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暗殺された米国の現職大統領4人――事件を裁いた手続と,事件が動かした法制度(AI作成)

第1 4人の暗殺と,米国政府の公的資料が示す全体像

米国では,現職大統領として暗殺された人物は,エイブラハム・リンカーン,ジェームズ・A・ガーフィールド,ウィリアム・マッキンリー及びジョン・F・ケネディの4人である。

本記事は,この4件について,米国政府の公的資料に基づいて事実関係を整理した上で,各事件がどのような裁判手続で処理され,どのような法制度を生んだのかを扱う。

4件はいずれも,事件そのものよりも,その後にできた法律の方が長く残っている。

すなわち,リンカーン事件は軍事委員会による民間人の裁判という論点を残し,ガーフィールド事件は公務員制度改革法を生み,マッキンリー事件はシークレットサービスによる大統領警護を始めさせ,ケネディ事件は「大統領の殺害を処罰する連邦法」そのものを作らせた。

日本の首相・元首相7人については,姉妹記事暗殺された日本の首相・元首相7人で扱っている。

また,2024年に起きた大統領候補に対する2件の襲撃事件と,これを調査した下院タスクフォースの報告書については,姉妹記事2024年の米国大統領候補襲撃事件2件で扱っている。

ウォーレン委員会報告書付録7「大統領警護の小史」は,米国大統領に対する襲撃を次のとおり列挙している。

対象者襲撃日結果
アンドリュー・ジャクソン大統領1835年1月30日未遂
エイブラハム・リンカーン大統領1865年4月14日1865年4月15日死亡
ジェームズ・A・ガーフィールド大統領1881年7月2日1881年9月19日死亡
ウィリアム・マッキンリー大統領1901年9月6日1901年9月14日死亡
セオドア・ルーズベルト元大統領1912年10月14日負傷したが回復
フランクリン・D・ルーズベルト大統領選出者1933年2月15日未遂
ハリー・S・トルーマン大統領1950年11月1日未遂
ジョン・F・ケネディ大統領1963年11月22日同日死亡

同付録は,この数字を「米国大統領の5人に1人が襲撃の対象となり,9人に1人が殺害された」と要約している。

そして同付録は,「大統領の組織的かつ継続的な警護が始まったのは,マッキンリーが撃たれた後になってからである。マッキンリー以前の警護は断続的で発作的なものであった」と述べ,「高度の危険が継続していたにもかかわらず必要な措置をとることに奇妙なほど消極的であった」と評価している。

つまり米国の大統領警護は,3人の大統領が殺害されて初めて制度化された。

第2 エイブラハム・リンカーン(1865年)

1 事件

リンカーン大統領は,1865年4月14日午後10時13分頃,ワシントンのフォード劇場で観劇中に,俳優ジョン・ウィルクス・ブースに頭部を撃たれ,意識を回復しないまま翌15日午前7時22分に死亡した。

事件時刻と死亡時刻は,米国国立公園局のリンカーン年表で確認できる。

同年表によれば,ブースは同月26日にバージニア州のたばこ乾燥小屋で射殺されている。

創傷の医学的評価としては,2025年12月にNeurosurgical Review誌に掲載された神経外科的再検討が,銃弾が左後頭部から侵入して左大脳半球を進み左線条体付近にとどまったとする剖検所見を支持した上で,低速度の穿通性脳損傷として救命不能なものであったと評価している。

2 共同謀議であったこと

リンカーン事件は,単独犯による襲撃ではない。

米国国立公文書記録管理局が公開する下院暗殺特別委員会報告書によれば,リンカーン暗殺への関与を疑われた者を裁くために設置された軍事委員会は,この殺害が,リンカーン,アンドリュー・ジョンソン副大統領及びウィリアム・H・スワード国務長官を殺害する共同謀議の一部であったと認定した。

