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最高裁平成19年4月27日判決とサンフランシスコ平和条約の請求権放棄(AIリライト)

第1 対象となる最高裁判決とその結論

1 事件の表示

最高裁第二小法廷平成19年4月27日判決(平成16年(受)第1658号損害賠償請求事件・民集61巻3号1188頁)は,日中戦争中に中国から日本へ強制連行され,強制労働に従事させられたとする中国国民が,日本企業に損害賠償を請求した事件に関する判決である。一般に,西松建設中国人強制連行・強制労働事件と呼ばれている。

最高裁は,請求を認容した広島高裁平成16年7月9日判決を破棄し,原告らの請求を棄却した。裁判所HPの判例情報には,事件名,事件番号,法廷名,結果が「破棄自判」であること及び判例集の掲載頁が示されている。

2 直接の解釈対象

本判決が直接解釈したのは,日本国との平和条約(以下「サンフランシスコ平和条約」という。)14条(b)そのものではなく,日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(以下「日中共同声明」という。)5項である。中国はサンフランシスコ平和条約の当事国ではない。

最高裁は,日中共同声明5項を,サンフランシスコ平和条約を中心とする戦後処理の枠組みに沿うものと解釈した。そのため,本判決を「平和条約14条(b)が中国国民に直接適用された判決」と説明することは正確でない。

3 判決の結論

最高裁は,日中戦争の遂行中に生じた中国国民の日本国又は日本国民若しくは法人に対する請求権は,日中共同声明5項によって「裁判上訴求する権能を失った」と判示した。もっとも,請求権それ自体が実体法上消滅したとはしていない。

この区別により,被告から請求権放棄の抗弁が主張された場合,訴えを不適法として却下するのではなく,請求を理由がないものとして棄却することになる。本判決の結論を理解するには,請求権の存否と裁判による強制可能性を分ける必要がある。

第2 サンフランシスコ平和条約を中心とする戦後処理の枠組み

1 平和条約14条(b)及び19条

サンフランシスコ平和条約14条(b)は,同条に別段の定めがある場合を除き,連合国が,日本国及び日本国民に対する賠償請求権その他の請求権を放棄する旨を定める。19条(a)は,日本国及び日本国民が,連合国及びその国民に対する請求権を放棄する旨を定めており,双方の請求権を包括的に処理する構造である。

ただし,どの請求権が放棄対象となるかは,各条項の文言,請求権の発生時期,原因行為及び当事国を確認して判断する必要がある。「戦争に関係する請求である」というだけで,すべて同じ結論になるものではない。

2 最高裁が示した枠組みの目的

最高裁は,サンフランシスコ平和条約について,戦争状態を終結させ,将来に向けて友好関係を築くため,戦争遂行中に生じた請求権を一括して処理する枠組みを定めたものと整理した。個々の請求権を事後的な民事裁判による解決に委ねると,条約締結時には予測しにくい過大な負担を各国及びその国民に負わせ,混乱を生じさせるおそれがあるという理解が基礎にある。

この説明は,個人被害の重大性を否定するものではなく,講和による請求権処理の制度目的を述べたものである。本判決は,この目的から,請求権放棄を外交的保護権だけの放棄に限定せず,個人が裁判上請求する権能にも及ぶものと解釈した。

3 平和条約非当事国との戦後処理

日本国政府は,サンフランシスコ平和条約の非当事国との間でも,二国間の平和条約,共同宣言又は請求権処理に関する協定によって戦後処理を行った。最高裁は,これらについても,平和条約を中心とする戦後処理の枠組みと同一の又は実質的に同一の条件による請求権処理が予定されていたと捉えた。

もっとも,個々の国際文書の文言と法的性質は同じではない。本判決が,日中共同声明5項の文言だけでなく,交渉経過及びその後の日中平和友好条約まで検討したのは,この違いを踏まえて同項の規範性と対象範囲を確定するためである。

第3 請求権放棄の法的効果

1 三つの見解

請求権放棄条項の効果については,①国家が自国民のために相手国へ請求する外交的保護権だけを放棄したとする見解,②個人の請求権は存続するが,裁判上の行使が妨げられるとする見解,③個人の請求権それ自体が実体法上消滅するとする見解が区別される。

