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平和条約の請求権放棄とは何か―三つの説・最高裁判例・政府見解(AIリライト)

第1 請求権放棄条項を読む前提

1 結論

平和条約その他の戦後処理文書にある「請求権の放棄」は,常に個人の実体法上の請求権を消滅させるという意味ではない。

請求権放棄条項の法的効果については,①外交的保護権のみを放棄する見解,②実体的な請求権は残るが裁判上行使する権能を失わせる見解,③実体的な請求権そのものを消滅させる見解の三つに整理される。

最高裁平成19年4月27日判決は,日中共同声明5項について②の考え方を採り,中国国民の対象請求権は実体法上消滅していないが,裁判上訴求する権能を失ったと判示した。

もっとも,この結論を他の平和条約,請求権協定又は戦後補償請求へそのまま当てはめることはできない。最初に当該文書がどの請求権を対象としたかを確定し,次にその請求権にどのような効果を与えたかを検討する必要がある。

2 区別すべき六つの問題

「個人請求権は残っているか」という問いだけでは,請求権放棄条項の意味を正確に表せない。

少なくとも,①個人の実体法上の請求権が成立したか,②その請求権が条約又は協定の対象に含まれるか,③請求権そのものが消滅したか,④請求権を裁判上行使できるか,⑤被害者の国籍国が外交的保護を行使できるか,⑥債務者が任意に支払又は和解をすることができるかを分けて考える必要がある。

また,国際文書が国際法上の義務を定めていることと,日本の裁判所が私人間の請求を棄却する規範としてその文書を直接適用できることも別問題である。

第2 請求権放棄条項に関する三つの見解

1 外交的保護権のみ放棄説

外交的保護権のみ放棄説は,国が自国民の被害を国家間の請求として取り上げる権能だけを放棄し,個人の国内法上の請求権及び裁判上の行使可能性には影響を与えないとする見解である。

この見解では,個人が相手国又は相手国の国民に対して請求することは法的には妨げられないが,国による外交交渉その他の保護を受けられないため,実現が事実上困難になることがある。

2 権利行使阻害説

権利行使阻害説は,個人の実体法上の請求権そのものは消滅しないが,条約等の対象となった請求権に基づいて裁判上訴求する権能は失われるとする見解である。

最高裁平成19年4月27日判決が採用したのはこの考え方である。

被告が請求権放棄の抗弁を提出した場合,訴えが不適法として却下されるのではなく,請求は理由がないものとして棄却される。実体的な請求権は残るが裁判による強制ができないという点で,自然債務に近い状態と説明されることがあるが,「権利行使阻害説」及び「自然債務」は判決文の用語ではなく,判決の効果を説明するための学説上の呼称である。

3 請求権消滅説

請求権消滅説は,外交的保護権だけでなく,個人の実体法上の請求権そのものも消滅するとする見解である。

もっとも,条約による国際法上の処理だけで私人の国内法上の請求権まで当然に消滅するか,国内法による実施措置が必要ではないかという問題がある。このため,条約等の文言,締結経緯,国内法上の実施措置及び裁判例を個別に確認しなければならない。

第3 サンフランシスコ平和条約の枠組み

1 14条(b)及び19条(a)

サンフランシスコ平和条約14条(b)は,連合国が,連合国及びその国民の戦争遂行中の行動から生じた日本国及び日本国民に対する一定の請求権を放棄する旨を定めている。

同条約19条(a)は,日本国が,戦争又は戦争状態の存在によりとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及び日本国民の請求権等を放棄する旨を定めている。

最高裁平成19年4月27日判決は,これらの規定を,戦争状態を終結させて将来の友好関係を築くため,戦争遂行中に生じた請求権を一括して処理する枠組みと理解した。個別の民事裁判を将来にわたって認めれば,条約締結時に予測しにくい過大な負担と混乱を各国及びその国民にもたらし,平和条約の目的を損なうおそれがあるという考え方である。

2 吉田・スティッカー書簡と任意の対応

サンフランシスコ講和会議の際の吉田・スティッカー書簡は,日本政府が平和条約によって請求を強制されない場合でも,日本国民が任意にオランダ国民の請求に応じることを日本政府が妨げない旨を確認した文書である。

最高裁平成19年4月27日判決は,この経緯等を根拠として,請求権放棄は実体的な請求権を消滅させるものではなく,債務者による任意かつ自発的な対応を妨げないと解釈した。

3 条約ごとに文言を確認すべきこと

戦後処理文書の文言は一様ではない。

例えば,日ソ共同宣言6項は,両国,団体及び国民の相手方に対するすべての請求権を相互に放棄すると定めている。

これに対し,日本国とマレイシアとの間の昭和42年9月21日の協定2条の文言は,マレイシア政府が第二次世界大戦中の不幸な事件から生ずるすべての問題が完全かつ最終的に解決されたことに同意するというものであり,個人請求権の相互放棄を明記していない。

最高裁平成19年4月27日判決は同協定をサンフランシスコ平和条約の枠組みに沿う戦後処理の一例として位置付けたが,協定の文言自体と最高裁による評価は区別して読む必要がある。