同報告書によれば,ジョージ・A・アッツェロットは怖じ気づいてジョンソンを襲わなかったが,スワードは元南軍兵士ルイス・ペインにより重傷を負わされた。

スワードの受傷内容については,2025年3月のAnnals of Surgery Open誌に医学的分析が掲載されている。

この事件は,米国の4件の中で,襲撃の対象が大統領1人にとどまらなかった唯一の事件である。

3 共犯者は軍事委員会で裁かれた

米国国立公園局(フォード劇場国立史跡)の解説によれば,捜査当局は10人を関与者と判断したが,ブース本人は射殺され,ジョン・サラットは国外へ逃亡した。

残る8人が共同謀議で訴追され,軍事法廷(military tribunal)で裁かれた。

審理は7週間続き,366人の証人が証言した。

結果は,4人が絞首刑,4人が拘禁刑(マッド,アーノルド及びオローリンが終身重労働,スパングラーが6年の重労働)であった。

ここで注意を要するのは,被告人がいずれも軍人ではなく民間人であったにもかかわらず,通常の刑事裁判所ではなく軍事委員会が裁いた点である。

4 Ex parte Milligan——軍事委員会による民間人の裁判の限界

この軍事委員会という手続の適法性について,連邦最高裁判所は,事件の翌々年に,一般論として厳しい限界を画した。

Ex parte Milligan, 71 U.S.(4 Wall.)2 の判決である。

合衆国判例集(米国議会図書館が公開する原本)によれば,法廷意見を述べたのはデイヴィス判事である。

同原本によれば,ミリガンは,合衆国市民であって20年間インディアナ州に居住し,合衆国の陸軍にも海軍にも服務したことがなかったところ,1864年10月5日にインディアナ軍管区司令官の命令により逮捕され,同月21日にインディアナポリスで召集された軍事委員会にかけられて有罪とされた者である。

釈放に係る裁判自体は前の開廷期に行われており,各意見は1866年12月の開廷期の冒頭に言い渡された。

もっとも,裁判所の意見は一つではない。

チェイス長官が,ウェイン,スウェイン及びミラーの各判事とともに,別の意見を述べている。

同意見は,「当法廷の4名は,本件についてこれまでにされた命令については同輩と意見を同じくするが,たった今読み上げられた意見のいくつかの重要な点については同意することができないため,本件全体についての自らの見解を別に述べることを義務と考える」と述べている。

すなわち,ミリガンを釈放するという結論自体は全員が一致したが,議会が軍事委員会を授権し得るかという点については5対4で見解が分かれた。

法廷意見は,次のように判示している。

「戒厳統治(martial rule)は,裁判所が開かれ,その管轄権を適正かつ妨げられることなく行使している場所においては,決して存在し得ない。それはまた,現に戦争が行われている地域に限られる。」

同判決は,その前段で,外国の侵略又は内乱によって裁判所が現実に閉鎖され,法に従って刑事司法を運営することが不可能となった場合には,現に戦争が行われている戦域において,覆された文民の権威に代わるものを供給する必要があると述べ,「必要が規則を作るのと同様に,必要が規則の存続期間を限界づける。裁判所が回復された後もこの統治が継続されるならば,それは重大な権限の簒奪である」としている。

すなわち,通常の裁判所が機能している場所で民間人を軍事委員会にかけることは許されない,という原則である。

この原則を前提とすれば,1865年にワシントンで行われた共犯者8人の軍事委員会による裁判の適法性には,重い疑問が残ることになる。

現に,その後の手続は対照的な結果になった。

前記の下院暗殺特別委員会報告書によれば,国外へ逃亡していたジョン・サラットは,カナダを経てイタリアへ渡り,偽名で教皇のズアーブ兵に加わっていたが,1866年11月に捕らえられて米国へ送還され,暗殺への関与を問われて裁判を受けた。

そして,その裁判は陪審の評決不能(hung jury)で終わり,サラットは釈放された

軍事委員会で裁かれた8人のうち4人が絞首刑となったのに対し,通常の裁判所で陪審の審理を受けた1人は釈放された。

手続の選択が結論を左右し得ることを,これほど端的に示す例は多くない。

5 その後の展開——Quirin(1942年)とHamdan(2006年)

