三淵嘉子裁判官(期前)の経歴


生年月日 T3.11.13
出身大学 明治大
叙勲 S59.5.28勲二等瑞宝章
S54.11.13 定年退官
S53.1.16 ~ S54.11.12 横浜家裁所長
S48.11.1 ~ S53.1.15 浦和家裁所長
S47.6.15 ~ S48.10.31 新潟家裁所長
S42.1.1 ~ S47.6.14 東京家裁少年部部総括(少年第4部→少年第3部)
S37.12.6 ~ S41.12.31  東京家地裁判事
S31.5.1 ~ S37.12.5 東京地裁判事
S27.12.6 ~ S31.4.30 名古屋地裁判事
S24.6.25 ~ S27.12.5 東京地裁判事補
S24.1.1 ~ S24.6.24 最高裁判所事務総局家庭局勤務の裁判所事務官
S23.1.31 ~ S23.12.31 最高裁判所事務局民事部第三課勤務の裁判所事務官
S22.6.30 ~ S23.1.30 司法省民事部嘱託
S22.6.11 第二東京弁護士会の弁護士登録取消(昭和22年7月28日の官報公告参照)
* 弁護士登録時と弁護士登録取消し時とで所属弁護士会が異なるものの,登録換えをしたことが確認できる資料が見つかりません。

(司法省民事部嘱託になるまでの経歴)
*1 女性法曹のあけぼの(平成25年4月24日付)家庭裁判所物語(平成30年9月21日付)34頁ないし43頁,明治大学HPの「三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHK連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公に決まった女子部出身の裁判官—(法曹編)」及び「第38回 明治大学中央図書館企画展示 中田正子展-明治大学が生んだ日本初の女性弁護士-」等によれば,司法省民事部嘱託になった1947年までの三淵嘉子(みぶち・よしこ)の経歴はおおよそ,以下のとおりです。
・ 1947年11月,明治女子専門学校教授に就任した。
・ 1947年10月,父親が肝硬変の悪化により死亡した。
・ 1947年6月30日,司法省民事部に嘱託として採用され,司法調査室において民法及び家事審判法の立法作業の手伝いをすることとなった。
・ 1947年3月,一人で司法省に出向いて,司法大臣官房人事課長をしていた石田和外(その後の最高裁判所長官)に裁判官採用願を提出し,坂野千里東京控訴院長に引き合わせてもらった。
・ 1947年1月,母親が脳溢血で死亡した。
・ 1946年5月23日,上海から引き揚げてきた和田芳夫(当時の夫)が長崎の陸軍病院において肋膜炎で死亡した。
・ 1945年8月15日の敗戦を疎開先の福島県坂下町(現在の会津坂下町)で迎える。
・ 1945年5月,東京都港区青山にあった自宅が空襲で焼けたため,福島県坂下町に疎開した。
・ 1945年4月,空襲により明治女子専門学校の校舎が全焼した。
・ 1945年1月,和田芳夫が再び招集されて中国の上海に行ったところ,すぐに肋膜炎を発病した。
・ 1944年8月,明治女子専門学校の助教授になる。
・ 1944年6月,すぐ下の弟で武藤家の長男だった武藤一郎が載っていた輸送船が鹿児島湾の沖で沈没したために戦死した。
         同月,和田芳夫が召集されたものの,以前に肋膜炎をした傷跡があったので,召集が解除された。
・ 1944年4月,明治大学専門部女子部が明治女子専門学校に改組された。
・ 1944年2月,東京都港区麻布の笄町(こうがいちょう)にあった借家が,空襲による火事を防ぐためということで,軍の命令により引き倒された。
・ 1943年1月1日,一人だけの子供となった和田芳武が生まれた。
・ 1941年11月5日,武藤家の自宅で書生をしながら明治大学の夜学部に通っていた和田芳夫(父親の中学時代の親友のいとこ)と結婚して「和田嘉子」となる。
・ 1940年12月,東京弁護士会で弁護士登録をした(女性法曹のあけぼの(平成25年4月24日付)51頁)。
・ 1940年7月,明治大学専門部女子部法科の助手になる。
・ 1940年6月,弁護士試補考試に合格した(同年8月15日の官報15頁の「武藤嘉子」参照)。
・ 1938年11月1日,高等文官試験司法科に合格し,中田正子(昭和14年に中田吉雄(その後の,日本社会党所属の参議院議員)と結婚)及び久米愛とともに初めての女性合格者となる(同月5日の官報12頁の「武藤嘉子」参照)。
・ 1938年,明治大学法学部を卒業した。法学部の卒業式では,男女合わせて成績がトップということで,総代として卒業証書を受け取った。
・ 1935年4月,明治大学法学部へ進む。
・ 1933年4月,明治大学専門部(その後の明治大学短期大学)女子部法科に入学した。
・ 1932年3月,東京女子高等師範学校付属高等女学校を卒業した。
・ 1927年,東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学です。)付属高等女学校に入学した。
・ 1920年,父親が台湾銀行東京支店に転勤したため,東京市渋谷区に引越しをした。
・ 1916年,父親が台湾銀行ニューヨーク支店に転勤したため,香川県の丸亀にあった武藤ノブ(母親)の実家に引越しをした。
・ 1914年11月,台湾銀行に務めていた武藤貞雄(東大法学部卒)の5人兄弟の長女としてシンガポールで生まれ,シンガポールの漢字表記(新嘉波)から「嘉子」と名付けられた。