本判決は,②の権利行使阻害説を採用した。三つの見解と関連する最高裁判例の全体像については,平和条約における請求権放棄条項に関する三つの説及び最高裁判例に別途整理している。

2 裁判上訴求する権能の喪失

本判決によれば,請求権の「放棄」は,請求権を実体的に消滅させることまで意味せず,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまる。このため,請求権の内容に理由があるかを判断する前に請求権放棄の抗弁が認められれば,請求は棄却を免れない。

最高裁判所調査官の判例解説等では,この状態は,実体的請求権は残るが裁判による強制を受けないという意味で,自然債務に近いものと説明されている。ただし,「自然債務」は判決が用いた文言ではなく,判決の法的効果を説明するための学説上の比喩である。

3 任意かつ自発的な対応

請求権が実体的に消滅しない以上,債務者側が,請求権の内容等を考慮して任意かつ自発的に支払,和解その他の対応をすることは妨げられない。本判決は,サンフランシスコ会議当時の日本国とオランダとのやり取りも,この理解の根拠に挙げた。

さらに,本判決は,被害者らが被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかったこと,上告人企業が強制労働によって相応の利益を受け,補償金も取得していたこと等に触れ,関係者が被害救済に向けて努力することを期待すると述べた。この付言は法的な支払義務を認めるものではないが,任意救済の余地を判決が具体的に意識していたことを示す。

4 国家による個人請求権の処理

被害者側は,国家が放棄できるのは外交的保護権であり,国民固有の私権まで国家間の合意で制限できないと主張した。これに対し,最高裁は,国家は,戦争終結に伴う講和条約の締結に際し,国際法上の対人主権に基づき,個人の請求権を含む請求権の処理を行い得るとした。

この対人主権論は,本判決の結論を支える重要な部分である。他方で,国家が私人の権利を処理できる限界,条約等の国内的効力及び裁判を受ける権利との関係は,後記第6のとおり,学説上の検討が続いている。

第4 日中共同声明5項への適用

1 共同声明5項の文言

日中共同声明5項は,中華人民共和国政府が,日本国に対する「戦争賠償の請求」を放棄することを宣言する。同項は,中国国民の日本国又は日本国民に対する個人請求権を明記していない。

したがって,共同声明5項の文言そのものと,最高裁が交渉経過等を踏まえて同項に認めた法的効果を区別しなければならない。個人請求権を含むという結論は,同項の表面上の文言だけから直接導かれたものではない。

2 国際法規範としての性質

最高裁は,日中共同声明が国会の承認を経た条約ではないことを前提にしつつ,両国政府が共同声明によって国交正常化を実現し,戦争賠償及び請求権の問題を最終的に処理する意思を有していたと認定した。また,日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約の前文が,日中共同声明を両国間の平和友好関係の基礎とし,共同声明の諸原則を厳格に遵守すべきことを確認した点も重視した。

その上で,最高裁は,共同声明5項を,単なる政治的表明ではなく,請求権処理について国際法規範としての性質を有するものと判断した。国際法規範性と,日本の裁判所が私人間の請求を棄却する根拠として直接適用できるかという国内直接適用可能性は,本来,区別して検討すべき問題である。

3 個人請求権を含むとの解釈

最高裁は,日中国交正常化交渉の過程で,日本側が平和条約の請求権処理と同様の処理を提案し,中国側も戦争賠償の放棄を表明して国交正常化に合意したという経過を認定した。そして,平和条約を中心とする戦後処理の枠組みに照らし,共同声明5項は,日中戦争の遂行中に生じた両国及び両国民の請求権を,個人請求権を含めて処理する趣旨であると解釈した。

その結果,中国国民の日本国又は日本国民若しくは法人に対する対象請求権は,実体的に消滅しないものの,裁判上訴求する権能を失ったとされた。共同声明5項に「個人請求権」という文言がないことは,最高裁の体系的な解釈を左右しないとされたのである。

第5 判決理由を読む際の留意点

1 「国会の批准」と「国会の承認」

判決理由には,条約について「国会の批准を得て締結される」との表現がある。しかし,日本国憲法73条3号が用いる語は,条約締結についての「国会の承認」である。条約自体について行われる批准と,国内手続としての国会の承認は区別する必要がある。