Milliganが画した「裁判所が開かれている場所で民間人を軍事委員会にかけることはできない」という原則は,その後の戦争によって試された。

まず,Ex parte Quirin, 317 U.S. 1(1942年)である。

合衆国判例集の原本によれば,同事件は,戦時中に敵国の領域から密かに国内へ入り,入国に際して軍服を脱ぎ捨てて敵対行為に及ぼうとした者を,軍事委員会が裁き得るかが問われた事案である。

連邦最高裁判所は,これを肯定した。

判決要旨は,「訴因は,大統領が軍事委員会による裁判を命ずる権限を有する戦争法違反の罪を十分に記載している。被告人らが入国し,逮捕され,裁判のために拘束された地域の裁判所が,逮捕以来平常どおり開かれ機能していたにもかかわらず,そうである。Ex parte Milligan, 4 Wall. 2 は区別される」と述べている。

区別の理由は,ミリガンの事実関係にある。

同判決は,ミリガンについて,「20年間インディアナ州に居住した市民であり,反乱状態にあったいずれの州の住民でもなく,敵性交戦者ではなかった」と述べ,戦争法がミリガンに適用されないとしたMilliganの判示は,同事件の事実に特に関係するものであると解した。

そして,「戦争法上,適法な交戦者は捕虜として捕獲され抑留される対象となるが,違法な交戦者は,これに加えて,その交戦を違法ならしめる行為について軍事法廷による裁判と処罰の対象となる」と判示している。

すなわちQuirinは,Milliganを覆したのではなく,「民間人か,敵性交戦者か」という区別によってその射程を限定した。

次に,Hamdan v. Rumsfeld, 548 U.S. 557(2006年)である。

同判決は,2001年9月11日の同時多発テロを受けて設置された軍事委員会が,収容された者を裁き得るかを扱った。

合衆国判例集の原本によれば,法廷意見は,「半世紀余り前に我々が認めたとおり,軍事委員会による裁判は,我々の憲法構造における権力の均衡について重要な問題を提起する非常措置である」として,Ex parte Quirinを引用した上で,上告を受理したと述べている。

そして結論として,「ハムダンを裁くために召集された軍事委員会は,その構成及び手続が統一軍事裁判法典(UCMJ)とジュネーブ諸条約の双方に違反するため,手続を進める権限を有しない」と判示した。

Milliganが「どこで裁くのか(裁判所が開かれている場所か)」を問い,Quirinが「誰を裁くのか(民間人か敵性交戦者か)」を問うたのに対し,Hamdanは「どのような手続で裁くのか」を問うたことになる。

リンカーン暗殺の共犯者を裁いた1865年の軍事委員会は,被告人がいずれも民間人であり,かつ首都の裁判所は開かれていた。

Milliganの基準によっても,Quirinが示した「民間人か敵性交戦者か」という区別によっても,同委員会が管轄を有したことの説明は容易ではない。

第3 ジェームズ・A・ガーフィールド(1881年)

1 事件と,感染をもたらした医療

ガーフィールド大統領は,1881年7月2日,ワシントンのボルティモア・アンド・ポトマック鉄道駅で,チャールズ・ギトーに背後から2発撃たれた。

米国国立公園局の解説によれば,1発目は腕をかすめただけであったが,2発目は背部にとどまり,ガーフィールドは80日間生存した後,同年9月19日に死亡した。

同解説は,当時の医師らがリスターの消毒法や細菌論を学んでおらず,又はこれを意図的に無視して,汚れた指と器具で創部を繰り返し探ったことにより体内に感染をもたらしたと明記している。

4件のうち,医療のあり方そのものが死亡結果に関与したと公的資料が明言しているのは,この事件だけである。

2 合衆国対ギトー事件——精神障害の抗弁

ギトーは,ガーフィールドの死後まもなく大統領殺害で正式に起訴された。

事件名は「合衆国対チャールズ・ギトー」である。

ウォーレン委員会報告書付録7によれば,ギトーは当時38歳で,自称「弁護士,神学者,かつ政治家」であり,1880年の選挙でガーフィールド当選のために尽力したという思い込みから,ヨーロッパの領事への任命を受ける資格があると信じていた。

同付録は,ギトーが法廷で「神(the Deity)が大統領を除くよう命じた」と証言したこと,襲撃が銃撃後の逃走を考えられない状況で行われたこと,家族に遺伝的な精神の問題が存在したことを記している。