(氏名の変遷)
*2の1 出生時の氏名は「武藤嘉子」であり,1941年の結婚時から1956年8月の再婚時までの氏名は「和田嘉子」であり,1956年8月以降の氏名は「三淵嘉子」です。
    なお,最初の結婚相手である和田芳夫とは死別したのであって,離婚したわけではありません。
*2の2 1956年1月の再婚相手である三淵乾太郎裁判官(1906年12月3日~1985年8月22日)は,初代最高裁判所長官となった三淵忠彦(1880年3月3日~1950年7月14日)の次男であり,1955年7月に死別した前妻との間に一男三女がいて,1956年8月の再婚当時は最高裁判所調査官をしており,浦和地家裁所長を最後に1971年12月に定年退官しました。


(女性法曹黎明期の情報)
*3の1 日本女性法律家協会70周年のあゆみ28頁には以下の記載があります。
    女性が弁護士となる道が開け、前述の三人の女性弁護士(山中注:久米愛三淵嘉子及び中田正子)が誕生したわけです。ところが、もう一つ厚い壁が残っていました。大正一二年に施行された高等試験令による司法科試験に合格した者は、誰でも裁判官・検察官・弁護士になれるはずでした。しかし、実際には女性は弁護士にはなれても、判事・検察官にはなれませんでした。前記弁護士法とは異なり、判事・検事は成年の男子に限るなどの明文規定は存在しませんでしたが、「女性を受けつけぬ不文律が、厳然と存在していたらしい」のです。この不文律は「戦後の改革の時まで生き続け」ました。
    そして、ようやくにして昭和二四(一九四九)年、石渡満子会員が初の女性裁判官として、ついで三淵嘉子会員が第二号として任官し、門上千恵子会員が最初の女性検事となりました。(ここまで、引用はすべて『会報』No.12.p12-13)
*3の2 高等女学校の略称は「高女」であり,高女1年生が現在の中学1年生であり,高女2年生が現在の中学2年生であり,高女3年生が現在の中学3年生であり,高女4年生が現在の高校1年生であり,高女5年生が現在の高校2年生であって,昭和23年4月1日付で高等女学校が廃止された際,高女卒業生は新制高校3年生として編入され,高女4年修了者は新制高校2年制として編入されました(Wikipediaの「高等女学校」参照)。
*3の3 法科専攻で帝国大学に最初に入学した女性は,1929年に東北帝国大学法文学部に入学した赤羽美智子(結婚後は有賀美智子(元公正取引委員会委員))及び九州帝国大学法文学部に入学した塩川幾久(1931年に東北帝国大学に転学)でした(北海道大学HPの「1918-1945年における帝国大学大学院への女性の進学状況(二) : 法学専攻の進学者に着目して」参照)。
*3の4 明治大学法学部HP「法律学のパイオニア」に「女性法曹の育成」として以下の記載があります。
    女性法曹の育成にいち早く取り組んだのも明治大学であった。1929(昭和4)年に女子部(旧女子短期大学の前身)が創設され、ここからわが国初の女性弁護士が誕生した。今日活躍している女性法曹の重鎮のなかには明治大学の出身者がかなりの部分を占めている。法学部は、女性の社会的地位の向上と活動領域の拡大に大きく貢献してきたのである。
*3の5 Wikipediaの「明治大学」によれば,明治大学専門部女子部(法科・商科)が開校したのは1929年4月29日であり,明治大学法学部が女子部卒業生の学部入学を許可するようになったのは1932年4月でした。
*3の6 昭和11年4月1日施行の弁護士法(昭和8年5月1日法律第53号)により女性にも弁護士資格が認められるようになりましたところ,高等文官試験司法科における女性の合格者は以下のとおりでした(北海道大学HPの「1918-1945年における帝国大学大学院への女性の進学状況(二) : 法学専攻の進学者に着目して」参照)。
昭和13年:田中(結婚後は中田)正子,久米愛(既婚者)及び武藤(結婚後は和田→三淵)嘉子
昭和14年:鈴木(結婚後は西岡)光子
昭和16年:西塚静子,菅沼(結婚後は川上)キヨ
昭和18年:菅井(結婚後は見崎)俊子,福枡チエ子(結婚後は門上千恵子)
昭和20年(特別選考):村木千里,佐野頴子(結婚後は結城頴子)及び渡辺道子
*3の7 東大法学部等のニューズレター17号・1頁には以下の記載があります。
    東北帝国大学が1913年に日本の大学としてはじめて女子学生の入学を認めたことはよく知られています。これに対して東京帝国大学は、1920年に女性にも聴講生の資格を認めたものの、はやくも1928年には,正規学生が増えて受け入れる余裕がなくなったという理由で聴講生募集を停止します。結局、女性が初めて学部の正規学生として入学を認められるのは戦後の1946年であり、法学部ではその年の331名の合格者のうち4名が女性でした。
*3の8 NHK解説委員室HP「来年春の連続テレビ小説 三淵嘉子ってどんな人?」(2023年3月7日付)には以下の記載があります。
【戦争に翻弄される】
Q:三淵さんも弁護士として活躍されるわけですね。
A:いえ、弟さんの話では、弁護士としての活動は事実上1年ほどだったそうです。それは、戦争に翻弄されてしまうためです。
*3の9 三淵嘉子が語る家庭裁判所の理念-福祉の場としての裁判所-には「三淵嘉子は明治大学の卒業生である。卒業当時の姓は武藤。昭和一三年(一九三八)、久米愛、田中(後に中田)正子と共に高等文官試験司法科に合格。武藤は第四位の成績であった」と書いてあります。
*3の10 法曹百年史(昭和44年10月10日付)187頁には「昭和二十三年一月新民法施行のころ、婦人弁護士は僅か十一名に過ぎなかった。」と書いてあります。

