戦前の判事及び検事の定年

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目次
第1 定年制導入前の状況
1 裁判所構成法の条文
2 精神又は身体の衰弱を理由とする退職決議の事例
3 帝国議会の答弁に立った鈴木喜三郎司法次官のその後
第2 1921年の,裁判所構成法改正に基づく定年制の導入及び定年退職者に対する増加恩給の支給
1 1921年の,裁判所構成法改正に基づく定年制の導入
2 定年退職者に対する増加恩給の支給
第3 1921年6月13日の司法省人事
1 司法省人事の内容
2 司法省人事の分析
3 横田国臣 大審院長の定年退官に関する背景事情
第4 1937年の,裁判所構成法改正に基づく定年時期の統一及び勇退者に対する増加恩給の支給等
1 裁判所構成法改正に基づく定年時期の統一
2 勇退者に対する増加恩給の支給
3 日中戦争の初期に裁判所構成法等の改正が実施されたこと
4 その後の恩給
第5 司法官以外の戦前の定年,及び戦前の幹部裁判官の人事等
1 司法官以外の戦前の定年
2 戦前の幹部裁判官の人事等
第6 関連記事その他

1 定年制導入前の状況
1 裁判所構成法の条文
(1) 制定時の裁判所構成法67条は「判事ハ勅任又ハ奏任トシ其ノ任官ヲ終身トス」と定めていました。
    また,大正2年4月7日公布の法律第6号による改正後の裁判所構成法67条は「判事ハ終身官トシ親任勅任又ハ奏任トス」と定めていました。
(2) 制定時の裁判所構成法73条1項本文は「第七十四條及第七十五條ノ場合ヲ除ク外判事ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルニ非サレハ其ノ意ニ反シテ轉官轉所停職免職又ハ減俸セラルルコトナシ」と定めていました。
(3) 裁判所構成法74条は「判事身體若ハ精神ノ衰弱ニ因リ職務ヲ執ルコト能ハサルニ至リタルトキハ司法大臣ハ控訴院又ハ大審院ノ總會ノ決議ニ依リ之ニ退職ヲ命スルコトヲ得」と定めていました。
2 精神又は身体の衰弱を理由とする退職決議の事例
(1)ア 精神の衰弱を判断することは著しく困難であったため,精神の衰弱を理由とする退職決議については,提案すらされことがありませんでした(大正10年3月23日の衆議院裁判所構成法中改正法律案外一件委員会における鈴木喜三郎司法次官の答弁(会議録6頁3段目)参照)。
     ただし,大正9年7月15日の貴族院裁判所構成法中改正法律案外一件特別委員会における鈴木喜三郎司法次官の答弁(会議録3頁1段目)には,強制的に貴様は身体が衰弱した,精神が衰弱したといって,判事総会によって退職を命じられた事例が,明治31年から明治32年の頃に12件あったもようであると書いてあります。
イ 横田国臣司法次官は,明治31年6月,判事検事官等俸給令の改正により各裁判所職級別の定員を廃止して,司法省の計画する人事に賛成する判事を大審院及び控訴院に送り込み,司法省の与党で大審院及び控訴院の総会の多数を制することで,当時の春木義彰検事総長及び北畠治房大阪控訴院長ら老朽司法官に対し,裁判所構成法74条に基づく退職を命じた上で,横田国臣は同月28日に検事総長に就任しました。
     ただし,同月30日に成立した第1次大隈内閣がこの人事を問題視したため,同年10月15日に横田国臣 検事総長は懲戒免官となりました(Wikipediaの「横田国臣」のほか,「司法権独立の歴史的考察」9頁,10頁及び73頁参照)。
(2) 身体の衰弱を理由とする退職決議については,明治40年以降,0件となりました(大正9年7月15日の貴族院裁判所構成法中改正法律案外一件特別委員会における鈴木喜三郎司法次官の答弁(会議録3頁1段目)参照)。
(3) 戦後の裁判官分限法の場合,執務不能を理由とする分限裁判は,最高裁大法廷昭和33年10月28日決定(7年以上の療養生活)及び大阪高等裁判所昭和61年2月19日決定(失踪)の2件だけです。
3 帝国議会の答弁に立った鈴木喜三郎司法次官のその後
・ 帝国議会の答弁に立った鈴木喜三郎(1867年生まれ)は1914年4月18日から1921年10月5日まで司法次官をして,同日から1924年1月7日まで検事総長(54歳で就任)をして,同月から同年6月11日まで司法大臣(56歳で就任)をした後,5・15事件の直後に立憲政友会総裁に就任しました。