第4 請求権放棄を扱った最高裁判例

1 最高裁昭和43年11月27日大法廷判決

最高裁昭和43年11月27日大法廷判決(昭和40年(オ)第417号補償金請求事件・民集22巻12号2808頁)は,サンフランシスコ平和条約14条(a)2によりカナダ所在の資産を処分された日本国民が,日本国に憲法29条3項に基づく補償を請求した事件である。

同判決は,日本政府が,日本国民の在外資産について不利益な取扱いを受けないようにするための異議権又は外交的保護権を行使しないことを約したにすぎないと説明した。

もっとも,直接の争点は在外資産の処分に対する日本国の補償責任である。したがって,同判決を平和条約14条(b)又は19条(a)における個人の戦争請求権一般についての確定的判断とみることはできない。

2 最高裁昭和44年7月4日判決

最高裁昭和44年7月4日第二小法廷判決(昭和41年(オ)第831号損失補償請求事件・民集23巻8号1321頁)は,サンフランシスコ平和条約19条(a)により連合国及びその国民に対する損害賠償請求権を失ったとして,日本国に補償を求めた事件である。

同判決は,日本国に憲法29条3項に基づく補償義務がないと判断したが,放棄の対象となった個人請求権の実体法上の存否と外交的保護権との関係を明示的に整理していない。

3 最高裁平成9年3月13日判決

最高裁平成9年3月13日第一小法廷判決(平成5年(オ)第1751号各損害賠償請求事件・民集51巻3号1233頁)は,シベリア抑留者が日ソ共同宣言6項による請求権放棄等を理由として日本国に補償を求めた事件である。

同判決は,仮に旧ソ連に対する請求権が存在するとしても,これを実現することが実際上不可能となったと述べ,日本国の憲法上の補償義務を否定した。

この表現は請求権の存在を仮定したものであり,個人の実体法上の請求権が存続すると積極的に判示したものではない。

4 最高裁平成19年4月27日判決

(1) 二つの最高裁判決

同じ平成19年4月27日には,最高裁第二小法廷判決(平成16年(受)第1658号損害賠償請求事件・民集61巻3号1188頁)と,最高裁第一小法廷判決(平成17年(受)第1735号損害賠償等請求事件・集民224号325頁)がある。

いずれも,日中戦争の遂行中に生じた中国国民の日本国又は日本国民若しくは法人に対する請求権について,日中共同声明5項により裁判上訴求する権能が失われたと判断した。

(2) 請求権は消滅しないが裁判上行使できないこと

第二小法廷判決は,日中共同声明5項による「放棄」は,対象となる請求権を実体的に消滅させるものではなく,その請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるものと解した。

被告が請求権放棄の抗弁を提出したため,最高裁は請求を認容した原判決を破棄し,原告らの請求を棄却した。訴訟要件を欠くとして訴えを却下したのではない。

(3) 任意救済の余地

第二小法廷判決は,裁判上訴求する権能を失っても,債務者が任意かつ自発的に対応することは妨げられないとした。

さらに,被害が極めて重大であったことを踏まえ,関係者において被害者の救済に向けた努力をすることが期待される旨を付言した。この付言は損害賠償請求を法的に認容したものではないが,実体的な請求権の消滅と裁判上の行使阻害を区別した判決の理解にとって重要である。

第5 日本政府見解の変遷と整理

1 平成3年答弁と平成4年答弁

平成3年8月27日の参議院予算委員会で,外務省条約局長は,日韓請求権協定によって国が放棄したのは外交的保護権であり,個人の国内法上の請求権自体を消滅させたものではないとの趣旨を答弁した。

もっとも,この答弁だけから,韓国国民が日本で常に請求できると結論付けることはできない。

平成4年2月26日の衆議院外務委員会では,日本が日韓請求権協定2条の実施に伴う措置法によって韓国国民の一定の財産権を国内法上消滅させたため,その範囲では日本に対して私権として請求できないことが説明された。

2 平成13年答弁と平成15年政府答弁書

平成13年3月22日の参議院外交防衛委員会では,サンフランシスコ平和条約等について,個人の請求権又は債権それ自体が消滅したのではないが,相手方が応じる法律上の義務がなく,裁判上の救済を得られないという趣旨の答弁がされた。

平成15年1月28日の政府答弁書は,平成3年答弁が外交的保護権の観点から協定を説明したものである一方,措置法による国内法上の財産権消滅は別問題であり,政府解釈は一貫していると整理した。

また,同答弁書は,サンフランシスコ平和条約によって請求に応ずべき法律上の義務が消滅し,その結果として救済が拒否されるという平成13年答弁の趣旨を確認している。この説明は,後の最高裁平成19年4月27日判決の権利行使阻害という構成と近い。

第6 韓国大法院判決との関係

1 平成30年10月30日大法院判決

韓国大法院平成30年10月30日判決(2013다61381)は,日本企業に対する強制動員慰謝料請求を認容した。

大法院全員合議体の多数意見7人は,当該慰謝料請求権が日韓請求権協定の対象に含まれないと判断した。そのため,多数意見は,対象となる請求権について外交的保護権のみが放棄されたのか,裁判上の行使が妨げられたのかという三説の選択をしていない。

