◯本記事は専らAIで作成したものです。
◯対象とするのは,「赤い本」(民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準,日弁連交通事故相談センター東京支部発行)2025年(令和7年)版下巻(講演録編)に収録された講演「インプラント治療に関する費用」(東京地方裁判所民事第27部・62期の佐藤康行裁判官講述,令和6年9月14日)である。
目次
第1 はじめに
交通事故により歯牙を失った被害者にとって,インプラント治療によって噛む機能と見た目を取り戻すことは,生活再建の重要な一部である。
他方で,インプラント治療は健康保険が適用されない自由診療であるため,その費用のうちどこまでが加害者の負担すべき損害に当たるかは,実務上,繰り返し問題となってきた。
本講演は,この論点について,2025年(令和7年)に東京地方裁判所民事第27部の佐藤康行裁判官が,56件の裁判例と歯科医学の一次文献を精査した上で講演したものであり,交通事故損害賠償の実務にとって価値の高い労作である。
本記事は,この講演の内容を,歯科インプラント治療を専門とする臨床家の視点から読み直し,法律実務家にとって参考となる補足を加えることを目的とする。
第2 本講演の位置付けと全体評価
1 本講演の対象
本講演は,次の4点の質問事項について検討するものである。
(1) インプラント治療の要否の判断基準
(2) インプラント治療として相当性の認められる費用の範囲
(3) インプラントの耐用年数と将来のメンテナンス費用の賠償の当否
(4) 素因減額の可否
以下,第3から第6まで,この4点の質問事項に沿って検討する。
2 全体的な評価
本講演をまず読み通しての率直な感想を述べておきたい。
本講演は,日本歯科医学会「歯科インプラント治療指針」,厚生労働省委託事業「歯科インプラント治療のためのQ&A」(平成26年3月)といった,歯科インプラントの専門医が実際に臨床上の拠り所とする一次資料を的確に参照している。
インプラントの構造(歯根部であるインプラント体,支台部であるアバットメント,人工歯である上部構造の3パーツから成ること),使用される材質(インプラント体はチタン・チタン合金,アバットメントはチタン・チタン合金・ジルコニア,上部構造はレジン・セラミック・ハイブリッドセラミック・金合金等),他の補綴方法(義歯・ブリッジ)との長所短所の比較といった記述は,いずれも歯科医学的に正確であり,非歯科医療従事者である裁判官がここまで正確に整理されている点には,専門医として率直に敬意を表したい。
そのうえで,第3以下では,臨床の現場から見て補足・強調しておきたい点を述べる。
第3 インプラント治療の要否の判断基準について
1 二段階の判断枠組み
(1) 医学的な必要性・合理性・相当性
本講演は,インプラント治療が事故と相当因果関係のある損害として認められるためには,①医学的見地からみて当該傷害の治療として必要性及び合理性・相当性の認められる治療行為であること,②その報酬額も社会一般の水準と比較して妥当なものであること,の2つを満たす必要があるとする。
この二段階の判断枠組みは,臨床実務の感覚とも整合的である。
(2) 報酬額の社会的な相当性
この二段階の枠組みは,そもそも加害者が負担すべき損害の範囲を画する民法上の一般原則から導かれるものである。
民法(明治29年法律第89号)第709条は,「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は,これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と規定する。
交通事故によりインプラント治療を要する歯牙欠損が生じた場合,加害者は,同条に基づき,事故と相当因果関係のある治療費相当額を賠償する責任を負う。
もっとも,同条は「これによって生じた損害」の賠償を命じるにとどまり,被害者に生じた費用の全てを無限定に賠償の対象とする趣旨ではない。
したがって,どの範囲の治療内容・費用が事故と相当因果関係のある「損害」に当たるかを画定する作業が必要となり,これが,本講演の①医学的必要性・相当性,②報酬額の社会的相当性という二段階の枠組みに具体化されているものと理解できる。
2 他の治療方法との比較
(1) ブリッジ・義歯との比較
本講演は,ブリッジ治療のデメリット(健全歯の削合,二次う蝕のリスク,支台歯への負担)と,義歯のデメリット(誤嚥等のリスク,咀嚼力の低さ)を踏まえ,個々の事案に応じて,インプラント治療の必要性・相当性を判断すべきであるとする。
