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労災保険又は障害年金を支給される可能性がある事案における示談(AIリライト)

第1 最初に区別すべき制度と示談実務の結論

1 「公的給付とは別に支払う」だけでは足りない

交通事故,職場内の暴行,ハラスメントその他の労働災害について示談をする場合,労災保険本体の給付,労災特別支給金,障害基礎・障害厚生年金,健康保険及び自賠責保険を区別する必要がある。
これらは,給付主体,法定代位の根拠,損害賠償との調整方法及び調整期間が異なる制度だからである。

示談書に「公的給付とは別に解決金を支払う」とだけ記載しても,法令に基づく支給調整まで排除できるものではない。
示談書,損害計算書,交渉申入書及び回答書を通じて,示談金がどの損害を填補し,既払の公的給付をどこに充当し,将来の給付請求権及び国等の求償権をどのように扱うかを一致させる必要がある。

後遺障害の有無・程度又は公的給付の支給内容が未確定であるときは,全部示談を急がず,既に確定した損害だけを対象とする一部示談又は後遺障害を明示的に留保する示談を検討するのが原則である。

2 第三者行為災害と事業主責任災害を分ける

第三者行為災害とは,通勤中の交通事故,第三者による暴行等,労災保険関係の外部にいる者の行為によって生じた労働災害をいう。
この場合は,労働者災害補償保険法12条の4に基づき,労災保険給付をした政府の法定代位と,被災労働者が先に受けた損害賠償による保険給付の控除が問題となる。

これに対し,使用者が安全配慮義務違反,不法行為又は使用者責任等に基づく損害賠償責任を負う事業主責任災害では,労働基準法84条及び労働者災害補償保険法附則64条による調整が中心となる。

同僚の暴行又はハラスメントでは,行為者との第三者行為災害と,使用者との事業主責任災害が併存することがある。
誰との示談か,どの法的責任を解決するのか,使用者と行為者の債務の関係をどう処理するのかを分けて検討しなければならない。

3 給付ごとに損害との対応関係を確定する

示談の前提となる基本的な対応関係は,次のとおりである。

  • ① 療養(補償)等給付は治療費,休業(補償)等給付は休業損害,障害(補償)等給付は後遺障害逸失利益,遺族(補償)等給付は死亡逸失利益,葬祭料等は葬儀費用との間で調整を検討する。
  • ② 休業特別支給金,障害特別支給金,障害特別年金,遺族特別支給金及び遺族特別年金等は福祉的給付であり,損害を填補する労災保険本体の給付と合算しない。
  • ③ 障害基礎年金及び障害厚生年金は,第三者から受けた損害賠償中の生活補償費相当額を基礎として,労災保険とは別に支給停止が行われることがある。
  • ④ 健康保険,高額療養費等の保険給付では,医療費について健康保険者が取得する求償権を害しないようにする。
  • ⑤ 慰謝料及び物損は,労災保険本体の給付と同じ性質の損害ではない。

これらは法的性質に基づく区分である。
示談金の名目だけを実態に反して慰謝料,退職金又は見舞金等へ付け替えても,給付調整を回避できるものではない。

第2 第三者行為災害における示談

1 政府の代位と保険給付の控除

労働者災害補償保険法12条の4第1項は,第三者の行為によって事故が生じ,政府が保険給付をした場合,給付価額の限度で被災労働者の第三者に対する損害賠償請求権を政府が取得する旨を定めている。

同条2項は,被災労働者が同一の事由について第三者から損害賠償を受けた場合,政府がその価額の限度で保険給付をしないことができる旨を定めている。

政府が取得するのは,給付と同じ性質を持つ損害について,被災労働者が責任を負う第三者に対して有していた権利である。
したがって,政府の請求先は常に損害保険会社であるとは限らず,求償額を単純に「被災者の過失割合に応じた額」と説明することも正確ではない。

