第1 事件と本記事の対象
平成5年4月27日,東京地方裁判所6階の615号法廷で,婚姻無効請求事件の男性被告が女性原告を刃物で脅し,女性を保護しようとした法廷警備員の田村善四郎が6階廊下で刺されて死亡する事件が発生した。最高裁判所側は,同年5月25日の参議院法務委員会において,裁判所職員が職務遂行中に殺害されたのは初めてであると説明した。
本記事は,事件直後から平成6年までの国会答弁を中心に,事件の経過,田村に対する表彰及び遺族への給付,本件後に整備された公務災害補償の特例及び賞じゅつ金制度を整理する。あわせて,平成7年以降の所持品検査及び平成28年に示された裁判所の安全対策を紹介する。
第2 平成5年4月27日の事件経過
1 615号法廷で始まった襲撃
平成5年5月25日の国会答弁によれば,婚姻無効請求事件の第1回口頭弁論期日は,同年4月27日午前10時から615号法廷で開かれる予定であった。24歳の女性原告と代理人弁護士は午前9時46分頃に入廷し,44歳の男性被告は午前9時50分頃に入廷した。
男性被告は,女性原告を殴って転倒させ,左手首に玩具の手錠を掛けた上,ジャンパーの下に隠していた刃渡り約16センチメートルの登山ナイフを突き付け,法廷から廊下へ連れ出そうとした。隣の法廷から駆け付けた廷吏が午前9時55分頃に緊急連絡用ボタンを押し,警務課長と法廷警備員8人が現場へ向かった。
2 6階廊下での田村善四郎の殉職
女性原告が男性被告を振り切って逃げたため,男性被告はナイフを持って女性を追った。田村善四郎法廷警備員は男性被告に背後から飛び付き,取り押さえようとしたところ,右肩付近を刺された。
田村は日本大学病院へ搬送されたが,同日午前11時27分,失血により死亡した。59歳であった。女性原告は幅約1センチメートル,深さ約0・5センチメートルの傷を負い,裁判所の医師及び看護師の付き添いで警察病院へ搬送され,手当てを受けた後に帰宅した。
3 逮捕及び起訴
男性被告は現場から逃走したが,翌日に逮捕され,同年5月19日に殺人罪で起訴された。本件刑事判決は裁判所HP未掲載であり,今回の検索では判決を特定できないため,判決年月日,事件番号,量刑及び確定状況は本記事に記載しない。
第3 平成5年5月25日の国会答弁
1 下稲葉耕吉の質問と泉徳治の答弁
参議院法務委員会で事件を取り上げたのは,下稲葉耕吉参議院議員である。参議院歴代議員一覧によれば,下稲葉は昭和61年の第14回参議院議員通常選挙で初当選しており,従来の記事にあった「昭和63年7月から参議院議員」との記載は正確でない。質問に対し,当時の最高裁判所長官代理者であった泉徳治が事件経過及び補償内容を答弁した。
2 最高裁判所長官表彰及び給付
泉は,田村が一般の来庁者の生命を守るために行動して死亡したことから,最高裁判所長官表彰を行い,殉職日付けで警務課課長補佐に昇任させたと説明した。答弁で示された給付額は,退職金2504万3208円,公務災害補償1513万2260円及び遺族共済年金168万5600円であり,答弁上の合計は4186万1068円であった。
もっとも,国会会議録は表彰の根拠を「裁判所職員表彰規程」とし,表彰事由を「職員を尽した者」と記録している。裁判所HPに掲載された規程の正式名称は「最高裁判所表彰規程」であり,同規程2条4号の文言は「危険を顧みず身をていして職責を尽した者」であるため,会議録の記載と規程原文を区別する必要がある。
3 当時は存在しなかった二つの制度
平成5年5月時点では,裁判所職員について賞じゅつ金を支給する制度はなく,国家公務員災害補償法20条の2による5割加算の対象にも含まれていなかった。泉は,警察官及び法務省職員等の制度を参照し,裁判所職員についても賞じゅつ金制度と公務災害補償の特例を設けることを検討していると答弁した。
第4 本件後に整備された補償制度
1 平成5年秋の公務災害補償の特例
平成6年3月29日の参議院法務委員会で,泉は,平成5年秋に法廷警備に携わる裁判所職員を国家公務員災害補償法20条の2に相当する特例の対象とする最高裁判所規則を制定したと説明した。この規則は平成5年4月1日以後の事故に適用され,本件についても遺族補償年金及び遺族特別給付金が一般の公務災害の場合の1・5倍となるよう遡及適用された。
裁判所職員について国家公務員災害補償法が関係するのは,裁判所職員臨時措置法が同法を準用しているためである。人事院規則一六―〇は一般職国家公務員について対象職員及び職務を定める規則であり,裁判所職員の対象範囲は最高裁判所規則によって定められる。
2 平成6年度の賞じゅつ金制度
平成6年3月の答弁時点では,賞じゅつ金制度は新年度に向けて準備中であった。その後,同年10月27日の参議院法務委員会で,最高裁判所側は,本件を受けて平成5年中に災害補償に関する特別規定を整備し,平成6年度には賞じゅつ金制度も整備したと説明した。この答弁によって,本件後の制度整備の経過を国会会議録上で最後まで確認できる。
第5 法廷警備及び所持品検査
1 法廷警察権と裁判所職員による警備
裁判所傍聴規則1条は,法廷の秩序を維持するため,裁判所職員に傍聴人の被服又は所持品を検査させ,危険物等の持込みを禁止させることができると定める。また,法廷の秩序維持等にあたる裁判所職員に関する規則2条は,裁判所の職員又は庁舎その他の施設の安全を保持するため,裁判所の長等が裁判所職員に警備を命ずることができると定める。