この整理は,専門医の立場から見ても妥当である。
ブリッジは支台歯を削る侵襲を伴い,義歯は咀嚼力の回復に限界があるという構造的な短所を抱えており,個々の患者の口腔内の状態,年齢,全身状態を踏まえた個別判断が必要であるという本講演の姿勢は,臨床上の実感とも一致する。
(2) 生存率に関する知見の意味
本講演は,厚生労働省委託事業「歯科インプラント治療のためのQ&A」を引用し,1歯欠損についてインプラント治療とブリッジを比較した場合,5年及び10年における両者の生存率は同等であり,機能的にも審美的にも一方の優位性を示すエビデンスはないとする。
この引用は,専門医の理解する臨床文献の趨勢とも整合的であり,妥当なものと考えられる。
ただし,1点補足しておきたい。
生存率が同等であることと,起こり得る合併症の性質が同じであることとは別の問題である。
ブリッジは支台歯のう蝕・歯髄壊死といった生物学的な合併症が中心であるのに対し,インプラントはスクリューの緩み・上部構造の破損といった技術的な合併症に加え,インプラント周囲炎というインプラントに固有のリスクを抱える。
この違いは,本講演が採用する「画一的な基準を機械的に適用するのではなく,個別事情を踏まえて必要性・相当性を判断すべきである」という姿勢を,臨床側からも後押しする材料になると考えられる。
3 原状回復の原則について
(1) 本講演が示す考え方
本講演は,損害賠償が被害者を被害前の状態に原状回復することを目的とするものであることから,事故前に義歯やブリッジを装着していた箇所が事故により破損したという場合には,原状よりも良い状態にするインプラント治療への転換は,原則として認められないとする考え方を紹介している。
他方で,事故前が自然歯であった箇所が事故により破折した場合には,インプラント治療に係る費用の損害賠償が認められる余地があるとする。
(2) 法的根拠の確認
この考え方も,前記1(2)で述べた民法第709条の相当因果関係の枠組みから導かれるものと整理できる。
すなわち,同条に基づく損害賠償は,被害者を事故が無かったならばあったであろう状態(事故前の状態)に回復させることを目的とするものであり,事故前の状態を超える利益をもたらす治療費までを加害者に負担させることは,同条が予定する損害の範囲を超えることになる。
事故前に義歯・ブリッジであった箇所をインプラントに置き換える治療費が原則として認められないとする考え方は,この損害賠償の目的から論理的に導かれる帰結であり,専門医の立場からも異論はない。
第4 治療費用の相当性について
1 費用相場に関する文献
(1) 清水論文の調査結果
本講演が引用する清水秀規「交通事故被害者の歯牙破折に対する口腔インプラント治療による損害賠償に関する考察」(損害保険研究82巻2・3号101頁以下,J-STAGEにて公開)は,平成30年3月時点で721施設のインプラント治療費を調査し,1歯当たりの治療費は30万円から40万円未満が最も多く(358件),次いで20万円から30万円未満が続く(219件)としている。
同論文は,結論として,1本当たりの単価は30万円から40万円に2万3000円を加えた程度が妥当であるとしている。
(2) その他の調査結果
本講演はこのほか,独立行政法人国民生活センターが平成31年に公表した報告書(インプラント手術経験者へのアンケート調査で,埋入したインプラントの数の平均が2.49本,費用の平均が85万8300円),日本口腔インプラント学会のホームページで紹介された平成27年実施の調査(インプラント患者333人の回答のうち,初めてインプラントを入れたときの費用について1本20万円から40万円との回答が過半数),全国362の歯科医院を対象とした調査(平成23年時点のインプラント1本当たりの平均価格が32万5000円)を紹介している。
これらの費用相場は,専門医の理解する臨床感覚とも大きくずれてはおらず,妥当な引用であると考えられる。
2 「全国平均額」を基準とした認定の実例
(1) 事案の概要
本講演は,横浜地方裁判所平成29年12月4日判決(平成27年(ワ)第4677号,損害賠償請求事件。LLI/DB判例秘書登載,自保ジャーナル2018号75頁)を,インプラント費用の全国平均額を基準に相当因果関係を認めた事案として紹介している。
同判決の判文を確認したところ,次のとおりの事案であった。
原告は,信号機のない丁字路交差点における事故により上顎骨骨折,多発歯牙欠損等の傷害を負い,右上1番,2番,4番及び左上1番,2番の合計5本にインプラント治療を受けた。
