尋問の必要性等に関する東京高裁部総括の講演での発言

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29期の富田善範東京高裁14民部総括判事(当時)は,平成28年2月8日の講演「現代の民事裁判における裁判所の役割」(平成27年度司法研修所特別研究会7(現代社会における法と裁判)2/2参照)において,尋問の必要性等に関して以下の発言をしています(ナンバリング及び改行を追加しました。)。

1(1) 私は訟務に2回,合計13年行っておりました。現場の法廷に立つ訟務検事としても6年ぐらいはやっております。ですから,国の立場ではありますけれども,当事者の心理といいますか,やり方というものもよく分かるところがあります。
(2)   皆さん御承知のように,民事裁判は,当事者主義によって成り立っており,当事者に主張立証を任せれば自分に有利な主張立証をどんどん出してくるであろうから,当事者主義によって訴訟資料は充実するはずだと,民事訴訟法を習った段階ではそのように理解していました。
   現実はどうかというと,代理人をやってみると分かるのですが,率直に言って,当事者双方は,本来裁判所が審理の対象とすべき証拠のせいぜい2,3割ぐらいしか出してきません。
   その原因は何かというと,明らかに自分に有利な証拠はもちろん出しますが,明確に有利な書証というのはそんなにあるわけではありません。
   多くの資料は,自分にとって有利にもなるが, 不利にもなります。そうすると,少しでも不利になりそうなものは自分からは自主的に出さないのです。これが当事者の心理なのです。
(3)   ですから,訴訟段階で最初に出てくる書証は,客観的資料である登記簿とか,戸籍とかそういうものは出ますし,契約書があれば契約書が出てくる。
   しかし,それ以外のものというのは, なかなか普通の民事事件では出てこないことになります。しかも,事件のポイントになるところは余り書面化されていないことも多いわけです。
(4)   このようなことから,私は,民事裁判はミステリー小説ではないかと思っています。要するにぽつん,ぽつんと書証がありますが,その書証をつなぐものが直接ないのです。
   特に訴訟の最初の段階では余り出てこないものですから,裁判官には事実関係がよく分からないわけです。
   このように書証をつなぐものがはっきりしないとなれば,事件のストーリー,全貌は少しも浮かび上がってこないということになります。
(5)   ある先輩の裁判官は,これをクロスワードパズルと言っておられましたが,いずれにしてもこのミステリー小説のような状態をどう理解し解明していくかというのがなかなか難しいということになります。
   しかも,当事者は事実がどういうものかを知っています。代理人が全部知っているかどうか分かりませんが,当事者は真実というものを知っているわけです。代理人は少なくとも裁判所よりはよく知っています。
   そして,裁判所には分からないと思いますが,当事者同士では共通の事実認識も結構あります。6,7割は少なくとも当事者間で共通の事実認識があって,最後の少しは違ってくるかもしれませんが,代理人も当事者本人から話を聞けば,大体事件の全貌は浮かび上がってきます。
   ところが,これを裁判において,裁判所に説明する段階になると,お互いの見合いになってしまうわけです。
   とりあえず,必要最小限度の主張立証をして,相手の出方を見ながら,ここは反論しなければいけないというところだけは一所懸命反論しますが,それ以外の部分については,自分にとって有利か不利か分からないとなると, 急に身構えて主張立証を出し渋ってしまうのが当事者の心理です。
(6)   このような当事者主義に任せているとどういう結果になるかというと,当事者は一応の主張はするが,非常に資料が乏しく,何でこういう紛争になったのかとか,いろいろな経緯,動機とか背景事情とか,そういったものを余り出してこないことになります。
   そして,現にそういった当事者の主張立証が不足している事件がすごく増えているように思います。
   私は,民事裁判においては,このように当事者だけに主張立証を任せている限りはそうなりやすいことをよく考えておかなければならないと思います。
2(1) 私は,昨年6月に知財高裁から高裁民事部に移りまして,平成21年以来久しぶりに民事事件をやっているのですが,このような統計と歩調を合わせたように,原審で人証を調ぺていない,そして本人尋問すらしていない事件が以前に比べて目立って増えています。
   さらには陳述書すら出ていないという事件も増えております。
