◯山中弁護士への事件のご相談・ご依頼は「遺言・相続のお問い合わせ」から可能です。
第1 自筆証書遺言に固有の無効事由と主張の交通整理
1 三つの無効事由と,その責任構造の違い
自筆証書遺言の無効主張は,方式違反,自書性(成立の真正)の否認及び遺言能力の欠缺という三つの事由に分けて検討する必要がある。方式違反は,全文・日付・氏名の自書,押印,財産目録の署名押印及び加除変更の方式という,民法968条が定める外形的要件を対象とする。自書性の否認は,遺言者以外の者が書いた,署名を透写した,添え手をした者の意思が運筆に介入したというように,遺言書を現実に作成した者を争う主張である。遺言能力の欠缺は,遺言者が作成時に遺言の内容とその法的結果を理解し判断する能力を欠いていたという主張であり,民法963条が遺言時における能力を要求することを出発点とする。
この三つは,主張立証責任の構造が異なる。遺言の効力を主張する側が,遺言者が当該遺言を作成し法定の方式を具備したことを抗弁として主張立証し,無効を主張する側が遺言能力の欠缺その他の無効事由を再抗弁として主張立証するというのが基本の構造である。したがって,遺言書が遺言者の筆跡ではないという主張は,本来は相手方の抗弁に対する否認にとどまり,無効主張側が別人の筆跡であることを積極的に証明する責任を負うわけではない。もっとも,争点を早期に明確にするため,訴状の段階から具体的な事実を伴う先行的な積極否認として提出することになる。これに対し,遺言能力の不存在は規範的な評価を伴う要件であるから,無効主張側が評価根拠事実を,有効主張側が評価障害事実をそれぞれ主張立証する。この違いは,鑑定を誰の負担でいつ提出するかという実務判断に直結する。
2 自書性と遺言能力は前提が逆である
「遺言者が書いたが内容を理解できなかった」という遺言能力の主張と,「遺言者は書いておらず第三者が作成した」という偽造の主張は,主要事実の前提が逆である。同一の遺言書について両者を並べて主張するときは,主位的・予備的又は選択的な位置付けを明示しなければならない。「認知症で字が乱れているから偽造である」という接続は,前提の異なる二つの主張を混線させるものであって,採るべきではない。
もっとも,遺言能力の欠如ないし減退を示す事実は,本人が単独では書けなかったという推認を介して,偽造の間接事実として機能し得る。この限度では両立するが,どちらを主軸に据えるかは訴状を起案する前に決めておく必要がある。とりわけ,自書性を否定する主張は,同じ論法が自陣に有利な文書へ跳ね返る危険を伴うため,争う文書と守る文書を先に確定しておくべきである。
3 作成時期による適用条文の確定
平成31年1月13日以後に作成された自筆証書遺言では,相続財産の目録を自書しないことが許されるが,遺言者は,その目録の毎葉,自書によらない記載が両面にある場合には両面に署名押印しなければならない。それ以前に作成された遺言について,現行民法968条2項の例外を遡って適用してはならない。
加除変更については,現行民法968条3項が,変更の場所を指示し,これを変更した旨を付記して特にこれに署名し,かつ,その変更の場所に押印することを要求している。この規定は,平成30年の相続法改正前は民法968条2項であった。財産目録に関する規定が新たに2項として挿入された結果,加除変更の規定が3項へ繰り下がったためである。作成日が平成31年1月13日より前の事案で現行の項番号をそのまま引用すると条文の特定を誤ることになるため,作成日を確定した上で,当時の条文,改正法の施行日及び経過措置を最初に確認する必要がある。
第2 方式違反に関する最高裁判例の射程
方式違反は,成否を書面自体から判定でき,医学的評価も鑑定も要しないため,成立すれば最も直截な無効事由である。もっとも最高裁は,形式の欠落を機械的に無効とするのではなく,その要件が何のために置かれたのかに遡って射程を画してきた。以下の各判例を対比すると,その分水嶺が見える。
1 日付――「吉日」と誤記の分水嶺
最高裁判所第一小法廷昭和54年5月31日判決は,自筆遺言証書の日付として「昭和四拾壱年七月吉日」と記載された証書は,民法968条1項にいう日付の記載を欠くものとして無効であるとした。これに対し,最高裁判所第二小法廷昭和52年11月21日判決は,自筆遺言証書に記載された日付が真実の作成日付と相違しても,その誤記であること及び真実の作成の日が遺言証書の記載その他から容易に判明する場合には,遺言はこれによって無効となるものではないとした。
両者を分けているのは,日付の記載が暦上の特定の日を指しているかどうかである。「吉日」は,誤って書かれたのではなく,そもそも特定の日を指していない。これに対し誤記の事案では,指し示された日が誤っているだけで,真実の作成日は証書の記載その他から復元できる。したがって,日付に問題を発見したときは,記載の欠落,特定不能,単純な誤記及び意図的な虚偽記載を区別しなければならない。特定不能であれば無効主張は強く,単純な誤記であれば無効主張はほとんど通らない。意図的な虚偽記載は,方式の問題というよりも,作成の経緯と自書性の問題に転化する。
2 押印――指印と花押の分水嶺
最高裁判所第一小法廷平成元年2月16日判決は,自筆遺言証書における押印は指印をもって足りるとした。他方,最高裁判所第二小法廷平成28年6月3日判決は,いわゆる花押を書くことは民法968条1項の押印の要件を満たさないとした。
一見すると,指印という簡略な方法が許され,花押という格式ある方法が許されないのは逆に見える。しかし,押印の要件が遺言者の同一性及び真意を担保し,併せて文書の完成を示すという我が国の慣行に根拠を持つと理解するならば,説明がつく。指印は,印章による顕出ではないものの,押捺という行為の形式を備え,かつ本人の身体に由来する痕跡である。これに対し花押は,署名に準ずる自署の一態様であって,押捺ではない。実務上の含意は,印影があるかという外形だけを見るのではなく,それが法的に押印と評価できる方式かという点と,誰の意思によって顕出されたかという点を分けて検討しなければならないということである。前者は方式違反の問題であり,後者は自書性及び成立の真正の問題である。
3 数葉にわたる遺言と契印
最高裁判所第三小法廷昭和37年5月29日判決は,自筆遺言書が二葉にわたり,その間に契印がなく綴じ合わされていなくても,第二葉には第一葉において譲渡する旨示した物件が記載されていて,両者は紙質を同じくし,いずれも遺言書の押印と同一の印で封印されて遺言者の署名ある封筒に収められている場合には,一通の遺言書と明認できるとした。契印や編綴は民法968条1項の要件ではないから,契印がないことだけを理由とする無効主張は成り立たない。
もっとも,同判決が挙げる内容の連続性,紙質の同一性,同一の印による封印及び署名のある封筒への収納という事情は,裏を返せば,これらが欠ける場合には遺言書の一通性そのものが争点になり得ることを示している。紙質が異なる,内容が接続しない,特定の葉だけ筆記具が異なるといった事情は,方式論として構成するよりも,差替えや加筆という自書性の問題として構成する方が実益がある。
4 加除変更の方式違背