治療費の内訳は,インプラント手術費85万円,埋入手術代40万円,GBR(骨造成術)20万円,プロビジョナル(仮歯)装着費用12万5000円,ジルコニア上部構造体等153万円,ジルコニアポーセレン冠24万円の合計334万5000円であった。
(2) 裁判所の認定内容
裁判所は,この実額334万5000円に対し,「インプラント費用の全国平均額は約32万5000円とされている」として,1本当たり同平均額を上限とし,5本分である162万5000円の限度で相当因果関係を認めた。
すなわち,実際に要した治療費のうち,約半額のみが損害として認容された事案である。
3 専門的な観点からの補足
(1) 外傷症例に特有の付随処置
この事案は,専門医として補足しておきたい重要な論点を含んでいる。
交通事故によるインプラント症例は,歯周病等による通常のインプラント症例と異なり,外傷による歯槽骨の骨折・欠損を伴うことが少なくない。
前記(1)で確認したとおり,この事案でもGBR(骨造成術)が治療費の内訳として計上されている。
骨造成やサイナスリフト,仮歯(プロビジョナル)による咬合の暫間管理といった付随処置は,外傷症例では臨床上ごく普通に必要となる。
ところが,前記第4の1で確認した「全国平均額」(約32万5000円)は,国民生活センターや日本口腔インプラント学会の調査結果を見る限り,主として選択的な,すなわち外傷を伴わない単独歯インプラントの相場を反映したものであり,骨造成を伴う複雑な症例のコストを十分に織り込んでいない可能性がある。
したがって,交通事故による外傷性のインプラント症例において,このような「全国平均額」を機械的な上限として適用すると,骨造成術のような医学的に必要な付随処置の費用が,実質的に損害として認められないという結果を招くおそれがあると考えられる。
もっとも,これは本講演の枠組み自体を否定するものではない。
本講演自身も,「歯牙欠損の態様等の具体的な事情を踏まえることなく文献等で指摘される治療費の平均額や金額帯を強調しすぎるべきではない」と正しく指摘しており,この指摘の重要性を,専門医の立場から実例をもって裏付けるものと位置付けられる。
(2) 実務上の留意点
交通事故によるインプラント症例を取り扱う際は,治療見積書及び請求明細を,インプラント埋入手術費,骨造成術・サイナスリフト等の付随処置費,仮歯(プロビジョナル)費用,上部構造(最終補綴)費用に区分して提出させ,付随処置が外傷起因の骨欠損に伴う医学的に必要な処置であることを,担当歯科医師の意見書で明示してもらうことが,「全国平均額」による一律の圧縮を避ける観点から有用であると考えられる。
なお,本講演が引用する費用相場のデータは,国民生活センター調査が平成31年,清水論文の調査が平成30年3月時点,全国362施設調査が平成23年時点のものであり,いずれも数年から10年以上前の水準である。
材料費及び技工料の動向を踏まえると,現在の実勢相場はこれらの数値をやや上回っている可能性があり,古いデータを現在の事案に機械的に当てはめる際には,この点も念頭に置く必要があると考えられる。
(3) 治療期間の長期化がもたらす精神的な負担
もう1点,専門的な観点から補足しておきたい。
外傷による歯槽骨の欠損を伴うインプラント症例では,骨造成術を行った部位の治癒を待ってからインプラントを埋入し,さらに骨結合の完成を待ってから上部構造を装着するという段階を踏む必要があり,治療期間が半年から1年以上に及ぶことも珍しくない。
この間,患者は,仮歯(プロビジョナル)による不安定な咬合状態や,欠損部位が残ったままの審美的な不便を,長期間にわたって受忍しなければならない。
本講演は,インプラントの治療費及び将来費用の当否を中心に検討するものであり,この治療期間の長期化それ自体を慰謝料算定の考慮要素として取り上げてはいない。
もっとも,通常の抜歯即時埋入等の単純な症例に比べ,骨造成を要する外傷性の症例では治療期間が有意に長期化し,その間の咀嚼機能の制限及び審美的な不便が続くことは,臨床的な実情として無視できないものである。
したがって,こうした治療期間の長期化に伴う負担は,治療費用そのものの相当性とは別に,傷害慰謝料又は後遺障害慰謝料の算定に当たって考慮され得る事情として,今後の実務で意識されてよいのではないかと考えられる。
第5 耐用年数及び将来メンテナンス費用について
1 インプラントの生存率に関する知見
本講演が引用する日本歯科医学会「歯科インプラント治療指針」による,10年生存率92パーセントから95パーセント,10年から15年の累積生存率が上顎で約90パーセント,下顎で94パーセント程度という数値は,専門医の理解する臨床文献の趨勢とも整合的である。