(2)   そういう事件では,一審の記録を見ると,書証以外は当事者の主張だけなのです。そうすると,その紛争に至った経緯とか動機とか背景事情は主張の中には少し述べられていますが,証拠上は全くないわけです。
   例えば,契約書はあるが,その契約書の成立等を争っていても,当事者が陳述書を出さないまま終結になっている事件が結構目につきます。
   そうすると,契約書をつくったけれども,これはこういう趣旨だったというようなことについては主張があるだけですので,裁判所の判断は,抽象的にそういう主張を認めるに足る証拠がないとか,あるいはこういう契約書がある以上,そういうことはないはずだとか,そういう判決になっていることが多いのです。
   しかし,そういう事件だと,高裁としては,この事件の実態がよく分からないということになります。その結果,当部の主任裁判官の合議メモでは,事件の経緯が分からないから,主張をやり直させなければならないとか,まずは陳述書を出させ,尋問しなければならないという意見が多くなっております。
   さすがに高裁段階で全部尋問するわけにもいかないので,ー応,事情を聞くために弁論準備や和解にすればいろいろ話をしてくるので,それによって,かなりの事件が和解で終わりますが,それだけではすまないので,今は,月に1,2件は証拠調べをするという状態です。
(3)   最近の事例では,離婚事件について,原審では,争点が破綻したかどうかだけだったためか本人尋問も実施されていなかったのですが,当審で慰謝料請求が追加されたので,これは調べざるを得ないということで双方本人を調べました。
   調べてみると,やはり事件の内容がよく分かります。当事者の言いたいこと,そして事件になった由来というのが分かります。
   皆さんも御承知のように,本人を見ながら尋問を聞けば,本人の言うことが信用できるかどうか,ある程度分かるわけです。その結果,結論が覆るのもあれば,もとの結論が維持されるのもありますが,間接事実を積み重ねていけば,判決においても事実関係を認定できますので,当然,判決は書きやすくなるわけです。
(4)   そういう意味でも,なぜそれが原審でされていないかということがーつ問題になるわけです。 当事者主義を突き詰めていくと,要は当事者が自分から陳述書も出さない,本人尋問も申請しないで,それで判決してくれということだから,裁判所は判決しているということなのでしょう。
   しかし,本当にそれでよいのかと思います。これで片側が本人訴訟の場合になると,私の部に来る控訴事件では,これまたほとんど尋問がされていないのです。
   尋問がなくて,弁論調書でポイントだけ押さえて何か言わせて,その限度で判決を書かれている例が結構あります。
   昔は,本人訴訟となると,なかなか書面だけでは何を言いたいのか分かりづらいので,とりあえず尋問して,言いたいことはこうねと,でもこうでしょうという形で話を押さえていくというのがやり方でした。
   このような場合も,当審で尋問する例があります。当事者は原審で話を聞いてもらえていませんから,当然,控訴してくるという形になるわけです。
   しかし,本当にこのように本人の言い分を直接聞く機会を作らないままでよいのかということが,今,問われているのではないかと思います。
3(1) 民事裁判における裁判官としての謙虚性と積極性という話をしたいと思います。
   これは,私自身が民事裁判に臨むに際してどういう考えで臨んでいるかということなのですが,先ほど申し上げたように,要するに,裁判所は当事者から全く何も知らされていない訳ではないですけれども,極めて少ない情報しか知らせてもらえないという面があります。
   ですからやはり裁判官は事件については大抵の場合よく分からない,基本的には知らないということになります。
   もっとも,我々は具体的事件の審理をやってみると,準備書面が往復する過程で,経験を積んでくると,特にここにおられる方は,大体この事件の結論はこうだよなという見通しが見えてきます。
   恐らく7,8割の事件は多分これはこう終わるだろうなと皆さん思われると思うのです。問題はそのときに,当事者がそれ以上主張・立証しない場合に, これで判断できると,判決を書けると思うかどうかが大事だと思うのです。
   私の経験では,7,8割の事件は,準備書面段階で大体こういう結論になると考えたとおりになりますが,2,3割の事件では人証調べの結果によって判断が変わっております。
   これは,結論だけでなく,事件のストーリーや細部が変わる場合を含みます。そういうケースは珍しくないのです。
   ですから,乏しい証拠しか出ていない段階で,主張レベルで余り早く結論を決めてしまわないというのが大事だと思います。もちろんその段階での心証に基づいて,心証開示したり,和解勧告をしたりするというのはよいと思います。