最高裁判所第二小法廷昭和56年12月18日判決は,自筆証書遺言における証書の記載自体からみて明らかな誤記の訂正については,民法968条2項所定の方式の違背があっても,その違背は遺言の効力に影響を及ぼさないとした。ここでいう2項は,前記のとおり現行法では3項に当たる。
注意を要するのは,同判決の射程が「明らかな誤記の訂正」に限られていることである。これを,方式を欠く加除変更は一般に遺言本体を無効にしないという広い命題の根拠として引用すると,射程外であることを突かれる。引用するのであれば,方式を欠く加除変更があっても遺言書本体が当然に無効となるものではない,という限度にとどめるのが安全である。なお,不適式な訂正は,独立の無効事由としては弱いものの,訂正の位置,回数及び態様が,遂行機能や自己監視の障害を示す間接事実として遺言能力の争点に接続することがある。
5 方式違反の実務上の位置付け
以上のとおり,自筆証書遺言の方式違反が決定的に働くのは,日付が暦上の特定の日を指していない場合と,押印と評価できるものが存在しない場合という限られた場面である。その他の場面では,最高裁は方式を柔軟に解しており,方式違反のみで無効を得られる事案は多くない。したがって,方式違反は,遺言書の写しを一読すれば判定できる低負担の初期調査として最初に確認し,該当すればそれだけで結論が出るため直ちに主張するが,該当しない場合には深追いせず,主戦場を自書性と遺言能力に移すのが合理的である。
第3 自書性(偽造)に関する裁判例の到達点
1 自書性は五つの事情の総合考慮による
大阪高等裁判所令和7年9月19日判決は,遺言書の偽造すなわち自筆証書遺言の自書性の有無の判断に当たっては,筆跡の同一性(筆跡の類似性),遺言者の自書能力の存否及び程度,遺言書それ自体の体裁等,遺言内容それ自体の複雑性・遺言の動機及び理由・遺言者と相続人又は受遺者との人的関係及び交際状況・遺言に至る経緯等,並びに遺言書の保管状況及び発見状況等の諸事情を総合考慮して判断すべきものと解される,と判示した。この五つの考慮要素は,東京地方裁判所民事部プラクティス委員会第二小委員会が判例タイムズ上で整理した枠組みと一致するものであり,下級審実務の到達点を高等裁判所が正面から確認したものと位置付けられる。
実務上の帰結は明快である。筆跡鑑定が関わるのは五つのうち筆跡の同一性という一つにすぎず,残る四つは鑑定を待たずに客観的な証拠で決着し得る。したがって,鑑定に着手する前に,五つの要素ごとに有利・不利な事実と証拠を配列した一覧を作成し,鑑定によってしか解決できない争点が残るかどうかを見極めるべきである。なお,同判決は自書性を肯定して遺言を有効とし控訴を棄却した事案であるから,無効を主張する側がこの枠組みを引用する場合には,判断の枠組みを援用するにとどめ,結論まで自陣に有利であるかのように述べてはならない。
2 署名の酷似は透写の証明にならない
同判決は,遺言書の署名を構成する文字が,遺言者が生前に作成した別の書面の署名を構成する文字に酷似するという事実について,自書性の判断に当たっての考慮事情ではあるものの,その事実があるとしても,そのことをもって当該別書面の署名を用いた偽造であることが推認されるものとはいえない,と判断した。
これは透写(トレース)の主張にとって重要な限定である。本人が同じ字を書けば似るのは当然であって,似すぎているということ自体は,同一人の反復した筆記によっても透写によっても生じ得る。したがって透写を主張するのであれば,酷似しているという印象を述べるだけでは足りず,重ね合わせによる幾何学的な一致の程度,筆圧の変化,書き出し及び書き終わりの形状,ためらいの痕跡や修筆,下描き線や圧痕の有無という,透写に固有の物理的痕跡を原本の上で示す必要がある。これらは原本でなければ判定できないから,写しだけを資料として透写を主張することには構造的な無理がある。
3 自書性が認められれば押印も本人と推認される
同判決は,一般に,処分証書において,当該書面を自筆した者の印章がその作成者の名下に押印されている場合には,特段の事情のない限り,当該書面を自筆した者本人が押印したと考えるのが自然である,とした上で,筆跡・体裁・内容から自書が認められる以上,名下の印影は特段の事情のない限り本人の押印によるものと考えるのが自然である,と述べた。
これは,私文書の成立の真正に関する二段の推認とは逆向きの推認である。通常は,本人の印章による印影があることから本人の意思に基づく押印が事実上推認され,さらに民事訴訟法228条4項により文書の成立の真正が推定される。これに対し同判決は,自書性の認定から押印の本人性を推認している。したがって,押印を争う側は,自書性を争わずに押印だけを切り離して争うという構えでは苦しい。印章の管理者,保管場所,使用履歴,印鑑登録証明書の取得経緯及び押印の時期という具体的な反証を,自書性の争いと連動させて構成する必要がある。
4 添え手に関する最高裁判例の正確な読み方
最高裁判所第一小法廷昭和62年10月8日判決は,運筆について他人の添え手による補助を受けてされた自筆証書遺言が民法968条1項にいう「自書」の要件を充たすためには,遺言者が証書作成時に自書能力を有し,かつ,右補助が遺言者の手を用紙の正しい位置に導くにとどまるか,遺言者の手の動きが遺言者の望みにまかされていて単に筆記を容易にするための支えを借りたにとどまるなど添え手をした他人の意思が運筆に介入した形跡のないことが筆跡のうえで判定できることを要する,とした。
この判示は三つの要件として紹介されることが多いが,裁判要旨の文言に即すると柱は二つである。すなわち,遺言者が作成時に自書能力を有することと,添え手をした他人の意思が運筆に介入した形跡のないことが筆跡のうえで判定できることである。手を正しい位置に導くにとどまることや,筆記を容易にするための支えを借りたにとどまることは,第二の柱を満たす典型例として「など」の語で例示されたものと読むのが素直である。
この読み方は実務上の差を生む。介助の態様が右の例示に当てはまらなくても,運筆への意思の介入がないことを筆跡のうえで判定できるのであれば,なお自書たり得る。逆に,介助が形式的には支えにとどまるように見えても,筆跡のうえでその判定ができないのであれば自書性は認められない。したがって添え手が問題となる事案では,誰がどのように支えたかという供述を再現することと同じか,それ以上に,筆跡のうえで介入の有無を判定できる資料があるかどうかが決め手となる。そして重要なのは,添え手があったこと自体は別人が書いたことを意味しないという点である。添え手は本人の自書と両立する概念であるから,添え手の痕跡を別人の筆跡である証拠として提出するのは,判例の枠組みを取り違えたものである。
5 自書性を否定した事例
仙台高等裁判所令和3年1月13日判決は,結論を異にする複数の私的な筆跡鑑定の信用性を分析・評価し,遺言書の発見・保管等に係る関係者の供述の信用性をも検討して,遺言書の自書性を否定し,自筆証書遺言を無効とした事例である。私的鑑定の信用性が否定された理由として指摘されたのは,署名部分以外を検討していないこと及び筆継ぎを看過していることという,鑑定の作業範囲と観察の欠落であった。
