目次
1 親任官
2 勅任官
3 控訴院
4 検事局
5 戦前の公判立会検事の状況
6 関連記事その他
1 親任官
2 勅任官
3 控訴院
4 検事局
5 戦前の公判立会検事の状況
6 関連記事その他
1 親任官
ただし,司法関係の親任官ポストは,司法大臣,大審院長,検事総長及び行政裁判所長官だけでした。
イ 親任官ポストになった時期は,大審院長が大正3年であり(従前は親補職でした。),行政裁判所長官が大正5年であり,検事総長が大正10年でした(ただし,大正3年に親補職になっていました。)。
ウ 親補職は,勅任官の中から親補(親補式をもって補すること)される職のことであり,在任中は親任官の待遇を受けることができました。
(3) 大審院長(裁判所構成法44条1項)は大審院の一般の事務を指揮し,その行政事務を監督する権限を有していました(裁判所構成法44条2項)。
(4) 皇室儀制令(大正15年10月21日皇室令第7号)29条に基づく宮中席次によれば,親任官である大審院長は第11ですから,第10の陸軍大将,海軍大将及び枢密顧問と,第12の貴族院議長及び衆議院議長の間でした。
イ 親任官ポストになった時期は,大審院長が大正3年であり(従前は親補職でした。),行政裁判所長官が大正5年であり,検事総長が大正10年でした(ただし,大正3年に親補職になっていました。)。
ウ 親補職は,勅任官の中から親補(親補式をもって補すること)される職のことであり,在任中は親任官の待遇を受けることができました。
(3) 大審院長(裁判所構成法44条1項)は大審院の一般の事務を指揮し,その行政事務を監督する権限を有していました(裁判所構成法44条2項)。
(4) 皇室儀制令(大正15年10月21日皇室令第7号)29条に基づく宮中席次によれば,親任官である大審院長は第11ですから,第10の陸軍大将,海軍大将及び枢密顧問と,第12の貴族院議長及び衆議院議長の間でした。
2 勅任官
(1)ア 狭義の勅任官は高等官1等及び高等官2等の総称であり,広義の勅任官はこれらに親任官を含んだ総称でした。
イ 狭義の勅任官は現在の指定職に大体,対応しています。
(2)ア 司法関係の勅任官ポストは,司法省の次官及び局長,大審院部長判事,控訴院長及び地裁所長,並びに控訴院検事長及び地裁検事正だけでした(外部HPの「主要戦前官吏官僚ポスト表」参照)。
イ 狭義の勅任官は現在の指定職に大体,対応しています。
(2)ア 司法関係の勅任官ポストは,司法省の次官及び局長,大審院部長判事,控訴院長及び地裁所長,並びに控訴院検事長及び地裁検事正だけでした(外部HPの「主要戦前官吏官僚ポスト表」参照)。
それぞれのポストの序列は,外部HPの「大正・昭和戦前期における幹部裁判官のキャリアパス分析」が分かりやすいです。
イ 大審院部長は,部の事務を監督し,その分配を定める権限を有していました(裁判所構成法44条3項)。
(3)ア 日本の歴史学講座HPの「主要戦前官吏官僚ポスト」によれば,大審院部長判事は高等官1等又は高等官2等であり,大審院判事は高等官1等ないし高等官7等であるとされています。
ただし,大審院判事の等級に開きがありすぎる気がしますから,正しいかどうか不明です。
イ 高等官3等ないし高等官9等の総称は奏任官でした。
(4) 「公務員制度改革の経緯と今後の展望 」(2008年1月の立法と調査)には以下の記載があります(リンク先のPDF2頁)。
昇進に関しては、文官高等試験(高文)に合格すると、最初は、判任官である属として任用され、2年後に奏任官である事務官に任官する。入省 10年後には本省課長、20 年程度で局長、42,3 歳で次官に就任している。また、各省官制通則及び各省ごとの官制といった勅令により、次官には勅任官を充てるなど、どのポストにはどの官を充てるかが定められていた。また、文官任用令によって奏任官の採用を高文合格者に限定し、勅任官には奏任官からしか任用されないことが定められた。これにより、課長以上へは高文合格者以外には昇進できなくなるとともに、政治的任用が排除された。早期退職制も慣行として存在していた。以上のような官吏制度は、概ね明治 20年代に整備され、終戦まで継続することになる。