2 「更新」という枠組みへの補足
(1) 上部構造とインプラント体の違い
ここで,専門医として強調しておきたいのは,「耐用年数」という発想そのものについてである。
骨結合(オッセオインテグレーション)が確立し,良好に維持されているインプラント体は,機械部品のように一定年数で摩耗する性質のものではなく,理論上は,患者の生涯を通じて機能し得るものである。
実際に臨床上,経年で交換や修理を要することが多いのは,主として上部構造(クラウン)であり,咬耗,レジンやセラミックの破折,スクリューの緩み等が原因となる。
本講演が紹介する,裁判例が認定してきた10年から15年程度という数値は,この上部構造の実務上の寿命として妥当な見立てであると考えられる。
これに対し,インプラント体そのものが失われる場合,その大半の原因はインプラント周囲炎による周囲骨の吸収であり,これは部品の摩耗ではなく,感染性の骨破壊である。
(2) 再植立の臨床的な実際
ここで重要なのは,一度周囲骨の吸収が進んだ部位への再植立(本講演のいう「更新」)は,臨床的には決して単純な部品の入れ替えではないということである。
骨量が失われた部位に再びインプラントを植立するには,通常,大規模な骨造成を要し,症例によっては再植立自体が困難な場合もある。
この点,本講演が,前記の清水論文を引用して「複数回のインプラントの再埋入を認定した裁判例に対し,臨床的には現実的に複数回の再埋入は不可能な場合が多い」と釘を刺している記述は,専門医の目から見て的確な指摘である。
実際,本講演が紹介する裁判例の中には,平均余命の期間中に複数回の同種治療を見込んだ例もあるが,これは,臨床的な実現可能性という観点からは,かなり楽観的な想定と言わざるを得ない。
今後,将来の更新費用が争点となる事案を検討する際は,「更新1回当たり150万円掛ける回数」という機械的な将来コスト算定よりも,再植立の医学的な成功見込み自体に相応の不確実性があることを,担当歯科医師の意見書で示す方が,臨床の実態に即した主張になるものと考えられる。
3 メンテナンス費用について
本講演によれば,インプラントのメンテナンス費用について説示した裁判例11件のうち,9件でメンテナンス費用を独立の項目として認め,否定した例はなかったとされる。
この傾向は,専門医の立場からも支持できる。
メンテナンス(プラークコントロール,咬合状態のチェック等)を怠ることが,インプラント周囲炎及び長期的な脱落の最大の危険因子であることは,文献上おおむね一致した知見であり,メンテナンスの必要性を独立して認め,これを怠った結果について加害者を免責しないという実務の運用は,臨床側から見ても理にかなっている。
なお,メンテナンスの頻度及び金額は歯科医院ごとに差があるため,将来のメンテナンス費用を主張・立証する際は,担当歯科医師の具体的な維持管理計画及び料金体系を証拠として提出することが望ましいと考えられる。
第6 素因減額について
1 法的根拠
素因減額の法的根拠について確認しておく。
民法第722条第2項は,「被害者に過失があったときは,裁判所は,これを考慮して,損害賠償の額を定めることができる」と規定する。
同項は文言上,被害者の「過失」を要件とするものであるが,最高裁判所昭和63年4月21日判決(民集42巻4号243頁)は,「身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合において,その損害がその加害行為のみによって通常発生する程度,範囲を超えるものであって,かつ,その損害の拡大について被害者の心因的要因が寄与しているときは,損害を公平に分担させるという損害賠償法の理念に照らし,裁判所は,損害賠償の額を定めるに当たり,民法722条2項の過失相殺の規定を類推適用して,その損害の拡大に寄与した被害者の右事情を斟酌することができる」と判示した。
この判断枠組みは,心因的要因のみならず,被害者の身体的な疾患が損害の発生又は拡大に寄与した場合にも及ぶものと理解されている。
本講演が検討する,事故前からの歯周病を理由とする素因減額も,この判断枠組みの適用場面の1つとして位置付けられる。
2 歯周病を理由とする裁判例
(1) 事案の概要
本講演は,歯周病を理由とする素因減額の裁判例として,神戸地方裁判所平成27年1月29日判決(平成25年(ワ)第427号,損害賠償等請求事件。LLI/DB判例秘書登載)を紹介している。
同判決の判文を確認したところ,原告は,若年の頃から歯が弱く,事故以前から継続的に歯科治療を受け,多数の歯牙が欠損し義歯となっていたところ,事故により右上1番,左上1番,2番の義歯が外れ,これらについてインプラント治療を,左上3歯冠破折についてブリッジ部の補綴処置を受けた事案であった。