判決原文を引用するときは文言を改変せず,憲法上の用語との差を注記するのが適切である。この点は用語の精度に関する問題であり,それだけで本判決の結論が左右されるものではない。

2 オランダの位置付け

判決理由は,サンフランシスコ平和条約の非当事国との戦後処理を説明する部分で,昭和31年の日蘭私的請求権解決議定書を例示するような構成になっている。しかし,オランダはサンフランシスコ平和条約の当事国である。

したがって,日蘭議定書を平和条約非当事国との戦後処理の例として一般化することは正確でない。この史実上の問題は,本判決の判例研究でも指摘されている。

3 昭和42年の日馬協定

日本国とマレイシアとの間の昭和42年9月21日の協定2条は,第二次世界大戦中の不幸な事件から生ずる両国間のすべての問題が完全かつ最終的に解決された旨を定める。同条自体には,個人請求権を相互に放棄するとの文言はない。

最高裁が,同協定を,個人請求権を含む戦争中の請求権を相互に放棄する趣旨の戦後処理と位置付けたのである。そのため,協定条文の内容と,最高裁による協定の評価は,主語を明示して分けて記載する必要がある。

第6 政府答弁の変遷と判決理論の検討点

1 外交的保護権のみの放棄から「権利はあるが救済はない」へ

政府は,第123回国会衆議院外務委員会平成4年2月26日において,日韓請求権協定に関し,条約上は個人請求権を直接消滅させておらず,日本の裁判所への提訴まで妨げていないと説明した。もっとも,これは日韓請求権協定に関する答弁であり,日中共同声明5項の直接の解釈資料ではない。

その後,第151回国会参議院外交防衛委員会平成13年3月22日において,外務省条約局長は,サンフランシスコ平和条約14条(b)について,個人請求権自体が消滅したとはいわないが,請求に応ずべき法律上の義務が消滅し,救済が拒否されると説明した。同答弁は,この状態を「権利はあるけれども救済はない」と表現している。

第198回国会参議院外交防衛委員会令和元年5月28日の政府答弁も,日韓請求権協定について,請求に応ずべき法律上の義務が消滅し,法的救済が否定されるとの理解を示した。本判決の権利行使阻害説は,後二者の説明と整合するが,政府説明の対象文書と時点を区別して読む必要がある。

2 国際法規範性と国内直接適用可能性

日中共同声明5項に国家間の国際法上の拘束力を認めることと,同項を私人間の損害賠償請求を棄却する規範として国内裁判所が直接適用することは,別の段階の問題である。後者については,規定の明確性,締結当事国の意思,国内実施措置の要否及び私権制限との関係を検討する必要がある。

中野徹也『条約法』は,日中平和友好条約前文を用いた共同声明5項の国際法規範性の認定と,最高裁が国内直接適用可能性の判断基準を明示しなかった点を批判的に検討している。これは本判決を覆す別の確立判例を示すものではなく,判決の論証が十分であったかという学説上の問題提起である。

3 私権の処理と裁判を受ける権利

国家が対人主権に基づいて個人請求権を処理できるとしても,国会承認を経ていない共同声明によって私人の裁判上の権利行使を失わせることと,憲法32条の裁判を受ける権利との関係が問題となる。岡田正則『行政法II 行政救済法』は,本判決の対人主権論と私人の権利処理を,憲法32条との関係から批判的に論じている。

自由権規約2条3項及び14条1項との関係も論じられている。ただし,日中共同声明は昭和47年9月29日に発出され,自由権規約が日本について効力を生じたのは昭和54年6月21日である。規約の遡及適用の問題と,現在の国際人権法からみた制度評価を混同してはならない。

4 吉田・スティッカー書簡と現在の人権法

最高裁は,サンフランシスコ会議当時の吉田茂内閣総理大臣とオランダ代表スティッカー外務大臣との書簡を,実体的請求権が消滅せず,任意の自発的対応が許されることの根拠として用いた。これに対し,日蘭間の限定的な了解を平和条約全体の一般的解釈へ広げ,さらに中国との共同声明の解釈へ及ぼせるかという批判がある。