第三者行為災害では,示談前に所轄労働基準監督署へ連絡し,第三者行為災害届,念書,交通事故証明書,示談書及び損害計算書等の提出方法を確認すべきである。
制度の概要と届出書式は,東京労働局「第三者行為災害」に掲載されている。
求償・控除の行政実務の詳細については,「第三者行為災害事務取扱手引(本文)(平成30年4月)」も参照されたい。

2 真正な全部示談が労災保険給付に及ぼす影響

最高裁昭和38年6月4日第三小法廷判決・昭和37年(オ)第711号・民集17巻5号716頁は,被災労働者が第三者の損害賠償債務を免除して損害賠償請求権を失わせた限度で,政府も労災保険給付義務を免れ得るとした。
同判決は,同時に,その免除が被災労働者の真意によるかを厳格に認定すべきであるとした。

厚生労働省の第三者行為災害実務では,示談が真正に成立し,かつ,労災保険給付と同一の事由に基づく損害賠償請求権の全部の填補を目的とする場合を「真正な全部示談」として扱っている。
真正な全部示談により,被災労働者が政府へ移転する損害賠償請求権を失わせると,その後の労災保険給付が行われないことがある。

大阪地方裁判所平成22年10月22日判決・平成21年(行ウ)第110号・LLI/DB判例秘書L06551204(裁判所HP未掲載)は,損害賠償判決で認容された1531万2909円及び遅延損害金について,加害者が250万円を支払えば残債務を免除し,ほかに債権債務がないとする合意を真正な全部示談と評価した。
同判決は,労災保険給付を除外する文言がなく,加害者が政府から求償を受けることを容認した事情もないこと等から,被災労働者が損害賠償請求権の全部を失わせたとして,休業給付の不支給処分を適法とした。
また,被災労働者が示談後も休業給付を受けられると考えていたとしても,労災保険法に関する判断の誤りにすぎず,示談の効力又は対象範囲を左右しないとした。

同判決は,事故当時の通達運用に基づき,休業特別支給金は損害填補を目的としない別制度であり,災害発生後3年を経過した分の障害年金を支給しても,休業給付の不支給と矛盾しないとした。
もっとも,平成25年3月29日基発0329第11号「第三者行為災害における控除期間の見直しについて」により,平成25年4月1日以後に発生した災害について,損害賠償先行時の控除期間は災害発生後7年へ延長されている。
求償を行う期間は引き続き災害発生後3年が限度であり,判決が前提とした旧運用と現行運用を区別する必要がある。

これに対し,既に支払を受けた金額又は確定した損害項目だけを対象とし,労災保険給付と同じ性質の損害,政府の求償権又は後発損害を明示的に対象外とした合意であれば,全部示談とは異なる評価を受け得る。
もっとも,条項の名称ではなく,示談額,内訳,交渉経過及び当事者の合理的意思から実質的に判断される。

3 労災保険給付を期待していたという内心だけでは足りない

最高裁昭和41年6月7日第三小法廷判決・昭和38年(オ)第700号・裁判集民事83号711頁は,被災労働者が労災保険による補償を期待していた事案で,労災保険で填補されない損害だけを留保する特段の合意を認めなかった。

被災労働者又は代理人が「労災保険は示談後に支給される」と考えていたという内心だけでは,一般的な請求放棄条項又は清算条項の効力を限定できない。
示談書だけでなく,損害計算書及び交渉書面にも,何を示談対象とし,何を留保するかを客観的に残す必要がある。

4 示談後に予想外の後遺障害が判明した場合

最高裁昭和43年3月15日第二小法廷判決・昭和40年(オ)第347号・民集22巻3号587頁は,全損害を正確に把握し難い時期に早急かつ少額の示談をし,その後に示談当時予想できなかった手術及び後遺障害が判明した事案で,後発損害を示談の対象外とした。

甲府地方裁判所平成17年10月12日判決・平成15年(ワ)第438号は,事故後約3週間で物損額と少額の迷惑料を前提に免責証書を作成した後に人身損害が判明した事案について,示談の効力は人身損害に及ばないとした。
同判決は,署名済み文書の撤回申出を拒むことが信義則上許されないとも判断した事例であり,個別事情に依存する下級審判決である。

