最高裁大法廷昭和44年4月2日判決(都教組事件上告審判決)
3 第三段階の最高裁判決

    争議行為禁止規定の解釈適用につき限定を付さないで合憲の結論を導きました。
(1) 現業国家公務員の争議行為禁止規定を定めた公労法17条1項につき最高裁大法廷昭和52年5月4日判決(名古屋中郵事件上告審判決)
(2) 非現業国家公務員の争議行為禁止規定を定めた国家公務員法98条5項(現在の国家公務員法98条2項)につき最高裁大法廷昭和48年4月25日判決(全農林警職法事件上告審判決)
(3) 現業地方公務員の争議行為禁止規定を定めた地方公営企業等の労働関係に関する法律(昭和27年7月31日法律第289号(略称は「地公労法」です。)11条1項につき最高裁昭和63年12月8日判決
(4) 非現業地方公務員の争議行為禁止規定を定めた地方公務員法37条1項につき最高裁大法廷昭和51年5月21日判決(岩手教組学テ事件上告審判決)
(5) 単純労務職員の争議行為禁止規定を定めた地公労法付則4項・同法11条1項につき最高裁昭和63年12月9日判決
4 その後の最高裁判決
    昭和56年度の人事院勧告の一部が凍結され,昭和57年度の人事院勧告は完全に凍結されたといった事実関係があったとしても,国家公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を果たしていないとはいえません(最高裁平成12年3月17日判決(全農林人勧スト事件上告審判決))。

第14 平賀書簡事件につながった長沼ナイキ基地訴訟の結末
1(1) 長沼ナイキ訴訟自体は,最高裁昭和57年9月9日判決において,ナイキ基地の建設に対する反対住民(「自衛隊は違憲,保安林解除は違法」等と主張していました。)が代替施設の設置によって保安林解除処分取消訴訟の原告適格を失ったと判断されたため,自衛隊の合憲性については判断されませんでした。
(2)   控訴審である札幌高裁昭和51年8月5日判決は,「結局自衛隊の存在等が憲法第九条に適反するか否かの問題は、統治行為に関する判断であり、国会及び内閣の政治行為として窮極的には国民全体の政治的批判に委ねらるべきものであり、これを裁判所が判断すべきものではないと解すべきである。」と判断しました(判決書PDF23頁)。
2 ナイキは,1953年にアメリカのウエスタン・エレクトリック・カンパニー等で開発された高々度迎撃用地対空ミサイルのことであり,ナイキ基地訴訟では,地対空誘導弾ナイキJの導入の是非が争われました。


第15 青年法律家協会裁判官部会の消滅
1 「キャリア裁判官を考える」判例時報1707号(平成12年6月11日号)8頁には以下の記載があります(報告者は25期の小林克美裁判官)。
     特に私が関与していた青年法律家協会(青法協)裁判官部会と裁判官懇話会について少しお話します。青法協裁判官部会は、青法協司法修習生部会のメンバーが新任判事補として裁判官になってくることによって新人が補給されていたのですが、青法協に加入したままでは裁判官に任官させないという当局の方針が貫徹されたものですから、結局、青法協裁判官部会は新人の供給源を絶たれて会員数が漸減し、昭和五八年にはその幕を下ろさざるを得なくなったのです。
2 13期の守屋克彦裁判官が著した「守柔 現代の護民官を志して」(日本評論社)155頁には以下の記載があります。
     最高裁が長年、「公正らしさ」論を口実に、青法協の会員と目される裁判官志望者の新任拒否を繰り返したために、新しい会員の増加が見込めなくなり、しかも、会員にとどまっている者については、任地・補職の上で、支部勤務や家裁勤務など本人の希望に反した人事と思われる事態が常態化するようになっていき、裁判官を辞めていく会員も出てきました。そして、そのような現象にたまりかねた若手の会員裁判官から、なんとかまともに裁判に取り組める場がほしいという希望が出て、青法協裁判官部会は、昭和五九年(一九八四)年一月二三日に青法協本部に分離独立の通知を出して、如月会という名称で再編するということになりました。全国裁判官懇話会という別の形の運動が定着してきていて、そちらにエネルギーをさきたいという面もありましたが、やはり、青法協裁判官部会に関しては、長い間のボディブローで、ついに力尽きたという感じでしたね。裁判官部会が多数決で態度決定したのは、このときだけです。この手続については、私が「青年法律家協会裁判官部会の消滅」(東京経済大学「現代法学」第九号一三一頁以下、二〇〇五年)という形でまとめています。それが、全体の意思決定を多数決で行った最初で最後になりました。

第16 全国裁判官懇話会
1 総論
