第1 覚書の対象と本記事の射程
1 対象となる文書
本記事が対象とするのは,昭和48年9月1日付で,社団法人日本損害保険協会と,日本弁護士連合会の要請を受けた財団法人日弁連交通事故相談センターが取り交わした覚書である。同覚書は,損害保険各社が家庭用自動車保険を発売するに当たり,任意自動車対人賠償責任保険の運用について両団体が確認した事項を記載したものであり,『判例タイムズ』943号(平成9年9月10日発行)5頁~6頁に本文及び関連経緯が掲載されている。
覚書は,法令でも個々の自動車保険契約の約款でもない。そのため,覚書だけから交通事故当事者の具体的な権利義務を決めることはできず,現在の保険契約については適用約款及び現行法令を別に確認する必要がある。本記事では,覚書の各項目を長文引用せずに整理した上で,示談代行,被害者の直接請求権,中立的紛争処理機関,統一支払基準及び内払がその後どのように制度化され,又は変更されたかを扱う。
2 家庭用自動車保険の発売前に生じた課題
片山郁夫の研究によれば,損害保険各社は昭和46年頃から示談交渉サービスを個別に検討し,昭和47年10月には業界全体で同サービス付き自動車保険を発売する方針を固めた。しかし,保険会社の職員が被保険者に代わって被害者と交渉することについては,非弁護士による法律事務を規制する弁護士法72条との関係が問題となり,被害者保護と支払の適正化を担保する仕組みも必要とされた。
昭和48年の覚書は,この問題を単独の条項で処理するのではなく,①約款上の被害者直接請求権,②損害保険会社の担当者及び処理体制に対する規律,③弁護士との連携,④中立的な紛争処理機関,⑤裁判所の認定基準に準ずる支払基準,⑥責任が明らかな額の内払を組み合わせて対処しようとした文書である。昭和49年3月に発売された家庭用自動車保険(FAP)は,対人賠償について示談交渉サービスと被害者の直接請求権を備える商品となった。
第2 覚書が定めた事項
1 日本損害保険協会側が提案した四項目
覚書第一では,日本損害保険協会側が行う施策として,①裁判所の認定基準に準ずる任意自動車対人賠償責任保険の支払基準を作成すること,②賠償額の算定及び被害者との折衝を担当する職員を十分に指導監督すること,③和解のあっ旋を目的とする中立の機関を設けること,④損害賠償責任の総額が未確定でも,責任を負うことが明らかな金額を内払いすることが掲げられた。四項目は,支払額,担当者,中立的な紛争処理及び支払時期という異なる局面から,被害者の権利と事故後の経済的負担に対応する構成である。
中立の機関については,設置場所その他の細目を両団体で協議するとされた。内払については,被保険者又は被害者から申出があった場合に,保険金又は損害賠償額の一部を最終確定前に支払うことが想定されており,最終示談まで一切支払わないという運用を避ける趣旨を持っていた。
2 日弁連交通事故相談センター側が提案した六項目
覚書第二では,①被害者の保険会社に対する直接請求権を約款に明記すること,②弁護士法違反の疑いを招く宣伝広告をしないこと,③被害者との折衝を弁護士との緊密な連携の下で公正かつ妥当に処理すること,④折衝等を損害保険会社の常勤職員に担当させ,代理店その他の部外者へ委嘱せず,件数連動型の報酬制度を用いないことが掲げられた。ここでは,直接請求権だけでなく,誰が,どのような組織上の規律の下で交渉を担当するかまで定めている。
残る二項目は,⑤反復して被害者を代理する非弁護士に関する情報を整理して日弁連交通事故相談センター側へ通知し,そのような請求には原則として応じないこと,⑥紛争当事者が弁護士へ相談又は委任する機会を増やすよう配慮することである。覚書は,保険会社による交渉を認めるための合意にとどまらず,非弁護士の介入防止と弁護士へのアクセス確保も一体として設計していた。
3 継続協議と同日付の確認メモ
覚書第三は,覚書に関連する事項その他の任意自動車対人賠償責任保険に関する問題について,両団体が定期又は随時に協議するものとした。この継続協議条項が置かれたため,覚書は一回限りの商品発売条件ではなく,発売後の運用を点検する枠組みも予定していたと読める。