3 控訴院
(1)ア 控訴院は,現在の高等裁判所に相当する裁判所です。
イ 控訴院長(裁判所構成法35条1項)は控訴院の一般の事務を監督し,その行政事務を監督する権限を有していました(裁判所構成法35条2項)。
ウ 控訴院部長は部の事務を監督し,その分配を定める権限を有していました(裁判所構成法35条3項)。
(2) 函館控訴院ノ移転ニ関スル法律(大正10年4月8日法律第51号)及び大正10年12月6日勅令453号に基づき,大正10年12月15日,函館控訴院が札幌控訴院となりました。
(3) 昭和20年8月1日公布の勅令第443号に基づき,昭和20年8月15日,長崎控訴院が福岡控訴院となり,高松控訴院(昭和21年1月10日廃止)が設置されました(高松控訴院につき,高松高検HPの「高松高等検察庁の沿革」参照)。
4 検事局
(1) 明治憲法時代は大審院以下の各裁判所に対応して,大審院検事局,控訴院検事局,地方裁判所検事局及び区裁判所検事局が付置されていました(裁判所構成法6条参照)。
(2) 裁判所と検事局が分化していませんでしたから,戦後でいう判検交流は普通に行われていた人事でした。
イ 大審院部長は,部の事務を監督し,その分配を定める権限を有していました(裁判所構成法44条3項)。
(3)ア 日本の歴史学講座HPの「主要戦前官吏官僚ポスト」によれば,大審院部長判事は高等官1等又は高等官2等であり,大審院判事は高等官1等ないし高等官7等であるとされています。
ただし,大審院判事の等級に開きがありすぎる気がしますから,正しいかどうか不明です。
イ 高等官3等ないし高等官9等の総称は奏任官でした。
(4) 「公務員制度改革の経緯と今後の展望 」(2008年1月の立法と調査)には以下の記載があります(リンク先のPDF2頁)。
昇進に関しては、文官高等試験(高文)に合格すると、最初は、判任官である属として任用され、2年後に奏任官である事務官に任官する。入省 10年後には本省課長、20 年程度で局長、42,3 歳で次官に就任している。また、各省官制通則及び各省ごとの官制といった勅令により、次官には勅任官を充てるなど、どのポストにはどの官を充てるかが定められていた。また、文官任用令によって奏任官の採用を高文合格者に限定し、勅任官には奏任官からしか任用されないことが定められた。これにより、課長以上へは高文合格者以外には昇進できなくなるとともに、政治的任用が排除された。早期退職制も慣行として存在していた。以上のような官吏制度は、概ね明治 20年代に整備され、終戦まで継続することになる。
3 控訴院
(1)ア 控訴院は,現在の高等裁判所に相当する裁判所です。
イ 控訴院長(裁判所構成法35条1項)は控訴院の一般の事務を監督し,その行政事務を監督する権限を有していました(裁判所構成法35条2項)。
ウ 控訴院部長は部の事務を監督し,その分配を定める権限を有していました(裁判所構成法35条3項)。
(2) 函館控訴院ノ移転ニ関スル法律(大正10年4月8日法律第51号)及び大正10年12月6日勅令453号に基づき,大正10年12月15日,函館控訴院が札幌控訴院となりました。
(3) 昭和20年8月1日公布の勅令第443号に基づき,昭和20年8月15日,長崎控訴院が福岡控訴院となり,高松控訴院(昭和21年1月10日廃止)が設置されました(高松控訴院につき,高松高検HPの「高松高等検察庁の沿革」参照)。
4 検事局
(1) 明治憲法時代は大審院以下の各裁判所に対応して,大審院検事局,控訴院検事局,地方裁判所検事局及び区裁判所検事局が付置されていました(裁判所構成法6条参照)。
(2) 裁判所と検事局が分化していませんでしたから,戦後でいう判検交流は普通に行われていた人事でした。
5 戦前の公判立会検事の状況
(1) 「刑事訴訟法が軌道に乗るまで-第一審の公判を中心として-」(筆者は桂正昭 最高検察庁検事)には以下の記載があります(ジュリスト551号(1974年1月1日号)80頁及び81頁)。