第2 1921年の,裁判所構成法改正に基づく定年制の導入,及び定年退職者に対する増加恩給の支給
 1921年の,裁判所構成法改正に基づく定年制の導入
(1) 明治憲法58条2項は「裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラルヽコトナシ」と定めていました。
   そのため,裁判官に対する定年制の導入を内容とする裁判所構成法の改正案に対しては,明治憲法58条2項に違反するのではないかという質問が帝国議会で繰り返し行われました。
   しかし,明治憲法58条2項の「職」は「官」のことであると解されるし,裁判所構成法の定年は退職事由に過ぎず,判事の官を失うわけではない(ただし,判事としての職務を行うわけではなく,その俸給も受けませんでした。)から,定年制の導入は明治憲法58条2項に違反しないとされました。
(2) 大審院長及び検事総長の定年は65歳であり,その他の判事及び検事の定年は63歳でした。
    ただし,判事の場合,控訴院又は大審院の総会決議により,検事の場合,司法大臣の決定により,最大で3年間,引き続き在職することができました(大正10年5月18日公布の法律第101号による改正後の裁判所構成法74条ノ2及び80条ノ2)。
(3) 帝国議会における司法次官の説明によれば,大審院長及び検事総長が担当する,一般を指揮監督するという任務は,その職務の性質上,それ以外の任務と異なり細かいことをする必要がないし,大審院部長及び控訴院長並びに検事長以下と異なり裁判事務はほとんどせずに司法行政事務だけをすればいいから定年を2年遅くしたのであって,両者に対して敬意を払うために定年を2年遅くしたわけではないことになっています(大正10年3月24日の衆議院裁判所構成法中改正法律案外一件委員会における鈴木喜三郎司法次官の答弁(会議録6頁及び8頁)参照)。
(4) 当初の政府案では,60歳,63歳及び65歳の3段階の定年制でしたが,枢密院の審議の結果,60歳定年制は早すぎるということで,63歳及び65歳の2段階の定年制となりました(大正9年7月15日の貴族院裁判所構成法中改正法律案外一件特別委員会における鈴木喜三郎司法次官の答弁(会議録1頁)参照)。
(5) 大正10年当時,判検事の人数は1600人ぐらいであり,定年退官の対象者は年間10人ぐらいでした(大正10年3月24日の衆議院裁判所構成法中改正法律案外一件委員会における鈴木喜三郎司法次官の答弁(会議録9頁)参照)。
(6) 満60歳以上であり,相続の単純承認をする家督相続人がいた場合,裁判所の許可がなくても戸主は隠居できました(旧民法752条・普通隠居)が,それ以外の場合,裁判所の許可がない限り戸主は隠居できませんでした(旧民法753条・特別隠居)。
2 定年退職者に対する増加恩給の支給
(1) 定年ニ因ル退職判事検事ノ恩給ニ関スル法律(大正10年5月18日公布の法律第102号)1項に基づき,裁判官及び検事が定年退官した場合,増加恩給(文官の普通恩給の50%相当額)を支給してもらえることとなりました。
(2) 大正12年4月14日公布の法律第49号による改正に基づき,既に恩給を受給している退職者も含めて,増加恩給は30%となりました。
(3) 「恩給法の改正」(内閣恩給局長が投稿した,昭和8年9月の東京朝日新聞の記事)に,恩給に関する従前の経緯が書いてあります。