『判例タイムズ』943号5頁~6頁が紹介する同日付の「確認メモ」では,和解のあっ旋を行う裁定委員会(仮称)の設置が予定されていたとされる。ただし,この確認メモの原本又は署名済み写しは公開ウェブ上で独立に確認できないため,その逐語的な内容は同誌の記載を超えて断定できない。
第3 示談代行と被害者の直接請求権
1 昭和48年当時の制度設計
現行の弁護士法72条は,弁護士又は弁護士法人でない者が,報酬を得る目的で,法律事件に関する法律事務を業として取り扱うこと等を原則として禁止している。昭和48年当時,損害保険会社が被保険者に代わって示談交渉を行うことが同条に抵触しないかが問題となったため,覚書は,被害者が保険会社へ直接請求できる約款上の権利を設け,保険会社を被害者との法律関係の当事者にする構成を採った。
もっとも,被害者の直接請求権と示談代行は理論上別の制度である。吉澤卓哉の研究は,賠償責任関係と保険関係の強い関連,保険者自身の利害及び現行保険法上の被害者保護を理由として,直接請求権のない賠償責任保険でも示談代行が直ちに弁護士法72条へ抵触するわけではないとの見解を示している。したがって,昭和48年の覚書が採った組合せを,あらゆる賠償責任保険で示談代行を適法にするための唯一の法的構成と一般化することはできない。
吉澤の見解は,二つの独立した理論的な道筋を組み合わせたものである。第一は,保険会社に弁護士法72条にいう他人性を排除するに足りる本人性を認める道筋であり,被害者・被保険者間の訴訟に保険会社が補助参加できる法律上の利害関係を有すること,及び賠償責任関係と保険関係が強く牽連していることを根拠とする。第二は,仮に本人性が認められない場合であっても,示談代行が刑法35条にいう正当業務行為に該当し,違法性が阻却されるとする道筋である。
弁護士法72条の趣旨については,最高裁判所大法廷昭和46年7月14日判決(昭和44年(あ)第1124号・弁護士法違反,刑集25巻5号690頁)が,みずからの利益のためにみだりに他人の法律事件に介入することを禁圧する趣旨の規定であると判示している。正当業務行為の判断基準については,弁護士法73条に関する事案ではあるが,最高裁判所第三小法廷平成14年1月22日判決(平成12年(受)第828号・預託金返還請求事件,民集56巻1号123頁)が,弊害が生ずるおそれがなく,社会的経済的に正当な業務の範囲内にあると認められる場合には違反しないとの判断基準を示しており,吉澤の見解は,この基準を弁護士法72条にも及ぼしうるとするものである。
もっとも,同種の判断基準が適用されながら,正当業務行為への該当性が否定された例もある。最高裁判所第三小法廷平成24年2月6日決定(平成22年(あ)第787号・債権管理回収業に関する特別措置法違反被告事件,刑集66巻4号85頁)は,同法所定の許可を受けずに不良債権の管理回収を業とした事案について,業務態様に照らして正当業務行為に該当しないとした。したがって,正当業務行為による説明は,示談代行という類型に属することだけから当然に導かれるものではなく,保険業法に基づく監督下にあること及び苦情処理の体制が整えられていること等,保険会社の業務実態を個別に検討して初めて成り立つものである。
2 現在の示談交渉サービスの限界
示談代行は,被保険者の依頼を受けた保険会社が,被保険者の代理人として被害者と交渉する仕組みである一方,保険会社自身も保険金支払額について経済的利害を持つ。保険会社が行う交渉は原則として自社の保険金支払責任の範囲内であり,契約内容及び事故状況によっては利用できない場合がある。
日本損害保険協会の「損害保険Q&A」は,被保険者に全く過失がなく,その賠償責任保険を使用できない事故では,自身の保険会社の示談交渉サービスを利用できないと説明している。示談代行付き自動車保険へ加入しているという事実だけで,あらゆる事故の交渉を保険会社へ委ねられるわけではない。
3 保険法22条の先取特権との違い
現行の保険法22条は,責任保険契約の被害者に,被保険者が有する保険給付請求権について先取特権を認めている。これは,被保険者の保険給付請求権から被害者が優先的に弁済を受けるための法定担保物権であり,賠償責任保険一般について被害者が保険会社へ損害賠償額を直接請求できると定めたものではない。
自動車保険における約款上の直接請求権は,保険法22条の先取特権とは成立根拠及び法的構造が異なる。個別の事故で直接請求の可否又は要件を判断するときは,覚書や保険法22条だけでなく,事故時に適用される保険約款の直接請求条項を確認する必要がある。
