衆議院の解散は司法審査の対象とならないこと


目次
第1 最高裁大法廷昭和35年6月8日判決
第2 名古屋高裁昭和62年3月25日判決
第3 関連記事その他
第1 最高裁大法廷昭和35年6月8日判決

・ 統治行為論に基づき,衆議院解散の効力は,訴訟の前提問題としても,裁判所の審査権限の対象外であるとした最高裁大法廷昭和35年6月8日判決(苫米地事件上告審判決)は以下のとおりです(ナンバリング及び改行を行っています。)。

1 現実に行われた衆議院の解散が、その依拠する憲法の条章について適用を誤ったが故に、法律上無効であるかどうか、これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に瑕疵があったが故に無効であるかどうかのごときことは裁判所の審査権に服しないものと解すべきである。
   日本国憲法は、立法、行政、司法の三権分立の制度を確立し、司法権はすべて裁判所の行うところとし(憲法76条1項)、また裁判所法は、裁判所は一切の法律上の争訟を裁判するものと規定し(裁判所法3条1項)、これによって、民事、刑事のみならず行政事件についても、事項を限定せずいわゆる概括的に司法裁判所の管轄に属するものとせられ、さらに憲法は一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを審査決定する権限を裁判所に与えた(憲法81条)結果、国の立法、行政の行為は、それが法律上の争訟となるかぎり、違憲審査を含めてすべて裁判所の裁判権に服することとなったのである。

2 しかし、わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであって、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。
   直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であっても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。
   この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。

3(1) 衆議院の解散は、衆議院議員をしてその意に反して資格を喪失せしめ、国家最高の機関たる国会の主要な一翼をなす衆議院の機能を一時的とは言え閉止するものであり、さらにこれにつづく総選挙を通じて、新たな衆議院、さらに新たな内閣成立の機縁を為すものであって、その国法上の意義は重大であるのみならず、解散は、多くは内閣がその重要な政策、ひいては自己の存続に関して国民の総意を問わんとする場合に行われるものであってその政治上の意義もまた極めて重大である。
   すなわち衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であって、かくのごとき行為について、その法律上の有効無効を審査することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは既に前段説示するところによってあきらかである。
(2)  そして、この理は、本件のごとく、当該衆議院の解散が訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様であって、ひとしく裁判所の審査権の外にありといわなければならない。

4 本件の解散(山中注:昭和27年8月28日に行われた,衆議院の解散のこと。)が憲法7条に依拠して行われたことは本件において争いのないところであり、政府の見解は、憲法7条によって、すなわち憲法69条に該当する場合でなくとも、憲法上有効に衆議院の解散を行い得るものであり、本件解散は右憲法7条に依拠し、かつ、内閣の助言と承認により適法に行われたものであるとするにあることはあきらかであって、裁判所としては、この政府の見解を否定して、本件解散を憲法上無効なものとすることはできないのである。