(裁判官任官後の情報)
*4の1 日本女性法律家協会発足の第1回会合(昭和25年9月13日開催)において,期前の久米愛弁護士が初代の会長に,期前の三淵嘉子裁判官が初代の副会長に,2期の野田愛子裁判官が書記に選任されました(日本女性法律家協会70周年のあゆみ(令和2年6月10日付)32頁)。
*4の2 家庭裁判所物語(平成30年9月21日付)121頁には以下の記載があります。
    最高裁は昭和二五年五月から、三淵嘉子(山中注:当時の氏名は和田嘉子)と大阪家裁所長の稲田得三、そして北海道大学の助教授から裁判官になった佐藤昌彦を、アメリカに派遣した。家庭裁判所の制度を学ばせるためである。
    三淵の一人息子の芳武は、この時まだ七歳であった。このため三淵は芳武を弟の家族(山中注:武藤輝彦の家族)に預け、横浜港から船でアメリカに出発した。
*4の3 判例タイムズ396号(昭和54年11月15日付)の「少年審判を語る 三淵嘉子判事を囲んで 座談会 昭和54年8月4日開催」には以下の記載があります(判例タイムズ396号6頁及び7頁)。
    私、昭和三八年の三月に東京家庭裁判所少年部にまいりました。三八年という年は、家庭裁判所発足後少年事件が数の上で第二のピークにかかっていたときです。ともかく少年院も補導委託先も家庭裁判所も、たくさんの少年事件数に押しつぶされて、もうそれこそ破産状態だったと言ってもいいと思うんです。ただ、私はそういうことを知らないで家庭裁判所へきて、その当時の家庭裁判所の職員の中には、少年審判所時代から引き続いて家庭裁判所の少年審判の仕事をしていらっしゃる方がいらして、審判所時代の理念が強く家庭裁判所を支配していたように思うんです。それは少年保護ということを高く掲げていました。
*4の4 少年審判所は,大正11年(1922年)に設置された,少年の保護処分を行う行政官庁であり,少年審判官,少年保護司及び書記で構成されていました。
    昭和24年1月1日,少年審判所(法務庁の管轄でした。)及び家事審判所(昭和23年1月1日発足。最高裁の管轄でした。)が統合して家庭裁判所となりました。
*4の5 昭和27年12月6日,日本で最初の女性判事になりました。
*4の6 昭和40年10月5日,東京家裁少年部の家裁調査官に対する監督者としての職務を怠ったことにより,荒木大任東京地裁判事,4期の小谷卓男東京家裁判事及び内藤頼博東京家裁所長と一緒に戒告の懲戒処分を受けました(昭和40年10月30日の官報第11667号13頁及び14頁参照)。
*4の7 NHK解説委員室HP「来年春の連続テレビ小説 三淵嘉子ってどんな人?」(2023年3月7日付)には以下の記載があります。
【5000人の少年・少女と向き合う】
Q:裁判官としてはどのような業績がある方ですか。
A:三淵さんは特に通算で16年もの間、家庭裁判所に関わりました。彼女を知る人の中には、家庭裁判所「育ての母だ」という人もいます。
少年事件を長く担当しますが、彼女が中心になって活躍した昭和40年代の前半は社会が豊かになる一方、いったん減少した少年事件が再び増加し、戦後2回目のピークと言われた時代です。
三淵さんは、実に5000人を超える少年や少女の審判を行ったと自ら述べています。
数多くの非行少年や非行少女などを指導して、立ち直りを支援してきました。