注目すべきは,自書性の否定を導いた要素が鑑定そのものではなく,発見及び保管に関する供述の信用性の検討にも及んでいたことである。自書性の主張立証責任が有効を主張する側にあるという構造を踏まえれば,無効を主張する側は別人の筆跡であることを積極的に証明する必要は本来なく,自書の立証が尽くされていないことを示せば足りる。この点を意識すると,鑑定に過大な役割を負わせずに済む。
第4 筆跡鑑定の有効性をどう評価するか
1 最高裁が示した証明力の限界
最高裁判所昭和41年2月21日決定は,いわゆる伝統的な筆跡鑑定の方法について,多分に鑑定人の経験と勘に頼るところがあり,ことの性質上その証明力には自ずから限界があるとしても,そのことから直ちにこの鑑定方法が非科学的で不合理であるということはできず,筆跡鑑定におけるこれまでの経験の集積とその経験によって裏付けられた判断は鑑定人の単なる主観にすぎないものとはいえない,という趣旨を判示し,これを証拠に供するかどうかは事実審裁判所の自由心証に属する事項であるとした。同決定は刑事事件に関するものであるが,筆跡鑑定の位置付けに関する我が国の基本的な理解を示すものとして参照されている。
ここから読み取るべきことは二つある。第一に,筆跡鑑定は証拠として排除されるものではない。第二に,その証明力には内在的な限界があることが,最高裁自身によって明言されている。我が国は,証拠能力の段階で科学的な妥当性を審査する仕組みを採らず,自由心証主義の下で証明力を評価する枠組みを採っている。したがって,鑑定を争う側の主張は,証拠として許されないという形ではなく,証明力が乏しいという形で組み立てなければならない。
2 私的鑑定は書証にすぎない
民事訴訟法229条1項は,文書の成立の真否は筆跡又は印影の対照によっても証明することができると定め,同条2項以下は,対照の用に供すべき筆跡等を備える文書の提出及び送付,相手方に対する筆記の命令並びにこれに従わない場合の効果を定めている。もっとも,当事者が私的に依頼して作成させた筆跡鑑定書は,裁判所が命ずる鑑定ではなく,鑑定人の意見を記載した書証にすぎない。民事事件において筆跡鑑定が用いられるのは,遺言無効確認訴訟における自筆証書遺言のほか,養子縁組無効確認訴訟における養子縁組届,契約の効力が争われた場合の契約書など,文書の成立の真正が争われた場面である。私的鑑定である以上,作成者の中立性は制度的に担保されていないから,依頼者に有利な結論に傾きやすいという評価を免れない。
3 裁判官は筆跡鑑定に積極的でない
弁護士向けの実務書に収録された裁判官21名に対する調査では,筆跡鑑定の申出について「採用することもあるが積極的というわけではない」との回答が12名で最も多かった。その理由として挙げられたのは,筆跡鑑定は科学性・客観性が確立しているとはいい難いこと,どの程度信頼できるか疑問であり費用をかけるにはリスクが高いこと,筆跡鑑定をしなくても筆跡の対照はある程度可能であること,及び筆跡鑑定は遺言者の筆跡である確率が何パーセントかという程度でしか結論が出ずそれのみで判断できるものではないことである。同書は併せて,裁判所の評価と当事者の評価との間に大きな違いが生じ,その後の和解が困難になる可能性を指摘している。
この乖離は依頼者対応の上できわめて重要である。高額の費用を投じた鑑定書が判決でほとんど顧みられないという結果は,依頼者の納得を著しく損なう。したがって,鑑定を依頼する前に,鑑定は五つの考慮要素のうちの一つを扱うにすぎないことを説明しておく必要がある。
4 誤り率は実証された
かつて筆跡鑑定に対する批判は,誤り率が実証されていないという点に集中していた。米国学術研究会議が2009年に公表した報告書は,筆跡比較の科学的な基礎は強化を要するとし,訓練された文書鑑定人の実務の信頼性及び再現性を定量化する研究は限られていると述べた。米国の大統領科学技術諮問委員会が2016年に公表した報告書は,人の判断を含む特徴比較型の手法について,その科学的妥当性と信頼性の程度を確立する唯一の方法は,鑑定人が実際にどれだけ正解するかを見る実証試験であるとした。
そして2022年,この勧告に沿った大規模な試験の結果が公表された。実務に従事する文書鑑定人86名が各最大100件の筆跡比較を行い,180の比較セットについて7196件の結論が得られたという規模である。その結果,別人が書いた組について同一人が書いたとする誤り,すなわち偽陽性は3.1パーセント,同一人が書いた組について同一人が書いたのではないとする誤り,すなわち偽陰性は1.1パーセントであったと報告された。もはや,誤り率が不明であるという批判は正確ではない。問題は,測られた数値をどう読むかに移っている。
5 同じ試験から導かれる誤り率が三倍以上動く理由
右の偽陽性率3.1パーセントに対しては,同じ学術誌上で強い異論が提起された。批判の要点は三つである。第一に,判定不能とした回答を分母に含めている点であり,判定の正確性を評価するのであれば判定不能は分母から除くべきであって,そうすると偽陽性率は3.6パーセントになるという。第二に,同一人が書いたという断定的な結論のみを誤りとし,おそらく同一人が書いたという留保付きの結論を誤りに数えていない点であり,留保付きの結論も事実認定者に与える影響は断定的な結論と変わらないから,これを分子に含めると偽陽性率は8.2パーセントになるという。第三に,割り当てられた比較の一部を行わなかった鑑定人がいる点であり,全件を比較した鑑定人に限り,判定不能を除いて留保付きの結論を含めると,偽陽性率は9.1パーセント,すなわち11件に1件になるという。批判はさらに,偽陽性が一部の資料や一部の鑑定人に偏って生じたのではなく,別人が書いた組の87パーセント,及び40組以上を判定した鑑定人の89パーセントで生じていたことを指摘している。
これに対する原著者側の回答も重要である。原著者側は,単一の誤り率というものは存在せず,四種類の誤判定率と四種類の正判定率を示していると反論しつつ,批判者の定義による率も附録で報告しており,その正しい値は9.3パーセントであると述べた。すなわち,定義次第で偽陽性率が3.1パーセントにも9.3パーセントにもなること自体は,原著者側も争っていない。
法廷での実務的な含意はここにある。鑑定書が同一人の筆跡であるとか別人の筆跡であるとか断定してきたときは,その断定がどの水準の結論なのか,そしてその水準の結論について実証された誤り率がどれだけかを問うことができる。誤り率は不明であるという抽象的な批判よりも,この問いの方が具体的で反論しにくい。
6 近親者・訓練歴・再現性に関する知見
