昭和44年7月1日付で特別採用された,東大卒業の23期司法修習生


目次
1 東大卒業の23期司法修習生の特別採用
2 昭和44年6月当時の,最高裁判所の公式説明
3 特別採用された23期司法修習生のその後
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1 東大卒業の23期司法修習生の特別採用
(1)ア 昭和44年1月18日から同月19日にかけて東大安田講堂事件があったこともあって,当時の東大生は昭和44年3月に卒業することができませんでした。
イ 司法試験に合格していたものの,昭和44年3月に卒業できないこととなった東大生は62人いましたところ,同年3月18日の最高裁判所による意思確認の結果,26人は東大中退を希望し,31人は東大卒業後に司法修習生になることを希望し(ただし,このうちの5人は後日,採用希望を撤回しました。),5人は採用希望を撤回しました。
(2) 昭和44年6月に東大を卒業した司法試験合格者のうちの26人は,昭和44年7月1日付で23期司法修習生として特別採用されました。
(3)ア 昭和44年6月25日,23期司法修習生大会が開かれ,東大卒業の23期司法修習生の特別採用に反対する決議を行いました。
イ 日弁連は,昭和44年7月12日の臨時総会において,「司法修習生の追加採用に関する決議」を採択して,東大卒業の23期司法修習生の特別採用に反対することを決議しました。

2 昭和44年6月当時の,最高裁判所の公式説明
(1)ア 造反-司法研修所改革の誘因-(昭和45年6月10日発行)42頁ないし44頁によれば,昭和44年5月29日付の毎日新聞の「読者の広場」欄に掲載された,9期の富川秀秋裁判官の「司法研修所の東大生優遇はおかしい」に対する以下の反論が,最高裁判所事務総局広報課によって毎日新聞の「読者の広場」欄に投書されました。
① 昭和44年6月2日付の投書
   五月二十九日付本欄「司法研修所の東大生優遇はおかしい」との意見について事実を説明したいと思います。
   最近の学園紛争による卒業延期は学生個人にはいかんともしがたい現象で、卒業が遅れたことで学生個人を責めるのは酷だと思われます。ところで司法修習生に採用され、司法研修所に入るのは通常四月です。在学中に司法試験をパスはしたが、卒業が延期された、卒業後の採用希望者に本年はもうだめです、来春まで待ちなさいと門を閉じていいものでしょうか。戦後、復員や外地引揚げなど個人的理由によらない原因のため大学の卒業が遅れた人がかなりいました。この人たちは、もちろん正規の採用期より遅れて司法修習生に採用されました。これは法曹三者の後継者の養成のためにとられるべき当然の措置といえましょう。今回の学園紛争のため卒業が遅れた人たちに対しても、同じ措置がとられたわけです。この一月の閣議で国家公務員上級試験に合格した各省庁採用内定者が学園紛争のため四月までに卒業できない場合には採用を延期し、卒業をまって採用することとする方針が了承されたのも同じ趣旨と思われます。ただ各省庁とはちがい、司法修習生の場合には、大学を中退してでも採用を希望する人については採用するというのが従来からの取扱い例となっております。そのようなわけで今春の司法修習生の採用に際し、学園紛争のために卒業の遅れた人については、中退か卒業のどちらを選ぶか本人の希望どおりに取扱うこととされたわけです。
   この措置が東大だけについて特に考慮されたのではないこともまたいうまでもありません。この措置は一時正規の卒業が危ぶまれた大学、たとえば中大、京大、岡山大などすべての学校当局等について、卒業時期がたしかめられました。その結果、これらの大学では、四月までに卒業が可能となったため、結果的に東大だけがこの取扱いを受けることになったに過ぎません。まして中退した人が「いわれなき不利益」をこうむり、また「それは合理的理由を欠く差別待遇」であるなどということは、全く事実に反するものです。
② 昭和44年6月18日付の投書
   今回の措置は、あらかじめ卒業延期者の全員に知らせた上でとられたもので、東大中退で入所した人が、これを知らなかったということはない。
   高裁では確定的に卒業延期となった人の全員(結果的に東大生ばかりになったことは前掲)に集まってもらいこの措置を十分説明した。
   もちろん四月までに卒業できる人たちにはそのようなことをする必要はありませんので、この措置についての説明はしていません。
イ 造反-司法研修所改革の誘因-(昭和45年6月10日発行)48頁には,和歌山修習生処分問題二二期対策委員会資料に収録されていた司法研修所資料からの抜粋として,「大学の卒業が九月にも行われた昭和二二年には、五月に一二二名の修習生を採用した外、一〇月に六名の修習生を採用した例もある(修習生一期)」と書いてあります。
(2) ちなみに,投書をした9期の富川秀秋裁判官は,名古屋高裁金沢支部判事をしていた昭和54年10月14日,国立国府台病院整形外科病室において包帯で首を絞めて自殺しました(「自殺データベース (8) 昭和50年代の自殺 (1975-1984)」参照)。

3 特別採用された23期司法修習生のその後
(1)ア 昭和46年6月,25期の前期修習中に二回試験が実施されました。
イ 23期司法修習生(昭和44年7月採用)の修習終了式は,昭和46年7月1日午前10時から司法研修所会議室で行われ,10人が判事補に,6人が検事に,10人が弁護士になりました。
(2)ア 10人の判事補は全員が東大出身であり,現役合格4人・1年遅れ5人・2年遅れ1人でした。
イ 退官時のポストは,東京高裁長官1人,名古屋高裁長官2人,知財高裁所長1人,東京高裁部総括2人,名古屋地裁所長1人,さいたま地家裁熊谷支部長1人,名古屋家地裁判事1人,静岡家地裁判事1人です。
(3) 23期全体の場合,退官時のポストは,高裁長官5人,知財高裁所長1人,東京高裁部総括5人,大阪高裁部総括6人,広島高裁部総括2人,福岡高裁部総括3人,仙台高裁部総括1人,札幌高裁部総括2人,地家裁所長10人(うち,1人は弁護士任官者)です。
   そのため,23期(昭和44年7月採用)の10人の判事補の出世率は非常に高いものでした。

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