(家裁所長就任後の情報)
*5の1 日本の裁判史を読む事典(平成16年11月25日付)62頁には「72年には三淵嘉子が新潟家裁所長に任命されたが高裁判事や地裁所長は経験しなかった。当時の裁判官は約2000人, うち女性は判事23人,判事補31人,簡裁判事1人計55人だった。」と書いてあります。
*5の2 最高裁判所とともに(平成5年5月1日付)78頁には,「同じ庁舎の半分を占める家裁の三淵嘉子所長は、人事局長のとき、最初の女性所長として新潟家裁に赴任してもらったこともあり、私の着任(山中注:昭和52年9月に高輪1期の矢口洪一裁判官が浦和地裁所長に着任したこと)を心から喜んで下さった。」と書いてあります。
*5の3 判例タイムズ526号(昭和59年7月15日付)に「家庭裁判所覚書 三淵嘉子さんを偲んで」(寄稿者は7期の糟谷忠男裁判官)には以下の記載があります。
    三淵さん(山中注:期前の三淵嘉子裁判官のこと)と労苦を共にされた方の中で特に忘れ難いのは、三淵さんと名コンビを組み、少年法改正作業の最終的な調整に当られた元家庭局長裾分一立さんである。三淵さんと裾分さんとは、その豊かな人間性とストイックな生活感情、家庭裁判所を想う心情等を共有されていたためであろうか、互に尊敬しつつ、信じ合って危機に立った家庭裁判所の土台を支えられた。その裾分さんは、その任を無事果された後、昭和五三年四月、岡山地方裁判所長に在任中急逝された。三淵さんが、他人の死について、これほど悔やんだことはないと語っておられた言葉が今も忘れられない。


(裁判官退官後の晩年の情報)
*6の1 昭和55年1月26日に第二東京弁護士会で弁護士登録をして,昭和57年5月に労働省の男女平等問題専門家会議の座長として,「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」をとりまとめました。
*6の2 昭和58年7月4日,骨からがん細胞が発見され,昭和59年4月9日,病気との戦いを記録した手帳の記載が終わり,同年5月28日午後8時16分に肺炎で死亡し(満69歳),同年6月23日に東京の青山葬儀場で行われた葬儀と告別式には2000人近くの人が三淵嘉子の別れを惜しんだ(女性法曹のあけぼの(平成25年4月24日付)116頁,121頁及び123頁)。
*6の3 家庭裁判所物語(平成30年9月21日付)232頁ないし234頁には以下の記載があります。
    三淵は昭和五四年、横浜家裁所長を最後に退官した。
    その後は東京家裁の調停委員や参与員を務め、少年友の会の理事としても忙しい毎日だったが、昭和五八(一九八三)年頃から肩や腰の痛みに悩まされるようになった。精密検査の結果、骨からがん細胞が見つかる。
    息子の芳武は、三淵のかねてからの希望を聞き入れ、検査結果を本人に告知していた。治療を続けたが、次第に、全身の激しい痛みに苦しめられるようになっていく。
(中略)
    民事一筋、刑事一筋という裁判官はたくさんいる。しかし裁判所の組織は、本人が希望しても、 家庭裁判所にキャリアの大半を捧げる人材を、求めなくなっていた。制度が変わり、わずか数年で若手裁判官が入れ替わる中で、家裁の理念を、誰にどう伝えていけば良いのか。糟谷(山中注:昭和59年の春に三淵嘉子が入院していた新宿の国際医療センター(山中注:現在の国立研究開発法人国立国際医療研究センターのこと。)を訪ねた7期の糟谷忠男裁判官)にも、分からなかった。
 三淵嘉子は、この年(山中注:昭和59年)の五月二八日に逝去した。
*6の4 国立がん研究センター希少がんセンターHP「骨の肉腫(ほねのにくしゅ)」には,「骨の肉腫について」として以下の記載があります(改行を追加しています。)。
    骨に発生するがんには他の臓器に発生したがんが骨に転移する「転移性骨腫瘍」と骨自体からがんが発生する「原発性骨悪性腫瘍」の2種類があり、後者は主に肉腫と呼ばれる腫瘍がほとんどです。
肉腫は体中のどこにでもできるがんの一種ですが、そのうち骨の肉腫は全体の約25%です。
骨軟部腫瘍登録によると、日本全体で年間500人から800人程度の骨に発生する肉腫の患者さんがいると推定され、年間40例から50例の骨発生の肉腫の新規患者さんが国立がん研究センターを受診しています(表1)。
また若年者に発生することが多いがんとしても知られております。
まさに骨に発生する肉腫は非常に数の少ない、いわゆる希少がんの代表です。