(1) 宮本判事補再任拒否事件を契機として,昭和46年10月2日,東京で,全国の現職裁判官約210名による全国裁判官懇話会が開催されました。
(2) 全国裁判官懇話会は,最高裁判所事務総局から,お前らは徒党を組み外部と結託して事を構えるのだろうという批判を加えられることがないように,裁判官だけが自分らで考える会だということで運営されました。
(3) 昭和53年に開催された第7回全国裁判官懇話会「司法の使命と裁判官」からは,全体会のほか,民事・刑事・家事・少年の各分科会が開催され,それぞれの分野についての実務上の諸問題について意見交換などが行われており,その内容は,判例時報に発表されていました。
(4) 最後の世話人を務めていた21期の石塚章夫新潟家裁所長が平成21年3月に依願退官し,運営を引き継ぐ若手がいなくなったために活動を終了しました(日本裁判官ネットワークブログの「司法改革の先駆け、全国裁判官懇話会が35年の歴史に幕 」(2007年4月8日付)参照)。
2 全国裁判官懇話会参加者の振り返り
(1) 「キャリア裁判官を考える」判例時報1707号(平成12年6月11日号)8頁及び9頁には以下の記載があります(報告者は25期の小林克美裁判官)。
    特に私が関与していた青年法律家協会(青法協)裁判官部会と裁判官懇話会について少しお話します。
(中略)
それから、裁判官懇話会は、その世話人になったり、レポーターになったり、あるいは各地での研究会を主催すると、裁判所内部では冷たい処遇に遭うというか、平均的な処遇をしてもらえない状況になりました。それが多くの裁判官に肌で感じられる状態であったのです。もちろん最高裁の行う人事は、そのような差別的扱いが明瞭に分かるようなやり方はしません。世話人であってもそれなりの処遇をされる方があり、報告者になってもそれなりの処遇をされる方があるというように、必ずイレギュラーを作ってあるんですけれども、全体としての方向を見ると、不利な処遇が行われていると誰しもが感じるわけですし、先輩裁判官から新人に対して、公然とそれが語られる状態になったのです。懇話会なんかに行ってるとろくなことはない。ああいう集会には行かないほうがいい。そういった秩序が裁判所の中にできてまいりました。裁判官懇話会は、最も多いときでは三〇〇人の裁判官が参加しました。裁判官は簡裁判事を含めて三〇〇〇人に届きませんから、三〇〇人といいますと全体の一割の裁判官が参加して集会をした時期もあるのですが、それが今では一〇〇人を切るという状態になって、だんだんと後退してきております。

(2) 14期の安倍晴彦裁判官が著した犬になれなかった裁判官には以下の記載があります。
(208頁の記載)
     案の定、青法協がなくなれば、裁判官懇話会の番である。この会の中心的な活動家に対するさまざまな攻撃は厳しく、この会の世話人級で、「新たに(こういう事態になった後に)」地・家裁の所長になった裁判官は皆無である。途中で「沈黙し」、転向した裁判官と比べてみても、その処遇の上での違いは歴然としている。もちろん、任地、給与、職務の上での明らかな差別がある。裁判所の中では、何もしないでいてもソコソコやっていけばいけるし、その方が「無難で安全」という意識が徹底されていく。
(224頁の記載)
    どういう風の吹き回しかそのようなこと(山中注:平成5年8月1日に弁護士任官した,14期の田川和幸 元日弁連副会長について任官時から判事1号棒が適用されたことにかんがみ,現職のまま,国を相手として,バックペイと慰謝料請求の訴訟を提起しようかということ)を外部へ向けて言いだした「直後」、私は二号に昇給したのである。
(中略)
    私が一号になったのは一九九八年二月一五日、定年退職の当日で、一日限りの一号であった。それなりの恩恵か、嫌がらせの処置か知らないが、この一日だけの一号昇給という措置を受けている裁判官は、全国裁判官懇話会の世話人その他にも何人かいるようである。
3 全国裁判官懇話会に関する国会答弁
・ 11期の櫻井文夫最高裁判所人事局長は,昭和62年3月24日の衆議院法務委員会において,全国裁判官懇話会の世話人及び青法協元会員の裁判官の場合,地裁支部又は家裁勤務者が判事3号に昇給する在職23年目の4月になっても判事3号に昇給できていないというアンケート結果に基づく質問に対し,以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① ただいま御指摘ありましたように、環元大阪高裁判事が「法と民主主義」(山中注:民主法律家協会が出している雑誌です。)にお書きになったといいますか、講演されたものの記録でございますが、が載っておりまして、そして今読み上げられました毎日新聞の記事は、大体それに基づいて記載されているわけでございます。
