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御堂筋-拡幅の経緯,名称の由来及び管理の変遷(AIリライト)

第1 御堂筋の基本情報

1 道路としての基本情報

御堂筋は,国道25号と国道176号から構成される幅員44mの道路であり,都市計画道路としての名称を広路4号御堂筋線という。
区間は阪急前から難波駅前までであり,延長は約4.2kmである。
道路管理者は大阪市長であり,車道の両側に側道(緩速車線)を設けて沿道の建物へ車が寄り付きやすい構造となっている。
御堂筋は,大阪地方裁判所の西側の近くを通っている。

2 名称の由来

「御堂筋」という名称は,沿道にある浄土真宗の2つの別院,北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)に由来する。
両別院は,いずれも16世紀末にこの地へ移ってきた寺院であり,その門前を南北に通じていた道が「御堂筋」と通称されていた。
拡幅後の道路にこの名称が採用された経緯は,第2の4で述べる。

3 沿道の施設

西天満2丁目には駐大阪・神戸米国総領事館があり,大阪府警察の人員輸送車と思われる車両(WEB CARTOP「大型パトカー? 護送車? 街で見かける「青と白のバス」の正体とは」参照)が常時,停車している。

第2 拡幅の経緯(大正時代から昭和12年まで)

1 拡幅前の御堂筋

現在の御堂筋にあたる区間は,昭和12年の拡幅・開通以前,北から「梅田新道」「淀屋橋筋」「御堂筋」という3つの異なる名称で呼ばれていた。
このうち「御堂筋」の名称が指していたのは,北御堂・南御堂の門前,すなわち淡路町から長堀までの約1.3kmにすぎず,道幅も約6mの狭い道であった。
大正7年(1918年)の都市改良計画調査会による調査を経て,大正9年(1920年)の大阪市区改正設計(大阪市告示第1号)により,拡幅後の新道が幅24間(44m)の「広路」として位置付けられた。
大正10年(1921年),御堂筋を含む大阪市内24路線が都市計画決定を受けている。
もっとも,計画段階の資料には「淀屋橋筋」の名で仮称する図面も残っており,拡幅後の新道の呼称が資料によって揺れていたことがうかがえる。

2 関一市長による都市大改造計画

御堂筋の拡幅を計画したのは第6代大阪市長・池上四郎であるが,これを引き継いで断行したのは,池上の招きで助役に就任し,大正12年(1923年)に第7代市長となった関一である。
関市長は,池上市長の政策を発展させた「都市大改造計画」を打ち出し,そのメイン事業に御堂筋の拡幅工事を据えた。
道幅を約6mから44mへ広げるという構想は当時の常識を超えるものであり,市民は「市長は船場の真ん中に飛行場でもつくる気か」と驚いたと伝えられている。

拡幅工事には,世界恐慌や関東大震災の影響で国からの十分な予算が得られなかったという資金上の制約に加え,道幅を約8倍にするための沿道住民の立ち退きという課題があった。
関市長は,拡幅後に沿道の商家が得る利益を見込んでその額に応じた税を事前に徴収する「受益者負担金制度」を導入して費用を賄い,立ち退きに応じない住民のもとへ関係者が繰り返し足を運んで説得に当たったという。

3 拡幅工事の着手と竣工

大正15年(1926年),拡幅工事が着手された。
拡幅工事は,軟弱な地盤の下に地下鉄のトンネルを通す難工事であり,堂島川,土佐堀川,長堀川及び道頓堀川の下をトンネルで通すため,工事期間中は長堀川を全面的に,残る3河川を半分ずつ堰き止める必要があった。
着工から約11年を経た昭和12年(1937年)5月11日,拡幅された御堂筋が竣工した。
開通当初は自動車の往来がまだ少なく,市民が拡幅前に「飛行場か」と笑った姿とは対照的に,のどかな風景であったと伝えられている。

4 「御堂筋」への名称決定

読売新聞大阪本社社会部が編集した『実記百年の大阪』(朋興社,1987年)は,拡幅後の道路に「御堂筋」の名称が正式に決まった経緯について,次のような証言を伝えている。
同書によれば,拡幅工事に伴う用地買収が難航していた際,天皇陛下の行幸を機に交渉を進める方針が採られ,その行幸を前に新しい道路の名称を決める会議が開かれた。
会議の出席者は当初「御幸通り」という名称を提案したが,関市長は「大阪にその名はおかしい。御堂さんの前の道だから御堂筋だ」と述べてこれを退け,「御堂筋」への命名を決定したという。
この証言は関係者の回顧に基づくものであり,当時作成された公文書によって命名の経緯そのものが確認されているわけではないが,北御堂・南御堂の門前という原義(第1の2)と整合する内容である。