同じ試験は,実務上見過ごせない知見を併せて報告している。第一に,双子が書いた別人の組についての偽陽性率は8.7パーセントであり,双子以外の2.5パーセントを大きく上回った。近親者は筆跡を学習する環境を共有するため,相続事件のように近親者が筆記者の候補となる場面では,誤りの危険が類型的に高いことを示唆する。第二に,訓練期間と成績の関係は単純ではない。正式な訓練期間が2年未満の鑑定人は誤り率が高い一方,断定的な結論を出す傾向が強いため真陽性率及び真陰性率も高かったのに対し,2年以上の訓練を受けた鑑定人は断定的な結論を出しにくいが,出した断定的な結論は正しい可能性が高かったと報告されている。断定を避ける鑑定人ほどその断定は信頼でき,逆にためらいなく断定する鑑定書はそれ自体が警戒の対象となる。第三に,筆記の様式が筆記体か活字体かという違いと誤り率との間に関連は認められなかった。第四に,同じ資料に同じ結論を出すかという同一鑑定人の再現性と,異なる鑑定人が一致するかという鑑定人間の再現性も測定され,これらの欠如は,本来同一であるべき判断における望ましくないばらつきとして位置付けられている。同一の遺言書について正反対の私的鑑定が併存するという我が国の実務上の光景は,例外的な逸脱ではなく,測定されたばらつきの表れとみるのが正確である。
7 筆跡が変動することは前提である
同じ試験は,筆跡が学習された神経筋の活動であるため,指紋のような身体的特徴や銃器のような工業製品を対象とする分野よりも,同一人の内部における変動を広く見込まなければならないと述べている。そして筆跡は静的なものではなく,書字の成熟度,筆記する環境,下敷きとなる面,筆記具,情動的・身体的・精神的な状態及び服薬などによって影響を受けるとする。
このうち情動的・身体的・精神的な状態と服薬は,まさに遺言無効事件で争われる事情そのものである。高齢の遺言者の筆跡が過去のものと異なることは,別人が書いたことの証拠ではなく,右に列挙された変動要因が作動したことを示すにすぎない可能性がある。したがって比較筆跡を選ぶ際は,遺言作成日にできるだけ近い時期の原本を複数収集し,発症,骨折,脳卒中,服薬の変更及び入院の前後を含む連続した資料を並べて,本人の内部における変動の幅そのものを実測しなければならない。この幅を測らないまま相違があると述べる鑑定は,比較の基準を欠いている。
8 鑑定書を検討する際の着眼点
以上を踏まえると,鑑定書は結論部分ではなく,次の各点を精査すべきである。すなわち,①原本を実見したか写しのみかという資料の適格性,②比較資料の作成者・作成日・原本性が確定しているか,③同一の文字が十分な数含まれるか,署名のみのような短い資料に依拠していないか,④本人の内部における変動の幅を対照資料から実測した上で問題の筆跡がその範囲外にあることを示しているか,⑤資料を見てから根拠となる特徴を選ぶという循環に陥っていないか,⑥同一人が書いた可能性と別人が書いた可能性の双方を検討し前者を排除する作業をしているか,⑦結論の強さが実証された誤り率に見合っているか,⑧希少性を根拠とする場合に母集団における出現頻度の資料があるか,⑨複数の特徴の希少性を掛け合わせている場合にそれらが互いに独立であることが検証されているか,⑩第三者による検証の工程を経ているか,である。
⑨は説明を要する。同一の手,同一の姿勢及び同一の筆記具から生じる特徴は互いに独立ではないから,これらを独立の事象として掛け合わせると,希少性が実際よりはるかに小さい確率として算出される。⑧についても,ある特徴が母集団にどの程度の頻度で現れるかという資料がなければ,希少であるから別人であるという推論は前提を欠く。我が国では証拠能力を争う場面がないため,これらはいずれも証明力を減殺する事情として主張することになる。
第5 遺言能力に関する医学的知見
1 能力は時点・課題・状況に応じて判断される
遺言能力は,遺言作成時において,当該遺言の内容及びその結果を理解し判断できたかという能力である。裁判実務では,精神上の疾患の種類及び重症度を特定するという医学的判断を経た上で,法的判断として,作成時の状況,遺言内容の難易,遺言内容の合理性及び動機の有無等を総合考慮するという枠組みが用いられている。
医学の側の到達点も同じ方向にある。能力は診断名や全般的な精神状態に依存するのではなく,特定の時点に特定の課題を遂行し特定の決定をするために必要な認知及び精神機能の個々の構成要素に依存するとされる。さらに重要なのは,能力が状況にも依存するという点である。すなわち,その者が置かれた環境における対立や複雑さの水準が高いほど,関連する事実を理解し競合する要求とその帰結を評価しようとする分だけ,必要とされる能力の閾値が上昇するとされている。
この状況依存性は実務上有用である。法定相続分から大きく乖離する処分,先行する遺言を全部撤回する処分,及び相続人間に既に鋭い対立がある状況での処分は,いずれも要求される能力の水準を引き上げる方向に働く。したがって,内容が単純であるから能力があったという反論には,先行する遺言を撤回して受益者を入れ替える処分は,文面が一行であっても撤回の帰結を弁識する高度の能力を要する,と応答することができる。なお,裁判例を心身の状況,認知症スケールの点数,遺言内容の単純性,動機の合理性及び後見開始の審判等の影響という五つの要素で整理した研究によれば,点数が高くなくても内容が単純で合理的であれば能力が肯定され,点数が高くなくても内容が複雑で合理性がなければ否定されるという相関的な判断がされており,また遺言の種類による差は乏しく,公正証書遺言であるからといって能力が認められやすいわけではないとされている。自筆証書遺言に特有の事情は,方式が緩やかであることと偽造が容易であることにあるのであって,能力判断の枠組み自体が公正証書遺言と異なるわけではない。
2 認知機能検査を閾値として用いない
改訂長谷川式簡易知能評価スケール及びミニメンタルステート検査は,認知機能のスクリーニングの手段であり,特定の点数が遺言能力の有無を自動的に決めるものではない。医学の側でも,認知機能スクリーニング検査の結果は診断的ではないと明言されている。軽度認知障害,認知症又はアルツハイマー病の診断があっても能力を有し得るし,逆に検査結果が正常でも能力を欠き得る。不良な検査結果は兆候であって確定的な所見ではない,というのが正確な位置付けである。そして,標準化された認知機能スクリーニング検査は,いずれも年齢,教育歴,文化,言語及び感覚障害の影響を受ける。
とりわけ実務で見落とされやすいのが,ミニメンタルステート検査の構造的な限界である。同検査について最も一般的に指摘される限界は,前頭葉機能及び遂行機能を評価する項目を欠いていることであり,そのため,前頭葉が主として障害される型の認知症であれば,検査で正常の点数を取りながら重大な認知障害を有し得るとされる。したがって,点数が高いことは能力を証明しない。他方,同検査の有用性は,経時的に繰り返し実施することによって,認知機能が認知症に整合する低下の経過をたどっているかを示し,他の臨床情報を裏付けられる点にある。点数を引用するときは,単発の点数ではなく,検査日,遺言作成日との距離,実施の目的,検査の条件,下位項目及び前後の推移を併記すべきである。
3 死後の回顧的評価という方法論
遺言者を診察したことのない医師が記録から作成時の精神状態を評価することには,当然に懐疑が向けられる。しかし医学において,記録と家族からの聴取に基づいて診断を導く手法は心理学的剖検として1958年以来認められてきたものであり,回顧的な専門家意見と同種の営みである。医学的な評価が患者の不在下で行われること自体は珍しくなく,海外では,回顧的な能力評価について新規の科学に依拠するものではないとして証拠採用した裁判例もある。他方で,遺言者を知る者の証言を優先し,回顧的な専門家の意見を軽視する裁判官もあり,この領域では法が医学に後れているとの指摘もある。
