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戦前の恩赦―勅令恩赦及び特別基準恩赦の沿革(AI作成)

第1 この記事が扱う戦前恩赦の範囲

1 明治元年から昭和17年まで

本記事は,慶応4年(明治元年)正月15日の大赦から昭和17年2月18日の恩赦までを対象とし,実施の契機,法令又は内閣指令の日付,一般恩赦と個別恩赦の区別及び大正元年の恩赦令成立後の制度を整理するものである。表の日付は原則として恩赦関係法令又は特別基準恩赦の実施日であり,慶事,弔事その他の出来事の日付とは一致しない場合がある。

「戦前の勅令恩赦」という呼称は,明治元年の2件を含める場合には正確でない。明治19年の公文式以前には法令の制定・公布に関する一般的制度がなく,法令の形式も明確でなかったため,明治元年正月15日の大赦は詔,同年9月8日の減刑は行政官による布告として区別する必要がある。本記事では,これらを戦前恩赦の前史として取り上げる。

2 一般恩赦と特別基準恩赦

旧恩赦令が定めた恩赦は,大赦,特赦,減刑及び復権であった。罪又は刑の種類を定めて一律に効力を生じさせる大赦,一般減刑及び一般復権は一般恩赦であり,特定の者について審査する特赦,特別減刑及び特別復権は個別恩赦である。

「特別基準恩赦」は,これらと並ぶ独立した恩赦の種類ではない。皇室の慶弔その他の特別な機会に基準を設け,その基準に該当する者について個別恩赦を審査する実施方式をいう。戦前の資料を現在の用語で一覧化するときには,後世の分類語を遡って用いていることにも留意を要する。

第2 明治時代の恩赦

明治元年の2件は公文式制定前の詔又は布告であり,明治22年以降の勅令とは法形式が異なる。また,台湾又は朝鮮だけを対象とする地域限定恩赦は,全国的な恩赦とは適用範囲が異なる。

恩赦日契機法令・実施内容日付・対象に関する確認点
慶応4年(明治元年)正月15日明治天皇の御元服大礼大赦及び個別恩赦即位礼は同年8月27日であり,「御元服及び御即位」とするのは正確でない。国立国会図書館の調査資料では「明治元年第32号」と整理されるが,原資料は詔である。
明治元年9月8日即位大礼及び明治改元減刑国立国会図書館の調査資料では「明治元年第727号」と整理されるが,原資料は行政官の布告である。
明治22年2月11日大日本帝国憲法発布大赦令(明治22年勅令第12号)大赦の対象者は454人と整理されている。
明治30年1月31日英照皇太后大喪減刑令(明治30年勅令第7号)及び台湾における大赦令(同年勅令第8号)1月30日ではなく同月31日である。減刑の対象者は1万5622人と整理されている。
明治43年8月29日日韓併合大赦令(明治43年勅令第325号)旧韓国法令の罪を犯した者を対象とする地域限定恩赦である。

明治22年の大赦に関連して西郷隆盛が「赦された」と説明されることがあるが,西郷は西南戦争について刑事裁判を受けていない。政府は昭和49年の国会答弁において,西南戦争後に行政上剥奪された官位について,憲法発布時に制裁が解かれ,正三位が追贈されたと説明している。したがって,西郷を刑事恩赦によって有罪判決を取り消された例と位置付けることはできない。

第3 大正時代の恩赦

大正元年には統一的な恩赦令が成立し,以後は恩赦の種類,効力及び手続の基本的な枠組みが共通化された。もっとも,皇室行事等の日付と恩赦法令又は内閣指令の日付は同一とは限らない。