第4 中立的な紛争処理機関の制度化
1 設置見合わせと実際の発足は別の出来事であること
『判例タイムズ』943号5頁~6頁によれば,日弁連交通事故相談センターは,日弁連理事会で結論が得られなかったことを受け,昭和49年3月15日の理事会で,同センター内に裁定委員会(仮称)を設けることを見合わせたとされる。この記載が示すのは,日弁連交通事故相談センター自身における設置見合わせであり,中立的な裁定機関がどこにも発足しなかったという意味ではない。
交通事故紛争処理センター「2025年 事業の概要」6頁によれば,別組織である交通事故中央裁定委員会は昭和49年1月16日に事務所を開設し,同年2月27日に業務を開始した。同委員会は昭和53年3月15日に財団法人交通事故紛争処理センターとなり,現在の公益財団法人交通事故紛争処理センターにつながっている。
金融庁の第123回自動車損害賠償責任保険審議会議事録でも,損害保険会社が任意保険に示談代行を導入すると,被害者の立場が相対的に弱くなることが懸念されたため,昭和49年に前身の交通事故裁定委員会が発足したという経緯が説明されている。したがって,日弁連交通事故相談センターの内部決定と,交通事故中央裁定委員会の開設及び業務開始は,主体と日付を分けて理解する必要がある。
2 現在の二つの交通事故ADR
公益財団法人日弁連交通事故相談センターと公益財団法人交通事故紛争処理センターは,名称及び業務が似ているものの,別の法人である。前者は日本弁護士連合会が昭和42年に設立し,現在は無料の法律相談及び示談あっせん等を行っている。後者は昭和49年の交通事故中央裁定委員会を前身とし,現在は中立公正な立場から無料の法律相談,和解あっ旋及び審査を行っている。
昭和48年の覚書と同日付確認メモの経緯を読む際には,①覚書の当事者であった日弁連交通事故相談センター,②同センターが設置を見合わせた裁定委員会(仮称),③実際に発足して交通事故紛争処理センターの前身となった交通事故中央裁定委員会を区別しなければならない。この区別をしないと,昭和49年の中立的機関が設置されなかったとの誤解が生じる。
第5 統一支払基準及び内払のその後
1 統一的な任意保険支払基準の廃止
覚書第一の支払基準に関する項目を受け,裁判所の認定基準に準ずることを掲げた統一的な任意自動車対人賠償責任保険支払基準が作成された。『判例タイムズ』943号5頁~6頁によれば,その後,両団体の定期協議が行われなくなり,保険業の自由化及び独占禁止法上の問題も生じたため,平成9年3月25日付の確認書により統一支払基準が廃止されたとされる。
ここで廃止された対象は,損害保険会社に共通する統一支払基準である。平成9年の確認書を根拠として,昭和48年の覚書全体,約款上の被害者直接請求権又は示談代行制度まで同時に廃止されたと読むことはできない。現在は各損害保険会社が個別の支払基準を設けているが,社内基準が裁判所による損害額の判断を拘束するものでもない。
2 内払と現在の治療費一括対応
覚書第一の内払に関する項目は,賠償責任の総額が未確定でも,責任を負うことが明らかな額を先に支払い,被保険者及び被害者の経済的負担を軽減する仕組みであった。この考え方は,最終示談前に既発生損害を支払う実務の歴史的な出発点の一つと位置付けることができる。
ただし,覚書の内払と,現在の治療費一括対応は同じ制度ではない。内払は保険金又は損害賠償額の一部を最終確定前に支払う仕組みであるのに対し,治療費一括対応では,損害保険会社が医療機関へ治療費を直接支払うという支払先及び事務処理を含む。現在の一括対応の法的効果を,覚書第一の項目だけから導くことはできない。
3 内払金をどの損害費目へ充てるか
一般的な損害賠償金の内払は,事故時に発生した損害賠償債務の元本全体を減少させることがある。一方,医療機関への直接払や,領収証を添えた個別費用の請求に応じた支払では,請求及び査定の経過により,特定の損害費目への充当又は支払時までの遅延損害金の処理について,明示若しくは黙示の合意が認定される場合がある。
