第1 弁護士の職務上の氏名とは何か
1 戸籍上の氏名とは別に登録される業務上の氏名であること
弁護士の「職務上の氏名」とは,戸籍上の氏名とは別に,日本弁護士連合会(日弁連)の制度に基づいて弁護士名簿に登録され,弁護士業務で使用される氏名である。単なる呼び名ではなく,弁護士会の登録及び証明の仕組みに支えられた業務上の氏名である。
もっとも,職務上の氏名を登録しても,戸籍上の氏名そのものが変わるわけではない。そのため,戸籍上の氏名による本人確認が必要な手続又は外部機関の登録制度では,職務上の氏名だけで手続が完結せず,戸籍上の氏名との併記又は同一人であることを示す資料が必要となることがある。
2 旧氏併記及び一般の通称使用との違い
職務上の氏名と,住民票,マイナンバーカード,商業登記又は不動産登記における旧氏併記とは,別の制度である。旧氏併記は,通常,現在の法的氏名と過去の氏を一緒に表示する仕組みであり,弁護士の職務上の氏名だけを表示する制度ではない。
また,勤務先又は社会生活で任意に用いられる一般の通称とも,登録主体,使用目的及び証明方法が異なる。したがって,ある書類で旧氏の併記が認められたからといって,弁護士の職務上の氏名だけで銀行取引,登記又は本人確認ができるとは限らない。
3 制度の成立
日弁連は,平成20年12月5日の臨時総会で,職務上の氏名に関する会則及び会規の整備を決議した。この制度は平成22年12月1日に施行され,弁護士名簿上,戸籍上の氏名とは別に職務上の氏名を登録する仕組みが整えられた。もっとも,登録制度が成立した後も,金融機関,裁判所,公証実務その他の外部制度との接続は継続的な課題となっている。
第2 職務上の氏名を使用できる場合
1 届出によって使用できる4類型
日弁連の現行書式及び弁護士会の記入要領によれば,次の4類型では,所定の資料を添えた届出により職務上の氏名を使用できる。
① 婚姻,離婚,養子縁組その他の事情により戸籍上の氏名に変更があった場合における変更前の氏名
② 外国籍の者について,外国人住民に係る住民票に記載された通称名
③ 戸籍上の氏名に用いられている漢字を常用漢字表に掲げる通用字体の漢字に置き換えた氏名
④ 日本国籍を取得した者について,国籍取得前の外国人住民に係る住民票に記載されていた氏名
従前の記事は主として①及び②を掲げていたが,現在の書式上は③及び④も明示されている。
2 日弁連の個別許可
前記4類型に当たらない場合でも,職務上の氏名を使用する必要性及び合理性があり,日弁連が特別に許可したときは,その氏名を使用できる。公開資料からは個別案件の詳細な許否基準までは確認できないため,具体的な許可の見通しは,所属弁護士会を通じて確認する必要がある。
3 登録後の使用
職務上の氏名を登録した弁護士は,弁護士業務では原則としてその氏名を使用する。例えば,弁護士等の業務広告では,職務上の氏名を使用する弁護士はその氏名を表示することとされている。ただし,法令上戸籍上の氏名を用いる必要がある場合その他正当な理由がある場合まで,戸籍上の氏名の使用が排除されるわけではない。
第3 職務上の氏名の利用状況
令和3年4月1日時点では,職務上の氏名を使用する弁護士は,女性3,090人及び男性460人の合計3,550人であった。当時の女性会員8,349人の約37%,男性会員34,881人の約1.3%に相当し,利用者の約87%を女性が占めていた。
この制度は性別を問わず利用できるものの,婚姻等に伴う氏の変更と職業上の継続性との調整という面では,現実に女性弁護士への影響が大きいことが分かる。なお,この数字は令和3年時点の統計であり,令和8年現在の利用者数を示すものではなく,公開一次資料ではこれより新しい男女別の利用者数を確認できなかった。
第4 職務上の氏名を使用する場面と実務上の限界
1 裁判手続及び後見事務
(1) 裁判書類における使用
職務上の氏名を登録した弁護士は,訴状,準備書面その他の裁判書類に職務上の氏名を表示して業務を行うことができる。もっとも,裁判所の内部手続,資格証明,後見登記又は関係機関の本人確認では,別途,戸籍上の氏名との対応を示す必要が生じることがある。職務上の氏名を裁判書類に表示できることと,関連する全ての公的記録がその氏名だけで作成されることとは,区別する必要がある。
(2) 東京高裁令和2年10月23日判決が示す後見実務
