検察制度の沿革

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   七訂版 検察庁法(平成31年3月の法務総合研究所の文書)3頁ないし7頁には,「第2節 検察制度の沿革」として以下の記載があります(文中の「庁法」は検察庁法のことであり,「章程」は検察庁事務章程のことです。)。

1 裁判と刑罰の制度は人間社会の成立に始まっているが,現在のような訴追権(公訴権)を独占行使する機関としての検察制度は,近代に始まるといってよい。
   現在の検察制度に類似したものとしては,唐の御使台や, これを継受した我が王朝時代の弾正台があった。 これらは,官吏監察の制度で,風俗を粛正し, 内外の非違を弾奏することを職務としていた。いずれも,独占的訴追機関ではないが,犯罪を糺弾する職責をもっていた点で,一種の検察機関といえるものであった。それが時代の下がるに伴い,検非違使,奉行の制度となり,検察は警察及び裁判と一体として行われるに至って検察制度と目すべきものは姿を消した。 ところが,明治初頭の律令法制の一部復活により,明治2年5月22日,弾正台が設けられ,行政警察と犯罪の糾弾をあわせ行ったが, 明治4年7月9日, 司法省の設置とともに廃止された。
   
2 さて, 明治初期,我が国の法制度は, フランス法の継受によって樹立されたが,検察制度もまたフランス法の継受によった。
   フランスにおいては,13世紀ころから国王(国庫)の利益を代表し擁護する 「国王の代官」の制度が設けられていた。 この「代官」は王の財源となっていた罰金や財産没収の執行にあたったが, 王権が強大になるとともにその権限を拡大し, 国家や社会の公益の擁護に任ずるようになり,16世紀の半ばころから,裁判所に附置されて一般人民からの告訴,告発を受け, 犯罪の捜査を行い,裁判所に犯人の処罰を申し立て,刑を執行するほか,公益の代表者として民事訴訟に立ち会い, また, 司法行政事務を監督する権限を有していた。
ところが, フランス大革命(1789年)により旧体制は崩壊し,刑事裁判手続は,イギリス法を模倣して創設され,従来の糺問手続が廃されて弾劾手続(8頁注2参照〉が採られた上, 陪審制度(起訴陪審,審理陪審) も設けられた。 これによって, 旧来の「国王の代官」 もその姿を消すに至った。
   しかし,革命による刑事手続,殊に起訴すべきか否かを陪審員によって決する起訴陪審の制度は, その使命を果たし得ず, その結果,犯罪の訴追は著しく活発を欠き,全フランスに盗賊が思うままに跳梁し,社会の秩序と平和を乱した。かくて,「国王の代官」が想起され,革命9年(1801年)雨月7日の法律は, 地方その他の一部勢力や偏見から超越してその職務を遂行すべき公訴官一「政府(人民)の代官」一が創設され,これが近代的な検察官制度の始まりだとされている。
   これによって,刑事訴追の公益上の必要と被告人の立場を保護する自由主義的要求とが調和されるに至り,その後数次の改正を経て,1808年11月27日公布の治罪法に,kって, 「検察官」制度が確立され,国家は,検察官をして公訴を提起せしめ,栽判所をしてそれを審判せしめることになった。フランス治罪法は,やがてヨーロッパ諸国,アメリカ,東洋にと継受されていった。
   
3 我が国に検察官がはじめて設けられたのは,明治5年8月3日太政官達「司法職務定制」においてである。同定制では「検事ハ法憲及人民ノ権利ヲ保護シ良ヲ扶ケ悪ヲ除キ裁判ノ当否ヲ監スルノ職トス」 とし,「検事ハ裁判ヲ求ムルノ権アリテ裁判ヲ為スノ権ナシ」,「聴訟ニハ検事必ス連班シ検事出席セサレハ判事独リ裁判スルコトヲ得ス」 と規定されている。
   しかし, 当時, フランス法制を十分に継受しておらず,検察官の公訴によらないで裁判所が職権で審判を開始する場合もあり, 国家訴追主義と糺問主誰が並行して行われていた。その後, 明治11年6月10日司法省達「自今訟廷内ノ犯罪及審問上ヨリ発覚スル本件附帯ノ犯罪ヲ除ク外ハ総テ検事ノ公訴ニ因リ処断スル義卜可相心得,此旨相達候事」によって,国家訴追主義, 不告不理の原則(9頁,11頁参照)が認められ,それが明治13年7月17日制定の治罪法(太政官布告第37号)において, はじめて体系的包括的に規定された。その後我が国の法制はドイツ法制を継受し,いわゆる旧々刑事訴訟法(明治23年11月1日施行),旧刑事訴訟法(大正13年1月1日施行)と改正され, 国家訴追主義, 不告不理の原則が確立された。
   一方,司法職務定制による検察制度は,検事職制章程司法警察規則(明治7年1月28日,太政官達第14号),司法省検事職制章程(明治8年5月8日,司法省達第10号),司法省職制章程並検事職制章程(明治10年3月2日,太政官布告第32号),各省使職制並事務章程(明治13年12月2日,太政官布告第60号),裁判所官制(明治19年5月4日,勅令第40号)と改正を経て,明治23年2月10日公布,同年11月1日施行の裁判所構成法により,近代的な制度として完備されるに至った。
   以来,裁判所構成法は, 旧々刑訴時代,旧刑訴時代を通じ,約60年にわたって,検察組織の基本法として, その使命を果たしてきた。
   裁判所構成法によると,検事局が各裁判所に「附置」せられ,「検事局ニ相応ナル員数ノ検事ヲ置ク」ものとされるが,検事は,「裁判所ニ対シ独立」であって,一人一人が単独官庁として「刑事ニ付公訴ヲ起シ其ノ取扱上必要ナル手続ヲ為シ法律ノ正当ナル適用ヲ請求シ及判決ノ適当ニ執行セラレルヤヲ監視シ又民事ニ於テモ必要ナリト認ムルトキハ通知ヲ求メ其ノ意見ヲ述フルコトヲ得又裁判所二属シ若ハ之ニ関ル司法行政事件ニ付公益ノ代表者トシテ法律上其職権二属スル監督事務ヲ行フ」 ものとされ,また,検事一体の原則を規定するなど,現在の検察官の性格は, ほぼ裁判所構成法によって確立せられたということができる。
   
4 昭和20年8月の太平洋戦争の終結により,我が国は,民主主義国家として再生の一歩を踏み出すこととなり, これに伴って,司法制度も根本的に改革せられることになった。その結果,これまで司法大臣の行政監督権のもとにあった裁判所は, その監督権から離れて独立することとなり,昭和22年4月16日,法律第59号及び第61号をもって,新たに裁判所法及び検察庁法が公布され,裁判所法の附則によって裁判所構成法が廃止されることになり, 日本国憲法の施行の日である昭和22年5月3日から,新しい裁判所法及び検察庁法が施行された。そして,昭和23年7月10日,法律第131号をもって,新たに刑事訴訟法(以下「刑訴法」 という。)が公布(施行,昭和24年1月1日)され,現在の検察庁及び検察官が誕生したのである。

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