方法としては,回顧的な能力評価は一種のコンサルテーションとして構成される。すなわち,依頼の趣旨,現病歴,個人歴及び関係の履歴,既往歴及び精神科の既往歴,服薬,存在すれば精神状態の評価,並びに検査所見及び画像所見を順次検討し,主たる診断を確定した上で,その疾患及び症状が遺言能力にどのように影響し得たかについて意見を述べるという構成である。評価する医師は,争いのある事実のいずれが正しいかを裁定する立場にはなく,全当事者の提出した資料を踏まえ,どの資料に依拠して意見を述べているかを明示すべきものとされる。片方の当事者が提出した陳述書のみに基づく意見は,激しく弾劾されることになる。
そして,専門家が意見を述べてよい範囲には限界がある。医学の専門家は,影響の受けやすさすなわち脆弱性についてのみ意見を述べ,現実に影響が行使されたかどうかの事実認定は裁判所に委ねるべきものとされている。この一線を越えた意見書は越権として弾劾できるから,相手方の協力医の意見書を検討する際の着眼点になると同時に,当方が医師に意見書を依頼する際にも守るべき線となる。
4 資料の階層
医療記録は,すべてが同じ価値を持つわけではない。かかりつけ医の記録は,遺言者との関係が最も長期かつ密であり,入院,専門医への紹介及び検査を記録し,行動,認知及び機能の変化を経時的に評価できる資料であるとして重視される。服薬の記録は,既往歴に記載がない場合でも手掛かりとなり,向精神薬の処方は精神疾患の存在を示唆し,コリンエステラーゼ阻害薬やメマンチンの処方は医師が認知症と診断していたことを示唆する。
これに対し,画像所見は単独では価値が乏しい。皮質の萎縮や海馬の萎縮を示す画像であっても,遺言者に認知障害又は認知症の臨床経過が別途存在しない限り有用ではなく,臨床経過がある場合に限ってそれらの診断を支持するにとどまるとされる。したがって,画像だけで能力の欠如を主張することはできないが,逆に相手方が画像上は年齢相応であると反論しても,それ自体は能力の存在を証明しない。
作成の目的が異なる文書についても,その分だけ割り引いて評価する必要がある。成年後見開始のための診断書は,本人の財産を保護する観点から比較的緩やかな基準で作成される傾向があり,要介護認定の主治医意見書は日常生活動作を中心とする介護の必要度の判定を目的とする。いずれも意思能力の判定を目的とする文書ではないから,これらのみで遺言時の能力を判定することには限界がある。
5 注意すべき兆候
医学の側が整理する注意すべき兆候は,依頼者からの聴取事項としてそのまま使える。すなわち,①高齢であること自体であり,65歳以上の認知症の有病率は約8パーセントであるのに対し85歳を超えると30パーセントを超えるとされる,②長期の療養施設に入所していること,もっともこの場面での認知症の発見率は世界的におよそ50パーセントにとどまるとされるから,施設で診断されていなかったことは認知症の不存在を意味しない,③従前の行動・態度・思考からの劇的な変化,とりわけ家族の一員に対する猜疑心を伴う場合,④一貫性を欠く又は通常でない指示,⑤臨終の際の遺言,⑥脆弱な者を取り巻く環境の複雑さや対立,である。
③については補足を要する。被害妄想,とりわけ物を盗られたという妄想は認知症の初期の段階に多いとされるが,妄想があっても,それが当該処分に影響していないのであれば,なお能力を有すると評価され得るとされている。したがって,妄想の存在を主張するだけでは足りず,その妄想と遺言の内容との結び付きを示さなければならない。④については,一貫性は能力の重要な指標であり,従前の行動様式にない動揺や度重なる変更は懸念材料となるとされる。⑤については,臨終の際の遺言はせん妄の可能性が高い場面であり,集中治療室や緩和ケア病棟で作成された遺言にも同様の懸念が及ぶとされる。
6 せん妄
せん妄は,遺言能力の評価を著しく複雑にする。終末期の患者においてせん妄は高い頻度で生じ,活動が亢進した状態としても活動が低下した状態としても現れるが,しばしば見落とされ,記録も不十分であるとされる。とりわけ活動が低下した型は,静かで従順に見えるため,立会者には落ち着いていたと映る。本人は穏やかで受け答えもできていたという供述は,この型のせん妄を排除しない。
せん妄の下で遺言又は財産計画を変更した場合に確認すべき事項として,患者の希望が時期を通じて一貫していたか,その希望が意識の清明な間隙において表明されたか,患者の希望が開かれた質問に対する応答として明確に表明されたか,及びその時点における精神状態が明確に記録されているかという四点が挙げられている。開かれた質問に対する応答であることを求める点は,我が国において,公証人の質問に対して言語による陳述をせず単に肯定又は否定の挙動を示したにすぎないときは口授があったとはいえないと解されていることと,方向を同じくする。したがって,遺言の作成日の前後数週間について,覚醒の状態,発熱,感染,脱水,疼痛,睡眠並びに向精神薬・抗コリン薬及び鎮静薬の投与を,日ごと時刻ごとに並べる作業が意味を持つ。
7 社会的儀礼の保存
認知症では社会的な儀礼が保たれることが少なくない。認知の状態や財産を分配する理由について踏み込んだ確認をしなければ,重大な認知障害を見落とすことは容易であるとされる。実際,専門家でない立会人がしっかりしていたと証言する遺言者が,実は社会的儀礼を保った認知症の患者であったという事例は珍しくなく,長年にわたり遺言者を知る医師でさえ,会話のみに基づき特定の検査を行わなければ,重大な認知障害ないし明らかな認知症を見落としがちであるとされている。
同じ観点から,受益者が能力を立証しようとして録画した映像についても慎重な評価が必要である。映像はしばしば意図と正反対のものを示すとされ,その価値は面接者の技量に完全に依存し,「はい」又は「いいえ」でしか答えられない誘導的で閉じた質問による自己に有利な録画は無益であるとされる。さらに,弁護士が遺言の全文を読み聞かせ,遺言者が各項目に頷いたという事実は,必ずしも能力を証明しないと明言されている。したがって,本人はしっかりしていたという評価語にとどまる供述に対しては,遺言者が財産,相続人,処分の理由及び作成後の効果をどのような言葉で説明したかという具体的な会話へ立ち戻らせるべきである。
8 疾患別の留意点
アルツハイマー型認知症では,記憶の障害だけでなく,語の選択,綴り,文法,文字の形態及び紙面上の配置が徐々に乱れる。レビー小体型認知症では,注意及び覚醒の顕著な変動を伴う認知の変動が中核的な特徴とされるから,作成日から離れた一回の診察結果を作成時へ直線的に当てはめてはならず,日内の変動,傾眠,反応の停止及び反復して評価した記録の有無を確認する必要がある。パーキンソン病及びパーキンソニズムでは,文字が小さくなる小字症のほか,書字の速度,流暢性及び筆圧の変化が生じ得るから,文字が小さいとか線が弱いという所見を直ちに別人の筆跡である根拠としてはならない。
第6 書字の神経学と筆跡所見の読み分け
1 書字は階層構造の産物である