    「法と民主主義」の記事は、大体正確に毎日新聞にも載っているものと理解いたしております。
    この毎日新聞には最高裁人事局長としてのコメントも載せてもらっておりますけれども、要するに私たちとしては、結論といたしまして、裁判の内容や思想、信条などによる差別というものは全くないと考えております。

② 三号(山中注;判事3号のこと。)以上への昇給は一律に行われるものではなくて、各人ごとに決まっていくということになりますと、数年の昇給の開きというものは、これは当然出てまいるわけであります。
    それに応じまして、例えば三号から一号までの差と申しますのは、これは相当額の差になりますので、それはあるわけでございます。
③ ただ、先ほど申しましたように、結局それは各人の今までの仕事の実績というもの、あるいは各人の負担している責任の度合いというもの、そういったものを考慮して決められているものでありまして、それはここにありますように、青法協の元会員であった、あるいは全国裁判官懇話会に出席していた、そんなふうなことが原因でなっているものではないわけであります。
    私どもでは、そういう裁判官懇話会の出席者であるとか、青法協の元会員であるとか、そういうものが、一体どなたがそうであるのかというのは、これはごく一部の、例えば雑誌などにその名前を出している方を除いてはわからないわけでありますし、そういう方たちでも上がっている方が当然あるはずでございます。
    それからまた逆に、そういう全国裁判官懇話会には出席していない方、あるいは元青法協会員ではない方でも、やはり上がっていない方があるわけでございます。
    だから、そういう意味で、そのような要素というものが原因になって、そして昇給等の面で開きが出てきているというものではないということを御理解いただきたいと思うわけでございます。

第17 日本裁判官ネットワーク
1 平成10年9月5日に第1回準備会を開催し,平成11年9月18日に設立総会を開催した日本裁判官ネットワークは現在でも活動を続けています。
2 日本裁判官ネットワークの設立趣旨(1999年9月18日付)には以下の記載があります。
    本ネットワークは、開かれた司法の推進と司法機能の充実強化に寄与することを目的とする、現職の裁判官の団体です。
    本ネットワークの性格を一言でいいますと、「司法改革を目指す緩やかで開放的な裁判官団体」、ということができます。ここには、3つの基本要素が入っています。
    第1は、司法改革を指向することです。つまり、本ネットワークは、目的や存在意義を司法改革に置いています。規約では、改革の中身を「開かれた司法」「司法機能の充実強化」としています。これは、司法制度改革審議会の設置に代表される国民的要求に対し、裁判官の側から応えたいというものです。
    第2に、裁判官の自主性、自律性に基礎を置く、結びつきの緩やかな団体であることです。本ネットワークは、独立が保障された裁判官によるグループであり、個々の裁判官の知恵や活力を最大の存立基盤としています。そのため、規約は簡単なもので、メンバー裁判官の意思を拘束する決議・決定を一切行わず、活動への参加、本ネットワークからの脱退を自由とし、義務は会費納入の点だけにしています。もちろん、政治的、労働組合的性格は持ちません。イメージとしては、学会や市民団体に近い存在であります。
    第3に、今後開放的な活動を心がけることです。旧来の裁判官は、とかく裁判所部内に閉じこもりがちであったと考えられます。本ネットワークは、裁判官としての節度と控えめな姿勢は堅持しながらも、司法改革に関する意見の発表、関係機関等との意見交換、国際的裁判官団体との交流等、対外的な活動にも取り組んでいきます。対外的な活動により、様々な反応があろうかと思いますが、それにより私たち自身学ぶことが多いのではないかと考えています。

第18 主要参考書籍(順不同)
1 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」(昭和44年11月5日発行)
・ 50頁には以下の記載があります。
(山中注:青法協の)修習生に対する活動の始まったのは十二期(昭和三十二年採用)頃からであるが、当時は修習生の数も少く、それほど目立った動きはなかった。ところが十八期(昭和三十八年採用)頃からかなりのものが青法協に参加するようになり、二十一期(昭和四十二年採用)では約五二〇名の中二三〇名が参加するまでになったのである。
・ 62頁ないし93頁に「青年法律家協会主要会員名簿」が載っています。