これらの裁判例は,示談後の追加請求を一般的に認めるものではない。
症状固定,後遺障害の有無・程度,介護の必要性又は将来治療費が未確定である場合には,後遺障害逸失利益,介護費,慰謝料その他の後発損害を示談書で明示的に留保する方が安全である。

第3 事業主責任災害における示談

1 労災保険法12条の4とは別の調整である

使用者が安全配慮義務違反,不法行為又は使用者責任等に基づく損害賠償責任を負う場合,労働基準法84条及び労働者災害補償保険法附則64条による調整が問題となる。

労働基準法84条1項は,労災保険法等に基づいて災害補償に相当する給付が行われるべき場合,使用者を労働基準法上の補償責任から免れさせる。
同条2項は,使用者が労働基準法上の補償をした場合,同一の事由について,その価額の限度で民法上の損害賠償責任を免れると定めている。

労働者災害補償保険法附則64条は,使用者が損害賠償責任を負い,労災保険給付を受けるべき労働者等に損害賠償を行う場合について,年金給付等との調整を定めている。
これは,外部の第三者に対する政府の代位を定める同法12条の4とは別の制度である。

2 損害賠償を労災保険の上積みとする合意

厚生労働省の「労災保険法第64条第2項(現附則64条)による調整について」は,示談の趣旨が労災保険給付に加えて損害賠償を行うことにあると明確に認められる場合,その損害賠償を理由とする支給調整を行わない取扱いを示している。

したがって,使用者との示談で労災保険給付に対する上積み補償を意図する場合は,その旨を示談書に明記し,労災保険給付見込額を含む損害計算書を添付する必要がある。
もっとも,使用者が支払う金額の実質が休業損害又は逸失利益そのものであるのに,名目だけを上積み補償とすることはできない。

3 示談書の文言だけでなく交渉経過も審査される

労働保険審査会平成27年労第581号・平成28年11月9日裁決は,同僚の暴行を原因とする事案について,示談書の解決金の内訳が明らかでなかったものの,会社都合退職の確認条項,示談前の労災申請への協力要求及び交渉経過等を考慮し,休業補償給付相当分を含むとは認定できないとして,不支給処分等を取り消した。

これに対し,労働保険審査会平成30年労第94号・平成30年11月9日裁決は,セクシュアルハラスメントによる疾病の事案で,労働審判申立書に逸失利益,慰謝料及び弁護士費用を掲げ,労働審判手続で解決金,慰謝料及び清算条項を含む調停を成立させた経過を重視し,休業補償給付相当分を含む解決であると判断した。

事業主責任災害では,示談書の一文だけでなく,請求の法的構成,請求項目,提示額の計算,説明内容,示談時期及び交渉経過が一体として審査される。

第4 労災保険給付と損害項目との対応

1 同じ性質を持ち相互に補完する損害だけを調整する

労災保険給付を損害賠償額から控除し,又は損害賠償を理由に労災保険給付を調整するためには,給付と損害との間に同質性及び相互補完性が必要である。

最高裁昭和41年12月1日第一小法廷判決・昭和38年(オ)第1035号・民集20巻10号2017頁は,労災補償と慰謝料とが異なる性質のものであることを示した。

最高裁昭和58年4月19日第三小法廷判決・昭和55年(オ)第82号・民集37巻3号321頁は,障害補償一時金及び休業補償給付を慰謝料から控除することを否定した。

最高裁昭和62年7月10日第二小法廷判決・昭和58年(オ)第128号・民集41巻5号1202頁は,休業補償給付,傷病補償年金及び厚生年金保険の障害年金を消極損害から控除する一方,入院雑費,付添看護費及び慰謝料からの控除を否定した。

