第1 事件記録の紛失を理由とする分限決定
1 公表資料から確認できた5件
裁判官が事件記録を紛失し,又は事件記録の盗難に遭ったことを理由として戒告された分限決定として,公表資料から次の5件を確認できる。
5件はいずれも高等裁判所の決定であり,過料ではなく戒告を選択している。
| 番号 | 紛失等の日 | 分限決定 | 記録 | 紛失等から決定まで | 結論 |
|---|---|---|---|---|---|
| ① | 昭和55年5月23日 | 大阪高裁昭和55年7月17日決定 | 民事事件記録2冊 | 55日 | 戒告 |
| ② | 昭和58年1月27日 | 大阪高裁昭和58年3月11日決定 | 民事事件記録3冊 | 43日 | 戒告 |
| ③ | 昭和58年9月30日 | 東京高裁昭和58年12月6日決定 | 仮処分事件記録2冊 | 67日 | 戒告 |
| ④ | 平成5年1月14日 | 東京高裁平成5年3月5日決定 | 事件記録4冊 | 50日 | 戒告 |
| ⑤ | 平成12年8月22日 | 東京高裁平成12年12月7日決定 | 少年事件記録1冊 | 107日 | 戒告 |
表の日数は,紛失等の日から決定日までの暦日差を本記事で計算したものである。
最短は43日,最長は107日であり,5件はいずれも紛失等から5か月以内に決定された。
もっとも,最高裁判所は,分限事件の対象裁判官,件数,事案及び結果を網羅した一覧表を作成又は保有していないと説明している。
また,本記事の調査では5件の年月日と事案を官報公示に基づく複数の資料で照合したが,昭和55年から平成12年までの官報原紙面をインターネット上で直接確認することはできなかった。
したがって,本記事は5件を「すべての記録紛失事案」とは断定せず,公表資料から確認できた5件として掲載する。
2 5件の事案
(1) 大阪高裁昭和55年7月17日決定
裁判官は,昭和55年5月23日,民事事件記録2冊を黒鞄に入れて持ち出し,飲酒後に電車で甲子園駅まで移動してから翌未明に宿舎へ戻るまでの間に,鞄ごと記録を紛失した。
記録は発見されず,大阪高裁は同年7月17日に裁判官を戒告した。
(2) 大阪高裁昭和58年3月11日決定
裁判官は,昭和58年1月27日,民事事件記録3冊を駐車中の自動車内に置いたままゴルフ練習場で練習し,その間に記録を盗まれた。
記録は発見されず,大阪高裁は同年3月11日に裁判官を戒告した。
(3) 東京高裁昭和58年12月6日決定
裁判官は,昭和58年9月30日,仮処分事件記録2冊を鞄に入れて持ち出し,帰宅途中に飲酒して深く酔った後,鞄ごと記録を紛失した。
記録は発見されず,東京高裁は同年12月6日に裁判官を戒告した。
(4) 東京高裁平成5年3月5日決定
裁判官は,平成5年1月14日,電車内で眠った後,事件記録4冊を紛失した。
東京高裁は同年3月5日に裁判官を戒告した。
(5) 東京高裁平成12年12月7日決定
裁判官は,平成12年8月22日,電車内で眠った後,少年事件記録1冊を紛失した。
記録は発見されず,東京高裁は同年12月7日に裁判官を戒告した。
第2 記録紛失と裁判官の懲戒
1 懲戒事由と処分
裁判所法49条は,裁判官が職務上の義務に違反し,職務を怠り,又は品位を辱める行状があったときは,別の法律で定めるところにより,裁判によって懲戒されると定めている。
事件記録の紛失は,持出しの必要性,保管状況,紛失に至った経緯及び事後対応等の具体的事情に応じて,職務上の義務違反又は職務怠慢となり得る。
裁判官分限法2条が定める懲戒は,戒告又は1万円以下の過料である。
これは裁判官の身分を失わせる弾劾裁判とは異なり,上記5件はいずれも戒告にとどまる。
2 管轄,申立て及び審理
裁判官分限法3条及び4条によれば,地方裁判所,家庭裁判所及び簡易裁判所の裁判官に対する分限事件は各高等裁判所が5人の合議体で扱う。
最高裁判所又は高等裁判所の裁判官に対する事件と,高裁決定に対する抗告事件は,最高裁判所が大法廷で扱う。
同法6条により,分限事件は,当該裁判官に監督権を行う裁判所の申立てによって開始する。
同法7条により,裁判所は,懲戒原因となる事実と証拠によりこれを認めた理由を示し,裁判前に当該裁判官の陳述を聴かなければならない。
裁判官の分限事件手続規則1条は書面による申立てを定め,同規則6条は高裁の終局裁判に対する即時抗告期間を2週間と定めている。
同規則7条により準用される非訟事件手続法30条は,非訟事件の手続を原則として公開しないと定めている。
3 確定決定の官報公示
裁判官の分限事件手続規則9条は,分限事件の裁判が確定したとき,裁判所が決定全文を官報に掲載して公示するものと定めている。
したがって,「分限裁判があったか」を検討するときは,監督裁判所による申立て,審理,決定,確定及び官報公示を区別する必要がある。