東京高裁令和2年10月23日判決は,職務上の氏名を使用する弁護士が成年後見人に選任された事案について,氏名表示を巡る具体的な取扱いを認定している。同判決によれば,後見人選任の審判では戸籍上の氏名と職務上の氏名が用いられた一方,後見登記事項証明書には職務上の氏名が記載されず,日弁連の弁護士名簿登録証明書等によって同一人であることを示す必要が生じた(判決書24頁~25頁)。
同判決は,職務上の氏名の使用が社会生活の全領域に及ぶものではなく,弁護士業務に関係する範囲にも制度上又は運用上の限界があることを前提としている(判決書25頁)。この判決は職務上の氏名制度の一般的な効力を正面から定めたものではないが,文書ごとに表示される氏名が異なり,同一人性を補う資料が必要となり得ることを示す実務資料として重要である。
(3) 未成年後見その他の手続
未成年後見の実務でも,審判書等に職務上の氏名が表示される一方,戸籍上の氏名が併記され,又は手続上必要な情報が別途表示されることがある。したがって,後見業務では,審判書,登記事項証明書,弁護士会の証明書及び取引先が参照する氏名を個別に確認する必要がある。
2 銀行口座
日弁連は,職務上の氏名による預金口座の開設に支障があるとして,平成24年に金融庁へ改善を要請し,その後も金融機関等との調整を続けている。令和7年度会務報告書にも,職務上の氏名制度ワーキンググループが令和8年3月まで検討を続け,金融機関等への要請及び不都合事例への対応を行ったことが記載されている(129頁~130頁)。
金融庁及び内閣府が令和4年に公表した調査では,旧氏による口座開設等に対応した金融機関の割合は,銀行68.8%,信用金庫58.3%及び信用組合12.4%であり,業態による差があった。ただし,この調査は一般の旧氏口座に関するものであり,弁護士の職務上の氏名による口座を直接調査したものではない。
また,職務上の氏名による口座開設が法令上禁止されているわけではなくても,各金融機関の本人確認,名寄せ及びシステムの運用が統一されているわけではない。そのため,口座名義,振込時の表示,キャッシュカードその他のサービスでどの氏名を使えるかは,利用予定の金融機関に個別に確認する必要がある。
3 任意後見契約,公正証書その他の契約
任意後見契約及び公正証書は,本人確認に加えて登記その他の制度との連携を伴うことがあるため,職務上の氏名だけで手続が完結しない場合がある。民間の委任契約,賃貸借契約,通信契約又はクレジットカード契約についても,相手方の本人確認基準及び情報システムによって,戸籍上の氏名との併記又は追加資料を求められることがある。
これは全ての事業者に共通する法律上の禁止を意味するものではない。重要な契約では,契約書に表示する氏名,請求書等に表示する氏名,本人確認資料の氏名及び決済口座の名義を分けて確認することが安全である。
4 業務広告及び会社役員の登記
職務上の氏名を登録した弁護士が業務広告をする場合,広告上は職務上の氏名を表示する。他方,弁護士が会社の役員に就任する場合の商業登記は,日弁連の職務上の氏名制度とは別の登記制度に従う。商業登記に旧氏を併記できる場合でも,それは現在の氏名に旧氏を併記する仕組みであり,職務上の氏名だけを登記する仕組みではない。
第5 旧氏併記制度によって改善した領域
1 商業登記
会社の役員等については,登記記録上の現在の氏名に旧氏を併記することができる。令和4年9月1日以後は,併記できる旧氏の範囲が広がり,他の登記申請を伴わない旧氏併記の申出及び併記をやめる申出も可能となった。また,登記記録に旧氏が併記されている場合には,商業登記電子証明書に旧氏を記録する仕組みもある。
これらは,弁護士が社外役員等として活動するときの氏名の連続性に役立つ。ただし,いずれも職務上の氏名だけを単独で登記又は記録する制度ではない。
2 不動産登記
令和6年4月1日以後,所有権の登記名義人について,現在の氏名に旧氏1つを併記できるようになった。この制度も現在の氏名と旧氏を結び付けるものであり,弁護士の職務上の氏名を単独で不動産登記名義にする制度ではない。
3 国家資格
内閣府男女共同参画局の調査によれば,令和7年5月31日時点で,調査対象となった332の国家資格等の全てにおいて,資格証等の旧姓使用が何らかの形で認められていた。もっとも,旧姓を単独で表示できるか,現在の氏名との併記に限られるかなど,具体的な取扱いは資格ごとに異なる。また,資格証に旧姓を表示できることと,その資格者が行う契約,登記又は銀行取引が旧姓だけで完結することも別問題である。
第6 氏及び通称使用に関する最高裁判断
1 最高裁大法廷平成27年12月16日判決