示談実務では,少なくとも次の対応を損害計算書に記載する必要がある。

  • ① 療養(補償)等給付は,治療費等の積極損害に対応させる。
  • ② 休業(補償)等給付は,休業損害等の消極損害に対応させる。
  • ③ 障害(補償)等給付は,後遺障害逸失利益等の消極損害に対応させる。
  • ④ 遺族(補償)等給付は,死亡逸失利益等の消極損害に対応させる。
  • ⑤ 葬祭料等は,葬儀費用に対応させる。
  • ⑥ 慰謝料,物損及び給付と性質の異なる費目からは控除しない。

2 労災特別支給金は損害額から控除しない

最高裁平成8年2月23日第二小法廷判決・平成6年(オ)第992号・民集50巻2号249頁は,労災特別支給金は被災労働者の福祉の増進を目的とし,損害を填補する性質を有しないとして,損益相殺の対象外とした。

名古屋地方裁判所平成14年2月27日判決・平成13年(ワ)第2732号も,労災特別支給金を損益相殺の対象外とし,療養(補償)給付は治療費について過失相殺後の損害に充当されるとした事例である。

労働保険審査会平成28年労第43号・平成28年11月11日裁決も,真正な全部示談を理由に休業補償給付を認めなかった一方,休業特別支給金は別に支給した。

休業補償給付と休業特別支給金を一括して「労災金」と表示し,その全額を休業損害から控除してはならない。

3 将来の未確定給付を先に控除しない

最高裁昭和52年5月27日第三小法廷判決・昭和50年(オ)第431号・民集31巻3号427頁及び最高裁昭和52年10月25日第三小法廷判決・昭和50年(オ)第621号・民集31巻6号836頁は,現実に給付されていない将来の労災保険給付を損害賠償額から当然に控除することを否定した。

最高裁平成5年3月24日大法廷判決・昭和63年(オ)第1749号・民集47巻4号3039頁は,損益相殺的調整について,原則として,事実審の口頭弁論終結時までに支給を受け,又は支給を受けることが確定した範囲で行うとの枠組みを示した。

最高裁平成11年10月22日第二小法廷判決・平成9年(オ)第434号・民集53巻7号1211頁及び最高裁平成16年12月20日第二小法廷判決・平成16年(受)第525号・裁判集民事215号987頁も,公的年金と逸失利益との調整範囲を,受給権者及び給付の性質に即して判断している。

支給の可能性があるというだけの労災保険給付又は障害年金を,将来損害から全額控除することはできない。
既払額,支給決定済みの額,受給権及び支給額が確定した額並びに単なる将来見込額を分けて記載する必要がある。

4 過失相殺と給付控除の順序

最高裁平成元年4月11日第三小法廷判決・昭和63年(オ)第462号・民集43巻4号209頁は,第三者行為災害の労災保険給付について,過失相殺後の損害額から給付額を控除することを示した。

最高裁平成22年9月13日第一小法廷判決・平成20年(受)第494号・民集64巻6号1626頁及び最高裁平成22年10月15日第二小法廷判決・平成21年(受)第1932号・裁判集民事235号65頁は,社会保険給付による填補を,給付と同じ性質を持ち相互に補完する損害の元本に充当する枠組みを示した。

最高裁平成27年3月4日大法廷判決・平成24年(受)第1478号・民集69巻2号178頁は,遺族補償年金について,被扶養利益の喪失による損害の元本に充当することを原則としつつ,年金支給が著しく遅滞した場合に遅延損害金へ充当する余地を示した。

示談計算では,①損害項目ごとの損害額,②過失相殺,③同じ性質の既払給付の控除,④既払金の充当時期及び⑤遅延損害金を順に示し,計算過程を再現できるようにする必要がある。

第5 障害基礎年金及び障害厚生年金

1 労災保険とは別の法定調整である

第三者行為によって障害基礎年金又は障害厚生年金の受給権が発生し,受給権者が損害賠償を受けた場合,国民年金法22条又は厚生年金保険法40条に基づく代位及び支給調整が行われる。

これらの規定は,国等が年金給付をしたときに給付価額の限度で受給権者の損害賠償請求権を取得し,受給権者が同一の事由について損害賠償を受けたときに,その価額の限度で給付をしないことができると定めている。