3 1921年6月13日の司法省人事
1 司法省人事の内容
    1921年6月13日に裁判所構成法74条ノ2が施行されたことに基づき,以下の司法省人事が実施されました(1921年6月14日の官報(リンク先のコマ番号3の左及び5の左))。
(新規就任者)
・ 富谷鉎太郎 大審院長(64歳。1912年12月23日,東京控訴院長に就任)
・ 牧野菊之助 東京控訴院長(54歳。1920年6月30日,名古屋控訴院長に就任)
・ 磯谷幸次郎 名古屋控訴院長(55歳。1921年3月25日,函館控訴院長に就任)
・ 能勢萬 函館控訴院長(58歳頃。1920年7月16日,大阪地裁所長に就任)
・ 谷田三郎 大阪控訴院長(1911年11月30日,司法省監獄局長に就任)
・ 高橋文之助 廣島控訴院長
・ 柳川勝二 宮城控訴院長(53歳。大審院判事)
・ 豊島直通 東京控訴院検事長(49歳。1919年4月18日,司法省刑事局長に就任)
・ 三木猪太郎 名古屋控訴院検事長(51歳頃。1913年4月12日,廣島控訴院検事長に就任)
・ 大田黒英記 廣島控訴院検事長(55歳頃。1918年6月12日,東京地裁検事正に就任)
・ 松岡義正 大審院部長(50歳。1916年5月8日,大審院部長に就任)
(定年退職者)
・ 横田国臣 大審院長(70歳。1906年7月3日就任)
・ 河村善益 東京控訴院検事長(63歳。1907年9月28日就任)
・ 水上長次郎 大阪控訴院長(63歳。1913年4月12日就任)
・ 清水一郎 宮城控訴院長(64歳頃。1910年4月20日就任)
・ 志方鍛 廣島控訴院長(64歳。1913年4月12日就任)
・ 末広厳石 大審院部長(63歳。1918年7月1日就任)
・ 鶴見守義 大審院検事(63歳)
2 司法省人事の分析
(1) 大審院長以外の判事の定年を63歳としたのは,8年以上在籍していて,施行時に63歳であった東京控訴院検事長及び大阪控訴院長まで退職させるためであり,大審院長の定年を65歳としたのは,後任の大審院長が決まるまでの間,当時64歳の東京控訴院長につなぎの大審院長をさせるためであったのかもしれません。
   実際,富谷鉎太郎大審院長の後任は1921年10月5日就任の平沼騏一郎(当時54歳であり,1912年12月21日就任の検事総長)であり,平沼騏一郎検事総長の後任は鈴木喜三郎(当時54歳であり,1914年4月18日就任の司法次官)でした。
(2) 1898年6月,横田国臣
は司法次官として,当時の検事総長及び大阪控訴院長といった老朽司法官の淘汰を断行した直後の同月28日に自分が検事総長に就任して周囲のねたみを買ったため,同年10月15日に懲戒免官となりました。
   そのため,平沼騏一郎及び鈴木喜三郎は,前任者の定年退職直後の昇進を避けることで,横田国臣と同じ目にあうことを避けようとしたのかも知れません。
(3)ア 「公務員制度改革の経緯と今後の展望 」(2008年1月の立法と調査)には以下の記載があります(リンク先のPDF2頁)。
   昇進に関しては、文官高等試験(高文)に合格すると、最初は、判任官である属として任用され、2年後に奏任官である事務官に任官する。入省 10年後には本省課長、20 年程度で局長、42,3 歳で次官に就任している。
イ 戦前の次官及び局長は勅任官でありますところ,すべての地裁所長及び地裁検事正が勅任官となったのは,昭和2年4月18日公布の勅令第87号(リンク先のコマ番号2)による裁判所職員定員令の改正後です。
(4) 1921年5月の裁判所構成法の改正当時,63歳の定年を超えていた大審院長,東京控訴院長,東京控訴院検事長,大阪控訴院長,宮城控訴院長,廣島控訴院長等が一斉に退職した場合,何らかの不都合が発生する可能性があったことから,最大で3年間,引き続き在職できるとする規定を置いたのかもしれません。
3 横田国臣 大審院長の定年退官に関する背景事情
・ 「私の会った明治の名法曹物語」(著者は小林俊三 元最高裁判事)222頁及び223頁には,横田国臣に関して以下の記載があります。
   横田検事総長は、前記のように、自分の立案した司法改革案に便乗し検事総長になった(山中注:明治31年の隈板内閣で司法次官をしていました。)が、大きな非難を呼び起して終に懲戒免官になってしまった。しかし前にふれたように親友清浦司法大臣(山中注:後の清浦奎吾首相のこと。)に救われて東京の検事長に帰り咲いた。しかしその後は何といっても実力者であるから明治三七年四月には検事総長となり、さらに明治三九年七月三日南部甕男氏が大審院長から枢密院入りをしたとき、その後を襲って大審院長となった。それからの氏の終身官を名とする執着力が司法部の歴史的話柄となったのである。横田国臣大審院長が現われた明治三九年七月は多分彼の五五歳ぐらいの時であったろう。今から思えばずい分若い。その人が五年はもとより一○年たっても退かない。もちろん一口に裁判官は終身官であるといわれるから、傍からとやかく言っても退かせるわけにはいかない。このことは横田氏が次官として行った司法改革の精神と全く矛盾する態度であるというのが、他の巷説として私の耳に入って来ている。その間の政府側の処置としてまず横田氏に大正四年一二月男爵を授与するよう取り計らった。これが大審院長退任の示唆であると巷説は伝えているが、氏が一向に退かなかったところを見ると、交換条件などは何もなかったのであろう。かくしてその後も延々として大審院長の地位を動かないので、当時の司法省の主脳者(山中注:首脳者の誤記と思います。)の間に、これではやむを得ないから法律によって定年制を布くほかないという談が強力となった。そして終にそれが法律となった。すなわち当時の裁判所構成法第七四条に二を加え、大審院長は六五年、その他の判事は六三年で退職することに定められた。さすがの横田国臣氏も、この法律の施行された大正一○年六月にはすでに七○歳となっていたから、当然退職するの余儀なきに至った。それにしても同じ地位に約一五年いたというのは、毀誉いずれの意味かは別として、強心臓は天晴れと申すべきであろう。
   後年(もちろん終戦はるか前である)知人の裁判官から、われわれは本来終身官なのに定年制を布かれたのは一に横田のためであると冗談めかして話されたことがある。
   横田国臣氏は大審院長退職後さすがに疲れが来たか、その後二年経たないうちに、すなわち大正一二年二月二二日七三歳をもってその異彩ある生涯を閉じた。