最高裁大法廷平成27年12月16日判決(平成26年(オ)第1023号,民集69巻8号2586頁)は,民法750条の夫婦同氏制を憲法に違反しないと判断した。多数意見は,婚姻に伴って氏を改める者に一定の不利益が生じ得ることを認めた上で,婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まることにより,不利益が一定程度緩和され得ると述べた。
従前の記事はこの判断を「決定」と表記していたが,正しくは「判決」である。
2 最高裁大法廷令和3年6月23日決定
最高裁大法廷令和3年6月23日決定も,民法750条及び戸籍法74条1号に関する平成27年判決の判断を変更しなかった。この決定には,通称使用の広がりによる不利益の緩和に言及する意見がある一方,法的氏名と通称を使い分ける二重の氏名管理では人格的利益の問題が解消しないとの反対意見も付されている。
3 これらの最高裁判断と職務上の氏名制度との関係
前記各最高裁判断は,弁護士の職務上の氏名制度の効力を直接判断したものではない。通称使用は不利益を緩和し得るが,法的氏名との使い分け,追加の本人確認及び外部システムとの不一致までは解消しないことを示す一般的な背景として位置付けるべきである。したがって,職務上の氏名を使用できることから,法的氏名を用いる全ての場面で同じ効果が生じると理解することはできない。
第7 令和8年現在の法制化の状況
婚姻前の氏の通称使用に法律上の効果を与える制度については,令和8年8月8日現在,成立した法律はなく,検討が続いている。衆議院に提出された「婚姻前の氏の通称使用に関する法律案」は審査未了となり,政府も,旧氏だけを表示する仕組みを含む制度の具体的内容は検討中であると答弁している。
この一般的な旧氏使用の法制化,選択的夫婦別氏制度及び弁護士の現行の職務上の氏名制度は,それぞれ別の制度問題である。今後,一般的な旧氏使用に関する法律が成立した場合でも,弁護士名簿,後見登記,銀行の本人確認その他の個別制度がどのように接続するかを改めて確認する必要がある。
第8 実務上の確認方法
職務上の氏名を使用できるかを検討するときは,「通称を使えるか」という一つの質問だけでは足りず,次の4段階に分けて確認する必要がある。
① 登録段階―日弁連への届出又は個別許可により,どの氏名が弁護士名簿に登録されているか。
② 表示段階―裁判書類,広告,契約書,登記事項証明書その他の文書に,どの氏名を表示できるか。
③ 同一人性の証明段階―戸籍上の氏名と職務上の氏名が同一人を示すことを,どの証明書又は資料で確認できるか。
④ 外部システムの受入段階―裁判所,登記所,金融機関,公証役場又は取引先のシステムが,どの氏名表記を受け入れるか。
商業登記及び不動産登記で旧氏併記が拡充されたことは②及び③の改善であるが,職務上の氏名だけで全ての手続が完結することを意味しない。重要な手続では,利用する氏名だけでなく,戸籍上の氏名との対応資料,発行される証明書の表示及び相手方システムの取扱いを事前に確認することが実務上重要である。
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第10 出典・参考資料
1 日弁連及び弁護士会の規程・資料
① 日本弁護士連合会「弁護士の職務上の氏名に関する規程」(会規第89号)
② 日本弁護士連合会「弁護士の職務上の氏名に関する規則」(規則第138号)
⑥ 日本弁護士連合会『令和7年度会務報告書』129頁~130頁
⑦ 札幌弁護士会「第一次男女共同参画・性の多様性尊重推進基本計画」(令和3年4月1日時点の職務上の氏名利用者数)
2 法令及び裁判例
⑤ 最高裁大法廷平成27年12月16日判決(平成26年(オ)第1023号,民集69巻8号2586頁,裁判所ウェブサイト)
⑥ 最高裁大法廷令和3年6月23日決定(令和2年(ク)第102号,裁判所ウェブサイト)
⑦ 東京高裁令和2年10月23日判決(令和元年(ネ)第5279号,裁判所ウェブサイト)
3 行政資料
① 金融庁「金融機関における旧姓による口座開設等の実情調査」
⑤ 内閣府男女共同参画局「国家資格等における旧姓使用の現状」
⑦ 参議院「婚姻前の氏の通称使用の法制化に関する質問に対する答弁書」
4 書籍
① 杉井静子『ジェンダー平等社会の実現へ―「おかしい」から「あたりまえ」に』日本評論社,2023年,224頁~225頁
② 相原佳子・石坂浩『事例解説 未成年後見実務』日本加除出版,2018年,90頁