*6の5 女性法曹のあけぼの(平成25年4月24日付)117頁には和田芳武は生物学者(医学博士)と書いてありますところ,昭和41年当時,東京大学伝染病研究所(昭和42年以降の東京大学医科学研究所)寄生虫研究部に在籍していた和田芳武と同一人物であるかどうかは不明ですし,同書36頁の家系図にも同人に子孫がいたかどうかは書いてありません。
*6の6 PIKARINEに「『虎に翼』モデル三淵嘉子の子供や夫を家系図よりネタバレ」が載っています。


(連続テレビ小説の主人公のモデルとなったこと)
*7 NHKの「【会見動画】主演・伊藤沙莉! 2024年度前期 連続テレビ小説 制作決定」には以下の記載があります。
日本初の女性弁護士で後に裁判官となった一人の女性。
彼女とその仲間たちは困難な時代に道なき道を切り開き、
迷える子どもや追いつめられた女性たちを救っていく──
情熱あふれる法曹たちの物語を
極上のリーガルエンターテインメントとして贈ります。
連続テレビ小説 第110作とらつばさのモデルは、
日本初の女性弁護士 三淵みぶち嘉子よしこさん
日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ
一人の女性の実話に基づく骨太なストーリーを追いながら
事件や裁判が見事に解決されていく爽快感を一緒に味わえる
毎日次回が気になる連続テレビ小説です。
(中略)
タイトル『虎に翼』とは
中国の法家『韓非子』の言葉で、「鬼に金棒」と同じく「強い上にもさらに強さが加わる」という意味があります。五黄ごおうの寅年生まれで“トラママ”と呼ばれたというモデルの三淵嘉子さんにちなみ、主人公の名前は寅子ともこで、あだ名は“トラコ”です。
法律という翼を得て力強く羽ばたいていく寅子が、その強大な力にとまどい時には悩みながら、弱き人々のために自らの翼を正しく使えるよう、一歩ずつ成長していく姿をイメージしています。



(関連記事その他)
*8の1 amazonの「三淵嘉子」の「結果」には,三淵嘉子に関する本として,日常生活と民法(1950年)暮らしの中の法律(1962年)及び女性法律家-拡大する新時代の活動分野(1983年)が載っています。
*8の2 日本の古本屋HPに「追想のひと三淵嘉子」(1985年刊行)が載っています。
*8の3 公益財団法人 人権擁護協力会が発行している人権のひろば2021年5月号に「論説 女性法曹の誕生と三淵嘉子」と題する記事が含まれていて,同書は法務図書館においてあります(法務図書館図書情報検索システム「女性法曹の誕生と三淵嘉子」参照)。
*8の4 以下の記事も参照してください。
・ 歴代の女性最高裁判所判事一覧
・ 歴代の女性高裁長官一覧
・ 毎年6月開催の長官所長会同
・ 新任の地家裁所長等を対象とした実務協議会の資料
・ 部の事務を総括する裁判官の名簿(昭和37年度以降)
・ 女性判事及び女性判事補の人数及び割合の推移
・ 昭和51年の30期前期修習で発生した,女性司法修習生に対する司法研修所裁判教官等の差別発言問題(教官等の弁明が正しいことを前提として厳重注意で終了した事件)
・ 司法修習生の給費制,貸与制及び修習給付金
→ 判事及び検事の卵であった司法官試補には給与が支給されていたのに対し,弁護士の卵であった弁護士試補には給与が支給されていなかったものの,司法修習制度の創設に伴い弁護士の卵にも給与が支給されるようになりました。。
・ 司法官採用に関する戦前の制度

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