1905年生の裁判官3人の経歴

石渡満子裁判官(1期)の経歴

生年月日 M38.1.13
出身大学 明治大
叙勲 S49.8.27勲四等宝冠章
退官時の年齢 65 歳
S45.1.13 定年退官
S38.11.15 ~ S45.1.12 横浜地家裁横須賀支部判事
S36.4.14 ~ S38.11.14 静岡家地裁沼津支部判事
S29.5.20 ~ S36.4.13 横浜地家裁横須賀支部判事補
S24.6.4 ~ S29.5.19 東京地裁判事補

*1 日本で最初の女性裁判官が1期の石綿満子(昭和24年6月4日任官)であり,2番目の女性裁判官が期前の三淵嘉子(昭和24年6月25日任官)でした。
*2の1 Wikipediaの「石渡満子」には「1926年 東京女子高等師範学校(御茶ノ水女子大学)卒業と同時に結婚する。(8年後に離婚し、法曹を志し、明治大学に進学。)」と書いてあります。
*2の2 日本女性法律家協会70周年のあゆみ28頁には以下の記載があります。
    女性が弁護士となる道が開け、前述の三人の女性弁護士(山中注:久米愛,三淵嘉子及び中田正子)が誕生したわけです。ところが、もう一つ厚い壁が残っていました。大正一二年に施行された高等試験令による司法科試験に合格した者は、誰でも裁判官・検察官・弁謹士になれるはずでした。しかし、実際には女性は弁謹士にはなれても、判事・検察官にはなれませんでした。前記弁護士法とは異なり、判事・検事は成年の男子に限るなどの明文規定は存在しませんでしたが、「女性を受けつけぬ不文律が、厳然と存在していたらしい」のです。この不文律は「戦後の改革の時まで生き続け」ました。
    そして、ようやくにして昭和二四(一九四九)年、石渡満子会員が初の女性裁判官として、ついで三淵嘉子会員が第二号として任官し、門上千恵子会員が最初の女性検事となりました。(ここまで、引用はすべて『会報』No.12.p12-13)
*3 明治大学法学部HPの「法律学のパイオニア」に「女性法曹の育成」として以下の記載があります。
    女性法曹の育成にいち早く取り組んだのも明治大学であった。1929(昭和4)年に女子部(旧女子短期大学の前身)が創設され、ここからわが国初の女性弁護士が誕生した。今日活躍している女性法曹の重鎮のなかには明治大学の出身者がかなりの部分を占めている。法学部は、女性の社会的地位の向上と活動領域の拡大に大きく貢献してきたのである。
*4 法曹百年史(昭和44年10月10日付)187頁には「昭和二十三年一月新民法施行のころ、婦人弁護士は僅か十一名に過ぎなかった。」と書いてあります。
*5 以下の記事も参照してください。
・ 女性判事及び女性判事補の人数及び割合の推移
・ 昭和51年の30期前期修習で発生した,女性司法修習生に対する司法研修所裁判教官等の差別発言問題(教官等の弁明が正しいことを前提として厳重注意で終了した事件)
・ 司法修習生の給費制,貸与制及び修習給付金
→ 判事及び検事の卵であった司法官試補には給与が支給されていたのに対し,弁護士の卵であった弁護士試補には給与が支給されていなかったものの,司法修習制度の創設に伴い弁護士の卵にも給与が支給されるようになりました。。
・ 司法官採用に関する戦前の制度

白須賀佳男裁判官(2期)の経歴

生年月日 M38.11.26
出身大学 中央大
退官時の年齢 65 歳
叙勲 S51春・勲三等瑞宝章
S45.11.26 定年退官
S40.6.7 ~ S45.11.25 大阪家地裁堺支部判事
S35.4.17 ~ S40.6.6 松山地家裁判事
S32.6.20 ~ S35.4.16 京都地家裁舞鶴支部判事補
S28.3.31 ~ S32.6.19 大阪家地裁判事補
S25.4.17 ~ S28.3.30 奈良地家裁五條支部判事補

 

 

吉田幾雄裁判官(13期)の経歴

生年月日 M38.3.1
出身大学 京大
退官時の年齢 70 歳
S50.3.1 定年退官
S49.4.1 ~ S50.2.28 川島簡裁判事
S46.3.17 ~ S49.3.31 岩国簡裁判事
S43.3.23 ~ S46.3.16 三次簡裁判事
S36.4.14 ~ S43.3.22 庄原簡裁判事