裁判官を他の裁判所へ転所させる人事は,裁判所法48条により本人の意思に反して行うことができないため,本人の承諾を前提とする。
一方,希望者の多い大規模庁へ異動する若手裁判官について,将来の転出条件を承諾書に記載することがあると最高裁判所は説明している。
本記事では,この「転出に関する約束」の意味,制度形成の経緯,異動手続,個別の承諾書と最高裁判所が保有していない文書との違い及び2026年までの公表資料を整理する。
第1 「転出に関する約束」の意味
1 裁判所法上の用語は「転所」であること
裁判所法48条は,裁判官がその意思に反して免官,転官,転所,職務停止又は報酬減額を受けないことを定めている。
「転勤」は一般的な呼び方であり,本記事の「転出」は最高裁判所の公表資料に現れる表現であるのに対し,裁判所法48条の法定用語は「転所」である。
2 将来の異動条件を記載した承諾書
最高裁判所が公表している2002年7月当時の裁判官人事の説明によれば,希望者の多い大規模庁へ転入する判事10年目くらいまでの者については,機会均等を図るため,将来,最高裁判所が指定する庁へ転出する旨の約束を書面でする扱いとされていた。
同資料は,この約束を「あくまで紳士協定的なもの」と説明している。
この書面上の条件が,本記事の表題にいう「裁判官の転出に関する約束」である。
第2 異動慣行の形成と2002年当時の説明
1 昭和27年・28年頃に形成された申し合わせ
第77回国会衆議院法務委員会の1976年3月2日の答弁で,最高裁判所長官代理者は,終戦後の人員不足が落ち着くと,大都市勤務を希望する裁判官が多い一方,大都市の配置が空かず,地方勤務者が希望する勤務機会を得にくい状況が生じたと説明した。
同答弁によれば,昭和27年から28年頃,全国の裁判官や裁判所長等の意見を聴いた上で,大都市勤務の機会を広く確保するため,大都市勤務者も一定期間後に次の者と交代するという申し合わせが形成された。
また,判事補については,大規模庁,中規模庁及び小規模庁をおおむね1回ずつ経験する3年程度の異動が原則的な運用として説明されている。
この答弁は1976年時点の制度沿革に関する説明であり,現在の異動周期を直接示す資料ではない。
2 裁判官第二カードと大規模庁への希望
2002年7月当時の最高裁判所の説明によれば,全裁判官は,毎年,裁判官第二カードによって勤務地及び担当事務の希望を提出していた。
一方,公開されている人事局長通達では,裁判官第二カードを毎年8月1日現在で在職する裁判官のうち高等裁判所長官を除く者が作成すると定めているため,2002年説明の「全裁判官」という表現は,同通達上の作成者の範囲とは一致しない。
同資料は,勤務地について「7割前後は首都圏希望ではないかと思われる」と説明し,京阪神地域の希望も相当数あるとしていた。
この「7割前後」は,2002年当時の幹事説明に含まれる推測であり,現在の希望割合を示す集計値ではない。
大都市への希望の偏りを背景として,若手裁判官が大規模庁へ転入する際に,将来の転出条件を書面に記載する運用が説明されていた。
第3 異動の内示,承諾及び決定
1 2002年当時の異動手続
2002年当時の最高裁判所の説明では,異動の内示は,事件処理及び住居移転を考慮して原則として異動の2か月以上前に行い,離島等への異動は3か月以上前に行うとされていた。
本人が承諾した場合,最高裁判所裁判官会議の決定を経て発令し,承諾しない場合には,異動先を変更し,又は留任とする扱いが説明されていた。
2 異動案で考慮するとされた事情
同説明によれば,異動案は,各裁判所の人員補充の必要性,各裁判官の任地及び担当事務の希望,本人と家族の健康状態並びに家庭事情等を考慮し,適材適所及び公平を旨として立案されていた。
もっとも,これらは2002年当時の公表説明であり,個別の異動条件又は現在の人事判断を外部から確定できる一般的基準ではない。
第4 2016年答申が不存在と判断した文書
1 開示申出の対象となった2種類の文書
平成28年度(最情)答申第12号の開示申出は,次の2種類の文書を対象としていた。
- ① 希望者の多い大規模庁へ転入する判事10年目くらいまでの者が行う「何年後には最高裁の指定する庁に転出する」という約束について,取扱いの詳細を定めた文書
- ② 前記の約束をした判事及び判事補の人数が分かる文書
情報公開・個人情報保護審査委員会は,最高裁判所がこれらの文書を作成又は取得しておらず,保有していないと認め,不存在を理由とする不開示判断を妥当とした。
したがって,同答申から確認できるのは,2016年当時,約束の取扱いを一般的に定めた文書と人数の集計文書を最高裁判所が保有していなかったことである。
2 個別の承諾書は作成されることがあること
同答申に記載された最高裁判所事務総長の説明によれば,実務上,異動が予定される裁判官から,免官,転官及び転所等を承諾する旨の書面が提出される。