第3 地下鉄御堂筋線と橋梁

1 地下鉄御堂筋線の開通

地下鉄御堂筋線は,梅田駅・心斎橋駅間が昭和8年5月20日に開通し,昭和10年10月30日に難波駅まで延長され,昭和13年4月21日に天王寺駅まで延長された。
東京に次いで日本で2番目に開通した地下鉄であるが,市が運営する地下鉄としては日本で最初の開通であった。

2 淀屋橋・大江橋の架け替えと文化財指定

昭和10年,北浜と中之島を結ぶ淀屋橋(土佐堀川に架かる)及び中之島と堂島を結ぶ大江橋(堂島川に架かる)が,鉄筋コンクリート造りのアーチ橋として架け替えられた。
両橋のうち大江橋は,歴史的には江戸時代の元禄年間,堂島の開発に伴って架けられた「堂島五橋」の一つである。
これに対し淀屋橋は,それより前の江戸時代初期,豪商・淀屋が中之島の開発(米市の利便)のために架けたのが最初とされており,大江橋とは架橋の時期も契機も異なる。

淀屋橋・大江橋は,平成13年(2001年)に大阪市指定文化財となり,平成20年(2008年)には国の重要文化財に指定されている。

第4 一方通行化と大阪万国博覧会

昭和45年1月11日,梅田新道交差点以南が南行き一方通行となった。
同年3月15日から9月13日にかけて開催された日本万国博覧会(大阪府吹田市)を前に,マイカーの普及で目立ち始めていた道路混雑を緩和するための措置であった。

第5 道路管理者の変遷と近時の動き

1 国管理への移行と大阪市への移管

御堂筋は,昭和33年,建設大臣(当時)の直轄管理となり,国道の指定を受けた。
平成24年4月1日,大阪のメインストリートである御堂筋の管理は,大阪国道事務所から大阪市に移った。

この移管は,道路法17条1項に基づくものである。
同項は,「指定市の区域内に存する国道の管理で第十二条ただし書及び第十三条第一項の規定により都道府県が行うこととされているもの並びに指定市の区域内に存する都道府県道の管理は,第十二条ただし書,第十三条第一項及び第十五条の規定にかかわらず,当該指定市が行う。」と定めており,政令指定都市である大阪市の区域内にある指定区間外の国道は,同項により大阪市が道路管理者となる。

2 完成80周年記念事業

平成29年5月11日,御堂筋は完成80周年を迎えた。

3 歩行者利便増進道路の指定

令和3年2月12日,御堂筋(国道25号,淀屋橋交差点から難波西口交差点までの区間)は,道路法48条の20第1項の規定に基づき,歩行者利便増進道路に指定された。
この指定は,平成31年3月に策定された「御堂筋将来ビジョン」に基づき,御堂筋を車中心から人中心の道路へと空間再編する取組みの一環として行われたものであり,指定により歩道内の滞留空間を「歩行者の利便増進を図る空間」として定めることが可能となった。

道路法48条の20第1項は,「道路管理者は,道路の構造,車両及び歩行者の通行並びに沿道の土地利用の状況並びにこれらの将来の見通しその他の事情を勘案して,歩行者の安全かつ円滑な通行及び利便の増進を図り,快適な生活環境の確保及び地域の活力の創造に資するため,その管理する道路(高速自動車国道及び自動車専用道路を除く。)のうち,歩行者の滞留の用に供する部分を確保し,及び歩行者利便増進施設等の適正かつ計画的な設置を誘導することが特に必要と認められるものについて,区間を定めて,歩行者利便増進道路として指定することができる。」と定めている。

第6 関連記事その他

大阪市HPの「御堂筋プロフィール」「御堂筋の歴史」等を参照して記載している。

以下の記事も参照されたい。
・ 大阪修習の情報
・ 大阪府及びその周辺の鉄道の沿革


第7 出典・参考資料

1 法令

道路法(昭和27年法律第180号)12条,13条,16条,17条,48条の20。

2 公的資料

① 大阪市「御堂筋プロフィール」。
② 大阪市「御堂筋の歴史」。
③ 大阪市「御堂筋完成80周年記念事業について」。
④ 大阪市「御堂筋を歩行者利便増進道路に指定しました」。
⑤ 近畿地方整備局大阪国道事務所「大阪国道事務所の歴史」。

3 文献

① 読売新聞大阪本社社会部編『実記百年の大阪』(朋興社,1987年)711頁~712頁。

4 関連記事

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大阪府及びその周辺の鉄道の沿革