したがって,任意保険会社の内払には常に費目拘束性がないと一律に扱うことはできない。支払先,請求時の説明,領収証等の提出,保険会社の査定及び当事者間の合意を,個々の支払ごとに確認する必要がある。
第6 本件覚書を現在参照するときの注意点
1 制度として残ったものと変更されたもの
昭和48年の覚書が構想したもののうち,示談交渉サービス,約款上の直接請求権,中立的な交通事故ADR及び最終示談前の支払という機能は,形を変えながら現在の自動車保険実務に残っている。他方,損害保険会社共通の統一支払基準は平成9年に廃止され,示談代行の法的説明も,直接請求権だけを根拠とする理解から,保険会社自身の利害及び保険法上の被害者保護を含む議論へ広がっている。
このため,覚書は現在の自動車保険約款を代替する規範ではなく,示談代行を導入した時期の被害者保護策と業界運用を知るための制度史料として参照するのが適切である。現在の事故処理へ接続するときは,残った機能と変更された制度を項目ごとに分け,現行約款及び現行法令で確認し直す必要がある。
2 原資料に関する確認限界
覚書本文,同日付確認メモ及び平成9年3月25日付確認書については,『判例タイムズ』943号5頁~6頁の掲載内容を確認の起点とした。しかし,署名済み原本又は独立した原本画像は公開ウェブ上で確認できず,同日付確認メモ及び平成9年確認書の逐語本文にも到達していない。
これに対し,昭和49年の交通事故中央裁定委員会の開設日及び業務開始日,昭和53年の法人化,現在の二つの交通事故ADRの法人上の区別,弁護士法72条並びに保険法22条は,公式資料又は法令原典で確認できる。原資料が不足する部分と,独立資料で裏付けられる制度史上の事実とを混同しないことが,本件覚書を正確に読むための前提となる。
第7 関連記事
任意保険の示談代行制度は,現在の示談交渉サービスの仕組み及び利用できない場合を扱う。物損事故の示談は,修理費,全損,評価損及び代車料等の物損項目と示談の確認事項を扱うものであり,本件覚書の制度史から現在の事故処理へ進む場合の参照先となる。
第8 出典・参考資料
1 歴史資料及び公的資料
① 『判例タイムズ』943号(判例タイムズ社,平成9年9月10日)5頁~6頁。昭和48年9月1日付覚書,同日付確認メモ及び平成9年3月25日付確認書に関する掲載部分を参照した。
② 公益財団法人交通事故紛争処理センター「2025年 事業の概要」6頁(PDF6頁)。交通事故中央裁定委員会の事務所開設日,業務開始日及び財団法人化の日付を参照した。
③ 金融庁「第123回自動車損害賠償責任保険審議会議事録」(平成19年1月17日)。示談代行導入時の被害者保護と交通事故裁定委員会の発足経緯に関する説明を参照した。
④ 公益財団法人日弁連交通事故相談センター「日弁連交通事故相談センターについて」及び公益財団法人交通事故紛争処理センター「センターの設立の趣旨と沿革」。両法人の設立経緯及び現在の業務を参照した。
⑤ 一般社団法人日本損害保険協会「示談交渉サービスは,どのようなことをしてもらえるのですか。」。現在の示談交渉サービスの内容及び利用できない場合を参照した。
2 法令,判例及び論文
② 片山郁夫「戦後の損害保険産業にみる非連続な変化への対応と戦略行動―大衆保険化,特に自動車保険と企業間競争―」(法政大学博士学位論文,令和3年)144頁~145頁(PDF154頁~155頁)。
③ 吉澤卓哉「直接請求権のない賠償責任保険の示談代行と弁護士法72条」損害保険研究79巻2号(平成29年)1頁~63頁。
④ 最高裁判所大法廷昭和46年7月14日判決(昭和44年(あ)第1124号・弁護士法違反,刑集25巻5号690頁)。
⑤ 最高裁判所第三小法廷平成14年1月22日判決(平成12年(受)第828号・預託金返還請求事件,民集56巻1号123頁)。
⑥ 最高裁判所第三小法廷平成24年2月6日決定(平成22年(あ)第787号・債権管理回収業に関する特別措置法違反被告事件,刑集66巻4号85頁)。
3 書籍
① 山下典孝編『スタンダード商法Ⅲ 保険法〔第2版〕』(法律文化社,令和7年)177頁~179頁。
② 山下友信『保険法〔第4版〕』(有斐閣,令和元年)225頁。
③ 山下友信『保険法(下)』(有斐閣,令和4年)155頁~159頁。
④ 小野裕樹『被害者側弁護士のための交通賠償法実務』(日本評論社,令和7年)442頁。