恩赦日契機法令・実施内容日付・対象に関する確認点
大正元年9月26日明治天皇大喪恩赦令(大正元年勅令第23号),大赦令(同年勅令第24号)及び特別基準恩赦大喪儀は同月13日であり,26日は恩赦法令の公布日である。
大正3年5月24日昭憲皇太后大喪減刑令(大正3年勅令第104号)一般減刑の対象者は2万4920人と整理されている。
大正4年11月10日大正天皇即位礼減刑令(大正4年勅令第205号)及び特別基準恩赦一般減刑と個別審査による特赦,特別減刑及び特別復権が併行した。
大正8年5月18日皇太子裕仁親王成年式特別基準恩赦成年式は同月7日であり,18日は恩赦の実施日である。
大正9年4月28日王世子李垠と方子女王の婚姻朝鮮人を対象とする一般減刑(大正9年勅令第120号)全国的な恩赦ではなく,朝鮮人を対象とする地域限定の一般減刑である。
大正13年1月26日皇太子裕仁親王御成婚減刑令(大正13年勅令第10号)及び特別基準恩赦一般減刑の対象者は5万0002人と整理されている。
大正14年5月8日普通選挙法公布特別基準恩赦普通選挙法(大正14年法律第47号)の公布は同月5日,特別基準恩赦の閣議決定は同月4日,内閣指令は同月8日である。

大正9年勅令第120号の正式な件名は「王世子李垠ト方子女王トノ結婚ニヨリ恵沢ヲ施サムカタメ朝鮮人ニ対シ特ニ恩赦ヲ行フ件」である。「特ニ恩赦」との文言があるものの,法令は刑期を一定割合で減ずる基準を定めており,特定人を個別に選ぶ特別基準恩赦ではなく,対象地域・対象者を限定した一般減刑である。関係文書には対象者別の人員表も残されている。

第4 昭和時代の戦前恩赦

昭和期には,大正元年の恩赦令を基礎として,一般恩赦と特別基準恩赦を組み合わせる運用が続いた。昭和17年2月18日の恩赦は,次の各回のうち一般減刑又は特別減刑を伴わず,復権令と特別基準による特赦が行われた点で異なる。

恩赦日契機法令・実施内容日付・対象に関する確認点
昭和2年2月7日大正天皇大喪大赦令(昭和2年勅令第11号),減刑令(同年勅令第12号),復権令(同年勅令第13号)及び特別基準恩赦大赦の対象者は13万7669人,一般減刑の対象者は4万6138人と整理されている。
昭和3年11月10日昭和天皇即位礼減刑令(昭和3年勅令第270号),復権令(同年勅令第271号)及び特別基準恩赦一般減刑のほか,特赦,特別減刑及び特別復権が行われた。
昭和9年2月11日明仁親王御降誕記念減刑令(昭和9年勅令第19号)及び復権令(同年勅令第20号)御降誕日は昭和8年12月23日であり,昭和9年2月11日は恩赦法令の日である。
昭和13年2月11日憲法発布50周年減刑令(昭和13年勅令第76号),復権令(同年勅令第77号)及び特別基準恩赦一般減刑と特別減刑・特別復権を区別する必要がある。
昭和15年2月11日紀元二千六百年記念減刑令(昭和15年勅令第45号),復権令(同年勅令第46号)及び特別基準恩赦中心的な記念式典は同年11月10日であるため,「2月11日の式典に伴う恩赦」ではなく記念恩赦とするのが正確である。
昭和17年2月18日シンガポール陥落後の第一次戦捷祝賀復権令(昭和17年勅令第94号)及び特別基準恩赦特別基準恩赦では1万5916人が特赦を受けたと整理されている。

国立国会図書館「恩赦制度の概要」15頁の人数表は,一般恩赦の該当人員と個別審査後の人数を同じ表に掲載しているが,両者の意味は異なる。一般恩赦の人数は法令の定める要件に一律に該当した人数であり,特別基準恩赦の人数は個別審査によって実際に恩赦を受けた人数である。また,全国的な一覧に掲載されていないことだけから,植民地に限定された恩赦が存在しなかったと判断することはできない。