   むしろそれをして,裁判所の考えを当事者に告げた方が当事者にとってもよいことだと思うのです。
   これに対して,当事者から,いやそれは違います,こういう反論ができますといわれれば,やはり陳述書を出させ,証拠調べを行うことが必要になります。逆に,弁論準備で当事者と主張内容について何のやりとりもなく,和解勧告もなく,当事者が自分から陳述書を出さない,本人尋問を申請しないからということで終結して判決を書くとなると,当事者と双方向の議論なく判断するということになり,それは極めて危険なことだと思います。
   事件というのは,もともと証拠が乏しいものが多く,そもそも,当事者が証拠を全部出しても,本当のところはなかなか分かりません。最後は口頭でのやりとりが多いわけです。
   ですから,口頭でのやりとりについて,ちゃんと尋問で聞いて,反対尋問もし, 裁判所からも聞いて,立証が尽きたところで,やはり裁判所としてはこう判断するしかありませんというのが私は民事裁判ではないかと思います。
   要するに証拠調べが尽きたところで初めて結論を出せるのであって,証拠調べが尽きていない段階で軽々しく判断を出すというのは極めて危険であると思います。
   そういう意味で裁判官は事件に対して謙虚でなければならないと思っているわけです。
4(1) 皆さん,刑事事件では,よく動機ということが言われます。動機は何かと,動機が分からないと新聞でも議論になります。
   私は,刑事事件では,動機が直接ない場合もあるし,黙秘権によって動機をー切言わなくても,それは仕方がないと思うのです。
   ある意味では自分の内心のことですし,それでも必ず刑は言い渡されるわけです。
(2)   しかし,民事事件で,少なくとも契約絡みの事件で動機がない事件というのはまず考えられないと思います。
   民事事件は,お金,異性及び親族,そして事故が原因になりますが,少なくとも前二者について,人間の行動には動機がないはずがないのです。
   その動機に基づく行為が合理的かどうかで民事事件というのはある程度分かり,心証が掴めるのです。そして,その部分はやはり本人は知っているので,本人がどう説明するかというのがポイントになります。
   だから尋問においては,そういったところを多角的に聞いていくというのが大事になります。
(3) 私は,今回で高裁が4回目で通算約7年になります。地裁より高裁の方が長いというのが特徴です。
   最初は平成元年4月から平成4年3月まで3年間いて,その頃は,うちの部は,申請があれば本人尋問をやり直すのが原則で,離婚事件でも両当事者をもう一回聞いていました。
   しかし,2度目の平成14年3月から平成16年3月まで2年間いたときには,もうほとんど 1回結審の時代に入っていました。
   そのときに困ったのは,原審の尋問内容でして,あなたはなぜこうしたのですかという最後の一押しがない事件が目立ちました。
   これは両代理人からは極めて聞きにくいことなのです。自分に不利なことが出るのは嫌だから,反対尋問であなたはなぜこうしたのだというのはなかなか聞かないのです。これを聞けるのはやはり裁判官なのです。
   大体,本人や証人は裁判官に聞かれると割に正直に言います。だから,私は,代理人当時, 反対尋問の極意としては,最後にその一言を裁判官に聞かせるように尋問しました。
   そうすると,裁判官がその最後のー押しを聞いてくれる。あなたはなぜこうしたのですかといった,当然起こる疑問について,そこを聞いてみて,本人の応答ぶりを聞いて大体心証が決まるのです。
   その質問に対して本人がうまく説明できないということがあります。そうなると,もうそこで心証が決まります。そこまで詰めておけば,和解もまず半分以上できますし,判決でもあなたの言うことは信用できないと書けるわけです。
   しかし,その最後の一押しがないと心証が取りにくいのです。かと言って,高裁でそのためだけにもう一回聞くわけにはいかないから,そこを原審に是非やってほしいと言っていたわけですが,今は尋問自体がされていないので,その最後の一押しも全くなく,心証など全然取れないわけです。
   仕方がないから,どうにもならない事件は当審で証拠調べを行っているというのが実情です。とにかく,尋問もせず,最後の一押しの質問もなく,それに対する当事者の応答もなくて,原審はどうして心証がとれるのかが,私には理解できません。
   そういう意味の裁判官の後見的積極性というものは必要なことであると思っております。
5(1) 当事者本人の尋問の機能の必要性をどう考えるかについては,既に大体お話してきたとおりです。