2 「裁判官も人である 良心と組織の間で」
・ 152頁ないし164頁に平賀書簡事件のことが書いてあります。
3 最高裁物語(上巻)及び最高裁物語(下巻)
・ 下巻92頁ないし97頁に飯守重任鹿児島地家裁所長の思想調査のことが書いてあります。
4 日本の裁判所-司法行政の歴史的研究-
・ 142頁及び143頁に全国裁判官懇話会のことが書いてあります。
5 「守柔 現代の護民官を志して」
・ 102頁ないし104頁に飯守重任鹿児島地家裁所長の機関紙への寄稿のことが書いてあります。

第19 関連記事その他
1 田中耕太郎最高裁判所長官のことば
(1) 法曹時報5巻1号(昭和28年1月発行)に掲載されている「法廷秩序維持問題」(筆者は田中耕太郎最高裁判所長官)には以下の記載があります。
(4頁及び5頁の記載)
    共産主義がある個人について単に思想や良心の問題に止まるか、又は言論出版等によって外部に表現される場合においても、国家社会の危険を将来しない平穏な仕方においてなされ、破壊的様相を呈しないとするならば、それ等は保障の範囲内に置かれるのである。
(中略)
    共産主義者が現在の国家権力に対して向ける組織的な攻撃がとくに裁判所に集中されることは、上述のところからして明白である。共産主義者関係の事件を担当する裁判官は勿論のことその家族と雖も彼等の脅迫にさらされている。我々裁判所関係者は単に国内からばかりでなく、彼等が同志を有する世界の隅々からして脅迫の書面や電報を受け取っている。この種の事件を処理する任を負わされている第一線の裁判官の言語に絶する労苦に対し、部内の同僚は勿論のこと、全法曹及び国民一般も理解と同情と支援と激励とを惜しんではならない。
    私が本稿においてとくに法廷の秩序維持の問題を取り上げた所以のものは、法廷における共産主義者及びその同調者の言動に彼等の本来の立場が最も明白に表現されていること、彼等は現行制度の認めているあらゆる権利や自由を手段として用い、「法廷闘争」を遂行し、以て憲法政治の基礎を破壊しようと努力していることに鑑み、局に当たる裁判官は周到な研究と断固たる決意を以て事態に対処しなければならぬと信ずるからである。
(6頁の記載)
    我が国における法廷の状態は、とくに特定の思想的傾向を帯びた事件又はかかる思想的傾向の者に関する事件の審理について、特別の立法的措置を必要とするにいたった。かような事件についての公開の法廷の情況は誠に遺憾なものがあった。傍聴人や被告人被疑者等の拍手喝采、喧騒、怒号、罵り等は往々裁判長の訴訟指揮を不可能ならしめる程度に達したこと新聞の報道や、もっと具体的には情況の録音によって明瞭である。さらに裁判官の命令や係員の制止を無視して暴力を振い、係員を傷害し建物や施設を破壊するがごとき事態も再三ならず発生するにいたった。しかも法廷のかような状態は、多くの場合に「法廷闘争」として指導され、計画的組織的に準備し遂行されているところから来ているものと推定しても誤りないのである。
(23頁及び24頁の記載)
    (山中注:法廷等の秩序維持のために)採るべき措置の第二は刑法第九十五条の公務執行妨害罪や職務強要罪の規程を活用することである。私はこれ等の規定が従来裁判官、検察官等裁判関係者の職務執行に関しどの位の程度において適用されてきたかを知らないのであるが、恐らくこれ等の規定が眠っているのではないかを疑わしめるのである。しかるに法廷の内外における情況は痛切にこれ等の規定の発動を要求するような状態にある。法廷の内外における計画的な暴行主義を以てする、裁判所の職務執行に対する妨害行為は、正に第一項の構成要件を充足するものと認められる。暴行については疑問の余地は存しない。裁判官やその家族に対し日夜を分たず書面や電報によって繰り返される脅迫ことに「人民政府成立の暁には裁判官自らが絞首刑に処せられるだろう」というごとき脅迫を以て被告人や被害者の無罪や釈放を強要するがごときことは、第一項又は第二項の罪に該当する行為ではなかろうか。
(2) 昭和35年5月25日・26日開催の全国長官・所長会同における田中耕太郎最高裁判所長官訓示(昭和35年6月1日発行の裁判所時報306号1頁及び2頁)には以下の記載があります。