これに対し,1人の別意見は差戻し後の拘束力を理由とし,3人の個別意見は請求権協定の対象に含まれるが放棄されたのは外交的保護権だけであるとし,2人の反対意見は協定の対象に含まれ,裁判上行使できないとした。

2 令和5年及び令和8年の大法院判決

韓国大法院令和5年12月21日判決(2018다303653)は,平成30年判決の多数意見と同様の前提に立って日本企業に対する請求を認めた。

韓国大法院令和8年2月12日判決(2024다228777)も,強制動員慰謝料請求権は日韓請求権協定の適用対象に含まれないとの従来の大法院判例を維持した。

したがって,日本の最高裁平成19年判決と韓国大法院判決の相違を理解するには,請求権放棄の効果だけでなく,問題となった請求権が国際文書の対象に含まれるかという前段階の判断を比較する必要がある。

第7 判例の射程と残る論点

1 最高裁平成19年判決の直接の射程

最高裁平成19年4月27日判決が直接判断したのは,日中戦争の遂行中に生じた中国国民の日本国又は日本国民若しくは法人に対する請求権と日中共同声明5項との関係である。

中国はサンフランシスコ平和条約の当事国ではなく,判決は日中共同声明5項を,同平和条約を中心とする戦後処理の枠組みに沿うものと解釈した。この理論構成を,文言及び締結経緯が異なる他の国際文書へ当然に一般化することはできない。

また,戦争遂行中の行為から生じた請求権と,戦後に新たに行われた別個の行為から生じた請求権を区別する必要がある。

2 学説上残る問題

最高裁平成19年判決については,①日中共同声明5項の文言から個人請求権の処理まで導けるか,②国会承認を経ていない共同声明を私人間請求の裁判上の行使を失わせる規範として直接適用できるか,③憲法32条の裁判を受ける権利並びに自由権規約2条3項の効果的救済及び同規約14条1項の公正な裁判を受ける権利との関係をどう考えるかという批判がある。

これらは判決の理論構成及び限界を検討するための重要な論点であるが,最高裁平成19年判決を変更する最高裁判例があるわけではない。

3 個別事件での確認順序

個別事件では,①適用される条約,協定又は共同声明,②その当事国,③対象期間及び対象行為,④国家の請求権,外交的保護権及び個人請求権の別,⑤請求原因,⑥国内法上の実施措置,⑦裁判上の行使可能性,⑧任意救済の余地の順に確認するのが適切である。

「完全かつ最終的に解決された」という国家間の表現だけから,個人の実体法上の請求権が消滅した,又は裁判上行使できると直ちに結論付けることはできない。

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第9 出典・参考資料

1 条約・国際文書

① 外務省,日本国との平和条約14条及び19条

② 外務省外交史料館,吉田・スティッカー書簡

③ 外務省,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言

④ 外務省,日本国とマレイシアとの間の昭和42年9月21日の協定

2 日本の裁判例

① 最高裁昭和43年11月27日大法廷判決・昭和40年(オ)第417号補償金請求事件・民集22巻12号2808頁

② 最高裁昭和44年7月4日第二小法廷判決・昭和41年(オ)第831号損失補償請求事件・民集23巻8号1321頁

③ 最高裁平成9年3月13日第一小法廷判決・平成5年(オ)第1751号各損害賠償請求事件・民集51巻3号1233頁

④ 最高裁平成19年4月27日第二小法廷判決・平成16年(受)第1658号損害賠償請求事件・民集61巻3号1188頁

⑤ 最高裁平成19年4月27日第一小法廷判決・平成17年(受)第1735号損害賠償等請求事件・集民224号325頁

3 国会答弁・政府資料

① 国立国会図書館国会会議録検索システム,平成3年8月27日参議院予算委員会会議録

② 国立国会図書館国会会議録検索システム,平成4年2月26日衆議院外務委員会会議録

③ 国立国会図書館国会会議録検索システム,平成13年3月22日参議院外交防衛委員会会議録

④ 参議院,平成15年1月28日付け日本の戦後処理問題に関する質問に対する答弁書

4 韓国大法院資料

① 韓国大法院,平成30年10月30日全員合議体判決に関する公表資料・2013다61381

② 韓国大法院,令和5年12月21日判決に関する公表資料・2018다303653

③ 韓国大法院,令和8年2月12日判決要旨・2024다228777

5 文献

① 宮坂昌利「中国人の強制連行・強制労働訴訟に関する最高裁平成19年4月27日判決」法曹会編『最高裁判所判例解説民事篇平成19年度(上)』法曹会,2010年,400頁~442頁

② 湯山智之「外交的保護,個人請求権と戦後補償問題」立命館法学423・424号,2026年,553頁~579頁

③ Chongyang Xin, Treaty Interpretation Concerning Individuals' Right to Claims, Chinese Journal of International Law, Vol.12, No.1, 2013, pp.105-123

④ 中野徹也『条約法』法律文化社,2025年,144頁及び179頁

⑤ 岡田正則『行政法II 行政救済法』日本評論社,2024年,18頁~19頁