第5 大正元年恩赦令の成立と特別基準恩赦

1 天皇大権と法律による規律をめぐる論争

大日本帝国憲法16条は,天皇が大赦,特赦,減刑及び復権を命ずると定めていた。刑法改正の過程では,恩赦が天皇の専属大権である以上,法律で手続を拘束することはできないとする穗積八束の見解と,憲法が掲げる大権事項であっても法律による規律は排除されないとする美濃部達吉の見解が対立した。この論争は,恩赦の方法だけでなく,天皇大権と法律との関係をめぐる明治憲法学上の問題であった。

2 明治41年の三勅令から統一的な恩赦令へ

刑法施行に伴い,明治41年には,特赦及減刑ニ関スル件(勅令第215号)軍法会議ニ於テ刑ノ言渡ヲ受ケタル者ノ特赦及減刑ニ関スル件(勅令第216号)及び勅令第215号を朝鮮,台湾,関東州等に準用する件(勅令第230号)が制定された。しかし,これらは特赦と減刑の手続を部分的に規律したものであり,大赦及び復権を含む統一的な制度ではなかった。

明治天皇崩御後,枢密院は大正元年9月25日に恩赦令案を審議し,翌26日に恩赦令(大正元年勅令第23号)と大赦令(同年勅令第24号)が公布された。恩赦令は大赦,特赦,減刑及び復権の効力と手続を統一的に定め,明治41年の三勅令を廃止した。制定過程については,美濃部達吉が起草に関与した可能性が専門研究で指摘されているが,関係者の後年の回想等に基づく推定を含むため,確定的な事実として扱うべきではない。

3 特別基準恩赦の運用上の特徴

特別基準恩赦は,一般恩赦から漏れた者を個別に救済するほか,特別な機会に通常より広い基準で個別恩赦を行う方法として用いられた。もっとも,戦前には基準が一般に十分公表されず,内閣が定めた基準と個々の審査との関係を外部から検証しにくかった。基準該当者に当然の効果が生じる一般恩赦とは異なり,特別基準恩赦では個別審査を経て初めて恩赦が決定される点が制度理解の中心となる。

第6 戦前恩赦の法的性格

大日本帝国憲法16条が恩赦を天皇大権としていたこと,実際の恩赦が皇室の慶弔や国家的記念行事に結び付けて繰り返されたことから,戦前の恩赦は天皇の恩典として説明され,運用された面が強い。平成2年5月24日の参議院内閣委員会においても,法務省は,戦前の恩赦は天皇の大権事項であり,天皇の恩恵的行為と考えられていたと説明している。

ただし,これだけで戦前の恩赦の法的性格を言い尽くすことはできない。恩赦令の制定時には,恩赦を法規によって統制できるかが論争となり,同時代にも広い行政裁量を批判する見解があった。また,後記最高裁判決の栗山茂裁判官の意見は,立憲国における大赦を単なる君主の恩恵ではなく,公益上設けられた憲法上の制度として説明している。したがって,本記事では,「恩典として理解・運用された面が強いこと」と「国家の法制度としての性格」を区別する。

第7 旧憲法下の大赦の効力を扱った最高裁判決

1 事件と多数意見の結論

最高裁大法廷昭和23年5月26日判決(昭和22年(れ)第73号,不敬被告事件,刑集2巻6号529頁)は,昭和21年5月の食糧メーデーで掲示されたプラカードについて,旧刑法の不敬罪で起訴された事件である。判決日は日本国憲法施行後であるが,問題となった犯罪及び大赦は旧憲法下のものであった。

日本国憲法公布に際する大赦令(昭和21年勅令第511号)は不敬罪を対象に含めていた。最高裁多数意見は,大赦により公訴権が消滅した後は裁判所が犯罪の成否や刑罰を判断する実体審理を進めることができず,免訴判決をすべきであるとした。第一審が実体判断をして有罪としたことは違法であるものの,被告人に実質的な不利益がないとして上告を棄却した。