   裁判官に要求されるのは、裁判官倫理の基礎をなす世界観であります。これは裁判官が民主憲法の擁護者としてもつべき世界観であります。もちろん国民は思想、良心、信仰の自由を有しており、したがって無政府主義、ファシズム、共産主義等を信奉することも自由であります。しかし、これらの諸主義が日本国憲法の基本原理である民主主義と相容れないものである以上、もしこれらの諸主義を信奉する裁判官があるとすれば、その裁判官は良心に矛盾を感じないでは使命職責を果たし得ないのであります。裁判官の政治的中立は、憲法に対する絶対的忠誠を当然に前提にして、党派的な行動をしないということであり、憲法政治を破壊しようとする主義や対立に対する中立、寛容を意味するものではないのであります。司法においては、「二つの世界」の対立をゆるしません。そこには憲法という一つの超党派的立場があるのみであります。この点は若い世代の法曹の間に充分に理解していない者もあり得るかと考えてとくに一言した次第であります。
2 昭和42年5月当時,地家裁所長の裁判所広報での投稿につき,裁判官の表現の自由として懲戒まではされなかった事例
(1) 飯守重任鹿児島地家裁所長が,昭和42年4月20日付の鹿児島地家裁の裁判所広報に投稿した記事に関して,横山利秋衆議院議員(日本社会党所属)は,昭和42年5月11日の衆議院法務委員会において以下の発言をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① これを見ますと、「公務員は国民全体の奉仕者である、特定階級の奉仕者であってはならない」、このタイトルはまあまあとしましょう。
② たとえば二の、「公務員に任用されるときの宣誓の意義」「この宣誓書の文言の内容は、公務員の根本的心構えを規定したもので、通り一辺の訓示規定(任意規定)ではない。当然強行規定であることは疑いを容れない。従ってこの心構えがないにも拘らず偽わって宣誓をした場合は、その任命行為には当然無効などの法律問題が生ずるだろう。
    任命当時は宣誓書の要求するところと同じ心構えであった公務員でも、任命後この心構えが変り、一部の奉仕者即ち特定階級だけの排他的奉仕者としての心構えをもつようになった場合には、そのときから公務員としての適格性を欠くに至ったものと認めなければならない。
    このことは行為ないし状況により外部的に判断できるようになった場合に実際上の問題となる。」
③ そうして三に、「階級闘争政党と公務員の地位」、まん中ごろから、「もっとも、国家公務員法第百二条第三項は、公務員が単なる政党員となることを一応原則的に認めてはいるが、その加入政党が特定階級にだけ排他的に奉仕する政綱をもっているものであれば、公務員たる地位とその政党員たる資格とは到底両立しえないだろう。
    ここに排他的と言ったのは、自己の奉仕、支持する階級に対立する階級を敵として、これと平和共存する余地を認めず、その敵階級を暴力をもって掃滅することを政綱とする場合である。つまりこのような意味の階級政党であって、国民政党でありえない場合のことである。
    もしこのような政党に加入した場合、例えば法律に、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党に加入した場合は、公務員としては当然失格として扱われることが規定されていることは注目に値する。」
④ 「四、公務員の適格性の調査と指導監督」、途中省略しまして、「それは、階級的独裁政治と異り、自由な民主主義政治を確保するために公務員には政治的中立性を要求するのである。
    公務員はその心構えをもっていることを任命されたとき宣誓しなければならない。従って任命時に、公務員がそのような心構えをもっていることを調査することは、任命者としての重要な義務であり、見そこなってはならない。任命後も、この心構えをもち続けているか否かを調査することも、管理者としての監督責任の重要な部分である。」
    「日本は世界一の、言論の自由がある国と言われているが、自由国家の民主主義的寛容性によるこの言論の自由を利用して、非自由国家的な各種の破壊活動が常時侵入してきていることを見逃すことはできない。」
⑤ 一番最後に、「終りに一言するが、すべての公務員は、もし別に団体に所属するならば、その所属団体の性格が上記の国民全体の奉仕者たるにふさわしく、一部の奉仕者ではないことを確認したうえ、自覚的に所属関係を継続するものでなければならない。」こうあるのであります。
(2) 岸盛一最高裁判所事務総長は,昭和42年5月11日の衆議院法務委員会において以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① 決してその後野放しにしておるわけではございません。これはもう前にも詳しく御説明いたしましたとおりで、よほど慎重な態度をもって臨んでもらいたいということを福岡の高裁長官を通じて十分注意しております。福岡の高裁長官はこのたびかわりましたけれども、前長官からも、また私からも新長官に、こういうことが国会で問題になっておるから、よほど気をつけてもらいたいということを言っております。