また,重大な国際人権法又は国際人道法違反について,被害者の救済を受ける権利を重視する国際法の発展がある。後年に形成された規範を昭和26年又は昭和47年の国際文書へ直ちに遡及適用することはできないが,任意救済又は特別立法を検討する政策的及び道義的な根拠として考慮する余地がある。

第7 本判決の射程及び関連記事

1 本判決の射程

本判決の直接の対象は,日中戦争の遂行中に生じた中国国民の日本国又は日本国民若しくは法人に対する請求権である。請求権放棄に関する一般論だけを切り出し,すべての戦後補償,すべての二国間文書又は戦後に新たに生じた損害へ当然に適用することはできない。

個別の事案では,適用される国際文書,その文言と法的性質,当事国,対象期間,原因行為,請求原因及び国内直接適用可能性を確認する必要がある。日本の戦後賠償及び戦後補償並びに在外財産補償問題は,戦後処理全体の経緯を理解するための関連記事である。

2 同日言渡しの最高裁第一小法廷判決

最高裁第一小法廷平成19年4月27日判決(平成17年(受)第1735号損害賠償等請求事件・集民224号325頁)も,日中戦争の遂行中に生じた中国国民の請求権が,日中共同声明5項によって裁判上訴求する権能を失ったと判示した。

同日に二つの小法廷が同じ請求権処理の解釈を示したことは,本判決の位置付けを理解する上で重要である。ただし,それぞれの事件で問題となった被害事実及び付言は同一ではないため,各判決の結論と理由を個別に確認する必要がある。

3 その他の関連記事

日韓請求権協定及び日本政府の見解は,政府答弁の比較対象である。日中関係の正常化及びその後の経緯は,日中共同声明及び日中平和友好条約の歴史的な位置付けを確認するための関連記事である。

これらの文書は対象国,文言及び国内法上の処理が異なるため,ある協定についての政府答弁又は裁判例を,別の協定又は共同声明へそのまま移して説明しないことが重要である。

国家間の賠償支払が完了した時期と,本判決が扱う個人請求権の法的効果とを区別するためには,日本の戦後賠償はいつ終わったのかも参照されたい。

第8 出典・参考資料

1 条約,共同声明及び法令

① 外務省「日本国との平和条約」14条(b)及び19条

② 外務省「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」5項

③ 外務省「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」前文

④ 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所「日本国とマレイシアとの間の昭和四十二年九月二十一日の協定」2条

⑤ e-Gov法令検索「日本国憲法」73条3号

2 裁判例及び外交資料

① 最高裁第二小法廷平成19年4月27日判決・平成16年(受)第1658号損害賠償請求事件・民集61巻3号1188頁(判決全文PDF10頁~20頁)

② 最高裁第一小法廷平成19年4月27日判決・平成17年(受)第1735号損害賠償等請求事件・集民224号325頁

③ 外務省「大平外務大臣記者会見要旨」(昭和47年9月29日,北京)

④ 外務省「サンフランシスコ平和条約関係記録第3冊」(吉田・スティッカー書簡関係資料を含む。)

3 国会会議録

① 第123回国会衆議院外務委員会第2号平成4年2月26日(柳井俊二外務省条約局長答弁)

② 第151回国会参議院外交防衛委員会第4号平成13年3月22日(海老原紳外務省条約局長答弁)

③ 第198回国会参議院外交防衛委員会第16号令和元年5月28日(岡野正敬外務大臣官房審議官答弁)

4 文献

① 宮坂昌利「中国人の強制連行・強制労働訴訟に関する最高裁平成19年4月27日判決」『最高裁判所判例解説民事篇平成19年度(上)』法曹会,2010年,400頁~442頁

② 中野徹也『条約法』法律文化社,2025年,144頁及び179頁

③ 岡田正則『行政法II 行政救済法』日本評論社,2024年,18頁~19頁

④ 浅田正彦・Trevor Ryan「Post-war Reparations between Japan and China and Individual Claims」Zeitschrift für Japanisches Recht 27,2009,257頁~284頁

⑤ 湯山智之「外交的保護,個人請求権と戦後補償問題」立命館法学423・424号,2026年,553頁~579頁