(2) 裁判所の判断
裁判所は,原告の歯牙治療が長期化し,かつ,事故による損傷の程度に照らすと過剰といえる抜本的な治療を受けることになったのは,事故以前からの原告の歯牙の損傷状況が相当程度影響していることは否定できないとして,インプラント治療及びブリッジ部補綴処置の治療費については4割の限度で認めるのが相当であると判断した。
この判断は,歯周病が事故前から進行していた場合の素因減額の在り方を示すものとして,専門医の立場からも支持できる。
歯周病は,日本の成人における歯牙喪失の原因として,う蝕を上回り最も多くを占めることが各種の疫学調査で一貫して示されており,事故前から高度に進行した歯周病があった場合に,通常のインプラント治療費よりも大掛かりな処置を要することは,臨床的にも十分にあり得ることである。
3 今後の検討課題
最後に,将来を見据えた検討課題を1点指摘しておきたい。
本講演は,インプラント治療の可否を検討する場面では,糖尿病,骨粗しょう症,金属アレルギー等の全身的な疾患が,手術を受けられるかどうかに影響する要因として言及している。
他方で,素因減額の場面では,歯周病及び不正咬合以外のこうした全身的な疾患は取り上げられていない。
糖尿病,特に血糖コントロールが不良な場合や,骨吸収抑制薬を使用中の骨粗しょう症の患者においては,オッセオインテグレーションの成否及びインプラント周囲炎の発症率に影響することが臨床的に知られている。
今後,こうした全身疾患を有する被害者のインプラント治療が問題となる事案では,歯周病及び不正咬合とは異なる角度からの素因減額の主張が出てくる可能性があり,将来の実務動向として留意しておくべき点であると考えられる。
また,素因減額を主張・立証する際は,事故当時の歯周組織検査記録(プロービング値,レントゲン上の骨吸収度,動揺度等)や血糖コントロールの状態(HbA1c等)といった客観的な診療記録が,科学的な裏付けとして重要になるものと考えられる。
第7 おわりに
本講演は,交通事故によるインプラント治療費の損害賠償という,実務上避けて通れない論点について,多数の裁判例と歯科医学の一次文献を丁寧に精査した労作であり,専門医の立場から見ても,歯科医学的な正確性の高い内容であった。
そのうえで,専門的な観点から補足を試みたのは,主として次の4点である。
第1に,外傷性のインプラント症例では骨造成術等の付随処置を伴うことが多く,「全国平均額」を機械的な上限として適用すると,こうした医学的に必要な費用が損害として認められにくくなるおそれがあるという点である。また,この「全国平均額」自体,近年の物価及び賃金の動向を踏まえると,現在の実勢相場を下回っている可能性がある点にも注意を要する。
第2に,インプラントの「更新」は臨床的には単純な部品の入れ替えではなく,再植立の医学的な成功見込み自体に相応の不確実性があるという点である。
第3に,外傷性の症例では治療期間が長期化しやすく,その間の咀嚼機能の制限及び審美的な不便が続くことは,治療費用の相当性とは別に,慰謝料の算定に当たって考慮され得る事情として意識されてよいという点である。
第4に,歯周病以外の全身的な疾患(糖尿病,骨粗しょう症等)も,将来的には素因減額の論点として検討され得るという点である。
いずれも,本講演が示した基本的な判断枠組みを否定するものではなく,むしろ,個別事情を踏まえた柔軟な判断が必要であるという本講演自身の姿勢を,臨床の実例をもって裏付けるものである。
今後,交通事故によるインプラント治療費が問題となる事案を担当される法律実務家にとって,本記事が何らかの参考になれば幸いである。
出典
- 赤い本講演録2025(民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準・下巻,日弁連交通事故相談センター東京支部発行)「インプラント治療に関する費用」(佐藤康行裁判官講述)
- 清水秀規「交通事故被害者の歯牙破折に対する口腔インプラント治療による損害賠償に関する考察」損害保険研究82巻2・3号
- 日本歯科医学会「歯科インプラント治療指針」
- 厚生労働省委託事業「歯科インプラント治療のためのQ&A」
- 厚生労働省保険局医療課「令和8年度診療報酬改定の概要【歯科】」(令和8年3月5日版)
- 横浜地方裁判所判決(LLI/DB判例秘書登載,自保ジャーナル登載)
- 神戸地方裁判所判決(LLI/DB判例秘書登載)
- 最高裁判所昭和63年4月21日判決(民集42巻4号243頁)