また,必要に応じて,一定期間後に一定の条件の裁判所へ異動するなどの異動条件が,その書面に併記されることがある。
審査委員会は,異動条件は法令等に基づく一般的なルールではなく,個々の裁判官の固有事情に応じた個別的な性格のものであるとして,取扱いの詳細を一般文書にまとめる通常の必要性はないと判断した。
一般的な取扱文書及び人数集計文書を保有していないことは,個別の異動承諾書が作成されないことを意味しない。
第5 2026年の情報公開答申
最高裁判所は,令和8年度情報公開答申の一覧を公表している。
1 希望勤務地の全国集計文書
令和8年度(最情)答申第5号は,2025年4月の人事異動に際して,全国の裁判官の希望勤務地を取りまとめた文書について,最高裁判所が作成又は取得しておらず,保有していないとする判断を妥当とした。
同答申は,そのような集計文書を作成又は取得する定めがなく,事務処理上の必要もないとする最高裁判所の説明を不合理ではないと判断した。
個々の裁判官が勤務地等の希望を提出することと,最高裁判所が全国分の集計文書を作成していないこととは,別の事柄である。
2 任補承諾書の一般的な書式
令和8年度(最情)答申第7号は,「任補承諾書の書式を定めた一連の文書」について,最高裁判所が作成又は取得しておらず,保有していないとする判断を妥当とした。
同答申における任補承諾書とは,裁判官に任命され,特定の庁に補職されることを承諾する旨を最高裁判所へ提出するための文書である。
この答申も,一般的な書式を定めた一連の文書の不存在に関するものであり,個別の任補承諾書又は異動条件付きの承諾書が一切作成されないことを意味しない。
第6 全国異動をめぐる2026年の説明と負担軽減
1 勤務地域を限定する仕組みに対する最高裁判所の説明
第221回国会衆議院法務委員会の2026年4月14日の答弁で,最高裁判所長官代理者は,依願退官の事情は様々であるものの,全国転勤を理由に挙げる者もいると説明した。
一方,一部の裁判官について勤務地域を限定する仕組みを設けることには,大都市志向が強まる中で適材適所の観点から裁判官を全国に確保できるかという検討課題があるとした。
同代理者は,任用及び配置に当たり,本人の希望,健康状態及び家族の状況等へ配慮し,異動に伴う負担の軽減に努めるとも答弁している。
これは2026年4月時点の最高裁判所側の説明であり,勤務地域限定制度の導入が決まったことを示すものではない。
2 新幹線通勤手当の上限引上げ
財務省広報誌「ファイナンス」2025年4月号の「東京・名古屋新幹線通勤日記」は,東京から名古屋への新幹線通勤と在宅勤務等を組み合わせた国家公務員の事例を紹介している。
人事院の令和6年改正給与法等の概要及び人事院月報2025年4月号によれば,2025年4月1日から,通勤手当の月額上限は従前の合計7万5000円から15万円へ引き上げられ,新幹線等の特別料金も上限内で全額支給の対象となった。
この事例及び制度改正は異動に伴う経済的負担を考える資料であるが,裁判官の転出条件又は承諾書の法的根拠ではない。
第7 裁判官の異動に関する資料と関連記事
- ① 裁判官第一カード,裁判官第二カード及び裁判官第三カード
- ② 裁判官の希望勤務地を取りまとめた文書は存在しないこと
- ③ 裁判官の転勤の内示時期
- ④ 毎年4月1日付の人事異動等に関する最高裁判所裁判官会議
- ⑤ 移転料の支給に関するQ&A(Ver.3.2)
第8 出典
1 法令・公文書・国会会議録
- ① e-Gov法令検索「裁判所法」48条
- ② 国立国会図書館国会会議録検索システム「第77回国会衆議院法務委員会第2号・発言45」(1976年3月2日)
- ③ 最高裁判所「第2 裁判官の人事評価の現状と関連する裁判官人事の概況」(2002年7月現在の説明)
- ④ 最高裁判所事務総局人事局長「裁判官に関する人事事務の資料の作成等について」(2004年5月31日付け人任E第623号,2012年3月1日改正,PDF1頁~8頁)
- ⑤ 最高裁判所情報公開・個人情報保護審査委員会「平成28年度(最情)答申第12号」(2016年6月3日,資料記載1頁~4頁,PDF1頁~4頁)
- ⑥ 最高裁判所情報公開・個人情報保護審査委員会「令和8年度(最情)答申第5号」(2026年4月30日,資料記載1頁~2頁,PDF1頁~2頁)
- ⑦ 最高裁判所情報公開・個人情報保護審査委員会「令和8年度(最情)答申第7号」(2026年4月30日,資料記載1頁~2頁,PDF1頁~2頁)
- ⑧ 衆議院「第221回国会法務委員会第3号」(2026年4月14日)
2 ウェブ資料
- ① 財務省広報誌「ファイナンス」2025年4月号「東京・名古屋新幹線通勤日記」(誌面42頁~45頁,PDF1頁~4頁)
- ② 人事院「令和6年改正給与法等の概要」
- ③ 人事院「人事院月報2025年4月号」