最高裁判所令和元年度(最情)答申第24号によれば,最高裁判所は分限事件の網羅的な一覧表を保有せず,報道機関へ件数を回答するときも官報掲載分を集計している。
このため,特定期間の確定決定を厳密に網羅するには,その期間の官報を通覧する必要がある。
第3 伊藤達也裁判官の記録紛失
1 平成30年の紛失
伊藤達也裁判官は,平成30年9月29日,飲酒後に利用したタクシーのトランクに,担当する民事事件の記録2冊と書類の写しが入ったキャリーケースを置き忘れたと報じられた。
記録等には当事者の氏名及び住所が記載されており,名古屋地裁は同年10月4日に当事者へ謝罪したとされる。
2 情報公開答申で確認できる範囲
最高裁判所令和元年度(情)答申第16号は,「特定の裁判官が事件記録を紛失したことに関する文書」を実際に見分し,その全部を不開示とした判断を妥当とした。
同答申によれば,対象文書には紛失に関する調査内容と報道対応の内容が記録されている。
同答申は,事件記録が極めて重要で裁判官の職務と密接に関係し,紛失に関する情報が裁判所内部の人事上の措置を検討する材料となる可能性が高いと説明している。
もっとも,同答申は,分限事件の申立ての有無,分限決定の有無又は具体的な人事上の措置を明らかにしていない。
3 分限事件の有無についての確認結果
令和8年8月26日までに公表された裁判所資料,官報公示を基礎とする年代別資料,専門書及び報道を調査したが,伊藤達也裁判官の記録紛失を理由とする分限事件の申立て又は確定決定は確認できなかった。
ただし,公開資料から確認できなかったことだけを理由として,申立て又は人事上の措置がなかったと断定することはできない。
また,その後も裁判官として勤務していることは,戒告の有無を判断する根拠にはならない。
戒告は裁判官の身分を失わせる処分ではないからである。
第4 事件記録の庁外持出しと管理
1 平成28年当時の岡山地裁の説明
第36回岡山地方裁判所委員会議事概要には,平成28年当時,裁判官が事件記録を自宅へ持ち帰る場合には事前申請をし,裁判所が持出し対象を管理しているとの裁判所側の説明がある。
同議事概要には,庁外で裁判情報を扱う場合に申請と許可が必要であること,セキュリティ機能付きUSBを使用すること及び紙の記録を持ち帰る日は飲酒や寄り道を避けるよう注意していることも記載されている。
もっとも,これは平成28年当時の岡山地裁における説明であり,令和8年現在の全国共通の規程又は運用を示すものではない。
裁判官経験者による実務資料にも記録持出し時の貸出手続が記載されているが,個々の経験に基づく説明と現行の全国共通規程とは区別する必要がある。
事件記録には,当事者及び関係者の氏名,住所,紛争内容その他の非公開情報が含まれることがある。
このため,記録紛失は物品管理上の過失にとどまらず,関係者の情報保護と裁判に対する信頼にも関わる。
2 記録紛失と保存・廃棄問題の違い
本記事が扱うのは,裁判官が持ち出した事件記録を移動中等に紛失したことを理由とする懲戒の問題である。
これに対し,終局した事件記録を裁判所が組織として保存し,又は廃棄する問題は,管理場面と法的評価が異なる。
第5 関連記事
①伊藤達也裁判官の記録紛失に関する文書の不開示答申
②分限裁判及び罷免判決の実例
③記録紛失以外の分限裁判に関する最高裁大法廷決定
司法修習生が扱う情報の管理については,司法修習生の情報セキュリティ対策を参照されたい。
第6 出典・参考資料
1 法令・規則
①e-Gov法令検索「裁判所法」49条
②e-Gov法令検索「裁判官分限法」2条~8条
③e-Gov法令検索「非訟事件手続法」30条
④最高裁判所「裁判官の分限事件手続規則」1頁~2頁(PDF1頁~2頁)
2 公的資料
①最高裁判所「令和元年度(最情)答申第24号」令和元年7月19日,1頁~4頁(PDF1頁~4頁)
②最高裁判所「令和元年度(情)答申第16号」令和元年11月15日,1頁~4頁(PDF1頁~4頁)
③岡山地方裁判所「第36回岡山地方裁判所委員会議事概要」平成28年6月6日,11頁~14頁(PDF11頁~14頁)
④国立国会図書館サーチ「官報」
3 裁判例・決定資料及び報道
①大阪高裁昭和55年7月17日決定,大阪高裁昭和58年3月11日決定,東京高裁昭和58年12月6日決定,東京高裁平成5年3月5日決定及び東京高裁平成12年12月7日決定(いずれも事件番号不明,官報掲載とされる決定資料により確認,裁判所HP未掲載)
②山中法律事務所「分限裁判及び罷免判決の実例」
③CALL4掲載の裁判官分限事件に関する当事者提出書面12頁
④日本経済新聞「裁判記録,タクシーに置き忘れ紛失 名古屋地裁の裁判官」平成30年10月5日
4 文献
①渡辺康行『憲法裁判の法理』岩波書店,2022年,203頁~234頁
②岡口基一・中村真『裁判官!当職そこが知りたかったのです。』学陽書房,2017年,129頁~130頁
③植野妙実子『基本に学ぶ憲法』日本評論社,2019年,350頁