したがって,労災保険について留保条項を置いたことだけでは,障害年金の支給調整に対応したことにならない。

2 支給停止は最大36月である

厚生労働省の年管管発0930第6号「厚生年金保険法及び国民年金法に基づく給付と損害賠償額との調整の取扱いについて」は,第三者から受領した損害賠償金中の生活補償費相当額を基礎として不支給月数を算定し,36月以上となる場合は36月とする。

事故発生から受給権発生までに経過した月数を控除する場合があるため,常に受給権発生後36月間にわたり停止されるわけではない。
また,支給停止月数は,受領した損害賠償総額そのものではなく,通知に従って算定した生活補償費相当額と年金額を基礎に計算される。

3 損害項目の内訳が不明な示談は不利になり得る

示談書等で逸失利益部分が明確である場合は,その額が生活補償費相当額の基礎となる。

逸失利益部分が明確でない場合,年管管発0930第6号は,次の①と②のうち低い額を生活補償費相当額とする取扱いを定めている。

  • ① 損害賠償総額から,慰謝料並びに葬祭料,医療費,緊急経費及び雑損失の実支出額を控除した額
  • ② 損害賠償総額から,葬祭料,医療費,緊急経費及び雑損失の実支出額を控除した額の3分の2

「障害年金とは別に解決金を支払う」とだけ記載し,損害項目別の内訳を残さない場合,通知所定の算式による調整を受ける可能性がある。
慰謝料又は実支出額は,金額の合理性及び裏付資料を含めて明確にする必要がある。

4 年金を控除して損害賠償額を算定した場合

年管管発0930第6号は,示談書,損害計算書等により,受給すべき年金額を控除して損害賠償額を算定したことが確認できる場合,年金給付との調整をせず,年金保険者が加害者に求償する取扱いを定めている。

この取扱いを用いるには,どの年金の,どの期間の,いくらの額を,どの損害項目から控除したかを資料上再現できなければならない。
受給の可能性があるだけで支給額も受給権も確定していない将来年金を,自由に将来損害から控除してよいという意味ではない。

損害賠償より先に年金を受領し,後から同一事由の損害賠償金を受領した場合は,既払年金について返還又は内払調整が行われることがある。

5 年金請求時に提出する資料

日本年金機構「障害厚生年金を受けられるとき」は,第三者行為による障害年金請求について,第三者行為事故状況届,事故証明書,確認書,損害賠償金の算定書,示談書等及び保険会社照会の同意書等を提出書類として掲げている。

年金事務所は,示談書だけでなく損害賠償金の算定資料を確認する。
示談前に年金事務所へ示談案及び損害計算書を示して取扱いを照会し,照会日,担当部署及び回答内容を記録するのが安全である。

第6 健康保険,高額療養費及び自賠責保険

1 健康保険者も損害賠償請求権を取得する

健康保険法57条及び国民健康保険法64条は,第三者行為による傷病について保険給付をした保険者が,給付価額の限度で被保険者の第三者に対する損害賠償請求権を取得する旨を定めている。

被保険者が同一の事由について損害賠償を受けた場合,保険者はその価額の限度で保険給付責任を免れる。
最高裁昭和42年10月31日第三小法廷判決・昭和41年(オ)第425号・裁判集民事88号869頁は,国民健康保険の保険者が保険給付をした時に,給付価額の限度で損害賠償請求権を取得するとした。

高額療養費等の支給可能性がある場合,「高額療養費とは別に支払う」と加筆するだけでは足りない。
第三者行為の届出を行い,医療費総額,本人負担分,保険者負担分及び高額療養費を区分し,健康保険者が取得した求償権を処分しない内容にする必要がある。

2 自賠責保険の被害者請求と国の求償が競合する場合

自動車損害賠償保障法16条は,被害者が自賠責保険会社に対して損害賠償額を直接請求できる制度を定めている。

最高裁平成20年2月19日第三小法廷判決・平成18年(受)第1994号・民集62巻2号534頁は,老人保健法による医療給付後の未填補損害について,被害者が保険者に優先して自賠責保険金額の限度で直接請求できるとした。