米国国立公園局によるギトー裁判の解説によれば,最終弁論は1882年1月12日に始まった。

弁護人は数か月にわたり精神障害の抗弁を主張したが,功を奏さなかった。

この裁判は,医学専門家の証言が正面から衝突した点で注目される。

弁護側の医学専門家は,人は妄想又は幻覚を伴わなくとも精神異常であり得ると証言した。

これに対し検察側の医学専門家は,「遺伝性精神異常」などという疾患は科学上存在しないと反論した。

そして検察側の主張を支えたのは,ギトーに大統領を撃つ意図があったことが明白であるという事実であった。

ギトー自身,自分が何をしたかを分かっていたと法廷で繰り返し述べている。

陪審の評議を経て,ギトーは有罪とされた。

その後数か月にわたり上訴が行われたが,ギトーは1882年6月30日に絞首刑に処された。

これは,ガーフィールドが撃たれた1881年7月2日の1周忌の2日前であった。

なお,同局によるギトーの処刑の解説は,ギトーが精神的に不安定であり,「今日であれば精神障害を理由に無罪とされ,死刑ではなく精神科治療を命じられたかもしれない」と述べている。

米国政府機関自身が,当時の判断が現在の基準では異なり得たことを認めている点は,注目に値する。

3 ペンドルトン公務員制度改革法

ガーフィールド事件が生んだ法律は,警護に関するものではなく,公務員の任用に関するものであった。

米国国立公文書記録管理局の解説によれば,「合衆国の公務を規律し改善するための法律」(ペンドルトン法)は1883年1月16日に承認された。

同解説は,「不満を抱いた求職者によるジェームズ・A・ガーフィールド大統領の暗殺を受けて,議会は1883年1月にペンドルトン法を可決した」と,事件と立法の因果関係を明示している。

同法は,連邦政府の職を能力本位(メリット)で与えること,公務員を競争試験によって選抜すること,同法の適用を受ける職員を政治的理由で解雇し又は降格することを違法とすること,職員に政治的役務又は献金を求めることを禁止することを定め,これを執行する人事委員会(Civil Service Commission)を設置した。

署名したのは,ガーフィールドの死により昇任し,事件後に熱心な改革論者となったチェスター・A・アーサー大統領である。

それまでの米国は,勝者が政府の職を支持者に配分する猟官制(spoils system)の下にあった。

ガーフィールドを撃った動機がまさにその猟官の挫折であったことから,事件は制度そのものへの批判に転化した。

第4 ウィリアム・マッキンリー(1901年)

1 事件——警護されていた中での銃撃

マッキンリー大統領は,1901年9月6日,ニューヨーク州バファローで開催されていたパンアメリカン博覧会において,アナーキストのレオン・チョルゴッシュに撃たれ,8日後の同月14日に死亡した。

事件日,実行者,場所及び死亡日は,米国国立公園局のマッキンリー記念碑の解説で確認できる。

ウォーレン委員会報告書付録7は,リンカーン及びガーフィールドと異なり,マッキンリーは撃たれたとき警護されていたと明記している。

同付録によれば,大統領は音楽堂で公衆との短い接見を行っており,人々は警察官と兵士の二列の間を通って大統領と握手していた。

大統領の至近には,バファロー市警の刑事4人,兵士4人及びシークレットサービス職員3人がおり,うち2人は大統領から約3フィート(約90センチメートル)の位置で大統領と向き合っていた。

もっとも,そのうちの1人は後に,そうした場面では大統領の側方に立つのが通常の習慣であったが,このときは大統領秘書と博覧会会長が大統領の両側に立てるよう求められたため,その位置を離れていたと述べている。