旧刑事訴訟法の下では、検察官が作成した捜査記録は、公訴の提起と同時にすべて裁判所に引き継がれ、裁判所は、これらの記録を仔細に検討したうえで公判にのぞみ、公判廷では詳細な被告人尋問を行ない、その弁解するところによって疑問が生ずれば、証人尋問などを行って黒白を決するという方法が取られていた。検察官の行う捜査は、被告人の弁解の余地がないようにすべきものとされていたから、大方の事件にあっては、検察官の公判立会はきわめて楽なものであり、公訴事実の陳述と論告求刑とを行えば足りるものが少なくなく、それも、「公判請求書記載のとおり」「事案明瞭、求刑懲役1年」といった程度のことを発言すれば足りるような場合が多かったのである。従って、検察官の努力の大半は捜査に注がれ、公判立会は当番制で検事席に坐っておれば足りるといった程度のことが多かった。
(2) ジュリスト551号は「刑事訴訟法25年の軌跡と展望」をメインテーマとしています。
6 関連記事その他
(1) 第13回行政改革推進本部専門調査会(平成19年9月7日開催)の資料一覧に,「戦前の官吏制度等について」が載っています。
(2) 親任官,勅任官及び奏任官の区別につき,日本近現代史研究HPの「官僚について」が参考になります。
(3) 国立国会図書館HPの「レファレンス」につき,平成31年2月号に「アメリカが見た明治憲法体制の進化と後退―政党内閣期から2.26事件まで―」が載っています。
(4) 以下の記事も参照してください。
・ 戦前の判事及び検事の定年
・ 幹部裁判官の定年予定日
・ 昭和20年8月15日,長崎控訴院が福岡に移転して福岡控訴院となり,高松控訴院が設置されたこと等
・ ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯
・ 検事総長,次長検事及び検事長が認証官となった経緯
(1) 「刑事訴訟法が軌道に乗るまで-第一審の公判を中心として-」(筆者は桂正昭 最高検察庁検事)には以下の記載があります(ジュリスト551号(1974年1月1日号)80頁及び81頁)。
旧刑事訴訟法の下では、検察官が作成した捜査記録は、公訴の提起と同時にすべて裁判所に引き継がれ、裁判所は、これらの記録を仔細に検討したうえで公判にのぞみ、公判廷では詳細な被告人尋問を行ない、その弁解するところによって疑問が生ずれば、証人尋問などを行って黒白を決するという方法が取られていた。検察官の行う捜査は、被告人の弁解の余地がないようにすべきものとされていたから、大方の事件にあっては、検察官の公判立会はきわめて楽なものであり、公訴事実の陳述と論告求刑とを行えば足りるものが少なくなく、それも、「公判請求書記載のとおり」「事案明瞭、求刑懲役1年」といった程度のことを発言すれば足りるような場合が多かったのである。従って、検察官の努力の大半は捜査に注がれ、公判立会は当番制で検事席に坐っておれば足りるといった程度のことが多かった。
(2) ジュリスト551号は「刑事訴訟法25年の軌跡と展望」をメインテーマとしています。
6 関連記事その他
(1) 第13回行政改革推進本部専門調査会(平成19年9月7日開催)の資料一覧に,「戦前の官吏制度等について」が載っています。
(2) 親任官,勅任官及び奏任官の区別につき,日本近現代史研究HPの「官僚について」が参考になります。
(3) 国立国会図書館HPの「レファレンス」につき,平成31年2月号に「アメリカが見た明治憲法体制の進化と後退―政党内閣期から2.26事件まで―」が載っています。
(4) 以下の記事も参照してください。
・ 戦前の判事及び検事の定年
・ 幹部裁判官の定年予定日
・ 昭和20年8月15日,長崎控訴院が福岡に移転して福岡控訴院となり,高松控訴院が設置されたこと等
・ ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯
・ 検事総長,次長検事及び検事長が認証官となった経緯
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