第4 1937年の,裁判所構成法改正に基づく定年時期の統一及び勇退者に対する増加恩給の支給等
1 裁判所構成法改正に基づく定年時期の統一
(1) 裁判所構成法74条ノ2及び80条ノ2は,昭和12年9月1日公布の法律第82号による改正があり,定年退職日は5月31日又は11月30日に統一されました。
   その趣旨は定年時期を統一することで,人事異動が複雑にならないようにする点にありました(昭和12年8月6日の衆議院本会議における牧野賤男 衆議院裁判所構成法中改正法律案外二件委員会委員長の報告参照)。
(2) 改正前は,65歳又は63歳になった日に退職するという取扱いであったため,年度途中にたびたび人事異動が行われ,非常に煩雑であり,事務の統制を欠くこととなっていました。
(3) 第七十一回帝國議會の協賛を經たる法律竝に其の立法理由(日本銀行調査局)のコマ番号149に立法当時の解説が載っています。

2 勇退者に対する増加恩給の支給
(1) 昭和12年8月14日公布の法律第69号による改正後の定年ニ因ル退職判事検事ノ恩給ニ関スル法律(大正10年法律第102号)1項に基づき,同日以降,裁判官及び検事は,60歳に達した後に退職すれば,定年退官した場合と同様に,増加恩給(文官の普通恩給の30%相当額)を支給してもらえることとなりました。
   その趣旨は,勇退者を多くして,後進のために道を開く点にありました(昭和12年8月6日の衆議院本会議における牧野賤男 衆議院裁判所構成法中改正法律案外二件委員会委員長の報告参照)。
(2) 改正前は,定年退官した場合に限り,増加恩給(普通恩給の30%相当額)を支給してもらうことができました。
(3) 第七十一回帝國議會の協賛を經たる法律竝に其の立法理由(日本銀行調査局)のコマ番号81に立法当時の解説が載っています。
(4) 裁判官及び検事を含む文官の場合,最低恩給年限は17年でした(総務省HPの「恩給制度の概要」及び「恩給Q&A」参照)。
   
3 日中戦争の初期に裁判所構成法等の改正が実施されたこと
(1) 昭和12年7月7日に盧溝橋事件が発生し,同月11日に「北支事変」と名付けられ,同年8月13日に第二次上海事変が発生したために華北での事変終結を前提とした船津和平工作が頓挫し,同年9月2日に日本政府は「北支事変」を「支那事変」と改称しました。
   つまり,日中戦争の初期に裁判所構成法等の改正が実施されたということです。
(2) 司法沿革誌(昭和14年10月に司法省が作成した文書)における,昭和12年7月7日の記事は以下のとおりです(旧字体を新字体に変えています。)。
   我北支駐屯軍部隊北平西南方ナル盧溝橋龍王廟附近ニ於テ夜間演習中同地ニアル馮治安部隊ノ一團ヨリ不意ニ不法発砲ヲ受ケシモ我方ハ隠忍自重シテ応射セス徐々ニ交渉ヲ進メタルニ支那側ハ毫モ誠意ヲ表セス為ニ彼我交戦ニ及ヒ遂ニ日支事変ノ端ヲナス
   