チョルゴッシュは,ハンカチの下に拳銃を隠して列に加わり,大統領の正面に立ったときにハンカチ越しに2発撃った。

警護の人数が問題だったのではなく,配置の運用が問題であったことを示す記述であり,これは現代の警護の検証にも通じる論点である。

2 チョルゴッシュの裁判——精神障害を主張しなかった弁護

ウォーレン委員会報告書付録7によれば,チョルゴッシュは米国生まれの28歳の工場労働者兼農場労働者で,自称アナーキストであった。

もっとも,米国の組織的なアナーキストは彼を受け入れておらず,秘密結社にも加入を認めていなかった。

共謀者は誰も発見されず,彼が誰かに打ち明けた形跡もない。

直ちに捕らえられたチョルゴッシュは,「迅速に裁判にかけられ,有罪とされ,死刑を宣告された」。

ここで法律家として見逃せないのは,同付録の次の記述である。

「当時の一部の人々にはチョルゴッシュが訴訟能力を欠くように見えたにもかかわらず,弁護人は精神障害を主張する努力を全くしなかった。」

そしてチョルゴッシュは,「大統領の死亡から45日後に処刑された」。

ガーフィールド事件のギトーが,最終弁論だけで年をまたぎ,有罪判決後も数か月の上訴を経て,襲撃から約1年後に処刑されたのと比べると,手続の速度は際立って対照的である。

さらに同付録は,処刑の約1年後に2人の著名な精神科医が冷静な調査を行い,チョルゴッシュが以前から妄想に苦しんでいたと認定したことを記している。

その妄想とは,自分がアナーキストであるというものと,大統領を暗殺することが自分の義務であるというものであった。

すなわち,精神障害の抗弁が主張されないまま迅速に死刑が執行され,執行後の鑑定で妄想が認定されたという経過である。

抗弁を尽くして敗れたギトーと,抗弁が主張すらされなかったチョルゴッシュという2つの事例は,同じ大統領暗殺という重大事件でありながら,弁護のあり方によって手続の内容がこれほど変わり得ることを示している。

3 シークレットサービスによる大統領警護の始まり

米国シークレットサービスの公式説明は,「我々の警護任務は,マッキンリー大統領の暗殺後である1901年にさかのぼる。この悲劇の後,シークレットサービスは合衆国大統領を警護する権限を与えられた。1906年,議会は大統領警護のための法律と予算を可決した」と述べている。

ただし,ウォーレン委員会報告書付録7は,これがすぐに立法化されたわけではないことを明らかにしている。

同付録によれば,マッキンリー暗殺後の最初の議会は,大統領に対する攻撃に関する立法にそれまでのどの議会よりも注意を払ったが,大統領の警護のための措置は何も可決しなかった

それにもかかわらず,1902年,当時唯一の本格的な連邦捜査機関であったシークレットサービスが,大統領の安全に対するフルタイムの責任を引き受けた。

当初のホワイトハウス常駐要員はわずか2人であった。

すなわち,1902年から1906年までの4年間,大統領の警護は,予算の裏付けも議会の授権もないまま行われていたことになる。

第5 ジョン・F・ケネディ(1963年)

1 事件

ケネディ大統領は,1963年11月22日,テキサス州ダラスで車列走行中に銃撃され,同日死亡した。

米国国立公文書記録管理局が公開するウォーレン委員会報告書第2章は,銃撃,病院への搬送及び死亡宣告までの経過を記載している。

2 大統領の殺害を処罰する連邦法が存在しなかったこと

この事件の法的な最大の特徴は,捜査でも裁判でもなく,そもそも連邦の刑事管轄が存在しなかったことにある。

ウォーレン委員会報告書第8章は,冒頭で次のように述べている。

「ケネディ大統領の暗殺について,連邦の刑事管轄は存在しなかった。」

同章によれば,暗殺が共同謀議の結果であると信じるに足る理由があれば連邦の管轄を主張し得た。連邦公務員をその職務の執行に関連して傷害する共謀は,古くから連邦犯罪とされていたからである。

「しかし,大統領の殺害は連邦法の対象とされたことが一度もなく,そのため,殺害が単独の者の行為であることが合理的に明らかとなった時点で,テキサス州が排他的な管轄権を有することとなった。」

同章は,これを「変則的(anomalous)」と評価している。

すなわち,大統領に危害を加えると脅すことは連邦犯罪であり,政府の役員を暗殺することによる政府転覆の唱道も連邦犯罪であり,連邦裁判官,連邦検事,連邦保安官その他の特定された連邦法執行官の殺害も連邦犯罪であるのに,大統領への攻撃だけが犯罪とされていなかった。