2 判決原文中の勅令番号

多数意見には「大正元年勅令第二〇号恩赦令」とあるが,恩赦令は大正元年勅令第23号である。判決中の別意見には正しい第23号との記載があり,多数意見部分の「第二〇号」は判決原文の誤記と認められる。判決を引用する場合は原文を無断で第23号へ変更せず,原文の誤記である旨を注記する必要がある。

3 各裁判官の意見の相違

同判決では,大赦後も裁判所が実体判断を行う権限を有するか,免訴と有罪判決のいずれが被告人に有利かなどについて意見が分かれた。したがって,同判決から導ける中心的な命題は,多数意見が恩赦令3条に基づく公訴権消滅を理由として実体審理を否定したことであり,恩赦の本質について裁判所全体が単一の理論を採用したと一般化することはできない。

第8 現行憲法への移行と関連記事

日本国憲法73条7号は,大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を決定することを内閣の権限とし,同法7条6号は,天皇がこれらを認証すると定めている。大正元年の恩赦令は日本国憲法施行日の昭和22年5月3日に昭和22年政令第6号によって廃止され,恩赦法(昭和22年法律第20号)へ移行した。

戦後最後の政令による一般減刑は,サンフランシスコ平和条約発効日の昭和27年4月28日に公布された減刑令(昭和27年政令第118号)である。戦後の各恩赦については戦後の政令恩赦及び特別基準恩赦――実施時期・対象人員・制度の変遷を,常時恩赦の件数との違いについては常時恩赦等の件数及び無期刑受刑者の仮釈放を参照されたい。

出典・参考資料

1 法令

① 大日本帝国憲法16条(国立国会図書館)

② 日本国憲法7条6号・73条7号(e-Gov法令検索)

③ 恩赦法(昭和22年法律第20号)(e-Gov法令検索)

④ 恩赦令(大正元年勅令第23号)御署名原本(国立公文書館)及び日本法令索引の法令沿革(国立国会図書館)

2 裁判例

① 最高裁判所大法廷昭和23年5月26日判決(昭和22年(れ)第73号,不敬被告事件,刑集2巻6号529頁,裁判所ウェブサイト)

3 公文書・国会会議録・公的資料

① 小沢春希「恩赦制度の概要」国立国会図書館『調査と情報―ISSUE BRIEF―』第1027号(2018年12月6日)1頁~15頁。人数表は資料上15頁・PDF15頁

② 国立国会図書館「明治前期の法令の調べ方」及び国立公文書館「公文式」

③ 宮内庁「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」宮内庁「昭和天皇・香淳皇后」及び宮内庁「天皇皇后両陛下」

④ 第72回国会衆議院内閣委員会第32号(昭和49年5月21日。西郷隆盛の官位褫奪及び追贈に関する政府答弁)

⑤ 第118回国会参議院内閣委員会第3号(平成2年5月24日。戦前恩赦の性格に関する政府答弁)

⑥ 国立公文書館「王世子李垠ト方子女王トノ結婚ニヨリ恵沢ヲ施サムカタメ朝鮮人ニ対シ特ニ恩赦ヲ行フ件」及びアジア歴史資料センター「恩赦ニ関スル人員表送付ノ件」

⑦ アジア歴史資料センター「写真週報第145号」(紀元二千六百年記念式典関係)

4 文献

① 佐々木髙雄「恩赦令の成立経緯」法政理論39巻4号(2007年)108頁~157頁

② 岡田亥之三朗『逐条恩赦法釈義(改訂3版)』(第一法規出版,1968年)21頁~35頁・42頁~56頁・64頁~88頁

③ 菊田幸一「恩赦制度の批判的考察」法律論叢42巻4・5・6号(1969年)297頁~341頁

④ 法務省保護局「戦前の恩赦制度とその運用」法律のひろば42巻4号(1989年)39頁~43頁