最高裁平成30年9月27日第一小法廷判決・平成29年(受)第659号・民集72巻4号432頁は,労災保険給付の場合にも,被害者の未填補損害に係る直接請求権が国の代位取得した直接請求権に優先するとした。

もっとも,最高裁令和4年7月14日第一小法廷判決・令和3年(受)第1473号・民集76巻5号1205頁は,この被害者優先は被害者と国との相対的な優先関係であり,自賠責保険会社が国の請求に応じて国へした支払は有効な弁済になるとした。
被害者が優先すべき額を国が受領した場合の不当利得返還は,別の法律関係となる。

自賠責保険金の限度額が問題となる事案では,加害者との示談だけでなく,被害者請求,任意保険会社の一括対応,国の求償及び既払額の時系列を確認する必要がある。
任意保険会社の示談代行の可否は別の問題であり,「交通事故において損害保険会社の示談代行がない場合」で整理している。

3 政府保障事業に関する判例は射程が限られる

最高裁平成21年12月17日第一小法廷判決・平成20年(受)第1192号・民集63巻10号2566頁は,自賠法上の政府保障事業によるてん補額の算定という限定された場面で,将来の障害年金給付分を含めて控除できるとした。

政府保障事業は,被害者の未填補損害全額を賠償する通常の不法行為制度とは異なる。
この判例を根拠として,通常の加害者に対する損害賠償額から将来の未確定年金を一般的に控除することはできない。

第7 示談前の確認事項と条項例

1 損害計算書を示談書の別紙にする

示談書には,次の事項を記載した損害計算書を別紙として添付すべきである。

  • ① 治療費,付添費,通院交通費,休業損害,後遺障害逸失利益,慰謝料,物損,弁護士費用その他の損害項目別金額
  • ② 過失相殺前の損害額,過失割合及び過失相殺後の損害額
  • ③ 自賠責保険,任意保険,労災保険本体,労災特別支給金,障害年金及び健康保険等の既払金
  • ④ 各既払金を充当した損害項目及び充当日
  • ⑤ 解決金が填補する損害と填補しない損害
  • ⑥ 支給決定済み,請求中,将来申請予定及び不明の各公的給付

示談書の抽象的な留保条項と,別紙損害計算書の具体的な計算とが一致して初めて,示談対象を客観的に説明できる。

2 署名前に行う15項目の確認

  • ① 事故が第三者行為災害,事業主責任災害又は両者併存のいずれかを特定する。
  • ② 示談当事者,責任原因及び他に責任を負う者の有無を特定する。
  • ③ 労災保険本体,特別支給金,障害年金,健康保険及び自賠責保険を別々に一覧化する。
  • ④ 各給付を既払,支給決定済み,請求中,将来申請予定又は不明に分類する。
  • ⑤ 症状固定,後遺障害等級及び将来介護の必要性が確定しているかを確認する。
  • ⑥ 損害を項目別に計算し,過失相殺前後の金額を明記する。
  • ⑦ 労災既払金が示談書の「既払金」に含まれるかを明記する。
  • ⑧ 労災保険本体と労災特別支給金を合算しない。
  • ⑨ 障害年金の受給権及び支給額が確定しているか,単なる可能性にとどまるかを確認する。
  • ⑩ 年金額を損害額から控除する場合,控除する期間,金額及び損害項目を明記する。
  • ⑪ 労働基準監督署,年金事務所及び健康保険者に示談案を提示し,回答を記録する。
  • ⑫ 交渉申入書,回答書,損害計算書及び示談書の用語と金額を一致させる。
  • ⑬ 後遺障害が未確定であれば,後遺障害及びこれに関連する損害を明示的に留保する。
  • ⑭ 清算条項から,公的給付請求権,国等に移転した求償権及び留保した後発損害を除外する。
  • ⑮ 示談後に提出する第三者行為災害届,年金関係書類及び健康保険関係書類との矛盾がないかを確認する。