同章はさらに,シークレットサービスに大統領を警護する権限を明示的に与えながら,大統領に危害を加えた者を逮捕する権限を与えていない規定の存在も,同様に変則的であると指摘している。

3 ウォーレン委員会の勧告と,18 U.S.C. §1751の新設

同章は,暗殺を連邦犯罪とする試みが過去にもあったことを記録している。

特にマッキンリー大統領の暗殺後と,フランクリン・D・ルーズベルト大統領選出者の生命に対する襲撃の後である。

そして,1902年には両院で法案が可決されたが,上院が両院協議会報告を受け入れなかったため成立しなかった

マッキンリー暗殺の翌年に一度は両院を通りながら,最後の一歩で流れたことになる。

ケネディ暗殺の直後にも複数の法案が提出された。

これを受けてウォーレン委員会は,大統領,副大統領又は大統領職の継承順位が次の者,大統領選出者及び副大統領選出者に対する殺人,故殺,殺人の未遂又は共謀,誘拐及び暴行を処罰する立法を議会に勧告した。

同章は,その際,行為が被害者の職務の執行中に行われたかどうか,又は職務の執行を理由とするものであるかどうかを問わないものとすべきであるとしている。

理由として同章は,「暗殺が行われたときの被害者の活動や暗殺の動機は,その行為から生じる合衆国に対する侵害とは何の関係もない」と述べている。

この勧告は立法として実現した。

合衆国法典第18編第1751条は,1965年8月28日の連邦法(Pub. L. 89-141, 79 Stat. 580)によって新設されたものである。

同条の主な内容は,次のとおりである。

条項内容
(a)大統領,大統領選出者,副大統領(副大統領が存在しないときは継承順位が次の者),副大統領選出者及び大統領代行者並びに大統領府・副大統領府の特定の職員を殺害した者を処罰する
(b)(c)(d)誘拐,殺害又は誘拐の未遂,及び共謀を処罰する
(h)連邦の捜査又は訴追の管轄が主張された場合には,連邦の措置が終了するまで,州又は地方の管轄権の行使が停止する
(i)本条違反は連邦捜査局が捜査する
(j)被害者が本条により保護される公職者であることを被告人が知っていたことを,政府は立証する必要がない
(k)本条が禁止する行為には域外管轄が及ぶ

(h)は,ケネディ事件で生じた州と連邦の管轄の空白を裏返しにした規定であり,(j)は,ウォーレン委員会が「職務の執行中かどうかを問わない」としたことに対応する規定である。

4 JFK暗殺記録収集法と,2026年までの公開

ケネディ事件は,記録の公開についても独自の法律を生んだ。

1992年10月26日の連邦法(Pub. L. 102-526, 106 Stat. 3443)である。

官報(Statutes at Large)によれば,同法の題名は「1992年ジョン・F・ケネディ大統領暗殺記録収集法」であり,合衆国法典第44編第2107条の注記に収められている。

同法第2条の立法事実は,次の点を挙げている。

第1に,暗殺に関するすべての政府記録は,歴史的及び統治上の目的のために保存されるべきであること。

第2に,すべての記録は即時公開の推定を伴うべきであり,最終的にはすべて公開されるべきであること。

第3に,執行可能で独立した,説明責任のある公開手続を作るために立法が必要であること。

第4に,立法がなければ,暗殺に関連する議会の記録は少なくとも2029年まで公開の対象とならないこと。

第5に,情報自由法の運用では不十分であること。

公開の期限については,同法第5条(g)(2)(D)が,「各暗殺記録は,本法の制定日から25年後の日までに,完全な形で公開され,コレクションにおいて利用可能とされなければならない」と定めている。

制定日が1992年10月26日であるから,期限は2017年10月26日である。

ただし同項は,大統領が,(i)継続的な公開延期が軍事防衛,情報活動,法執行又は外交の遂行に対する特定可能な害によって必要とされること,及び(ii)その特定可能な害が公開の公益を上回るほど重大であることを証明した場合には,例外を認めている。