第2 名古屋高裁昭和62年3月25日判決
・ 名古屋高裁昭和62年3月25日判決(判例秘書に掲載)は,昭和61年6月2日の衆議院解散(通称は「死んだふり解散」です。)後に実施された衆議院議員総選挙の愛知県第一区ないし第六区の無効請求事件において以下の判示をしています(ナンバリングをしています。)。
1 衆議院の解散が、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であることは多言を要しないところであつて、かかる行為について、その法律上の有効無効を審査することは、司法裁判所の権限の外にあるものと解すべきである。すなわち、わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきではなく、直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為(統治行為、政治問題)の如きは、たとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治責任を負う政府、国会等の判断に任され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解するのが相当である(最高裁判所昭和三〇年(オ)第九六号、同三五年六月八日大法廷判決、民集一四巻七号一二〇六頁参照)。
 右に対し、原告らは、同日選目的の解散は、民意の正当な反映を崩壊させるものであるから、いわゆる統治行為論は妥当しない旨主張する。しかし、衆参両院の同日選挙によつて、選挙活動や政党間の政策論争が輻輳、激化し、或いは情報が多量化するであろうことは、見易いところとしても、そのため選挙民が身近かな衆議院議員の選出に注意を注ぐ結果となり、参議院議員にどのような人物がふさわしいかについて注意を注がないことになつたり(その逆も存在しうるという)、情報過多、殊に衆院選に関する情報過剰の波の中に選挙民が埋没し、参院選は存在感を失つて了つて、選挙民は適任者選択の困難に陥る、との原告ら主張のような情況の発生、招来を認めるに足る具体的、客観的かつ明白な根拠は見出し難い。却つて、同日選であるが故に、一層各院の特性の対比のもとにおける選択が容易かつ鮮明になしうるということも考えられなくはなく、そもそも原告らの論調からすると、民意の反映が問題であるのはむしろ参院選であつて、衆院選における民意の反映、適任者選択にはさほど問題がないといえなくもない。のみならず、仮に、選挙活動、政策論争の激化、情報の過剰が問題とするなら、衆議院の解散(もしくは衆議院議員の任期満了)と参議院議員の任期終了の時期が常に全く異なるものであるとの保障がない以上、右両者が接着して生じた場合、たとえ同日選となることを回避したとしても、選挙期日までの重複する載る程度の期間、両院の選挙につき右の問題が生ずることを避けえない場合がありうる訳であるから、強ちそれが同日選により生ずる問題であるとはたやすくなし難いものといわねばならない。従つて、同日選が民意を反映させないものである点において憲法の趣旨に反したものであるから、これを目的とした解散は違憲であるとの前提のもとにする原告らの統治行為論排斥の主張は、その前提を欠き採用できない。
 また、原告らは、違憲の程度の高い、かつ重要な人権である選挙権の内容の侵害を来すような国家行為については、統治行為の理論を適用するべきでない旨主張する。しかし、衆議院の解散が極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であることから、これをいつ、いかなる場合になすかは内閣の政治的判断に委ねられているのであり、その法律的な効力の如何は司法審査の対象の外にあるものと解すべきことは、前説示のとおりであつて、要するに、これらの行為の評価は、最終的には主権者たる国民の判断の下におかるべきものである。そのうち違憲の程度の高いもののみを司法判断の対象たらしめるとするのは、結局そのすべてを司法審査の下に置くことに他ならないこととなる訳であつて、この点の原告らの主張も採用できない。
2 確かに、総選挙の期日の決定は、高度の政治判断事項である解散行為と密接に関連し、これに随伴するものであるとともに、当該時期における国政の運営、政治日程などとの不可分の配慮を欠きえない政治的判断事項といわねばならないが、さりとて、衆議院の解散権の行使のように、直接国家政治の基本に関する極めて高度な政治性ある行為とまではなし難いと解されるのであつて、これをもつて司法審査の対象外のものとしなければならないものではないというべきである。また、裁量権はその踰越・濫用の問題において司法権の対象になりうるものというべく、内閣の自由裁量権に属するからといつて、それだけで司法審査の対象となしえないものということはできない。
 そこで同日選についての原告らの前記主張につき考えるに、選挙期日の決定については憲法四七条に「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」と規定されており、選挙に関する平等、守秘、自由等の基本理念(同法一五条一、三、四項、四四条但書参照)を侵すこととなるものでない限り、これを立法府において自由に定めうると解されること、同日選が民意を反映せず憲法の趣旨に反したものであるといい難いことは前認定のとおりであることに鑑みると、結局公選法に同日選禁止規定を設けるか否かは立法政策の問題に帰するものであるというべく、従つて、同規定を欠く現行公選法が違憲である、或いは、同日選を回避しない公選法の運用が違憲である、となし難いことは明らかであるといわねばならない。


5分13秒より後の動画は,昭和61年6月2日の衆議院解散に関するものです。

第3 関連記事その他
1 Wikipediaの「抜き打ち解散」によれば,昭和27年8月28日の衆議院解散までの経緯は以下のとおりです。
・ 8月22日 – 吉田首相、池田勇人蔵相、保利茂官房長官と閣外で側近の麻生太賀吉が協議して抜き打ち解散を決め、佐藤栄作郵政相と旅行中の広川弘禅農相に連絡。麻生から林幹事長と益谷英次総務会長に「早期解散」の意向が伝えられた。
・ 8月25日 – 吉田首相は那須御用邸で静養中の昭和天皇を訪ねた際に衆議院解散について前もって申し上げた。
・ 8月26日 – 第14回通常国会が開会され、衆議院議長選挙の本会議中に首相の命により、数名の閣僚のみが議場で入り口に呼び出され、解散に関する閣議書類に署名した。これをもって「持ち回り」閣議決定とみなされた。夕方、総理府総務課長が解散に関する閣議書類を所持して那須御用邸に行き、昭和天皇に憲法第7条により解散に関する「助言」を申し上げた。ただし、解散の日付は空白とされた。
・ 8月28日 – 臨時閣議で全閣僚了解ののち衆議院を解散した。しかし、閣議決定の日付としては数名の閣僚による「持ち回り」閣議の日たる8月26日とされた。
2 以下の記事も参照してください。
・ 閉会中解散は可能であることに関する内閣法制局長官の答弁
 日本国憲法下の衆議院の解散一覧
・ 一票の格差是正前の解散は可能であることに関する政府答弁 


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