もっとも,裁判所傍聴規則が直接対象とするのは「傍聴人」であり,庁舎入口で裁判当事者を含む全来庁者に実施する所持品検査と同じ範囲ではない。刑事訴訟法の体系書には,法廷警察権が法廷外にも及び得ると説明するものがある一方,明確な法律上の根拠を欠く所持品検査の運用を批判する見解もある。
2 東京高裁及び東京地裁の所持品検査
令和元年7月18日付けの東京高等裁判所長官通知によれば,東京高裁及び東京地裁の庁舎における所持品検査は平成7年5月16日に始まった。通知が示す理由は,利用者の安全を確保し,安心して利用できる裁判所を実現する必要性,諸般の事情及び警備上の要請である。同通知は,地下鉄サリン事件を所持品検査開始の原因とは説明していないため,両者を因果関係で結び付けることはできない。
現在,東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎では金属探知機等による検査が実施され,検査を拒んだ者及びナイフ,包丁,カッター,はさみ,かみそり等の危険物を所持する者の入庁は認められていない。所持品検査の実施庁及び沿革については,裁判所の所持品検査及び全国の下級裁判所における所持品検査の実施状況で整理している。
第6 平成28年以後の裁判所の安全対策
1 加害行為が発生した場合の基本方針
最高裁判所事務総局総務局参事官は,平成28年8月23日付け事務連絡「裁判所の敷地内において加害行為が発生した際の留意点について」により,各裁判所へ基本的な対応方針を示した。同事務連絡は,危険の兆候を早期に把握し,危害の発生を防止すること,事件発生後は来庁者の安全確保と被害拡大防止を優先すること,警察への通報,情報集約,避難場所・経路,役割分担及び訓練を平素から準備することを求めている。
同事務連絡は,裁判所職員は一般に制圧技術を有しないため,原則として職員自らが加害者を直接制圧せず,警察官による制圧を基本とする。これは平成5年事件から23年後に示された組織的な安全管理方針であり,田村の当時の行動を後年の基準で評価する資料ではない。
2 後年の事件と国会審議
平成29年6月16日には,保釈中の刑事被告人が仙台地方裁判所の法廷へ刃物を持ち込み,警察官2人を負傷させる事件が発生した。平成31年4月9日の国会答弁によれば,当時,常時金属探知機による検査を実施していた裁判所庁舎は,全国456庁のうち19庁であった。
平成31年3月20日の東京家庭裁判所玄関前殺人事件は,所持品検査場へ入る前の入口付近で発生した。国会答弁によれば,加害者が敷地外から近づき,犯行後に逃走するまで約10秒であった。この事件は,庁舎入口の検査だけでは,検査地点の手前で発生する危害まで完全には防げないことを示している。事件に関する国会答弁は,平成31年3月20日発生の東京家裁前の殺人事件に関する国会答弁で整理している。
平成30年11月22日の参議院法務委員会で,最高裁判所側は,裁判所の安全確保は公開裁判を保障するためにも必要であると説明した。安全確保と裁判公開との均衡は,危険物の持込みを防ぐ必要性だけでなく,誰でも裁判を傍聴し,裁判所を利用できることを踏まえて検討する必要がある。
第7 関連資料
裁判所の敷地内において加害行為が発生した際の留意点についてには,平成28年8月23日付け事務連絡の開示文書を掲載している。また,平成31年3月20日に東京家裁で発生した殺人事件に関する文書及び裁判所の庁舎等の管理に関する規程及びその運用も,後年の安全管理を確認する資料である。
出典・参考資料
1 法令・規則
①国家公務員災害補償法(昭和26年法律第191号)20条の2(e-Gov法令検索)
②裁判所職員臨時措置法(昭和26年法律第299号)本則5号(e-Gov法令検索)
③人事院規則一六―〇(職員の災害補償)32条(e-Gov法令検索)
④最高裁判所表彰規程2条4号(最高裁判所,昭和31年3月31日,PDF実頁1頁)
⑤裁判所傍聴規則1条(最高裁判所規則,昭和27年9月1日)
⑥法廷の秩序維持等にあたる裁判所職員に関する規則1条・2条(最高裁判所規則,昭和27年9月16日)
2 国会会議録
①第126回国会参議院法務委員会第7号(平成5年5月25日,発言番号62~68)
②第129回国会参議院法務委員会第1号(平成6年3月29日,発言番号9~11)
③第131回国会参議院法務委員会第2号(平成6年10月27日,発言番号18)
④第197回国会参議院法務委員会第4号(平成30年11月22日,発言番号57~64)
⑤第198回国会参議院法務委員会第5号(平成31年4月9日,発言番号6~13)
⑥第198回国会参議院法務委員会第6号(平成31年3月26日,発言番号182~188)
3 裁判所資料・公文書
①最高裁判所事務総局総務局参事官「裁判所の敷地内において加害行為が発生した際の留意点について」(平成28年8月23日,PDF実頁2頁~4頁)
②東京高等裁判所長官「司法行政文書の開示についての通知書」(東京高裁総第2311号,令和元年7月18日,PDF実頁1頁)
③東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎における入庁時の所持品検査(東京地方裁判所)
④参議院歴代議員一覧37頁(参議院事務局,PDF実頁37頁)
4 文献
①中山善房ほか『大コンメンタール刑事訴訟法 第3版 第6巻』(青林書院,2022年)44頁・47頁~48頁・51頁
②白取祐司『刑事訴訟法 第11版』(日本評論社,2026年)353頁
③新潟県弁護士会編『労働災害の法律実務』(ぎょうせい,2022年)368頁