本章は,筆跡鑑定と遺言能力とを接続する部分であり,実務上最も見落とされやすい。書字は単一の運動ではなく,何を書くかという言語の層,どの字を選ぶかという正書法の層,文字の大きさ・偏旁の配置・行の整列・字間という空間及び構成の設計の層,過剰に学習された一画一画の運筆の運動プログラムの層,並びに手指・関節・末梢神経という効果器の層が重なって産出される。この層を区別せずに字が乱れていると述べても,何も特定したことにならない。線が震えて揺れる現象は末梢に由来し得るのに対し,文字の大きさが揃わず偏旁が離れて行が乱れる現象は中枢における空間の組織化の障害であって,発生の機序が全く異なる。
2 アルツハイマー型認知症における書字障害
書字の障害はアルツハイマー病の早期に現れる症状であり,しばしば言語の困難よりも重いとされる。複雑な図の記述を書かせると,患者は健常な対照者よりも短く情報量の乏しい文章を産出し,そこには多くの侵入誤り,意味的な置換及び綴りの誤りが含まれる。構文の上の困難は,文法的な誤りが現れるというよりも,従属節が減少するという形で現れる。また,語彙的すなわち正書法的な綴りは,音韻的な綴りよりも系統的に強く,かつ早期に障害されるとされる。疾患の進行とともに,中枢的な書字の過程の障害は,字を書くこと自体の困難及び筆跡の空間的な構成の変容にまで及び,こうした障害は書字のために構成された大脳の解剖学的・機能的なネットワーク,主として頭頂領域の障害に関連すると理解されている。
語彙的な綴りが音韻的な綴りより先に障害されるという知見は,表音文字を用いる言語の研究に基づくものであるから,日本語において漢字と仮名の乖離として現れるかどうかは個別の事案で検証を要する。もっとも,遺言書に不自然な仮名書きが見られるときに,これを直ちに本人らしくないから別人の筆跡であると評価するのは危険であり,むしろ本人の書字障害と整合する所見であり得るという視点は持っておくべきである。
3 「乱れているのに癖は一致する」は矛盾ではない
実務でしばしば見られるのが,同一の遺言書の中に,文字の大きさが揃わず偏旁が離れて配置が崩れているという所見と,反復して現れる同一の文字の運筆の癖が精密に一致しているという所見とが同居しており,これは両立し得ない矛盾であるから別人が書いたのだ,と論ずる鑑定である。しかし,これは矛盾ではない。
前記の階層に即していえば,前者は空間及び構成の設計の層の障害であり,後者は過剰に学習された運動プログラムの層の保存である。アルツハイマー型認知症をはじめとする変性疾患では,中枢的な書字の過程の障害が空間的な構成の変容にまで及ぶ一方で,長年にわたり反復されてきた運筆の癖は手続的な記憶として相対的に後まで保たれる。すなわち,空間の構成は崩れているのに運筆の癖は保たれているという像は,二人の書き手を要求するものではなく,一人の病的な書字者に予測される像である。したがって,この同居を根拠として異なる筆跡であると結論する鑑定は,本人が書いた可能性を排除できていないことになる。
4 署名できることは遺言能力を意味しない
以上の裏返しとして,重要な帰結が導かれる。過剰に学習された署名は手続的な記憶として保たれやすい一方で,判断の能力は失われ得る。したがって,本人が自分で署名できたのだから理解していたはずであるという反論も,これほど整った字を書けたのだから認知症ではないという反論も,異なる層の機能を混同したものである。書字の能力と遺言の能力は,別の層に属する。
5 日付の自書という盲点
自筆証書遺言に固有の論点として,日付の自力による想起がある。運筆や署名が手続的な記憶に支えられるのに対し,年月日を正確に想起する能力は見当識及び宣言的な記憶に属し,認知症では最も早く脆弱になる層である。したがって,重度の認知障害が認められる遺言者の遺言書に正確な日付が自書されている場合,それは能力が保たれていた証拠であるとは限らず,むしろカレンダーの提示や口頭の教示という外的な手掛かりが存在したことの傍証となり得る。この視点は,運筆のみを対象とする筆跡鑑定の枠組みからは見えてこない。
6 介助と別人筆の峻別
前記のとおり添え手は本人の自書と両立するから,作成の能力を検討するときは,本人が自力で作成できたか,誰かの助けを借りて本人が書いたか,及び別人が書いたかという三つを峻別しなければならない。起案の発意,段取り,日付の供給及び文例の準備は,いずれも第三者の援助によって橋渡しが可能である。医学は本人の能力の上限を画定できるが,誰が助けたかを特定することはできない。したがって,特定の者の助けなしには書けなかったという命題を導くには,他に援助者がいなかったという別個の事実が必要であり,これは医学の外の問題である。
7 専門家の役割分担
以上を踏まえると,専門家への依頼は次のように切り分けるべきである。筆跡鑑定人には,筆記者の同一性の評価を求める。医師には,疾患及び機能障害の内容と重症度,並びに作成時点への時間的な推論を求め,影響の受けやすさまでを述べさせ,誰が影響を行使したかは述べさせない。そして法律家が,遺言内容の複雑性と法的要件を統合する。この切り分けを崩し,筆跡鑑定人に遺言能力があったかどうかを語らせ,あるいは医師に別人が書いたと語らせると,いずれの意見も弾劾の対象になる。
第7 立証設計と反論処理
1 手続選択と原本の保全
遺言無効確認請求は家庭に関する事件として家事調停の対象となり,訴えを提起しようとする者は,まず家庭裁判所に家事調停の申立てをしなければならない。調停を経ずに訴えを提起した場合には,裁判所は職権で事件を家事調停に付さなければならないが,裁判所が事件を調停に付することが相当でないと認めるときはこの限りでない。もっとも,検認は,検認の時点における遺言書の形状,加除訂正その他の状態を明確にして後日の偽造・変造を防ぐための手続であって,遺言の有効・無効を確定する手続ではない。法務局における保管の制度を利用した遺言書は検認の対象外であるが,保管の申請時に本人が出頭して本人確認がされたことと,遺言能力・自書性・内容の真正が確定することとは別である。
偽造が争点となる事件では,原本の所在,保管者,封筒,綴じ方,折り目,筆記具,印影,検認調書及び提出の経路を確定し,必要に応じて民事訴訟法234条の証拠保全を検討する。原本の物理的な痕跡は,前記のとおり鑑定の適格性そのものを左右するから,写しだけを資料として訴訟を開始してはならない。
2 時系列表と証拠表を先に作る
訴状又は答弁書を作成する前に,発症,検査,入退院,遺言に関する相談,文案の作成,作成日,検認,死亡及び遺言の執行を一つの時系列表へ落とす。その上で,自書性の五つの考慮要素ごとに,主張,裏付けとなる証拠,相手方の説明,再反論及び立証上の弱点を記載した表を作る。この作業により,筆跡鑑定を要する論点と,鑑定の前に客観的な証拠で決着し得る論点とを分けることができる。
3 医療・介護資料の収集
医療記録の収集は,比較的低い負担で実施でき,かつ遺言能力と自書能力の双方を基礎づける資料であるから,最初に着手すべきである。具体的には,診療録,看護記録,リハビリテーション記録,検査結果,画像,処方の履歴,入退院の要約及び医療機関相互の紹介状のほか,要介護認定の調査票,主治医意見書,ケアプラン,サービス担当者会議の記録,介護日誌及び施設の記録を収集する。そして,遺言作成日の前後数週間を拡大し,覚醒の状態,食事,排泄,発熱,転倒,せん妄,服薬及び家族の面会を日ごと時刻ごとに並べる。診断書については,結論だけでなく,その基礎となった観察事実,検査の条件,診察の時間及び医師が遺言の内容を把握していたかどうかを確認する。