4 その後の恩給
(1) 国家公務員共済組合法(昭和23年6月30日法律第69号)94条に基づき,恩給法(大正12年4月10日法律第48号)の適用を受ける国家公務員については,退職給付(同法17条2号)としての退職年金(同法39条)ではなく,引き続き恩給が支給されることとなりました。
(2) 国家公務員共済組合法(昭和33年5月1日法律第128号)付則1条ただし書に基づき,昭和34年1月1日以降に退職した国家公務員については,恩給ではなく,退職給付(同法第4章第3節)としての退職年金(同法76条)が支給されることとなりました。
(3) 現行の公務員共済年金制度は、公務員の恩給期間及び旧共済組合員期間(旧国家公務員共済組合等の組合員であった期間をいいます。)を引き継いだ制度です(衆議院議員平岡秀夫君提出旧令共済組合の取扱いに関する質問に対する内閣答弁書(平成20年4月11日付)参照)。


第5 司法官以外の戦前の定年,及び戦前の幹部裁判官の人事等
1 司法官以外の戦前の定年
(1) 判事及び検事以外の官吏についても定年制の導入が検討されたものの,定年まで在官することが権利のごとく考えられるとかえって沈滞の空気が濃化するおそれがあるという考え等のために導入されませんでした(「国家公務員の定年引上げをめぐる議論」1頁参照)。
(2) 戦前の陸軍の場合,大将は65歳,中将は62歳,少将は58歳が定年であり,戦前の海軍の場合,大将は65歳,中将は60歳,少将は56歳が定年でしたが,元帥府に列せられた陸軍大将又は海軍大将については定年がありませんでした(Wikipediaの「停限年齢」参照)。
2 戦前の幹部裁判官の人事等
(1) 戦前の幹部裁判官の人事については,外部HPの「大正・昭和戦前期における幹部裁判官のキャリアパス分析-戦前期司法行政の一断面への接近」,及び「大正・昭和戦前期における司法省の裁判所支配」が非常に参考になります。
(2) 明治15年から明治34年までに明治法律学校を卒業した司法官の経歴が,外部HPの「明治法律学校出身の司法官群像」に載っています。
(3) 最高裁判所とともに(著者は高輪1期の矢口洪一 元最高裁判所長官)には以下の記載があります。
(4頁の記載)
   明治憲法の下では、裁判官の身分は司法省に属し、司法大臣が監督した。違憲立法審査に関しては天皇の諮問機関である枢密院がある程度の力を持っていたが、最高裁に相当する大審院には権限がなかった。当然、司法官は行政官に比べて定年が長い分だけ出世も遅く、地位も必ずしも高くはなかった。大審院院長は、もちろん司法大臣より低くみられていた。
(56頁の記載)
   戦前の裁判官の人事権は司法大臣の下に置かれており、俸給面でも行政官が四〇歳半ばで次官などに登りつめるのに対し、裁判官は同じ俸給表を六三歳の定年までにゆっくり消化していくものとされていた。
(4) 主として戦前の検察制度の沿革が,検察庁HPの「我が国の検察制度の沿革」に載っています。

第6 関連記事その他
1(1) 大正10年当時の日本人男性の平均寿命は42.06歳であり,65歳男性の平均余命は9.31年でした(厚生労働省HPの「表2 完全生命表における平均余命の年次推移」参照)から,大審院長及び検事総長の65歳という定年は当時の男性の平均寿命より23歳近くも長かったこととなります。
(2) 大阪の弁護士重次直樹のブログ「職業と寿命,長寿の秘訣:僧侶,画家,医師,学者,弁護士は長生き」が載っています。
2 以下の記事も参照して下さい。
・ 裁判官の定年が70歳又は65歳とされた根拠
・ 裁判官及び検察官の定年が定められた経緯(日本国憲法の制定経緯を含む。)
 幹部裁判官の定年予定日

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