この例外条項が繰り返し用いられたため,公開作業は期限後も続いた。

米国国立公文書記録管理局の2025年以降の公開ページによれば,従前機密指定により非公開であった記録が2025年3月18日に公開され,2026年1月30日にも1万1022頁,140個のPDFが追加公開された。

事件から60年以上を経てなお記録の公開が続いているのは,公開の期限を法律で切りつつ,大統領の証明による例外を残した立法の構造そのものに由来する。

5 ウォーレン委員会と下院暗殺特別委員会の結論の相違

ケネディ事件については,公的な調査機関の結論自体が一致していない点に注意を要する。

ウォーレン委員会報告書はオズワルドが発砲したと結論付けているが,その後,下院暗殺特別委員会が改めて調査を行った。

米国国立公文書記録管理局が公開する同委員会の認定の要旨は,次のとおり述べている。

まず,「リー・ハーヴェイ・オズワルドはケネディ大統領に向けて3発を発射した。2発目と3発目が大統領に命中した。3発目が大統領を殺害した」として,オズワルドの発砲自体はウォーレン委員会と同じく認定している。

その上で同委員会は,「科学的な音響証拠は,2人の銃撃者がケネディ大統領に向けて発砲した高い蓋然性を証明する」とし,結論として「委員会は,入手し得た証拠に基づき,ケネディ大統領はおそらく共同謀議の結果として暗殺されたと考える」と述べた。

もっとも同委員会は,「もう1人の銃撃者又は共同謀議の範囲を特定することはできない」としており,共謀者を具体的に認定したわけではない。

また同委員会は,ソビエト政府及びキューバ政府が関与していなかったと考えること,反カストロのキューバ人グループも団体としては関与していなかったと考えることを,あわせて認定している。

したがって,米国の4件のうち,公的な調査によって共同謀議の存在が認定されているのはリンカーン事件とケネディ事件であり,ガーフィールド事件とマッキンリー事件は,いずれも共謀者が発見されていない。

ただし,リンカーン事件が軍事委員会という裁判手続の中で共同謀議を認定したものであるのに対し,ケネディ事件は裁判を経ておらず,議会の調査委員会が蓋然性の判断を示したにとどまる点で,認定の重みは同じではない。

第6 大統領警護の法的枠組みの展開

米国シークレットサービスの公式年表及びウォーレン委員会報告書付録7によれば,大統領警護の法的根拠は,次のように段階的に整備された。

内容
1894年クリーブランド大統領に対する非公式・非常勤の警護を開始
1901年マッキンリー大統領暗殺の結果,議会がシークレットサービスによる大統領警護を要請
1902年大統領の安全に対する常勤の責任を引き受ける(ホワイトハウス常駐は2人)
1906年1907年度の雑費歳出法により,大統領警護のための予算が措置される
1908年大統領選出者の警護を開始
1913年大統領の恒久的警護と,大統領選出者の警護に法律上の授権が与えられる
1917年大統領を郵便その他の方法で脅迫することを犯罪とする法律(脅迫罪)を制定。大統領の近親者の警護も授権
1951年7月16日,恒久的な授権法が成立(それまでは毎年の歳出法で更新が必要であった)
1962年副大統領,副大統領選出者等を対象に追加(Public Law 87-829)
1965年大統領の暗殺未遂を連邦犯罪とする立法(Public Law 89-141)/元大統領とその妻を終身警護(Public Law 89-186)
1968年ロバート・F・ケネディ上院議員(大統領候補)の暗殺の結果,主要な大統領・副大統領候補者の警護を授権
1971年訪米する外国の元首・政府の長等の警護を授権
2013年2012年元大統領警護法により,1997年以降に在職した元大統領の警護を10年に制限していた従前法を覆し,終身警護に戻す

現在の到達点は,合衆国法典第18編第3056条(a)である。

同項は,シークレットサービスの警護対象を法律で列挙しており,現職の大統領・副大統領及びその当選者(同項(1)),その近親者(同項(2)),元大統領及びその配偶者について終身(配偶者は再婚により終了。同項(3)),元大統領の16歳未満の子(同項(4)),訪米する外国の元首・政府の長(同項(5)),主要な大統領・副大統領候補者及び本選挙前120日以内のその配偶者(同項(7))などが含まれる。