3 労災保険給付等に関する条項例

次の条項例は,事案ごとの損害計算書を前提とする補助条項である。
条項を挿入するだけで,労災保険給付,障害年金又は健康保険給付の維持が保証されるものではなく,法定の支給調整を排除するものでもない。

(1) 損害項目別の確認

条項例
甲及び乙は,本件事故による損害及び既払金の内訳が別紙損害計算書記載のとおりであり,本件解決金が同計算書の「解決金の充当対象」欄記載の損害を填補するものであることを確認する。

(2) 労災保険給付等の留保

条項例
本合意は,甲が労働者災害補償保険法に基づいて国に対して有する保険給付及び特別支給金の各請求権を放棄するものではなく,また,国が法定代位により取得し,又は将来取得する第三者に対する権利を処分するものではない。

使用者との示談を労災保険給付に対する上積み補償とする場合は,その趣旨と算定過程を別途明記する必要がある。

(3) 障害年金

条項例
甲及び乙は,別紙損害計算書において,既に支給を受け,又は受給権及び支給額が確定した公的年金を控除したか否か及びその額を確認する。本合意は,甲の国民年金法又は厚生年金保険法に基づく給付請求権を放棄する趣旨ではない。

この条項を置いても,同一事由の損害賠償を受領した事実に基づく法定の年金支給停止は排除できない。

(4) 後遺障害の留保

条項例
本件示談時に症状固定又は後遺障害の有無・程度が確定していないため,将来判明する後遺障害及びこれに起因する逸失利益,介護費,慰謝料その他の損害は本合意の対象外とする。

(5) 清算条項

条項例
甲及び乙は,本合意に明示した留保事項,法令により国その他の保険者に移転した権利及び別紙損害計算書で対象外とした損害を除き,本件事故に関して相互に債権債務がないことを確認する。

示談の安全性を決めるのは,清算条項の長さではない。
損害項目,給付項目,時期及び金額を対応させ,第三者が資料を読んでも同じ計算を再現できることが重要である。

第8 関連する裁判例及び労働保険審査会裁決

本記事の各論点に直接関係し,裁判所ウェブサイトで原文を確認できた裁判例及び厚生労働省が公表する関連裁決は,次のとおりである。

1 示談の効力に関する裁判例

2 給付の控除範囲及び時期に関する最高裁判例

3 自賠責保険の直接請求と法定代位に関する最高裁判例

4 示談後の労災保険給付に関する労働保険審査会裁決

都築民枝「民事損害賠償請求における示談(和解)と労災保険給付請求」自由と正義2023年12月号15頁~21頁が,令和5年9月1日までの公表裁決から抽出した7件について,厚生労働省公表原文を再確認した。

7件中,労災保険給付請求権の放棄を認めなかったのは,平成27年労第581号及び平成30年労第42号の2件である。
この対比からも,示談書の一文ではなく,損害内訳,既払金の扱い,交渉経過及び示談の時期が結論を分けることが分かる。

第9 出典

1 法令,行政通達及び公的機関資料

2 書籍,論文及び判例データベース

  • 都築民枝「民事損害賠償請求における示談(和解)と労災保険給付請求」自由と正義74巻12号(日本弁護士連合会,2023年)15頁~21頁
  • ② 公益財団法人日弁連交通事故相談センター東京支部編『民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準2026年版・基準編』(同支部,2026年)307頁~316頁
  • ③ 加藤新太郎・谷口園恵編『裁判官が説く民事裁判実務の重要論点[交通損害賠償編]』(第一法規,2021年)320頁~332頁,364頁~393頁
  • ④ 古川拓『労災事件救済の手引[第2版]―労災保険・損害賠償請求の実務』(青林書院,2018年)266頁~293頁,301頁~304頁
  • ⑤ 日弁連高齢者・障害者権利支援センター編『法律家のための障害年金実務ハンドブック』(民事法研究会,2018年)224頁~225頁
  • ⑥ LLI統合型法律情報システム・判例秘書INTERNET,判例番号L06551204