   民事事件の場合,決め手になる書証が極めて乏しい,あるいは処分証書が出ても,その有効性が争われるというようなことになりますが,それ以外の事情というのはほとんど書証ではまず決着がつかないわけです。
   そうすると,証人あるいは本人尋問になるので,その前提で陳述書を出させることになります。
   しかし,多くの場合,陳述書はほとんど準備書面に書いてあることと同じことを書いてきます。ですから語弊がありますけれども,やはり弁護士の作文の域を出ないということがよくあります。したがって,普通は尋問が必要になります。
   この点について,私が若い頃に先輩から聞いたのは,証人は全て嘘を言うことが多い。
   我が国の証人は,私はどちらの依頼,又はどちらの立場で出るのでしょうかと聞いてその立場で証言することが多いと聞きました。
   証人は一般にごくわずかな部分しか関与していませんから,全面的にどちらかの当事者の方向に寄ってしまうことが多いのです。
   これに対し,当事者本人は全て嘘を言うわけではないと聞きました。本人は全ての過程に関与していますが,肝心のところは当然ながら双方言い分が違います。
   しかし,前後の過程は結構真実を言っている面が多いわけです。そのため,昔から当事者本人がー番真実の宝庫だと言われているのです。
    したがって,聞き方次第では真実が出てきたり,それが分かるというのが当事者本人であるので,一般的に事件を審理する上では,当事者本人の尋問は欠かせないと思います。
   その上で,先ほど申し上げたように,本人の言いたいことを裁判所が聞いてくれたという機能のこともきちんと押さえておいた方がよいと思います。
(2)   最近,高裁で当事者本人尋問を実施した事例では,特に片側が本人訴訟だったせいもあって,裁判所から,まずあなたの言いたいところはこういうところなのですかというところを十分に確認し,その上で,しかしここはこういう点で問題ではないですかということを尋ねました。
   そこをちゃんと十分に意識してやることで,本人も基本的に裁判所に話を聞いてもらえたと, 裁判所は私の言うことを聞いてくれているのだということを理解させた上で,今度は問題点を指摘します。
   そういったことが本人の尋問では非常に大事になるし,裁判官が尋問を行う意味が出てくるのではないかと思います。
   そういった形で多角的にいろいろな議論をすることで, 例えば,動機や経緯に合理性がないといったことも当事者本人にもよく分かってきますから, 和解もやりやすいし,判決も書きやすいということになります。下級審の判決の極意はできるだけ事実認定で書くことだと言われますが,それはなぜかというと,事実認定であれば,基本的に下級審の専権に属する分野ですし,法的判断の部分が狭くなればなるほど法的に争う領域が減ってくるということになります。高裁の場合は最高裁で通る確率が高まるという効果もあります。
   しかし,当事者本人にとっても,事実がどうかという認定で判断されるということは決して嫌ではないわけであって,そういう意味で,ー審においても,やはり間接事実レベルの事実をどこまで認定し,どこまで認定できないか,そこから法的判断にどう行くのかというところをきちんと書けば,高裁に対する説得力も全然違うということになろうかと思います。
(3)   私は,事件の審理においては,証拠調べがいわば頂点をなすものだと思います。事件の処理としては,主張を整理し,書証が出て,そこから人証に入ります。もちろんその間に時系列表を作成し,事件についてー所懸命考え,ー定の心証が普通はできているわけです。
   しかし,面白いことに,主尋問を聞き,反対尋問を聞いている間に,どんどん,どんどん頭の中でこの事件に対する見方や心証が変わってくるのです。
   私は,代理人当時は相手の主尋問を聞きながら何を反対尋問するかフル回転で考えていたのですが,同じことが裁判官でもあって,この人に何を聞こうか,どこで押さえようかといったことが頭を駆け巡り,尋問の間も,時系列表と記録をいろいろ見て,ここだ,よし,ここから行こうとか,そういうことばかり考えて最後の補充尋問に至るという形になります。
   ですから,人証調べというのは,事件を理解するにおいて―番分かるところなので,十分な準備の下にそれをやるということで事件は解決するのだと, その点において,私は非常に確信を持って言えます。
   今も月に何件か尋問しておりますが,後で陪席と話をしても,やはりこうだよとか,ここはこうだったねというのがきちんと議論できますから,そういう意味でやはり人証調べを,いま一度重視し,そこを頂点に事件処理するといったことを考えていただければと思います。

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