同項(2)から(8)までの警護は辞退することができるが,(1),すなわち現職の大統領等の警護については,辞退の定めが置かれていない。

なお,ウォーレン委員会報告書付録7は,セオドア・ルーズベルトが1906年にロッジ上院議員に宛てた書簡で,シークレットサービスの職員を「非常に小さいが,非常に必要な,肉中の棘」と評し,リンカーンの言葉として「大統領にとっては檻の中で暮らす方が安全だろうが,それでは仕事の邪魔になる」を引いていることを記録している。

警護と公務の両立という問題が,制度の出発点から意識されていたことがうかがえる。

第7 日本との比較

日本の首相・元首相7人の事件と対比すると,制度の設計が対照的である点が2つある。

第1に,日本には,政治的な目的による要人の殺害を通常の殺人罪と区別して特別に処罰する規定がない

戦後の各事件も,殺人罪,銃砲刀剣類所持等取締法違反,武器等製造法違反,火薬類取締法違反,爆発物取締罰則違反,公職選挙法違反(選挙の自由妨害)といった一般の刑罰法規の組合せで処理されている。

1961年に「政治テロ行為処罰法案」が国会に提出されたが成立せず,e-Gov法令検索でも「政治テロ」「テロ行為処罰」の語を含む法令は確認できない。

米国が1965年に18 U.S.C. §1751を新設したのとは,異なる道を歩んだことになる。

第2に,警護対象者の決め方が異なる

米国は,前記のとおり18 U.S.C. §3056(a)で対象者を法律に列挙し,元大統領を終身,主要な候補者を選挙期間中の対象としている。

これに対し日本の警護要則(令和4年国家公安委員会規則第15号)第2条第1号は,警護対象者を「内閣総理大臣,国賓その他その生命及び身体に危害が及ぶことが国の公安に係ることとなるおそれがある者として警察庁長官が定める者」と規定しており,首相経験者や選挙の候補者が当然には対象とならず,長官の指定によって対象となる。

もっとも,襲撃から時間を置いて死亡した事例が両国にあるという点は共通している。

米国のガーフィールド(80日)とマッキンリー(8日)は,日本の濱口雄幸(狙撃から約9か月後に死亡)と同じ類型に属する。

日本側の詳細は,姉妹記事暗殺された日本の首相・元首相7人に譲る。

第8 出典

① 米国国立公文書記録管理局・ウォーレン委員会報告書付録7「大統領警護の小史」

② 米国国立公文書記録管理局・ウォーレン委員会報告書第2章及び第8章

③ 米国国立公文書記録管理局・下院暗殺特別委員会報告書(認定及び認定の要旨)

④ 米国国立公文書記録管理局・JFK暗殺記録の2025年以降の公開

⑤ 米国国立公文書記録管理局・ペンドルトン法(1883年)に関する解説

⑥ 米国国立公園局・リンカーン年表

⑦ 米国国立公園局(フォード劇場国立史跡)・リンカーン暗殺の共謀者に関する解説

⑧ 米国国立公園局・ガーフィールド暗殺に関する解説,ギトー裁判に関する解説及びギトーの処刑に関する解説

⑨ 米国国立公園局・マッキンリー記念碑の解説

⑩ 米国シークレットサービス・公式沿革年表及び警護任務の説明

⑪ 合衆国判例集 Ex parte Milligan, 71 U.S.(4 Wall.)2,Ex parte Quirin, 317 U.S. 1(1942年)及び Hamdan v. Rumsfeld, 548 U.S. 557(2006年)(いずれも米国議会図書館が公開する原本)

⑫ 合衆国法典第18編第1751条及び第3056条

⑬ 1992年ジョン・F・ケネディ大統領暗殺記録収集法(Pub. L. 102-526, 106 Stat. 3443)

⑭ Neurosurgical Review誌(2025年12月)掲載のリンカーンの頭部創傷に関する神経外科的再検討

⑮ Annals of Surgery Open誌(2025年3月)掲載のスワード国務長官の頭頸部創傷に関する分析