もっとも,これらの資料が常に取得できるとは限らない。医師法24条2項は,病院又は診療所に勤務する医師のした診療に関する診療録はその病院又は診療所の管理者において,その他の診療に関するものはその医師において,五年間これを保存しなければならないと定めるにとどまるから,遺言の作成から相当年数が経過した事案では,診療録が既に廃棄されている可能性がある。取得の方法としては,相続人の資格に基づく開示の求め,弁護士法23条の2に基づく照会,訴訟提起後の文書送付嘱託及び調査嘱託が考えられるが,弁護士会照会については,同条1項後段が,申出が適当でないと認めるときは弁護士会がこれを拒絶することができると定めており,また照会先の医療機関が守秘義務を理由に回答を拒む場合もある。したがって,どの資料によってどの事実を証明しようとするのかを特定した上で,まず相続人としての開示の求めという低負担の手段から着手し,得られた資料で足りない部分に限って照会や嘱託へ進むのが合理的である。
4 鑑定は資料適格性を確定してから行う
私的な鑑定を急いで提出すると,不適格な比較資料を前提とする結論が固定され,後の原本による鑑定又は裁判所が選任する鑑定と衝突する危険がある。まず比較資料の作成者,作成日及び原本性を整理し,争いのない資料群と争いのある資料群を分けるべきである。鑑定事項も,同じ筆跡か異なる筆跡かという問いだけでなく,透写又は模倣の徴候,資料相互の間の自然な変動の幅,発病の前後における差,及び添え手による運筆への介入を判定できるかどうかを具体化する必要がある。とりわけ最後の点は,前記の最高裁判例が筆跡のうえで判定できることを要求している以上,鑑定事項として正面から立てる価値がある。
その上で,筆跡鑑定という高い負担を伴う手段へ進むかどうかは,医療記録,比較筆跡の原本,作成経緯に関する関係者の供述及び保管・発見の経過という低い負担の資料を収集した後に,なお筆記者の同一性が争点として残り,かつその点が判明すれば結論が変わるといえる場合に限って判断すべきである。逆にいえば,自書能力を否定する医療記録が存在せず,比較筆跡の原本が乏しく,作成の経緯についても不自然な事情が見当たらないという状況であれば,鑑定を実施しても結論は動かない可能性が高い。この場合には,費用を投じて鑑定を追加するよりも,無効の主張を維持するかどうか自体を依頼者と協議すべきである。
5 典型的な反論への対処
実印が押されているという反論には,印章の管理の状況,受益者による接近の可能性,印鑑登録証明書の取得の経緯及び押印の時期を示すことになる。もっとも前記のとおり,自書性が認められれば押印の本人性も推認されるから,押印のみを切り離して争う構成は避けるべきである。
診断は軽度であったという反論には,診断名ではなく,下位の認知領域,日常の生活機能,せん妄及び変動の有無,遺言内容の複雑性並びに第三者の関与を示すことになる。とりわけ,ミニメンタルステート検査が前頭葉機能を評価しないことは,点数が保たれていたという反論に対する正面からの応答となる。字が似ているという反論には,資料の適格性,同一の文字の数,本人の内部における変動の幅,筆記の条件並びに保管及び発見の状況を含む総合的な評価を求めることになる。本人が内容を口述したという反論には,口述する意思と民法968条1項の自書の要件とが別であることを示す。本人はしっかりしていたという反論には,社会的儀礼が保存されるという現象を示した上で,具体的な会話の内容の再現を求める。法務局に保管されていたという反論には,本人の出頭及び本人確認が証明する範囲と,遺言能力・自書性・内容の真正が証明されるべき範囲とを区別する。
6 勝敗は単一の証拠ではなく整合性で決まる
無効の主張が強いのは,作成時の書字が不能であったことを示す医療記録,適格な比較筆跡との顕著な相違,受益者による印章・文案・原本の独占,不自然な発見の経過,及び従前の意向から説明できない処分の内容が,同じ方向を指す場合である。これに対し,無効の主張が弱くなりやすいのは,作成日の前後における本人の筆跡の原本と連続性があり,自書の能力を示す日常の資料があり,内容に合理的な動機があり,独立した第三者による作成経過の証言と保管の連鎖が整合する場合である。筆跡鑑定は,このいずれの側においても決め手ではなく一つの要素にとどまる。
そもそも,同一の遺言について不利な先行の遺言と有利な後行の遺言が併存する事案では,先行の遺言の無効を争うことが本筋であるとは限らない。民法1023条1項は,前の遺言が後の遺言と抵触するときは,その抵触する部分については後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなすと定めている。後の遺言が方式及び遺言能力の点で有効であり,先行の遺言より後の日付であって,内容が抵触していれば,先行の遺言の無効を証明しなくても抵触する部分は失効する。同一人の近接した時点における能力について,一方では無能力であると主張し,他方では有能力であると主張することは自己矛盾を来すから,後の遺言によって利益を得る立場に立つのであれば,撤回の擬制を主軸に据える方が整合的である。
7 依頼者本人の現在の能力
死亡した遺言者の遺言能力と,訴訟又は調停を委任する高齢の依頼者の現在の意思能力及び訴訟能力とは,別の問題である。受任の際には,依頼者が争いの対象,選択肢,費用,和解の条件及び予想される結果を理解できるかどうかを確認し,面談の記録を残す必要がある。能力に疑義がある場合には,家族の意向だけで訴訟の方針を決めず,成年後見,特別代理,訴訟能力及び委任の有効性を個別に検討すべきである。
出典
本記事が根拠とした主な法令・裁判例・文献は次のとおりである。法令の条文は電子政府の総合窓口(e-Gov)法令検索により確認し,裁判例は,裁判所ウェブサイトの裁判例検索に掲載されているものについて各裁判例への個別リンクを付した。
1 法令
- 民法(963条,968条,1004条,1005条,1023条)
- 民事訴訟法(228条,229条,234条)
- 家事事件手続法(244条,257条)
- 法務局における遺言書の保管等に関する法律(4条,5条,11条)
- 医師法(24条)
- 弁護士法(23条の2)
2 裁判例
- 最高裁判所第三小法廷昭和37年5月29日判決(昭和36年(オ)第100号・集民60号941頁・遺言無効確認)
- 最高裁判所第二小法廷昭和52年11月21日判決(昭和52年(オ)第696号・集民122号239頁・遺言無効確認)
- 最高裁判所第一小法廷昭和54年5月31日判決(昭和54年(オ)第83号・民集33巻4号445頁・遺言無効確認)
- 最高裁判所第二小法廷昭和56年12月18日判決(昭和56年(オ)第360号・民集35巻9号1337頁)
- 最高裁判所第一小法廷昭和62年10月8日判決(昭和58年(オ)第733号・民集41巻7号1471頁・遺言不存在確認)