     この五月六日に福岡管内の裁判所長会同がありましたとき、その席でもやはりそういうものの執筆はよほど慎重に、あらぬ疑惑を持たせないようにしなければならないというふうに各所長にもいろいろお話し、また本人も十分その点は考えておる、そういうことを言っておりました。
しばらく成り行きを見ることが現在としては適当だろうと思います。

② それは裁判官としてふさわしくないようなものを書くようなことになれば、そういうことはしちゃいけない。これは条文なんかございませんけれど、監督作用に入ると思います。
③ まあ、監督といいますか、命令といいますか、監督作用としてそういうものを書くなということは当然言えると思います。しかし、それは書くなということはできますが、非常にデリケートな問題であります。どこまで一体裁判官の口を封じていいかという問題になりますと……。
④ 裁判官といえども、自由かつてなことを書いていいというわけのものではない。非常に社会に害毒を流すようなものをかりに書いたときには、もちろん禁止どころか、懲戒とか、そういう問題になりますけれども、やはり裁判官といえども、表現の自由は持っております。ただ裁判官の地位にふさわしくないようなことをやってはいかぬという……。
(3) ちなみに,岡口基一裁判官に対する懲戒申立書(平成30年7月24日付)の「申立ての理由」は以下のとおりであり(「懲戒申立書謄本です」参照),最高裁大法廷平成30年10月17日決定により同裁判官は戒告されました。
     被申立人は,裁判官であることを他者から認識できる状態で,ツイッターのアカウントを利用し,平成30年5月17日頃,東京高等裁判所で控訴審判決がされた犬の返還請求に関する民事訴訟についてのインターネット記事及びそのURLを引用しながら,「公園に放置されていた犬を保護し育てていたら,3か月くらい経って,もとの飼い主が名乗り出てきて,「返して下さい。」,「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?3か月も放置しておきながら・・」,「裁判の結果は・・」との投稿をインターネット上に公開して,上記訴訟において犬の所有権が認められた当事者(もとの飼い主)の感情を傷付けたものである。
3 裁判批判に関する国会答弁
・ 3期の勝見嘉美最高裁判所事務総長は,昭和58年3月4日の衆議院法務委員会において以下の答弁をしています。
     一 般の裁判批判の問題でございますが、この点につきましては、国会の司法に対する国政調査とやや質を異にするのではなかろうかというふうに考えます。もちろん言論の自由という問題もございますので、果たして裁判批判というものがどこまで許されてしかるべきか、司法のあり方としてどこまで国民の言論の自由と調整されるべきものか、一概にはお答えできないと思いますが、この点につきましても、国会と裁判所との関係と同様に、あくまでも裁判の独立を害しないというのが基本的理念であろうというふうに私は考えます。
4 「恐るべき裁判 付表・左翼裁判官、弁護士、法学者一覧」で批判されている判決
     「歪められた裁判(奇怪な判決の数々)」(219頁ないし242頁)によれば,以下の判決が列挙されています。
① 経歴詐称は管理職に不適格とするほどの不誠実を示すものではない,という判決(東京地裁昭和42年7月17日判決)
② 思想,心情にかかわることなら人をだましても良い。だまされた方が悪いのだ,という判決(東京高裁昭和43年6月12日判決(控訴審)
③ 戸別訪問を禁止する規定は憲法21条に違反し,無効である,とする判決(妙寺簡裁昭和43年3月12日判決,長野地裁佐久支部昭和44年4月18日判決)
→ 最高裁大法廷昭和44年4月23日判決は戸別訪問は憲法に違反しないと判示しています。
④ デモ行進に歩道を行進せよとの条件をつけることは許されない,とする決定(大阪地裁昭和43年6月14日決定)
→ 大阪市の御堂筋におけるデモ行進に関するものです。
⑤ 外国人(朝鮮総連幹部)の再入国不許可処分を違法とした判決(東京地裁昭和43年10月11日判決。なお,当該判決は東京高裁でも支持されました。)
→ 憲法22条1項の外国移住の自由の中には,海外旅行と帰国のための入国の自由が含まれるし,同項は日本に在留する外国人にも適用されるとのことです。
⑥ 住居侵入罪は従業員の懲戒理由にならない,という判決(東京地裁昭和42年7月17日判決)
⑦ 刑事事件で起訴された公務員に対する休職処分を違法として取り消した判決(東京地裁昭和43年7月20日判決)
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