- 最高裁判所第一小法廷平成元年2月16日判決(昭和62年(オ)第1137号・民集43巻2号45頁・遺言無効確認請求事件)
- 最高裁判所第二小法廷平成28年6月3日判決(平成27年(受)第118号・民集70巻5号1263頁・遺言書真正確認等,求償金等請求事件)
- 大阪高等裁判所令和7年9月19日判決(令和6年(ネ)第1525号・遺言無効確認請求控訴事件・控訴棄却)
- 最高裁判所昭和41年2月21日決定(裁判集刑事158号321頁,判例時報450号60頁)(裁判所ウェブサイト未掲載。弁護士ドットコムライブラリー所収の『刑事事実認定重要判決50選(下)〔第2版〕』236頁~240頁により内容を確認した。)
- 仙台高等裁判所令和3年1月13日判決(令和2年(ネ)第44号ほか・判例タイムズ1491号57頁・遺言無効確認等請求控訴事件)(裁判所ウェブサイト未掲載。第一法規の判例体系により内容を確認した。)
3 文献
- 石田明彦ほか「遺言無効確認請求事件の研究(上)(下)」判例タイムズ1194号43頁~64頁,1195号81頁~93頁(2006年)
- 畠山稔ほか(東京地方裁判所民事部プラクティス委員会第二小委員会)「遺言無効確認請求事件を巡る諸問題」判例タイムズ1380号4頁~28頁(2012年)
- 土井文美「遺言能力(遺言能力の理論的検討及びその判断・審理方法)」判例タイムズ1423号15頁~77頁(2016年)
- 中根秀樹『遺言無効紛争事件実務マニュアル』(新日本法規出版,2023年)
- 平田厚『事例にみる 遺言能力判断の考慮要素』(新日本法規出版,2023年)
- 第一東京弁護士会法律相談運営委員会編著『実例 弁護士が悩む家族に関する法律相談』(日本加除出版,2013年)312頁~314頁
- 民事証拠収集実務研究会編『民事証拠収集』(勁草書房,2019年)107頁
- 額田洋一「成年後見制度の実務の現状と展望 高齢者を当事者とする訴訟委任,調停委任の取扱い」判例タイムズ931号80頁~86頁(1997年)
- 澤井知子「判例展望民事法⑥ 意思能力の欠缺をめぐる裁判例と問題点」判例タイムズ1146号87頁~97頁(2004年)
4 海外の科学・医学文献
- National Research Council, Strengthening Forensic Science in the United States: A Path Forward, The National Academies Press, 2009(原文)
- President’s Council of Advisors on Science and Technology, Forensic Science in Criminal Courts: Ensuring Scientific Validity of Feature-Comparison Methods, 2016(原文)
- Hicklin RA, Eisenhart L, Richetelli N, et al., “Accuracy and reliability of forensic handwriting comparisons,” Proceedings of the National Academy of Sciences, 2022, 119巻32号e2119944119(原文)
- Kukucka J, “On the (mis)calculation of forensic science error rates,” Proceedings of the National Academy of Sciences, 2022, 119巻52号e2215695119(原文)
- Hicklin RA, et al., “Reply to Kukucka: Calculating error rates in forensic handwriting examiner decisions,” Proceedings of the National Academy of Sciences, 2022, 119巻52号e2217508119(原文)
- Shulman KI, Herrmann N, Peglar H, Dochylo D, “The Role of the Medical Expert in the Retrospective Assessment of Testamentary Capacity,” Canadian Journal of Psychiatry, 2021, 66巻3号255頁~261頁(原文)
- Shulman KI, Cohen CA, Hull I, “Psychiatric issues in retrospective challenges of testamentary capacity,” International Journal of Geriatric Psychiatry, 2005, 20巻1号63頁~69頁
- Peisah C, Luxenberg J, Liptzin B, et al., “Deathbed wills: assessing testamentary capacity in the dying patient,” International Psychogeriatrics, 2014, 26巻2号209頁~216頁
- Liptzin B, Peisah C, Shulman K, Finkel S, “Testamentary capacity and delirium,” International Psychogeriatrics, 2010, 22巻6号950頁~956頁
- Croisile B, “Agraphia in Alzheimer’s disease,” Dementia and Geriatric Cognitive Disorders, 1999, 10巻3号226頁~230頁
- McKeith IG, Boeve BF, Dickson DW, et al., “Diagnosis and management of dementia with Lewy bodies: Fourth consensus report of the DLB Consortium,” Neurology, 2017, 89巻1号88頁~100頁(原文)
- Monroe T, Carter M, “Using the Folstein Mini Mental State Exam (MMSE) to explore methodological issues in cognitive aging research,” European Journal of Ageing, 2012, 9巻3号265頁~274頁(原文)
- Thomas M, Lenka A, Pal PK, “Handwriting Analysis in Parkinson’s Disease: Current Status and Future Directions,” Movement Disorders Clinical Practice, 2017, 4巻6号806頁~818頁(原文)